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12.ヴィクトリア④

 社交界では、私とギルバート君の仲がすでに取り沙汰されていたけれど、その時にはまだ私達は恋人同士という訳ではなかった。ギルバート君はまだ、私の事を世話の焼ける妹くらいに思っているんじゃないだろうか。

 ある天気のいい日のこと。兄を訪ねてきたギルバート君に、王都の外れにある景色のいい丘まで三人で遠乗りに出掛けないかと誘われた。

「でも、私は馬に乗れませんから」

 肩を落とした私に、ギルバート君は微笑んだ。

「俺と相乗りすればいい。大丈夫、しっかり掴まっていれば問題ない」

 それなら、と支度を整え、いざ彼の乗る馬に引き上げて貰ったのはいいけれど、下手に前世の記憶があると、苦手意識まで引きずってしまうらしい。

 ポニーよりはるかに高い位置で不安定に揺られた私は、我が家の敷地を出る前にギブアップしてしまった。

「まさか、ここまで苦手だとは……」

 仕方がない、と苦笑したギルバート君は、落ち込んでいる私の為に、色とりどりの花が綺麗に咲き誇っている我が家の庭で一緒にお茶をしようと提案してくれた。

 楽しいひと時を過ごした後、ギルバート君が帰った後で、兄が呆れたように呟いた。

「あんなに馬が苦手なのに、騎士になりたいと言っていたとは……」

 いやいや。そんなことを勢いで言う羽目になったのは、そもそもスロースターターなあなたのせいですから。



 その間にも、我が家には私への縁談が幾つも舞い込んでいた。その中から、両親は吟味に吟味を重ねて選んだものを私に持ってくる。

 両親が選んだ縁談相手は、すでに爵位を継承している方か、今後爵位を継承する方ばかりだった。それも漏れなく、うちより家格が上の人ばかり。まるで私なら高く売れると目論んでいるようで、そんな彼らとの溝は深まる一方だった。

 どんな縁談にも首を縦に振ろうとしない私に、両親は溜息ばかり吐いていた。兄だけは、私の希望を叶えてやって欲しいと両親を説得してくれていたけれど、彼らはそれを受け入れようとはしてくれなかった。


 そのうちに、隣国との関係が悪化した。フェリクス殿下が花嫁を迎えようとしている東隣の国ではなく、西隣の国と領土を巡って軍事衝突が起こったのだ。

 すでに始まった国境での戦いに、王太子殿下が援軍を率いて向かうことになった。サーフレア伯爵家次期当主である兄のような立場の騎士は王都の守備に残るけれど、次男三男や平民出身の騎士達はもれなく戦場へ向かうことになる。

 前世で、ギルバート君がこの戦いで武功を挙げ、子爵位を手に入れることは分かっていた。分かっていたけれど、本当にそうなるのか心配で堪らなかった。

 これまで、前世で彼から聞いていた通りにヴィクトリアの人生は進んでいる。けれど、これから先も同様だとは限らない。もし、私が何か間違った行動を取ってしまったら。何か一つボタンを掛け違えてしまったら。

 震える手で、そんな不安を振り払うように、一心不乱にハンカチに刺繍を刺していく。

 戦いに赴く男性に、家族か婚約者が無事を祈って贈るハンカチ。本当なら、友達以上恋人未満な今の私は、彼にハンカチを贈ることなどできない。

 けれど、私は彼に手渡したかった。前世で『ヴィクトリア』がそうしたと聞いたからではなく、今の私自身がそうしたかったのだ。



「これを、俺に……?」

 兄に協力を求め、両親の目を盗んでギルバート君に会える場を設けて貰った。

 王宮で執り行われた、王太子殿下の出征を激励する盛大な園遊会。国中の貴族がほぼ全員出席しているのではないかと思われるほどの人の波の中で、私は兄に導かれ、広大な庭園の人目につかない植木の陰で彼と会った。

 そんな風に、そこかしこで人の目を盗むように別れを惜しむ恋人たちの姿が見える。……ただ、私達はまだ、恋人同士と呼べる関係ではなかったけれど。

 驚いたように目を見開き、手にしたハンカチを凝視しているギルバート君を見ていると、不意に不安が押し寄せてきた。

 もしかしたら、私と彼が恋仲になって結婚したのは前世で目にした世界だけであって、今は違う結末に向かっているのかも知れない。……私が、前世にいた『ヴィクトリア』に及ばす、彼の心を掴めていなかったのだとしたら。

 そんな思いが過ぎり、咄嗟に私の口からこの重苦しい空気を誤魔化そうとする言葉が飛び出してきた。

「……いえ、あの、これは、……そうじゃなくて、ギルバート様は私の……」

 兄のような存在だから、と言おうとした瞬間、いきなり強く抱きしめられて息が詰まり、ついでに出かかっていた言葉も途切れた。

「ありがとう、ヴィクトリア」

「え? あ、はい」

「もしかしたら、きみに会えるのはこれが最後かも知れない」

 耳元でそう囁かれた瞬間、目の前が真っ暗になる。

「……いやっ! そんなの嫌ですっ!」

 涙腺が崩壊したように、目からボロボロと涙が流れ落ちていく。

 そんな未来にはならない、と分かってはいるけれど、確信はない。だから、不安で堪らない今、彼の口からそんな不吉な仮定の話など聞きたくなんかない。

 身体を離して、泣き続ける私の顔を覗き込み、優しく指で目元を拭ってくれたギルバート君は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。

「生きて帰ったら、きみは俺のものになってくれると思っていていいだろうか。今のきみを見ていると、そう己惚れそうになってしまうのだが」

 そう言いながら、愛おしそうに切なそうに私の頬を撫でるギルバート君に、泣きじゃくりながら何度も何度も頷いて見せる。頷く度、胸が押しつぶされそうに痛い。嬉しくて、でも悲しくて、身が引き裂かれそうに辛い。

 そう遠くない未来に、我が国が勝利を収め、ギルバート君は武功を挙げて無事に戻り私と結婚するという、限りなく可能性の高い未来を知っているにもかかわらず、こんなに胸が押しつぶされそうなくらいに辛い。前世でも味わうことのできなかった、最高に幸せな瞬間のはずなのに、苦しくて仕方がない。

 そんな私の顎に指を当てて持ち上げ上を向かせると、ギルバート君はそっと優しく私に口付けた。

「待っていてくれ、ヴィクトリア。きっと迎えにいくから」

 それまで、どこか他人としての一線を守っているように見えたギルバート君が、前世で見た彼に近づいたように見えた。



 戦いが終わるまでの間、本当に生きた心地がしなかった。

 戦況は有利だという情報は伝えられていたし、兄からはギルバート君が無事かどうか騎士団に入る情報を逐一伝えて貰っていた。

 けれど、親しい友人達の兄弟や親戚、それに恋人が戦死したという話がちらほらと耳に入る度、大切な人を失った彼女たちの悲しみを思うと胸が張り裂けそうだった。何かの間違いで、私が同じ立場になる可能性だってゼロだとは言い切れない。

 彼を待つ間、とても自分を磨こうという気持ちにはなれなかった。食欲もなかった為太ることはなかったけれど、それでも溌剌とした美しさで光り輝いていたはずの自分をある日鏡で見て、その憔悴しきった顔に自分でも驚いたほどだった。

 そんな私のやつれようを見て、両親も多少なりとも心を動かされたらしい。彼のいない間に他の貴族令息との縁談を進めようとはしなかった。

 私は前世で、ギルバート君から、戦いがどれほど続いたか、何をもって終結したか、なんて詳しいことを聞いていなかった。だから、敵国の軍を押し戻したという話を聞いて、これで戦いが終わるとぬか喜びし、それでもなお続く戦いに絶望する、そんな日々が続いた。


 ある日、王都の守りについていた兄が突然戻ってきた。無理を言って数時間だけ休みを貰ってきたのだという。

「ヴィクトリア。落ち着いて聞いてくれ。実は、ギルバートが……」

 目の前が真っ暗になった。

 ……ギルバート君が怪我をした。それも重傷で、命の危険にさらされている。

 そんなこと、聞いてない。嘘よ、何かの間違いよ。

 詳しいことが分かったらまた知らせに戻るが、覚悟を決めておくように。そう言って兄は任務に戻っていった。

 それからの数日間は地獄だった。いつ、ギルバート君が死んだという報告を耳にするかも知れないと思うと、怖くて仕方がなかった。眠れば最悪の結果を夢に見る為、眠ることもできなくなった。

 その報告が大袈裟なもので、ギルバート君は確かに負傷したものの、すぐ回復する程度のものだったと兄から聞かされた時も、崩れ落ちるほど安堵した一方で、完全に信じられたわけではなかった。その報告が実は間違いで、本当に大怪我だった、すでに亡くなっていた、と後で聞かされたら、今度こそ本当に心が押しつぶされてしまう。

 武功を立てて子爵位を手に入れて私をお嫁に貰って、だなんて贅沢なんか言わない。ただ無事に戻ってきて欲しい。

 ただひたすら、そう祈り続けていた。

 だから、ようやく戦いが終わり、王太子殿下と共に王都に帰還した彼の無事な姿を確認した兄から元気そうだったと聞いて、もうそれだけで充分だと思った。

 例え、何日経っても会いに来ない彼に焦燥感が募っても、生きているのだから大丈夫、と自分を落ち着けることができた。



 王太子殿下に迫る敵の凶刃に割って入り、怪我を負いながらも退けたギルバート君は、凱旋後に執り行われた謁見の場で子爵位を賜った。

 彼が無事に戻ったと聞いた日から、私は自分磨きを再開していた。手入れを怠っていた髪や肌にオイルや美容液を塗り込み、食事を元に戻し、衰えた筋肉を鍛えて引き締める。

 憔悴しきった様子から一転、水を得た魚のように生き生きとし始めた私を見て、両親も半ば諦めたらしい。ギルバート君が子爵位を賜ったと聞いた時には、渋々ながらも私達の仲を認める気になってくれたようだった。


 ジェローム子爵となったギルバート君がようやく我が家を訪れたのは、王都帰還から半月が経った頃だった。

 その間、やれどこそこの子爵令嬢との縁談がまとまりかけている、だとか、某侯爵家のご令嬢と結婚することが決まった、などという彼に関する噂話に、私は勿論、両親まで神経をすり減らしていた。

 だから、大きな花束を抱えて我が家に現れた彼の姿を見た時、私は勿論、両親もその場にへたり込みそうになるほど安堵したのだった。


 その後は、割とスムーズに婚約がまとまり、結婚式の日取りが決まった。

 社交界では、凱旋した独身騎士と貴族令嬢の縁談が次々にまとまり、数々のおめでたい話に紛れたせいか、私達の婚約が話題の中心になるということはなかった。

 けれど、やっぱり心配していた通り、ギルバート君を慕っていた貴族令嬢は意外と多かったらしく、お祝いの言葉と共にけっこうな厭味と嫉妬に満ちた眼光を贈られた。

 ……そういえば。

 決して忘れていた訳じゃない。けれど、まずギルバート君と本当に結婚できるかどうかの心配が先に立って、今まであまり意識してこなかった問題が間近に迫っていることを、今になって強く意識するようになった。

 ギルバート君を慕っていた令嬢が、魔術師を雇い、私を浚う。そして、『上山千穂』の魂がこの身体に宿る。

 前世の私との邂逅……。過去に向かって転生するなんてことが本当にあるのかと、前世で聞いた通りに展開する今を生きていながら、未だに私は信じられずにいる。

 でも、このままでは恐らく、前世で私が体験したように、『千穂』はやってくる。そして、自分は『ヴィクトリア』として転生したものの、ショックでそれまでの記憶を失っているだけだと思い込む。

 今、この段階で犯人となる貴族令嬢に接触して企みを防げば、誰も死なずに済むし、私もギルバート君と離れずに済む。

 でも、『上山千穂』が日本で死んでしまうことは避けられないだろうし、もし彼女が『ヴィクトリア』として生き、ギルバート君に恋した数日間が無ければ、果たして今の自分があるだろうか。

 これから起きるだろうことと、その運命を知りながら敢えて避けずに立ち向かわなければならないことを悟り、思わず身震いする。

 魔術師の怪しげな術で身体から魂を引き離され、他人の身体に移されるなんて考えるだけでも恐ろしい。しかもその間、例え前世の自分とはいえ、他の女が私の身体に宿り、記憶を失った私の振りをしてギルバート君と夫婦として過ごすなんて。

 そう思うだけで、嫉妬で心が焼き切れそうだった。

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