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15.ヴィクトリア⑦

「ヴィー、……ヴィー、お願いだ、目を開けてくれ」

 私の名を呼ぶギルバート君の声が、すぐ近くから聞こえてくる。

 薄らと目を開ければ、愛しくて愛しくて仕方がない彼の泣きそうな顔がすぐ傍にあって、私を見下ろしていた。

「……ギル」

 その名を、こんなにも長い間呼ばずにいたのはいつ以来だろう。

 目を見開いたギルバート君が、安堵したように息を吐く。

「ああ、ヴィー。気が付いたんだね」

 そんな優しい彼の声をこれほど長い間聞けずにいたのも、いつ以来だろう。

 ヴィクトリア本来の繊細な白い手を伸ばして、ギルバート君の胸元を縋るように掴んだ。もう二度と、引き離されたくなんかない、という思いを込めて。

「ギル……、私、ようやく戻ってきたわ」

「ヴィー? まさか、記憶が……?」

 頷いて見せると、彼は不意に強く私を抱き締めた。耳元にかかる息は乱れていて、嗚咽のような声を上げている。

「泣いているの?」

 手を伸ばし、彼の頭を優しく撫でてあげれば、彼は小さく頷いた。

「……言っていた通り、きみは戻ってきた」

「え……?」

「あの夜きみに言われた通り、俺はいなくなったきみを懸命に探して助け出した。きみは俺のことを忘れてしまったけれど、俺はずっときみが戻って来るのを待っていたよ」

 あの夜。不安に駆られて漏らした言葉を、ギルバート君はちゃんと覚えていてくれたのだ。



 この世にヴィクトリアとして生まれ変わり、前世で会ったヴィクトリアが転生前の記憶を持った私だったと気付いた時、彼女の言動で不思議に思っていたことが腑に落ちた一方で、不満なことが一つあった。

 ヴィクトリアの身体に代わりに入っていたのがミーアではなく、全く無関係な『上山千穂』だと、前世の自分だと知っていたのなら、ギルバート君やパトリックにあんな酷い目に遭わされる前に、何故止めてくれなかったのか、と。

 そして、転生して、いざ自分がヴィクトリアとして元の身体に戻った今、何故彼女がそうしてくれなかったか、その理由をようやく知ることができた。

 何と、ギルバート君に抱き締められたまま、私は再び気を失ってしまったのだ。

 転生したと気付いた直後から、私はずっと心に決めていた。ヴィクトリアの身体に戻った後は、すぐにギルバート君たちにミーアは悪くないのだと伝え、酷い言葉を浴びせられたり、手荒に扱われたり、寒い小屋に閉じ込められたリするのを防ごうと。

 なのに、気付けば自室のベッドに寝かされていた。日はすでに傾いていて、もうとっくに『千穂』は物置小屋に閉じ込められている時間になっている。

「まだ寝ていなければいけないよ」

 焦って飛び起きようとした私の肩を、ギルバート君がやんわりと押さえて再びベッドに横たわらせる。

「……彼女は?」

「あの、モントル伯爵令嬢の元侍女かい? 裏の物置小屋に閉じ込めているよ。もうきみを襲わせたりなんかしないから、安心してくれ」

「違うの、ギル」

 慌てて私の肩を押さえているギルバート君の腕に逆にしがみ付くと、首を横に振る。

 そうすると少しクラッと眩暈がしたけれど、それはきっと頭を打ったせいだ。魂が身体から抜けかける感覚とは少し違っていた。

「彼女は悪くないの。いいえ、彼女のお蔭で、私は助かったのよ」



 それから、ギルバート君に、ミーアがキャサリン嬢を止めようとしてくれたお蔭で、私は死なずに済んだのだと説明した。それは本当のことだし、記憶が戻ったお蔭で思い出したことにした。

 勿論、私が数日間ミーアだったこと、その間ヴィクトリアの身体に入っていたのが別人だったこと、そして今のミーアは今までヴィクトリアの中にいた『千穂』だということは黙っていた。

 私はその事実を絶対に誰にも言わないと、前世から決めていた。

 真面目で、深くヴィクトリアを愛していた彼が、ヴィクトリアの肉体に宿っていた魂が別人であることに気付かなかったと知ってしまったら。あなたは悪くない、気付かなくて当然だ、と説明しても、彼はずっと自分を責め続けるだろう。例え表面上は気にしていない風を装っても。彼はそういう人だから。

 私は彼を傷つけたくはない。今はミーアの身体に入っている『千穂』も、前世の私同様、同意見のはずだ。そして、真実を知っているのは私達二人だけ。数日後には、『千穂』はミーアの身体に居続けることが出来ずにこの世から消えてしまう。

 私さえ黙っていれば、彼は何も知らずに済む。だから私は、この秘密を抱えて墓穴まで持っていく。

 前世に尤もらしくヴィクトリアの口から聞かされた話を元に練り上げた私の説明を、彼は信じてくれた。彼に嘘を吐いているという罪悪感はあったけれど、今はそれを気にして心を痛めている場合じゃない。

「お願いギル。あんな小屋では寒いし、命の恩人に対してあまりにも酷い扱いだわ。貴族の屋敷に忍び込んで、いきなり私を階段から突き落としたのは許されないことかも知れない。けれど、結果としてそのお蔭で、私は記憶を取り戻せたのよ。騎士団に引き渡すのは免れないとしても、せめてこの家では丁重に扱ってあげて」

 そう言えば、最初は渋い顔をしていたギルバート君も、渋々折れてくれた。

 ミーアを小屋から出して屋敷内に移す、と言って部屋から出て行くギルバート君を見送ると、私は大きく一つ息を吐きだした。

 ベッドから起き上がり、立ち上がって体の具合を確かめる。動かすと所々に沁みるような痛みがあるのは、階段から落ちた時にあちこち打ち身を作ったせいだろう。幸い、動けないほどの怪我はないようだ。

 これなら、大丈夫。きっと、やり遂げなければならない最後の仕事に、耐えることができる。


「奥様。まだ起き上がられてはいけません」

 自分で身形を整えていると、入ってきたナタリーが慌てたように駆け寄ってくる。

「いいえ、もう大丈夫よ」

 微笑んで見せながら、そういえば彼女と会うのは事件に巻き込まれた日以来だということに気付いた。

 私がキャサリン嬢の手の者に連れ去られたあの日、ナタリーは少し体調が悪そうで、私は別の侍女を伴って孤児院へ慰問に出たのだった。

「無理をなさらないでくださいませ。階段の一番上から下まで落ちたのです。最低でも一晩は安静にしておくようにとお医者様にも言われております」

 頑として譲らないナタリーに、思わず口元が綻ぶ。

「あなたも相変わらず厳しいわね、ナタリー」

 すると、ナタリーの目が不意に潤み、顔がクシャッと歪んだ。

「……奥様。本当に、記憶が戻ったのでございますね?」

「ええ。あなたにも随分と心配かけたわね、ナタリー」

 そっとナタリーの肩を抱けば、気丈な彼女がすすり泣いている。驚いたけれど、それだけ心配を掛けてしまったのだと申し訳なく思った。

 そこへ、ギルバート君が戻ってきた。ミーアと会ったせいか眉間に皺を寄せて厳しげな表情を浮かべていた彼だったけれど、ナタリーが私の腕の中で泣いているのを見て苦笑した。



「ナタリーは気丈に振る舞ってはいたけれど、きみを守れなかったことを悔いて自分を責め続けていた。でも、まさか彼女が泣くとは。余程嬉しかったんだろうね」

 ギルバート君に気付いて、慌てて目元を拭いながらナタリーが部屋を出ていくと、彼はそう言って微笑んだ。

「そうね。随分と心配を掛けてしまったわ」

 正直、彼女の涙を見たのは私も初めてのことだった。やることが全て終わったら、彼女を、いいえ、使用人達を皆、労わってあげなければ。

 けれど、今は目の前のやるべきことに集中しないといけない。これから数日後、死んで私へと転生するはずの『千穂』に、間違いなく現在いまへと続く道を辿る為の情報を伝達しておかなければ。

 その為には、まず目の前の夫を説得しなければならないのだ。

「ねぇ、ギル。私、ミーアと話がしたいの」

「駄目だ!」

 予想はしていたものの、間髪を入れずはね付けられて、一瞬たじろいでしまう。

「何故? ミーアは何も悪くなかった、寧ろ私を助けてくれたと言ったはずよ? あなたは信じてくれたのと思ったのに」

「でも、あいつはきみを階段から突き落とした。今度はきみにどんな害をなそうとするか分からない」

 ギルバート君の目に、底なしの怒りが漂っている。彼がそれほど怒っているということは、それだけ私を愛してくれているということだ。

 それは喜ばしいことだけれど、今はその愛が私の道を阻もうとしている。

「……そうね。でも、きっと何か理由があったに違いないわ」

「どんな理由があろうと、許されることじゃない」

「私、その理由が知りたいの」

「そんなことは、騎士団に任せておけばいい。それが待てないというのなら、今から俺が行って力づくで吐かせる」

 頑として譲らず、本当に拷問でもしそうな勢いでそのまま部屋を出て行こうとする彼を、慌てて引き留める。

「ねえ、お願いよ、ギル。少しの間で良いから、彼女と二人だけで話をさせて」

「二人で……? 論外だ。そんなことを許す訳にはいかない」

 ぎょっと目を剥いた彼は、呆れたように首を横に振る。

「じゃあ、あなたはドアの外で待っていて。何かあったら、大声で助けを呼ぶから」

 ねえ、お願い。しつこく何度も彼の腕に縋りついて甘えた声を出し、上目遣いにじっと見つめ続けていると、やがてギルバート君は低く唸った。

「君は、本当に困った人だ……」

 私の髪に指を絡ませ、頭頂部に唇を当てながら、ギルバート君は深い深い溜息を吐いた。


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