14.ヴィクトリア⑥
翌日になると、取り調べをする騎士達の態度は少し柔らかくなり、錯乱する私を宥めるような口調になっていた。どうやら、ミーアの家族や友人、元同僚たちが、私に有利な証言をしてくれているらしい。
「お前はあの事件の日、モントル伯爵令嬢の馬車を見掛けて、走って追いかけていったそうだね。お嬢様をお止めしなければ、と叫びながら」
「わからないわ。覚えてないもの。何度言ったら分かってくれるんですか!」
「まあまあ、落ち着けって。突然解雇されて、もう主ではなくなっていたのに、どうしてそんな行動をとったんだい?」
「うえぇぇぇ……。知りませぇぇぇん。何も分からないんですぅぅ……」
怒ったり泣いたりしながら、ただひたすら知らない分からないを繰り返す私に、騎士達は困ったように顔を見合わせる。
私だって、自分を助けようとしている人達の証言に便乗して、ただお嬢様の悪事を止めたかったのだと自己弁護したい。
けれど、私にはミーアとしての知識はあまりない。下手に正気で記憶もあると悟られて詳しい話を求められるより、自分は何も語らず、周囲の証言から彼女の潔白を証明して貰った方がいい。
前世のヴィクトリアもそうしていたのだから、今更方針転換なんかできなかった。
四日目の昼過ぎに、ミーアの処罰が決まった。
鞭打ちの刑と、その後王都の端にある修道院にて修道女として生涯を送る事。その修道院は、罪を犯した女性が生涯監視されて暮らす簡易な監獄としても知られているところだ。
前世で聞いた通りの決定に、ひとまず胸を撫で下ろした。
平民のミーアにとって、貴族夫人の誘拐や殺害未遂に関わった罪の大きさからすれば、随分と軽い処分と言える。本来なら、命は取られずとも、罪人の烙印を押されて国外に放逐されても文句は言えない。
それでも、鞭打ちは想像以上に辛かった。素肌を晒した背に、皮の鞭が食い込む。一回目で蚯蚓腫れになり、二度目で血が滲み、三度目でその傷口が倍に広がる。
歯を食いしばって痛みを堪えられれば、もしかしたらもう少し痛みもマシだったかも知れない。けれど、逃走するまで騎士達を油断させておくには、錯乱しておかしくなっているミーアを演じるしかなかった。
「痛い痛い、やめてもうやめて! 痛いぃぃ……」
涙をボロボロ流し、鼻水を垂れ流し、子供の様に泣き喚く。
余りの号泣振りに、刑の執行官は力を抜いてくれ、言い渡された回数よりも若干少なめで切り上げてくれた。
それでも独房に連れ戻された後、背中の熱を持った痛みに一晩中悩まされ、よく眠ることができなかった。
五日目。私は修道院に向けて護送されることになった。
腰に逃走防止用の縄は巻かれたけれど、手足が縛られることはなかった。それもこれも、これまでの演技のお蔭で、騎士達が油断しているからだった。
拘留されていた騎士団の詰所から、騎乗している騎士に縄を引かれつつ王都の街を歩いていく。
その道中、あれがあのお美しいと評判のジェローム子爵夫人を攫った犯人の仲間だよ、という言葉と共に、厳しい視線や罵声が私に突き刺さる。
途中、ミーアの名を呼ぶ声が聞こえ、顔を上げれば、そこには彼女の家族や友人達の姿があった。
前世でミーアとなった私に良くしてくれた、優しい人達の懐かしい顔。随分とお世話になったのに、私は彼らに何一つ恩を返せずに死んでしまった。
駆け寄りたい気持ちをグッと抑える。今、彼らのことを知っている素振りはできない。ミーアは今、記憶喪失という設定なのだから。
彼らを無視して視線を反らせ、俯きながら歩いていると涙が出そうになった。
……駄目。ここで挫けては。
私は帰るのだ。私を待ち続けているギルバート君の元へ。
王都の街道を進んでいると、とあるものが目に入り、私は息を飲んだ。
……あれだ。
心を落ち着かせる為に、数度深呼吸をする。
ジェローム伯爵家の馬車が、二区画ほど前の道を横切っていく。あの中には、ギルバート君と、私の身体に入った『千穂』がいるはずだ。
そして、それは始まりの合図だった。
馬車が角を曲がって消えた時、それは起きた。
「おおい! 危ないぞ、気を付けろ!!」
叫び声と同時に、暴れ馬がこちらめがけて猛然と突っ込んでくる。
「逃げろ! 踏みつぶされるぞ!」
怒号と悲鳴の中、往来を行き交う人々が逃げ惑う。
逃げ遅れ、道の中央で立ち尽くす子供を助けようと、私を護送していた騎士の一人が走り出す。
その手前で、暴れ馬に衝突された荷車を引いていた牛が鼻息も荒く暴れ出し、道路にリンゴやオレンジが散乱して、逃げ出した鶏が数羽宙を飛んで周囲の人々に襲い掛かる。混乱する人々が、私と、私を護送する騎士達を飲み込み、引き離す。
……そして、私は駆け出した。素早く近くにある屋台の調理台に手を伸ばし、そっと我が身を縛る腰紐を包丁で断ち切ると、入り乱れる人々の波に紛れて姿を晦ませる。
落ち着いて、急いで!
走りながら、心臓が口から飛び出そうになる。息が苦しくて、死んでしまいそうだった。
もし、追いかけてきた騎士に捕まったら、ヴィクトリアに戻ることは永遠にできなくなってしまう。
それどころか、きっとそう遠くない未来に、私も『千穂』も死んでしまうに違いない。ミーアの肉体に移った前世の私が数日しか生きられなかったように、魂は他人の肉体にそれほど長くは留まれないのだろうから。
キャサリン嬢は、果たしてそれを知っていたのだろうか。あの魔術師に騙されていただけなのか、それとも短い間だけでも『ヴィクトリア』が持っているものを全て自分のものにしたかったのだろうか。
荒い息を繰り返す口の中に血のような味が広がり、喉が焼けるように痛む。それでも、私はふらつく足を叱咤して走り続けた。
貴族街に入ると、逆に平民が通りを疾走していると逆に不審がられるので、ハンカチで頭部を覆って目立つ髪を隠し、どこかのお屋敷の使用人だという態で物静かに道の端を歩いた。
角を曲がると、懐かしい我が家が見えてくる。
前世でヴィクトリアから聞いていた通り、屋敷の裏手に回ると、使用人用の通用門が開いていた。不用心なことだと内心憤りながら、今回だけは助かったと素早く中に滑り込む。
今日は、事件に巻き込まれた後ずっと屋敷の中に閉じこもっていた奥様が、旦那様と共に出掛けて不在だ。使用人達はホッとして気が緩んだのか、談話室に集まってお茶を飲みながら話に夢中になっている。
「奥様、外出できるまでになられて本当に良かったわね」
「記憶喪失になられたと聞いたときはどうなることかと思ったが、旦那様との仲も良好だし、あまり心配することはなかったな」
「でも不思議ね。記憶が無くても、お好きな物や苦手な物は変わらないなんて」
「そうだよね。記憶が無いのに、奥様は段々と旦那様に惹かれておいでだものな」
「例えこのまま記憶が戻らなくても、お二人はご夫婦として改めて歩み始めると思いますよ。お二人を見ていれば分かります」
「ですよね」
「だな」
ナタリーやパトリックを含め、使用人達がそんな風に思っていたとは知らなかった。
確かに、前世で、あのまま本物のヴィクトリアが現れなければ、私は戻るはずのない記憶が戻るのを待たずに、彼の妻という立場を心から受け入れていただろう。その身体に留まっていられなくなる日が来るまで。
でも、そんなことにはさせない。私がギルバート君の妻なのだから。
足を忍ばせて談話室の前を通り過ぎると、私は密かに階段を上がった。
階段を上がった所にある大きな柱の陰に身を潜めながら、私はその時がくるのをじっと待ち続けていた。
緊張感や不安も勿論あったけれど、それよりもようやくここまで辿り着いたという安堵感と、かなりの距離を走った疲労、そして無理に動いたことでじくじく痛む背中の傷が熱を持ち始めたのもあって、蹲った姿勢のままほんの少し意識が遠くなっていた。
「お帰りなさいませ」
俄かに騒がしくなった階下の様子にハッと目を開ければ、執事のパトリックの声が聞こえてきた。
……帰ってきた。
一気に緊張感が押し寄せ、心臓が早鐘のように打ち始める。
この後、具合が悪くなったヴィクトリアの為に医者を呼んでくるよう、ギルバート君が御者に命じている間に、ナタリーがヴィクトリアを支えながら階段を上がってくる。二人が二階に辿り着いた時、廊下の奥から不審な物音がして、ナタリーはヴィクトリアをその場に待たせてこちらに背を向ける。その隙に……。
前世を思い出しながら、これからやるべきことを頭の中で整理していると、不意に嫌な予感がして冷や汗が全身から噴き出した。
……不審な物音って、あんな偶然に起きるもの?
もしかしたら、物音がするような手だてを講じておかなければならなかったのではないだろうか。
例えば、二階の奥の部屋の窓を開けておいて、風で窓が自然に開閉するようにしておくとか。野良猫でも捕まえてきて、奥の部屋に閉じ込めて暴れさせておくとか。
でも、前世でヴィクトリアは何も言っていなかった。偶然、丁度いいタイミングで何か物音がしてくれるのか。それとも、まさか彼女が何かしなければいけなかったことを伝え忘れていたのか。
焦燥感で、身体がだんだんと冷たくなり、小刻みに震え始めた。
どうしよう。しくじってしまったかも知れない。どうすればいい? どうすれば、この失敗をカバーできる?
「大丈夫でございますか? 奥様」
ナタリーの声が聞こえてきて、ハッと息を飲む。階段を昇ってくる二人分の足音が、もうそこまで迫ってきていた。
ああ、もう時間が無い。
私は顔の前で手を握り合わせて、ぎゅっと目を閉じた。
最悪、何の物音もせず、ナタリーがヴィクトリアの傍を離れなかった場合、ナタリーを跳ね除けてヴィクトリアに突進するしかない。
けれど、小柄なミーアの身体で、しかも背中の傷も痛み、疲労で鉛の様に重くなったこの身体で、果たしてそれができるかどうか分からない。
……それでも、やるしかない。失敗したら、もう二度とヴィクトリアの身体には戻れない。そして、そのまま近いうちに、二人とも死んでしまうのだ。
階段を上がってきた二人の足が、二階の床を踏んだ。
……何も起きない。ナタリーは、ヴィクトリアをしっかりと支えたままだ。
神様――。
悲鳴のような祈りを捧げたのはほんの一瞬。覚悟を決めた、と意識する間もなく腹を括ったその時。
二階の廊下の奥から、何かが倒れるような物音が聞こえた。
「何でしょう」
不審げに呟くナタリーの声が聞こえてくる。
「奥様。ここで待っていてくださいませ」
そんな声に続いて、足音が遠ざかっていく。
――ああ、神様。
安堵感で力が抜けそうになった身体を奮い立たせて、私は床を蹴って飛び出した。
突然の侵入者の出現に、呆然と立ち尽くすヴィクトリアの身体に猛然と手を伸ばす。
「……私の、身体を返してっ――!」
けれど、伸ばした手はヴィクトリアの長い腕で呆気なく振り払われる。よろめく私の目の前で、ヴィクトリアは私を振り払った反動で後ろに大きく仰け反ると、そのまま勝手に一人で階段から落ちて行こうとする。
「……馬鹿っ!」
それでは駄目なのよ。二人一緒に落ちないと、魂は入れ替わらないんだからっ!!
咄嗟に、傾き落ちていくヴィクトリアの身体に追いすがる。その身体が階段に接触する直前、私はその柔らかい肉体を捕まえた。
そのまま、二人で抱き合った姿勢で階段を転げ落ちていく。
ぎゅっと目を閉じ、どちらのものか分からない悲鳴を聞きながら、鞭打たれた背中を強打した痛みに意識が遠ざかっていった。