2.千穂②
あれ? おかしい。
大概、夢の中で場面が切り替わったら、それまで見ていた夢とは違った夢になっているはずなのに、そこにはまだ超イケメンのギルバート君がいた。
しかも、私はふかふかの大きなベッドに横になっていて、彼はベッドサイドに膝を着き、私の右手を包み込むように握り締めている。
その手を額に当てて、うつむき加減に目を閉じている彼の顔の彫の深さや、すっと通った鼻筋や、長い睫毛に思わず見とれていると、不意にその目がパッチリと開いた。
「……っ、ヴィー! 目が覚めたのか」
だから、ヴィーじゃないっつーの。
心の中で突っ込みを入れながら、そっとギルバート君の手から自分の手を引っこ抜こうとする。けれど、それを察したらしき彼によって、私の手は素早く彼の手に握り込まれてしまった。
「気分はどうだい? どこか痛い所は?」
「いえ、ないです」
首を横に振っている間にも、ギルバート君は私の頭やら頬やら身体やらを、遠慮なく撫で回してくる。
これまでの人生、異性とこんなに触れ合う機会もなかった哀れな私にとっては、イケメンに撫でられるなんてラッキー、とは思えなかった。
イケメンはイケメンでも、異性にベタベタ触れられるのは気持ちが悪い。しかも、この人は私の事を、奥さんだと勘違いしているのだ。彼だって、自分がこんなに気安く触れている相手が妻じゃないと分かったら、ばつの悪い思いをするに違いない。
「ちょ、ちょっと、やめてくれませんか?」
右手を握られベッドに横たわったままの姿勢で、ずりずりとギルバート君がいるのとは反対側に身体をずらして彼と距離をとる。
「ヴィー……?」
私の奇怪な行動に目を見張ったギルバート君は、拒否反応に気付いたのか、悲し気な表情を浮かべた。
その表情を見ていると少し気の毒になったけれど、ちゃんと言っておくべきことは言っておかなければいけない。
「……あの。確か、さっきも言ったと思うんですけど、私はヴィーって人ではないんです。勿論、あなたと結婚した覚えもありません」
「でも、君は確かにヴィーだ」
即座にそう言い切った彼の口調には、これまでにない頑固そうな響きがあった。
「でも、私はそんな……」
「いいや。俺には分かる。君はヴィーだ。……ただ、怖い思いをして、少しだけ混乱しているだけなんだ」
そうだよね、とギルバート君は私に問うというよりは、自分自身に言い聞かせるかのように呟いた。
彼の悲し気に揺れる青い瞳を見つめていると、何となく、そうなのかなぁ……、という気持ちになる。ううん、それは、私の願望がそうさせているに違いない。本当に自分が彼の妻だったら……、なんて思ったのは事実なのだから。
そんな風に逡巡していると、ギルバート君はふんわりと笑った。
「君の様子を、ナタリーや皆にも伝えておくよ。さあ、もう少し眠るといい」
身を乗り出してきた彼に優しく頭を撫でられて、僅かに残っていた反論したい気持ちが失せていく。
……まあ、もう一寝入りすれば、今度こそちゃんと目が覚めるかも知れないし。
夢の中で夢を見ていて、起きたつもりがまだ夢の中だったってこともある。
ギルバート君に言われるがままに目を閉じると、何やら気配がして、額に温かい吐息が掛かり、柔らかいものが押し当てられた。
「うひゃあっ!?」
思わず悲鳴を上げて飛び上がり、身体に掛けられていた布団を握り締めて身構える。
今、デコチューされた。夢の中とはいえ、こんなイケメンに。しかも、私が妻だと思い込んでいる既婚者に。
現実でもされたことないのに……!
涙目で睨みつけると、ギルバート君は困ったように項垂れてボリボリと頭を掻いた。
「……ごめん。もうしないから」
立ち上がり、部屋を出て行く彼のひどく傷ついたような表情に、胸が締め付けられるように痛んだ。
一体何がどうなっているのか、さっぱり分からない。
部屋に一人残され、ベッドの上に起き上がり布団を握り締めガチガチに身構えていた姿勢から、ゆっくりと力を抜く。
これは夢だと思っていたけれど、落ち着いてみれば夢にしては何もかも感覚がはっきりし過ぎている。
とはいえ、これが現実だとは思えない。出社しようとしていた三十路過ぎの独身女性が、何故いきなりイケメンに妻だと言われ、こんな西洋貴族のお屋敷みたいな部屋で寝かされているのか。
深い溜息を吐いて俯いた時、サラッと音を立てて眩い金色の筋が頬を掠めた。
……え?
慌てて視線をやれば、お腹の辺りまで伸びて揺れている柔らかな色合いの金髪がそこにあった。
恐る恐る手を伸ばして引っ張ってみると、それは確かに自分の頭皮に繋がっているようで、引っ張られる感覚がある。
今度はその絹糸のような髪を掴んでいる手に目をやる。事務仕事でできたペンだこも、洗剤負けしてできたあかぎれも無い。白くてすべすべして、すらりと長くて細い指に、美しく艶やかに磨き上げられた形のいい桜色の爪。
寝間着らしいゆったりとした薄手のワンピースみたいな服の上から、身体に触れてみる。
嘘みたいに身体の至るところが細い。子供の時からぽっちゃり体型で、何度もダイエットを繰り返しては失敗し、中年のオバちゃん体型へまっしぐらだったとは思えないほど、今はウエストが縊れている。
そのくせ、そこから手を上に滑らせてみれば、まるでリンゴを二つくっつけたくらいの大きさがある弾力のある胸が存在を主張している。
……まさか。
弾かれたようにベッドから飛び出すと、たたらを踏みながら、壁に掛かっている鏡を掴むようにして覗き込む。
「……うそ」
そこには、見たこともないほど美しい西洋人風の美女が、驚愕の表情を浮かべている姿が映し出されていた。
「これって、私……?」
手を伸ばして鏡の表面に触れると、鏡の向こうの美女も同じように呟きながら手を伸ばしている。
「まさか……」
これが、噂の『転生』というものか!
確か、私は職場に向かう為、住んでいた安アパートのボロい階段を駆け下りていたところ、急に頭痛に襲われたのだった。そこから先は覚えていないけれど、恐らくあの後私は死んだんだろう。頭痛の原因が命に関わるような病気だったのかも知れないし、階段から転げ落ちた時に打ち所が悪かったのかも知れない。
そして、私はこの絶世の美女である『ヴィクトリア』として生まれ変わり、今になって前世を思い出した、ということか。この部屋で目覚めるまでのことや、ギルバート君の話からすると、私はどうやら悪い奴に攫われて、随分と怖い思いをしたらしい。それが引き金となって、前世を思い出したに違いない。
……それにしても、ヴィクトリアとしてのこれまでの人生の記憶が全くないというのは、どういうことだろう。大体、この手の話なら、前世を思い出してもこれまでの記憶も残っていて、前世の記憶持ちだなんて誰にも知られずに生きていけるのがセオリーじゃないのか。
それなのに、私は開口一番、夫であるというギルバート君に、私は上山千穂だと前世の名前を暴露しただけでなく、あなたの妻じゃありませんとまで言い切ってしまった。
幸いなことに、どうやら奥さんにベタ惚れらしいギルバート君は、怒る事も不審に思う様子もなく、これまでの私の言動を混乱しているだけだと温かく見守ってくれている。
仮に、妻じゃないのなら出て行けと言われても、この世界での記憶が全く無い私には、これから先、誰を頼ってどうやって生きていけばいいのか分からない。今はギルバート君の妻らしいけれど、それなら実家も実の家族もいるはずだ。けれど、実家がどこにあるのか、誰が元家族なのかさえ、何一つ分からない。
それならいっそ、これまで通りギルバート君の妻として生きていくしかない。もし、彼が許してくれるなら、だけれど。
ベッドの縁に腰掛け、そう腹を括った時だった。小さなノックの音がした後、ドアが開いた。
ギルバート君か、と顔を上げると、入ってきたのは裾の長いスカートのお仕着せを着た女性だった。
「まあ、奥様。起き上がられて大丈夫なのですか?」
慌てたように近づいてくると、女性は心配そうに顔を覗き込んでくる。格好からして使用人らしいのに、随分と親し気に接してくる様子からして、この人はきっと『ヴィクトリア』と強い信頼関係にある人なんだろう。
「まだ、お顔の色があまり良くありませんわ。どうか、今一度横になってください」
さっき私が飛び起きたせいで乱れたベッドを直しながらそう言う彼女を見つめながら、思いのほかすぐに決意は固まっていた。
「あの……」
「はい、奥様」
「気を悪くしないでくださいね。まず、あなたのお名前から教えてください」
「……え?」
驚愕の表情を浮かべるメイド服姿の女性に、私は困ったように微笑んだ。
「ギルバートさんという方が、私の事を妻だと言われていましたが、実は私にはその記憶が全く無いのです。それどころか、自分がどこの誰なのかも思い出せないのです。よかったら、『ヴィクトリア』について教えていただけませんか?」