1.千穂①
「……ぃ―、……ヴィーっ!」
頬を叩かれて、私はゆっくりと覚醒した。
目を開けると、目の前にあったのは、恐ろしいほど近い所にある、見ず知らずの若い男の顔。
「……ぎゃっ!」
思わず叫びながら無我夢中で手を翳し、その男の顔を掌で押しやった。
……なっ、何事、これはっ!
混乱しながらも、自分に覆いかぶさるようにしている男から逃れようと、必死に身を捩って地を這う。その手が空を切り、身体がガクッ、と傾いた。
「危ない!」
落下を防いでくれたのは、男の腕だった。細いが鍛えられてしなやかなその長い腕にいとも簡単に抱えられて、落ちかけたベッドにきちんと腰掛けさせられる。
その間、私はまるで凍り付いたかのようにカチンカチンに身体を強張らせていた。
……一体、ここはどこ?
周囲を見回せば、そこには私が知っているものは何一つなかった。
埃臭い空気が漂う、狭くて薄暗い室内。全く見覚えがない場所で、一体今自分がどういう状況にあるのか分からないまでも、この場所が異常である事だけは分かった。
薄汚れた床に人が倒れている。西洋の貴族のような服を着ているその人は、まだ若い外国人女性のように見えた。どこからか室内を照らしている明かりに照らされたその顔は驚くほど白く、まるで人形のようにピクリとも動かない。
不意に、男が身体をずらして、私の視界からその女性を見えなくした。
「怖い目に遭ったね。でも、もう大丈夫だよ、ヴィー。さあ、帰ろう。僕らの家に」
差し出された男の手を、私は目を見開いて凝視した。
そもそも、日本で普通の会社員をしている私は、その外国映画に出てくるような金髪に青い目をした男性のことを全く知らない。超有名な俳優なら、名前は知らなくても顔ぐらいは覚えている。けれど、俳優に勝るとも劣らない容貌のその男の顔は、私の記憶には無い。
大体、ヴィーって何なんだ。
その甘く整った容貌や、細く引き締まった体型とは不釣り合いな、ごつごつと節くれだって皮の厚そうなその大きな手を見つめながら、私は今の状況を何とか理解しようと頭をフル回転させた。
確か、出勤する為にアパートの部屋を出て、外階段を下りていた。その時、急激な頭痛に襲われて手摺りにしがみ付いたところまでは覚えている。
それがどうして、こんなところにいるのだろう。しかも、日本語を喋るイケメン白人男性にヴィーなどと呼ばれ、僕らの家に帰ろうと言われてしまうなんて。
まさか、生き別れた兄弟? ……まさか。私はどこからどう見ても、純粋な日本人だ。彼と血が繋がっているとは思えない。
「……あの。人違いではないですか? 私は、ヴィーなんて名前じゃないですし、あなたのことは全く知らないのですが」
恐る恐るそう訊ねてみて、ふと違和感を覚えて喉に手をやった。私の声って、こんなに高く綺麗で、喋りも流暢だっただろうか。
けれど、そんなことに気を取られている暇はなかった。
「……ヴィー?」
目の前の男がみるみる顔を強張らせ、いきなりガシッと私の両肩を掴んで身を乗り出してきたのだ。
「ヴィー、何を言っているんだ!? 僕の事が分からない? こんな時に冗談はやめてくれ」
「きゃっ! 何をするんですか」
肩を掴んでいる手を振り払おうともがくものの、男の手はしっかり私の肩に食い込んで離れてくれない。暴れれば暴れるほど、痛いくらいに押さえつけられる。
身の危険を感じて必死にもがいていると、からかうような別の男の声が聞こえてきた。
「何を揉めているんですか。痴話喧嘩ですか?」
「助けに来るのが遅いって怒られてんのか、ギルバート」
同じ室内にいた別の男達が、笑みを浮かべながらわらわらと寄ってくる。
全員が私の肩を掴んでいる男と同じ、緋色の軍服のようなものを着ていた。しかも、腰にぶら下げている耳障りな金属音を立てている長いものは、恐らく剣だ。
武器を携帯した見ず知らずの大柄な外国人達に取り囲まれ、その威圧感と、殺されるかも知れないという恐怖に私は震えあがった。
「いやっ、怖い。助けてください!」
「だから、僕が助けにきて、君は助かったんだよ」
「何気なく、自分だけの手柄にするなよ、ギルバート」
「まあ、妻を助けたのは自分だってアピールしたい気持ちは分かりますけどね」
私の肩を掴んだままの男は、ニヤニヤと笑う他の男達に囃し立てられ、後ろから小突かれている。
……妻?
思わず目を見開いて、さっきから私の肩を掴んでいるギルバートと呼ばれたその男を凝視する。
真剣な顔でこちらを見つめている彼は、嘘を吐いているようにも演技をしているようにも見えない。だけど……。
私は、これまで一度たりとも結婚した覚えはない。
悲しいかな、何を隠そう私は三十路をとっくに過ぎてもまだ独身だった。しかも、ここ十年ほどは全く男性と縁が無く、会社と家を往復するだけの寂しい人生を送っていた。
ギルバートと呼ばれた男――周囲の男達によれば私の、いやヴィーという人の夫らしい――が、床に膝を着き、ベッドに腰掛けている私と視線の高さを合わせる。
「いいかい、一度落ち着こう。君は、ヴィクトリア。僕の妻だ。そうだろう?」
……あ、ヴィーって、ヴィクトリアの愛称だったんだ。
吸い込まれそうなほど青い目を見ながら、私は躊躇いもなく首を横に振る。
「私は、上山千穂っていいます。あなたの妻ではありません」
「ヴィー……」
がっくりと項垂れたギルバートの肩を、背後にいた男達のうちの一人が叩いた。
「何が何だかよく分からないが、とにかくここを出よう。怖い目に遭ったショックで、混乱しているのかも知れない」
別に私は混乱してなんかいないけれど、その男の提案には賛成だった。
どうにもここは薄暗いし埃っぽくて空気が悪い。それに、さっきから全然動かない女性を、いつの間にか誰かが緋色のマントで覆っているのを見て、気味が悪くて仕方がなかった。
彼ら西洋人らしき人達が、何故こんなところで、こんな中世ヨーロッパのような服装をしてたむろしているのか分からない。しかも、何故それに自分が巻き込まれているのかも全く分からない。
何か映画の撮影だろうか。それにしたって、何故普通の会社員である私が出演者になっているのだろうか。色々想像を巡らせてみても、何一つ説明がつかない。
……ああ。これは夢だ。
そう思いつくと、すとんと腑に落ちた。
何日か前に、数年前に流行った騎士物の映画を見たから、その影響かも知れない。ピンチにイケメン騎士の夫が駆け付けてきて助けてくれる夢を見るなんて、私にもまだヒロイン願望が残ってたんだなぁ。うほっ、お姫様抱っこだよ。
夢だと分かって一気に警戒心が解けた私は、ギルバートに軽々と抱きかかえられ、慌てて彼の胸元にしがみ付きながら密かに大興奮していた。
平均身長に、平均体重を十キロほど上回る体型の私は、例え仮に彼氏ができたとしても、こんな風に軽々とお姫様抱っこして貰える日なんて来ないと思っていたから。
……この夢、できれば覚めて欲しくないなぁ。
寝坊して会社に遅刻するのは拙いけれど、この夢をずっと見ていたい。
ギルバートの腕に触れている背とか膝裏が何気に痛いとか、彼から汗臭い匂いが微妙に漂ってくるとか、彼が歩く度に揺らされてちょっと気持ち悪いとか、変なところまでリアルなのは、自分がただ夢見る乙女な年齢をとっくにオーバーし、物事を穿った目で見てしまう年齢に達しているからだからだろうか、と少し悲しかったけど。
薄暗い室内から外に出ると、そこは落ち葉が降り積もった木立の中だった。空を覆う枝葉の向こうに、白い空が広がっている。周囲は薄らと霧に包まれていて、ひんやりとした空気に包まれていた。
木立の周囲には馬が何頭もいて、ギルバートがその前を通ると、そのうちの一頭が地面から顔を上げてピクリと耳を動かした。
ゲッ。まさか、馬に乗せますか……?
実は私、乗馬の経験が一度だけある。観光で訪れた牧場で乗馬体験に参加し、牧場主さんに轡を引いて貰いながら柵の中を一周しただけだったが、馬に乗った際の高さや振動に、高所恐怖症で怖がりの私は、もう二度と馬に乗ることはあるまい、と心に誓ったのだった。
ぎゅっとギルバートの胸元を握り締めると、彼はこちらを見下ろしてにっこりと笑みを浮かべた。
「分かっているよ。乗馬は相乗りでも嫌なんだろう?」
見惚れるような素敵な笑顔を浮かべたギルバートは、呆けたままの私をお姫様抱っこしたまま、緩やかな斜面になっている木立の中をどんどん歩いて行く。
その後ろから、同じ制服を着た男達が馬に乗ってやってきた。一人は、空馬の手綱を引いている。
木立が切れたところから道が伸びていて、馬車が一台待機していた。
「さあ、乗って。ヴィー」
ヴィクトリアではないけれど、これは夢だと割り切った私は、抗うことなく馬車に乗り込んだ。
私だけ馬車に乗せると、ギルバートは馬車のドアを閉め、仲間が引いてきた馬に騎乗した。その身のこなしは見ているこっちが惚れ惚れするほどかっこいい。
馬車の座面は車のシートよりも座り心地が悪く、しかも動き出すと路面が悪いせいか大いに揺れ、車輪の音が煩かった。
にもかかわらず、眠気が襲ってくる。夢の中で眠くなるって、一体どういうことなんだ。ああ、もしかしたらこれは目が覚める前兆なのかも。
でも、何だかドキドキする夢だったなぁ……。で、この後はどういう展開になるんだろう。
これまでの経験からすれば、目が覚めなければ、大体この手の夢は私の予想通りに進む。けれどすぐに場面は飛んで、いつの間にか全く違う夢へとすり替わってしまうのだ。
ギルバート君か。素敵な人だったなぁ。
最初は正直、誰だこいつ、と思ったし、いきなりヴィーって迫ってくるし、身の危険も感じて怖かったけれど、実は優しくてめちゃくちゃかっこいい人だった。
本当に彼の奥さんだったら……、なんて妄想を膨らませつつ、夢の中でしか味わえることのない幸せを噛みしめながら、世知辛い現実の日々を乗り越えていく。
目が覚めたら、そんないつもと変わらない日常が待っている。と、その時の私は当然のように思っていた。