3.千穂③
いきなり訳の分からないことを言われてさぞ混乱しただろうに、彼女は努めて冷静だった。きっと、事前にギルバート君から、『ヴィクトリア』の様子が変だと聞かされていたんだろう。
「では、奥様はこれまでのことを何も覚えていらっしゃらないのですか?」
冷静を装った声で問いかけてくる彼女に罪悪感を覚えながら、私は小さく頷いた。
「奥様が幼少期よりずっとお側でお仕えさせていただいている、このナタリーのこともお忘れですか?」
「……ごめんなさい」
蚊の鳴くような声で呟いて顔を伏せると、ナタリーが「おいたわしい」と嘆く声が聞こえた。
「奥様が、そのようなご冗談をおっしゃられるような御方ではないことは、よく存じております。ああ、何という事でしょう。早速、旦那様にお知らせしてまいります」
そう言うと、ナタリーは不意に私の両手を取った。
「不安でしょうが、心配なさることはございません。このナタリーがついておりますからね」
その手の温もりと、彼女の温かい言葉に、思わず涙が込み上げてきた。
夢にしてはあまりに現実的で、そして今現在『ヴィクトリア』である自分に関することが何一つ分からなくて。これから先どうなるのか言い知れない不安に押しつぶされそうだったことを、今になって思い知らされたのだった。
「記憶喪失……」
そんなもの、一昔前の都合のいいドラマや漫画の世界での話だと思っていた。
けれど、ギルバート君が呼んだらしい医者が、診察の後、私に下したのはそういう診断だった。
「頭部への外傷や、強い精神的な苦痛によって、記憶が失われることがあります。ふとしたきっかけで記憶が戻ることもありますし、まあ、当面は心穏やかにこれまで通り過ごされることですな」
医者はそう言ってギルバート君の肩を叩くと、ナタリーに見送られて部屋を出て行った。
二人きりになると、ギルバート君はベッドの上に半身を起こしている私の頭を優しく撫で、指で髪を掬った。
「何も心配しなくていい。きみはこれまで通り、ここで暮らせばいい。そのうち何かのきっかけで、思い出すよ」
彼のその言葉に、ほんの少しだけ気持ちが楽になる。
これまでのギルバート君の態度からして、記憶喪失になったからといって、すぐに離婚だ実家に帰れ、なんて言われないだろうとは思っていた。けれど、私は彼に『上山千穂』だと名乗っている。ただの記憶喪失ではないと訝しがられ、実家に帰される可能性もあると思っていた。
そうなったら仕方がないと思っていたけれど、顔も名前もどんな人物達かも分からない実家より、出来ればこれまで接して人となりを把握しているギルバート君やナタリーさんの所にいたいと思っていた。だから、ギルバート君にそう言われて、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
でも……。
「これまで通り……」
そう言われても、その『これまで』の記憶が私には無い。
すると、私の不安げな呟きに、ギルバート君は素早く反応した。
「君がどんな風にここで暮らしていたか、皆で協力して教えるよ。そうやって以前と同じ生活を続けていれば、きっと自然にこれまでの記憶が甦ってくるさ」
自分で自分に言い聞かせるようにそう語ったギルバート君は、私の隣に並ぶようにベッドに腰を下ろすと、いきなりガバッと抱きついてきた。
「ひゃっ……!」
何度も言うようだけれど、私こと『上山千穂』は、男性に縁のない寂しい人生を過ごしてきた。当然、こんなイケメン君に抱きつかれたという経験もないし、そもそも異性とのこういうスキンシップにも全く免疫がない。
突然の事態にどういう反応をしていいか分からず、思わず身を固くして俯くと、ギルバート君が耳元でハッと息を飲むのが分かった。
「……ごめん。……そうだね。夫だと言っても、今の君にとって、俺は今朝初めて会ったばかりの見知らぬ男だ」
抱きしめる腕の力が抜け、大きな温もりが離れていく。
ホッとした一方で、ほんの少しだけ残念だと思った。転生しても残る、男性慣れしていない悲しい性が憎い。
でも、私がこんなイケメン君の妻だなんて! 美女に生まれ変わって良かった。前世の私からは考えられない、大逆転の新しい人生!
……ただ、ここに至るまでの記憶が無いのが残念で仕方がない。
だって、ギルバート君を見ていたら、『ヴィクトリア』が彼にどれほど愛されているか、記憶が無くても分かる。さぞかし熱烈な恋愛を経て結婚し、幸せに暮らしていたんだろう。
思い出したい。
前世で経験したことのなかった、イケメン君とのラブロマンス。それを思い出せば、きっと何の躊躇いも無く、彼の情熱的な思いに応えられるようになるに違いない。
でも、どんなにイケメン君でも、今の私の中で彼は赤の他人であり、まだまだ未知の人間だ。だから、記憶が戻るまでは、夫婦らしい触れ合いは勘弁して貰いたい。
それから私は、幼少期からの侍女で、嫁ぎ先にもついてきてくれたというナタリー指導のもと、『ヴィクトリア』としての生活をスタートさせたのである。が……。
超絶美女の『ヴィクトリア』は、それはもう、ストイックな人だったらしい。
やっぱり、美女は生まれついてのものだけでは、これほど輝かない。この芸術品のような身体は、これまでの『ヴィクトリア』の努力の賜物だった。
まず、早朝に起床。水分をとると、動きやすそうなワンピースに着替えてストレッチ。前世で何度かやっては挫折してお蔵入りしたエクササイズDVDと似たような動きだった。どこの世界でも身体を引き締める動作は共通なのか。それとも、無意識のうちに彼女は前世の記憶から、この動作を引き出していたのかも知れない。
それから、朝食までの間に、広い庭を速足で散歩する。さすがに貴族令嬢なので、ジョギングまではしていなかったらしい。それでも、小一時間ほどのウォーキングで、額にうっすらと汗を掻いた。
お腹を空かせて食堂へ向かうと、先に席についていたギルバートがにっこりと微笑む。
食卓に並ぶのは、パンにスープ、パイらしきホール状の料理、そしてサラダに色とりどりの果物に、……野菜ジュース? トマトなのかニンジンなのか、赤いドロッとした液体が並々と注がれたグラスが目の前に鎮座している。
「奥様は、いつもこのぐらいの量を召し上がっておられます」
ナタリーによれば、ヴィクトリアは食卓に並んでいる全ての料理を平らげていたのではないらしい。目の前の皿に取り分けられたミートパイは、驚くほど小さかった。
前世で私が大好きだったのは、脂身たっぷりの肉。なのに、挽肉をふんだんに使った美味しそうなミートパイを、『ヴィクトリア』はほんの一欠けしか食べないらしい。
くそぅ。あのホールの四分の一くらいはペロッといけちゃうのに。
一口ミートパイを食べてその美味しさに幸せに浸り、残りの大半を口に出来ないことに未練たらしい視線を送っていると、ふとギルバート君と目が合った。
彼は驚いたような表情で、こちらを見つめている。
……やばい。
慌てて目を逸らし、欲望を紛らわすように野菜ジュースを煽る。どうやらニンジンジュースだったらしく、ほんのりした甘さが口に広がった。
グラスから口を離してホッと溜息を吐くと、微笑みを浮かべているギルバート君とバッチリ目が合った。
「食べたければ、食べたいだけ食べればいいんだよ?」
明らかに彼は、ちらりとミートパイに視線を送った。
……うっ。
じゃあ、お言葉に甘えて、という言葉が喉元まで出てくる。
けれど、今の自分の食べたいという欲求に従って好きな物を好きなだけ食べてしまえば、この完璧な『ヴィクトリア』のボディラインが崩れてしまう。もしそんなことになれば、ギルバート君に愛想を尽かされてしまうかも知れないし、自分自身も後悔するに違いない。
「……いいえ。もう充分です」
未練たらたらながらにそう言い切ると、一瞬目を見開いたギルバート君は、ふんわりと笑みを浮かべた。
「やっぱり、ヴィクトリアだ」
目を瞬かせて振り返ると、ナタリーも小さく頷いている。
どこがどう同じなのかよく分からないけれど、どうやら記憶を失くしても、私は『ヴィクトリア』らしさを失ってはいないらしい。
何だか嬉しくなって、シャキシャキのサラダをもりもり食べた。
前世では、いつも朝ギリギリで起き、菓子パンにコーヒーで済ませていた朝食。早起きして身体を動かした後の、野菜中心のバランスのいい朝食は、身体を浄化してくれるかのように染み渡った。
その後、いつも『ヴィクトリア』はお屋敷の差配をしたり、お茶会に誘われて出掛けたり、慈善活動をしていたらしい。
でも、そういった本来の生活に戻るまでに、私には他にやることがあった。