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捌 相国寺・誰でも鬼に


 しゅとーん部に隆一が来た。

「あれ、紅葉ちゃん。来てたん? 今日も見学?」

 隆一は紅葉の落ち込みに気付かない。

 彼は板間で制服を脱ぎ、堂々とトランクス一枚になって、剣道着に着替えた。



 紅葉の前で、咲良と雨音が仲良く組太刀を稽古している。

 咲良は鞘から木刀がうまく抜けずに、モタモタする。

 木刀の刃長が二尺四寸(約72センチ)。

 抜けても、慣れないうちは納刀でモタモタする。


「はい、咲良ちゃん。ここを打って。あ、そう。次、ここを」

「ハイ」

 咲良はぐらつきながら、ゆっくり打つ。

 受ける雨音は、彼女を飛ばさないよう力加減している。



 旭は腕組みして、ドン臭い咲良の稽古を眺めていた。

「紅葉ちゃんも入部しますか? 一人教えるのも二人教えるのも、同じなんですけど」

 と、女の子嫌いの旭が、一つ折れた。


「私、剣道向いてなかったし…」

 紅葉は下を向いた。

「お兄さんと自分を比較して言ってます? そんな比較、必要ないでしょ。今度は楽しんでやってみたら?」

 旭に言われ、紅葉は驚いて彼を見た。


「おにぃと自分を比較…」

 彼女は旭の指摘に、思い当たることがあった。



 山上と酒井が来た。

「お、咲良ちゃん、来てるな。紅葉ちゃんも」

 山上は女の子達には笑顔を向け、雨音には意味ありげに、

「雨音。おまえのおらん間に、新しい子入ったで。おまえみたいな不思議系…」

 と、言った。


「そうみたいですね」

 雨音は稽古の手を止め、他人事のように頷いた。



 山上は衝立の向こうで、タバコを吹かした。

 酒井はわざわざ着替えた後で、床に紙を広げ、絵を描き始めた。


 その日、咲良は雨音と組太刀を練習した。

 その場の雰囲気に慣れるだけで精いっぱいの、一日目が終わった。


 最後に咲良は、山上と酒井が木刀で打ち合うのを見た。

 演武ではない、鬼気迫る剣を見た。





 紅葉は重い足取りで帰宅した。


 リビングに入ると、兄の蘇芳が純白のソファーに寝そべって、のんびりスマホをいじっていた。

 紅葉は突然、兄が憎たらしくなった。

「おにぃ、ひどいわ。知ってたのに、言うてくれへんかったね…。雨音くんがしゅとーん部にいること…」


「ああ…、その話か。あんたが鬼切を捜して、うちの学校で居合してる人を聞いてきた時、すぐにわかった。雨音のことや。けど、俺は雨音を好きちゃうから、言いたくなかってん」

 蘇芳はあっさり、嘘を付いていたことを認めた。

 彼はリモコンを押し、大きな壁面テレビのスイッチを入れた。


 彼はニュースの雑音に重ねるように、

「雨音が剣道部に入ってきた頃、素質あったから、俺と隆一でめっちゃ可愛がった。そやのに、あいつは退部したいって言い出した。俺らは何回も止めた。しゅとーん部まで行った。…それで雨音は退部したくせに、未だに俺を追いかけて来て、めっちゃウザい」

 と、言った。

 蘇芳は京都の死体遺棄事件のニュースをちらっと見て、つまらなさそうに電源を切った。


「そうなの…」

 紅葉は少しずつ落ち着いてきて、ソファーの裏側にへたり込んだ。


「心配せんでも、咲良ちゃんもすぐ辞めるやろ。あの子は男が怖いんやし、あんなとこ、続くわけあらへん。紅葉には短髪で硬派の、もっとかっこええー男を紹介したるわ!」

 蘇芳がソファーの背凭れに腕を掛け、紅葉を上から覗き込んだ。


「短髪とか、ちょんまげとか、別にどうでもええねん。おにぃは雨音くんが嫌いなんか?」

 紅葉が尋ねた。


「嫌いとちゃう。でも、あいつは優しく見えても、自分の前しか見てない男や。雨音はいずれ、東京に帰る。あいつの実家は東京やし、東京の大学に行くかも知れへん。…俺、正直言って、雨音のことをキモいと思う時がある。あいつ、ちょっと別人みたいになることがあるねん…。試合中とか。…鬼…みたいになる…」

 蘇芳は以前の出来事を思い出した。


 雨音は竹刀を落した相手選手をボコボコに打ち込み、反則負けになった。

 本人は、勝たなくてはというプレッシャーだったと後で言い訳したが、見ていた剣道部員は全員、ドン引きした。

 他校との、ただの練習試合だった。



 紅葉はいろんな気持ちが交錯して、胸がいっぱいになった。





 月曜日。

 菊井の様子が明らかにおかしい。

 風邪をこじらせたぐらいで済まず、どこか壊れてしまったみたい。

 カエルみたいにケロケロと、マスクの下で喉を鳴らす。


 咲良もマスクをして登校してきた。

 彼女は予備のマスクを一枚、紅葉に渡し、

「菊井くんに近付かない方がいいよ。これから毎日、マスクした方がいいと思う」

 と、言った。


「なんで?」

 紅葉は面食らった。

 彼女は菊井の席を振り返った。

 菊井がまた、ケロケロ鳴き出した。



 国語の時間に、先生が菊井を指名し、教科書を読むように言った。

 菊井は席を立たない。教科書も開かない。

 女の先生が近くまで来て、

「菊井くん。聞こえないの?」

 と、苛々して言った。


「せ、先生。菊井くんは風邪がひどくて…、喋ると咳が出るから…」

 咲良が代わりに、もごもごと言い訳した。

 先生は腹を立ててしまった。

「それならそうと、自分で言いなさい。菊井くん、返事しなさい!」


 菊井は先生と、目を合わしもしない。

 虚ろな視線が泳いでいる。

 クラスはざわつき、嫌な空気が流れた。


「菊井くん! 聞こえてる?」

 先生が菊井の耳たぶを軽く引っ張った。

 ぴっと、赤い液体が飛んだ。

 菊井の耳が少し裂けた。


「きゃっ!! まぁ、どうして!?」

 先生は慌てて、おろおろした。

「菊井くん、保健室行きましょう。軽く摘んだだけなのに、耳が破れたわ」

 菊井はやっと先生を見た。

 彼はマスクを取り、いきなり咳込んだ。


「ゴフゴフ、ゴフゴフッ!!」

 菊井の口から唾、鼻から鼻水が飛んだ。

 更に、菊井は激しく鼻血を噴き出し、床を汚した。


「うあ!!」

 席が離れている咲良が、一番のけ反った。


 菊井の唾と鼻水と鼻血を、先生がもろに浴びてしまった。

 先生はハンカチで、顔に付いた汚物を拭き取った。

 紺色のスーツには、菊井の鼻血が点々と飛んでいた。

 菊井の鼻血の噴き出し方は異常だった。



 先生は隣りの席の江津に掃除を頼み、菊井を保健室に連れて行った。

 先生がいなくなると、みんな大騒ぎになった。

「菊井くん、どうしはったん!? めっちゃおかしかったで?」

「普段はおとなしい人やのに」

 口々に言い合った。


 コマチが席を立ち、

「菊井くん、風邪と違うの? 気持ち悪かった! 紅葉、菊井くんと葵祭行ったんでしょ? 何かあったん!?」

 と、紅葉の傍まで来た。


 紅葉は咲良にもらったマスクを付けながら、

「私が知るわけないでしょ?」

 と、返事した。


 彼女は江津が雑巾で床を拭くのを見て、心配になった。

「江津くん。ノロウィルスか何か、悪い病気かも知れへんえ? 素手で触って大丈夫? 念の為に手洗いの後、アルコール消毒したら?」


「どうでもいい…」

 江津は無気力に、床を拭き続けた。




 授業が終わった。

 紅葉と咲良が一緒に校門を出ていく。


 紅葉が聞いた。

「稽古、どうやった? 居合は楽しい?」

 咲良は返事に困り、しばし考えた。


「楽しい…けど、全然感覚がわからない。思ったよりずっと難しいかも」

「最初はそうかもね。すぐ慣れるって。毎日素振りしたら?」

 紅葉は相談に乗りながら、咲良を羨ましく思った。

「咲良ちゃん、雨音くんに教えてもらうのかぁ…」


 何も知らない咲良は、

「雨音くんが鬼切持ってるか、調べとくね。色々聞き出してみるよ!」

 と、張り切って言った。


「うん。鬼切見つかったら、すぐ連絡してね。ほな、また明日」

 二人は手を振り、交差点で別れた。





 紅葉はその夜、嫌な夢を見た。



 朝焼けのような、夕焼けのような、鮭色の空に星が一つ。

 星から一本のロープがまっすぐに何百メートルも伸び、紅葉が縛られ、宙吊りにされている。


 頭の下を、両側を切り立った崖に挟まれた、碧色の河が流れる。

 逆さの紅葉は風に揺れ、生きた心地がしない。



 紅葉は中学の制服を着て、青いリボンを結んでいる。

 腰から膝、足首まで、何重にもロープが食い込んでいる。

 彼女の長い髪は逆さに垂れ、手は後ろに縛られ、自由がない。


 いきなり、ズンと重みが乗ってきた。

 見上げると、暗めの紅の振袖に西陣織の帯を締めた女が、ロープを片手で掴み、紅葉の靴裏に素足を重ねて乗っていた。

 バランスを崩した振り子のように、二人の体は谷間を大きく揺れ、ぐるぐる回った。


 女は揺れるのに任せ、長い髪を振り乱す。

 時折見える限りでは、目も鼻も無い、のっぺりした顔に見える。


 広がる振袖の片側に、般若の面が描かれている。

 女の着物にはいくつも能面が描かれているが、特に般若が紅葉の目に留まった。


 女は肌が白く、華奢な肩のラインと細い腕で、年齢も若い感じがする。

 しかし、その足の爪は妙に長過ぎ、踵を持ち上げているアキレス腱もやけに発達して浮き立っている。

「イヌの脚みたい…」

 紅葉はびっくりして、女を仰ぐ。



 女はずるずるとロープを降りてきた。

 遠慮なく、紅葉の尻や胸を足場にして、紅葉の顎に片手を伸ばしてきた。

 女の手は死人のように冷たかった。


 細くきれいな指が後ろから紅葉の顔にかかり、顎先から額まで、つるっと一撫でした。

 紅葉の顔を()がすように。


 女はその手で、自分の何も無い顔を撫でた。

 女は初めて息を吸い込み、嗤いを漏らし、紅葉に言った。

「ふふふ…。君のお顔、お借りしますねぇ…」

 紅葉の声がした。


 女の顔が、紅葉に変わった。

 表情も声も、話すアクセントも紅葉そのものだ。



 その途端、本物の紅葉の顔は、真っ白になっていく。

 顔の造作を盗まれ、目の窪みも鼻も無くなって、つーるつる。

 眉も無い。口も無い。

 だから、何も見えなくなり、返事も出来なくなった。

 真っ暗闇が迫ってきた…。



 紅葉は目を覚まし、がばっと飛び起きた。

 慌てて、自分の顔を撫でてみる。

 ちゃんと眉も目も、鼻も唇もある。


「よかった、全部ある…」

 彼女はほっとした。


「怖い夢見た…。今日、咲良ちゃんにこの夢のこと話そうっと…」

 紅葉はそう考えたのに、その日、肝心の咲良に話すことを忘れてしまう。



 鬼女はひとまず去った。

 今にも雨が降り出しそうな、薄暗い朝が来た。





 今日も菊井が欠席した。

 菊井の隣りの席の、江津も欠席だった。

 国語の先生はマスクをして、風邪を引いたように咳をしている。


 クラスでは、みんなが菊井の奇病を噂し合った。

 みんな、マスクを着用していた。


 コマチは担任の先生に、菊井のことを訴えた。

「きっと、怖い伝染病か何かだと思うんですけど!」

「まぁ、落ち着いて…」

 担任は笑って受け答えしている。

 全く、真剣には考えていなかった。



 咲良は菊井のことを心配しながら、同時に、菊井に憑りついたのがお寺の門にいたガマカエルの妖怪なのか、とても気になった。

 彼女は昼休みに早退した。

 急いで帰宅したら、お寺の門の前に、しゅとーん部の絵師・酒井が立っていた。


 彼は門を見上げていたが、咲良に気付き、

「お帰り、咲良ちゃん。ここ、もしかして咲良ちゃんち?」

 と、聞いた。


 咲良は自宅の住所を言ってなかったのに、何故、酒井がいるのか。

 大体、彼女は酒井みたいな無精髭の男が一番怖いのだ。



 酒井は細かいことに全く頓着しないようで、

「咲良ちゃん、お寺の門に珍しいものを飼ってるね。見えてる?」

 と、聞いてきた。


「酒井さん、あれが見えるんですか!?」

「ああ、見える。俺は見える人のことを、鬼の末裔って思ってる」

 酒井はのんびり言った。


「って言うても、血統の話ちゃうねん。昔々のシャーマン、特殊な能力を持った人を全部鬼と呼んでたら、日本人全部が血を引いてる。みんな鬼族と言うことになってしまう。そうとちゃう。自然崇拝、日本人が昔から感じてきたモノ。新芽が出て、蕾が花開いて、山が四季折々の色に染まって、大雨が降って河が氾濫して、…そういう自然のありのままに霊威を感じてきた俺達の、独特な第六感てやつかな…」

 酒井は大袈裟に話す。


「はぁー、そうなんですか?」

 咲良は曖昧に相槌を打った。


「鬼の末裔。俺は今、咲良ちゃんと紅葉ちゃんもそうなんやろなーと思ってね…」

 酒井が門を睨んだ。

 雨が降り始め、ぽつぽつと肩を濡らす。



 小鬼は見えないけれども、気配は伝わってくる。

 酒井も気配を辿って、ここに来たのだと言う。


「…私、そこに一つ目の小鬼と、カエルの妖怪を見たんです」

 咲良が白状した。

「うん、おるよ。小鬼は邪眼やな。ガマガエルは毒気。気ぃ付けてね」

 酒井が頷き、助言した。


「毒、どうしたらいいんですか? たぶん、友達が危ないんです」 

 咲良は菊井のことを心配した。


「ウィルスちゃうから。咲良ちゃんがガマを倒したら、お友達は助かるんやけどなぁー」

「倒すとか言われても。私、今から居合を習うぐらいだから…」

 咲良は溜息をついた。

 居合はそこそこになるまで、十年かかる。

 それでは、間に合わない。



「ちょっと、俺につきあってくれる? 行きたいとこあるの。そんな遠くないし」

 酒井が咲良を誘った。

 咲良は身を硬くした。


「俺が怖いんやったら、2メートルぐらい後をついて来て。行きたいのは、相国寺(しょうこくじ)

 酒井が告げた。

 咲良は黙って、三、四歩後を歩き始めた。

「ああ、それでええよ」

 酒井はゆっくり、口笛を吹きながら歩いた。




 酒井は時々振り返り、咲良を確認した。

「酒井さん。今日は突然、どうしたんですか?」

 咲良が尋ねた。

「ちょっと事件が起こってね。人を捜してた」

 酒井はポケットに手を入れ、きょろきょろしながら歩いた。


「事件て何ですか?」

「先週、葵祭があったでしょ。まだ公開捜査始まってないけどね、昨日の夜から、斎王代やったお嬢さんが自宅に帰ってない。行方不明なんよ」

 酒井が答え、

「ええっ!? なんで!?」

 咲良が叫んでいた。


「かなりの資産家のお嬢さんやから、今、京都府警が総力上げて捜してる。誘拐の可能性もある。そやけど、…俺は何か、怪事件の匂いを嗅ぎつけた…。鬼の末裔の、第六感やねん」

 酒井は得意げに言った。



 咲良は、十二単の斎王代を思った。

 美しい人だった。

 咲良は胸の奥がぎゅっと掴まれたみたいに、息苦しくなった。


「もしかしたら、…酒井さん。マナブっていう男の人がいて、お姫様を捕まえて食べたがってたんですけど…。葵祭にも来てたんです。マナブが斎王代を攫ったんじゃないかな……って、私の話、…信じます?」

 咲良が酒井の背中に聞いた。


「はぁ、信じてもいいよ。お姫様か。咲良ちゃん、そいつは咲良ちゃんのことも喰おうとしてるんちゃう?」

 酒井が当てた。

「…はい。鬼ごっこ中…です」

 咲良が俯いた。


 酒井が振り返り、

「マナブが斎王代を誘拐した可能性、あるかも知れへんなぁー。咲良ちゃん、マナブの行きそうなとこ、心当たりある?」

 と、聞いた。


「鬼の首塚。老ノ坂の」

 咲良が顔を上げ、即答した。


「えー!? そんな肝試しスポット、やめてくれへんかー。気持ち悪いし、行きたないわー」

 酒井は顔をしかめた。





 相国寺は臨済宗の禅寺で、金閣寺と銀閣寺はこのお寺の塔頭寺院。

 それらの文化財も含めて、相国寺の承天閣美術館で公開している。



「伊藤若冲(じゃくちゅう)、知ってる? 最近人気が出て来たけど、ちょっと前までは無名の画家やった。狩野派の絵を学んだのに、全く別の方向で開花した天才。十八世紀初め頃、京都の錦小路の青物問屋に生まれてね…」

 酒井が入館料を払い、美術館に咲良を案内した。


「ここに、円山(まるやま)応挙や伊藤若冲の作品がある。中学生はまだ興味ないかも知れへんけど、こういうすごくええものを、若いうちに見てほしい」

 酒井が熱っぽく言う。



 常設展示に、伊藤若冲の鹿苑寺(ろくおんじ)大書院障壁画・葡萄(ぶどう)小禽図床貼付と月夜芭蕉(ばしょう)図床貼付がある。

 わかりやすく言えば、江戸時代の金閣寺の床の間を丸ごと、(ふすま)絵と共に持ち込んでいる。


 葡萄の葉と蔓が垂れ、粒の丸々とした葡萄がたわわに実っている。

 装飾的でありながら瑞々(みずみず)しい葡萄、絵のデザイン性の高さにシビれるものがある。

 構成の巧みさ、躍動感、面白さは葛飾北斎と比較しても、遜色ない画家だと思う。


 どちらも水墨の濃淡で描かれているが、もう一方は、白く月が塗り残されている。

 その淡い墨色の夜空が美しく、葉をしならせ広げる芭蕉の大きな存在感、(まぶた)に焼きつく絵とも言える。


 さすがに咲良も圧倒され、長い溜息を吐いた。

「すごいんだ…。これ、面白いですね。酒井さん…」

 そこから、咲良は言葉がなくなる。

 襖に描かれた、雪の中に立つ鶴や、ゆらゆらと生えた竹も、独特の趣きがある。


 たまたま、咲良は運よく、他の数点の若冲の絵も見ることが出来た。

 若冲の絵で特に有名なモチーフは、鶏だ。

 彼は庭で鶏を数十羽飼い、写生し続けた。

 彼のユーモラスで独創的な世界が、鶏から始まった。

 若冲は若冲にしか描けない絵を描いた。


「俺、こんなの描けたら、もういつ死んでもええわ」

 酒井が呟いた。



 美術館を出て、酒井が咲良を法堂に誘った。

「春の特別拝観やってる。特別拝観でしか見れへん、狩野光信の鳴き龍を見よか」


 狩野光信の蟠龍(ばんりゅう)図は、鳴き声の良さで有名だ。

 法堂には美しい釈迦如来像があるが、酒井の見たかったのは天井画の龍だ。

 狩野光信は有名な狩野永徳の長男で、探幽は甥。


 法堂のどこから見上げても、龍の鋭い目と目が合う。

 誰もが抱く龍のイメージそのものの見事な龍で、天井で身を躍らせている。

 咲良は首が痛くなるまで、薄暗い天井を見詰め続けた。


 酒井が手を打つと、

「パァー…ン…、パァー…ン…」

 と、広い法堂に音が響いた。

「どう? これが龍の鳴き声やで。ええ声やろ?」

 酒井が笑った。


 咲良は龍の絵が動き出すように感じた。



 雲を散らし、龍が身をくねらせて風を生む。

 雲の合間から、長い蛇腹が部分、部分覗く。

 長い髭に風を受け、金色の眸を光らせながら、龍が空を舞う。

 閃く稲妻。


 龍はその恐ろしくよく見える眸で下界を眺め、喉を反らし鳴く。

 パァーン…。

 トランペットを一吹きしたような、恐竜のような、ゾウの鳴き声のような。

 龍の声が雲の海に響き渡る。



「つきあってくれて、ありがとう。送るわ」

 酒井がビニル傘を差し、咲良に言った。

 彼は変人だけど若き芸術家で、絵を描くことに一生懸命情熱を注いでいる。


「こういうのを描きたくて、描きたくて。でも、うまく描けない。思うように表現しきれない。…俺はもう、狂って鬼になってしまいそうや。みんな、心に鬼を飼ってる。咲良ちゃんは大丈夫か?」

 酒井が胸の内を明かす。


 咲良は自分の心の奥を眺め、考えた。

 よくわからない。


「ええねんで、別に。心に鬼が棲んでるのは普通のこと。ただ、もし、俺がいつか鬼そのものになってしまっても、その時は…咲良ちゃん。俺という男が、こういう美しいものを愛する人間やったってことを、忘れないでほしいねん」

 酒井は何か思い詰めたように話し始めた。


「俺みたいな、紙一重で鬼と人間の中間にいてる人。絵を描いてる時、集中し過ぎて鬼みたいになってる人。いつ心を制御できなくなるか、危ない存在なんよ。俺はいつかきっと、心の表側まで鬼になってしまう。…でも、例え鬼になってでも、若冲みたいな絵を遺してみたい…」

 酒井はぶつぶつと、独り言のように話した。


「誰でも鬼になり得る。そういう話。もう忘れて」

 酒井が照れ笑いした。


「誰でも…鬼に?」

 咲良は心の中で、その言葉を繰り返した。





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