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伍 東寺・しゅとーん部


 夜更け、雨がしとしと降っていた。

 咲良は自宅の窓から、墓地を眺めていた。


 墓地のある景色にも、だんだん慣れてきた。

 ちょっと、友達を部屋に呼ぶには抵抗あるけれど。


 雨が窓ガラスに当たり、雨粒が流れていく。

 でも、部分的に雨がかからないところがある。

「…あれ?」

 咲良が窓を開けた。


 彼女は突然、窓際のデスクに用意してあった物を取り、外に向かって振った。

 七味の赤い粒が飛び、目に見えない何かがくしゃみをした。

「透明さん! 女の子の部屋を覗かないでよ!」

 咲良が見えない鬼に向かって言った。


 透明の鬼は目、鼻、口に七味が入り、咳き込んで屋根から落下した。

 大きな物音がした。



 翌日。

 咲良が下鴨神社で古武道奉納を観て、帰ってきた。

 そしたら、お寺の門の上に一つ目の小鬼がいた。

 薄暗くなった空の下、屋根の棟に立っている。


 咲良はまたか、と思った。

 もう怖いとも思わなかった。

 ただ、気持ち悪いだけ。


「咲良、咲良…。お帰りぃ…」

 一つ目の小鬼は白いボンボンの菊綴(きくとじ)が付いた、浅葱(あさぎ)色の水干を着ている。

 その夜、ガマガエルの妖怪を連れていた。


 黒の紋付袴を着て、後ろ足で立ち上がった奇妙なガマガエル。

 褐色の頭に、無数のイボがある。

 飛び出たギョロ目が大きく、裂けた口にギザギザの尖った歯が見える。

「クックッ、クックッ…、ケロケロッ…」

 ガマガエルの妖怪が鳴いた。


「一匹増えてる…。今度はカエルの妖怪!?」

 咲良は見上げながら、慎重に門を潜った。


 一つ目の小鬼が嗤い、庫裏(くり)玄関に向かう咲良に言った。

「ヒヒヒ、ヒヒ…。今更、剣術が何になる!? 無駄じゃ、咲良。人間どもが運命に逆うことは出来ぬ…」

「居合のこと、知ってるの?」

 咲良が振り返った。


「剣術を始めたところで、今すぐ鬼に勝てると思うか? 咲良はいづれ、マナブに喰われるのじゃ…」

 門の上で、一つ目の小鬼が横笛を吹き始めた。

 三本指で、器用に吹き鳴らす。


「マナブを知ってるの!? どうして!?」

 咲良が聞いたが、小鬼は答えず、笛を吹き続けた。

 どこか哀しい調べだった。


 咲良は両手で耳を塞ぎ、急いで庫裏玄関に入った。 





 五月の連休が終わった。


 咲良と紅葉は情報教室のパソコンを使い、自由研究について話し合った。

「マップの文字をクリックすると、写真が出るようにしたよ。イラストを入れる? 私、絵を描くのは苦手なんやけど」

 紅葉がベースとなる部分を、自宅のパソコンで作成してきた。


 咲良は北野天満宮と伏見稲荷大社、晴明神社、一条戻り橋、下鴨神社について感想を、彼女らしい文章にまとめてきた。

「本当? 私、得意だよ。じゃ、イラストは任して。すっごく楽しいマップにするよー」

 咲良が張り切った。



「頑張ってはるねぇー。紅葉、休み時間まで自由研究?」

 誰かの嫌味な声がした。

 紅葉は振り向かない。

「出た。コマチや」

 すると、咲良は何故か、相手をキッと睨んだ。


 小野真知、通称・小野小町(おののこまち)

 学年で一番可愛いと言われているし、本人もそう思っている。

「紅葉、自由研究は何にしたん? オタク女子の萌え萌え歴史研究?」

 コマチが絡んできた。


「萌え萌え…。悔しいけど、少し当たってるかも」

 離れた席で、ゲームの聖地マップをテーマにした菊井が呟いた。

「君とは組んでません!」

 紅葉が菊井に言った。


「別にええやん。一緒にやったら? 紅葉と菊井くん、話が合いそうー」

 コマチが意地悪く言い、取り巻き女子がどっと笑った。

「うちのクラスで最強のチームかもねー」

 コマチは調子に乗って、紅葉達を冷やかした。


 菊井は冷やかしに、

「やめてーな。咲良ちゃんは桜の花やけど、紅葉は葉っぱやんか」

 と、きつい言葉を吐いた。

「君に言われたくないよ。菊の葉っぱ男が」

 紅葉が菊井には言い返した。


「紅葉。頑張ってね。うちらも応援してるしぃー」

 コマチが取り巻き女子を引き連れて、自分の席の方へ移動した。

 成績が近いコマチは、何かと紅葉を意識している。



「あんなん、構わんでええねん。言わしとけばええし」

 紅葉は憤慨したが、さっさと頭を切り替えた。

「うん」

 咲良は紅葉の冷静な態度を見て、かっこいいと思った。


「ねぇねぇ、相談やけど。お二人さん、やっぱり僕と組みません? 咲良ちゅあーん!」

 菊井がアイドルを追いかけるように話しかけ、

「組まないよ。ごめんね!」

 と、咲良にきっぱり断られた。


「ゲヒッ。沈没ー」

 菊井が机に沈み込んだ。





 咲良と紅葉が東寺に来た。


「あの五重塔の、古びてくすんだ、黒っぽい木の感じが好きー。影絵みたいになるやん。特に夕焼けに映える。被写体として最高ー」

 と、紅葉が絶賛する。



 東寺は真言宗、創建は平安京に遷都して間もない頃。

 広い敷地に、金堂、五重塔など、国宝の伽藍(がらん)が並ぶ。

 新緑の庭園の向こう、美しい五重塔が見える。


 東寺は国宝と重要文化財が山のようにあるので、彼女達はまずそれらを見てから、お目当ての五重塔の写真を撮りに行った。


「ピサの斜塔ほどちゃうけど、少し傾いてへん?」

 紅葉が首を傾げ、五重塔に角度を合せてみた。

「夜景もええわ。空が藍色になって、一番星が出て、月が五重塔の横に並んだら最高ー」


 ご機嫌の紅葉がスマホを下げ、咲良に言う。

「茨木童子は門に()んでいる、って物語があるねん。あれ、見て」

 紅葉が南大門を指す。


「うん、鬼が棲めそうな気もするね。雰囲気あるよね」

 咲良が切妻の大屋根を見上げた。


「…この南大門は他から移築された門なんやて。古い門は焼けてしもた…。さっき、羅城門(らじょうもん)毘沙門天(びしゃもんてん)像が展示されてたやん。あれは本当に、平安時代の羅城門にあったわけ」

 紅葉は東寺を出て、道の向かい側から南大門の写真を撮った。


「渡辺綱と茨木童子が一条戻り橋で出会う話と、羅生門(らしょうもん)で出会う話があって。羅生門、つまり羅城門やけど、そのすぐ東にあったのが、東寺。この辺りは途中から寂れて、鬼の物語の舞台になった…」

 東寺を出て、西側の細い道に入った小さな公園に、羅城門跡の石碑がある。



「復元された平城京の朱雀門は知ってる? 東寺の南大門と羅城門はそれと同じような、朱塗りの重層の楼門やった。…で、鬼が棲むのはなんで門なんやろ? と、思うやん。…門という場所自体が、異界との境界のイメージなんかなぁ…」

 二人はしばらく東寺の南大門を見詰め、物語を想像した。


 咲良は楼門の屋根に、鬼が降りてきたところを思う。



 鬼は朽ちた身に、渦巻く鬼火をいくつも引き連れ、長く伸びた足の爪を瓦に食い込ませて立つ。

 波打つ獅子髪、顔は鬼ではなく、人の顔。

 額から、つららのように細く尖った角を生やす。

 片方の目は矢傷で失われている。


 破れた狩衣(かりぎぬ)が、風に吹かれて揺れている。

 ひゅううるる…、風が唸っている。


 鬼が屋根から身を乗り出し、軒下を覗き込む。

 渡辺綱はいない。

 そこに、咲良がいた。


 咲良は長い髪を束ねている。

 小袿(こうちぎ)を着て、紅の長袴(ながばかま)を履いている。

 彼女と鬼の視線が合う。


「咲良…、咲良…。久しいのぅー。あれから、千年経った。…おことに会いたかったぞ……」


 鬼の声が、風の唸りとともに耳に入って来る。

 その鬼の顔が、咲良を攫おうとしたマナブに似ている…。




「鬼で思い出したけど。紅葉ちゃん、まだ捕まってないんだよね。あのナイフの男の人…」

 咲良が、写真を撮り続ける紅葉に言った。


「あいつのことは、早く忘れた方がええ。あんまり思い返すと、トラウマになるよ」

 紅葉は言葉に嫌悪感を込めた。

「あんなヤツ。野良猫や鳩を切り刻むうちに物足りんようになって、人間を切りたくなるんかな? どういう心理なんやろ。情けないって、自分で思わへんのかな?」


「紅葉ちゃんみたいに、強い人ばっかりじゃないからね…」

 咲良はマナブに切られた、手の傷跡を見た。 


「現代の鬼なんだよね…。あの…マナブ…って人、何があったんだろ?」

 咲良は悲しそうに言った。

「何があったとしても、あんなことするのはクズなの」

 紅葉が言い切った。


「鬼はいつの時代でも、どこにでもいる。人間の影に入り込んで、ずっと後ろをついて来るんや」

 紅葉が言い、咲良もそう思った。


「紅葉ちゃん。私が居合をやったら、鬼切を盗んだ高校生と、どこかで会うかなぁー?」

「あの男の子見つけても、証拠がないと警察に突き出せへん。鬼切のゲンブツがないと」

 紅葉は悔しそうだった。



 彼女達は話しながら、東寺駅まで歩いた。

 今日は居合道の道場を見学に行く。

 電話で申し込んである。


「今日見る道場がもし良さそうだったら、紅葉ちゃんも一緒に居合やらない?」

 咲良が誘い、紅葉は首を横に振った。

「私、小学校の頃、剣道を少しやってたんよ。おにぃみたいに強くなれへんかったし、途中でやめてしもた…。剣道、向いてへんかった。私は負けず嫌いとちゃうから」


「へぇー。紅葉ちゃんが剣道を…?」

 咲良は意外に思った。


「居合、きっと面白いと思うよ。良さそうなら、頑張ってみて」

 紅葉が咲良の背中を押し、改札に入った。 





 見学する道場の前に到着した。

 地域のスポーツ施設を借りているが、まだ新しくて清潔、しかも冷暖房完備。


「おにぃが評判聞いた中で、ここが一番オススメらしいんやけど」

 紅葉が建物を見た。


 十代後半から幅広い年齢層で、十数人来ている。

 全員、姿勢が美しく、背筋がシャキッとしている。

 襟元もピリッと締めて、真面目で身だしなみがいい。

 彼等は大きな鏡の前で、全員揃って居合型の稽古をやっていた。


「あれは昇段審査と試合の課題になる、基礎的な型です」

 と、感じの良い師範が説明した。

 咲良は何だか、下鴨神社で見た古武道と違うと思った。

 居合なのにゆっくりで、動きは美しいけれど、やたら停止する。


「試合も昇段審査も、減点方式ですからね。速さより、正確さが大事です。うちの道場に通えば、基礎からしっかり身につきますよ」

「私でも出来ますか? 運動神経鈍いんですけど」

 咲良はそこが不安だ。


「大丈夫ですよ。丁寧に指導します。私がいない時でも、弟子がちゃんと指導してくれますよ。次はうちの流派の型をお見せしましょうか?」

 師範は弟子に、古い時代に成立した居合型をやらせた。

 古流は体さばきが複雑で、速い流れで動く。


「型を練習すれば、誰でも強くなれるんですか?」

 咲良が素朴な質問をした。


 師範は身を乗り出し、

「型をそのまま実戦に使うことはありません。言ってみれば、型は上達する為の動き、足運びなどを学ぶ、色々なエッセンスをギュッと閉じ込めたソースなのです。目指すところはその先にあり、型がゴールなのではありません」

 と、微笑んだ。

 咲良も納得した。


「居合をする若い女性は、年々増えつつありますよ。最初のうち、模擬刀と木刀はお貸しします。模擬刀は女性用の軽いものもあります。誰でも出来ると思いますよ」

「へぇー、そうなんですか?」

 予想したほど、月謝も高くない。

 彼女はホクホクした笑顔で礼を言って、道場を出た。



 紅葉が出口で、咲良を待っていた。

「咲良ちゃん、どうする? 中学生が一人も居なかったし。しかも、八割が男の人やったね…。六十代の貫録ある先生で…。大丈夫?」

「優しそうな先生だったよ。紅葉ちゃんはどう思う?」


 咲良に感想を聞かれ、紅葉は言い難そうに、

「私が言うたらあかんやろけど…、剣道に比べたら…迫力がない…」

 と、言った。

 剣道の強豪校に通う、兄の試合を見慣れている。


 現実の殺し合いがなくなった現代の居合道は、どちらが強いのか、演武を採点して勝ち負けを決める。

 剣道の一本勝ちは、傍目にわかりやすい強さのルールだ。


「そっか。でも、駅から近いし、先生も良さそうだし、私、ここに入門しよう。決めた!」

 咲良は紅葉と逆に、気に入った様子だ。

「うん…。咲良ちゃんには悪くないかもね…」

 咲良の運動神経を思えば、この道場みたいに、丁寧に教えてくれそうなところがよいかも知れない。



 二人は乗換駅まで一駅分を、ぶらぶら歩くことにした。

「勉強わからへんとこあったら、うちに来たらええよ。おにぃにカテキョさせるから」

「うん、ありがとう…。あれ?」

 咲良は駅前の商店街で、周囲をキョロキョロし始めた。


「どこかで、木刀の打ち合いやってる。下鴨神社でやってたみたいな、組太刀の音だ」

 咲良は奇妙なことを口走った。

 商店街が賑やかで、紅葉には何も聞こえなかった。


「咲良ちゃん、どこ行くの?」

 咲良が直感で角を曲がり、木刀の音を頼りにズンズン歩いていく。


 線路沿いに、別のスポーツ施設があった。

 掲示板を見ると、曜日によって空手、剣道、居合道などをやっているようだ。

 今日は既に終了。


 咲良は建物の裏手に、勝手に入って行く。

 林に囲まれた薄暗い神社に、小さな(ほこら)手水(ちょうず)がある。

 駐車場の奥には、古ぼけた瓦屋根の木造倉庫があった。


「ちょっ…、こんなとこで居合やってるわけあらへんし…」

 紅葉が慌てた。

 しかし、その頃には紅葉の耳にも、木刀を激しくぶつけ合う音が聞こえてきた。





「しゅとーん部」

 倉庫の入口に掛かっていた看板の、不思議な名前を咲良が読み上げた。


 入口は開いたまま。

「すみませーん。あのー、見学したいんですけどー」

 度胸が半端ない咲良が、倉庫を覗いた。


 すると、打ち合う音がやみ、静かになった。

 紅葉も咲良の背中越しに、中を覗いた。



 先刻行った道場より狭い、汚い、臭い。

 冷暖房もない。

 全身を映す鏡もない。

 あるのは、正面に大きな神棚、広い板間が一つ。

 まるで時代劇のセットみたいなボロ道場が、倉庫の中に隠れている。


 古さがわかる黒ずんだ板壁。

 穴が開いた床板、歩くだけでギシギシ鳴っている。

 ボコボコにへこみのある、傷だらけの木刀が壁に並ぶ。


 これは、妖怪が棲んでいそう。


「見学なんて、うちはやってないから」

 二十五歳ぐらいの男が、入口まで出て来た。

「あっ」

 咲良と紅葉が同時に叫んだ。

 彼は下鴨神社の古武道奉納に出ていた、(あさひ)だった。



「旭、可愛い女の子やったら見学させたげてやー」

 太い声がした。

「でも…」

 旭が戸惑った。


「居合が見たいの? 表の建物の方で居合やってますから、そっちに問い合わせてもらえますか? こっちは男だけ。特別な稽古なんで」

 旭が断ってきた。


「ええー!? なんでダメなんですかー!?」

 紅葉が聞き返した。

 咲良は好奇心いっぱいで、倉庫の内部を窺っている。



 合計、男四人。年齢はバラバラ。

 旭に指示しているのは、幕末の写真から抜け出たみたいな、短い顎髭(あごひげ)のサムライ。

 年長の二人は髪を一つに束ね、若い二人は前髪をちょんまげみたいに結んでいる。

 襟をヨレッとだらしなくはだけ、袴を捲ってすね毛丸出しの者がいる。


 施設が新しく、身だしなみ完璧だった先刻の道場と、全てが大違い。


「ここはね…、正規の道場と違うんです。月謝もない。師範もいない。昇段も関係ない。剣術好きな人が集まって、幕末みたいな荒稽古をしてる。そーゆー無茶苦茶なとこなんです。だから、絶対ムリ!!」

 旭が目の前に立ち、稽古を隠そうとした。


「カッハッハ!! ええよ、旭。見学したら、納得して帰らはるやろー」

 顎髭のサムライが言った。

 見た感じ、四十歳ぐらい。この中で一番年上。


「お邪魔します」

 即座に、咲良が靴を脱いで上がり込んだ。


「俺は山上主計(やまがみかずえ)。こっちのトボけた絵師が、酒井。これが高校三年の隆一(りゅういち)で、それが旭。旭は表の道場にも行ってる。他にも若いのが何人かおるけどな…」

 山上が他のサムライを紹介した。



 紅葉が隆一を見て、驚いた。

「あー!! 隆一くん!!」

 ナイフの男を追いかけて行って逃げられた、R高剣道部の副将。

 彼は紺の剣道着を着ている。


「蘇芳は来てへんで、紅葉ちゃん。俺はここでストイックに修業して、蘇芳に勝つ!」

「えー。おにぃは、居合やると剣道が下手になるって言うてたよ。全然ちゃうものやから、剣道の試合で勝てなくなるって…」

 紅葉が隆一を心配して言う。


 けれど、山上は、

「そうでもないで。本来、剣道と居合と両方やるべきなんや」

 と、言った。


 隆一は、

「今は剣道をメインにやってる。居合は週に一回、土曜の夜だけ。部活引退したら、俺はここで本格的に居合をやる。刀の使い方とか、人を本当に斬る技術を身に付ける。蘇芳の知らんことを。その時、俺は蘇芳に勝ったも同然や!」

 と、白い歯を光らせた。



 酒井は一人、壁に凭れ、スケッチブックに鉛筆で下絵を描いていた。

 何やらブツブツと、独り言を漏らす。

 推定三十歳。

 顔は男前だが、無精ヒゲを生やす。

 居合道着の襟をはだけ、すね毛丸出しに袴を捲って、帯に挟んでいる。


 酒井は急に紅葉を振り返り、

「知ってるよ、R高の蘇芳くん。妹さんも強いのかな?」

 と、聞いた。

 その顔には、鉛筆の黒い汚れが付いている。


「私は剣道やってません。居合もやりません。友達の咲良ちゃんがやるの」

 紅葉が数歩下がって、酒井から逃げた。



「しゅとーん部って、何ですか?」

 咲良が山上に尋ねた。

「これは部活みたいなもんよ。我等、しゅとーん部。ヒント。東雲(しののめ)と書いて、とーーん」

 山上はへらへら笑い、胡坐(あぐら)をかいた。


「居合をやると、護身術に使えますか?」

 マナブにナイフで襲われた、咲良らしい質問だ。

「初心者が刃物相手にすんのは、やめといた方がええな。走って逃げるのが一番。護身術やるより、陸上やらはった方がええ」

 山上はざっくばらんに語る。


「すごく強くなったら、例えば…、鬼とかにも勝てますか?」

 咲良が奇妙な質問をした。

「カッハッハ!! 変わった子やな!! 何と闘うつもりなんや?」

 山上は大笑いした。



「呆れるほど、変人ばっかり。それになんか、この道場、めっちゃ男臭い」

 紅葉は倉庫の中を見回した。

 夏は猛暑で蒸し地獄、冬は隙間風が吹き込んで、体育館より寒いだろう。

 さっきの道場の方がよい。

 ここは師範すら居ないのだから。


「咲良ちゃん、やめとこ。稽古相手、君の苦手な男の人ばっかりやねんで。男の人と打ち合いなんか、無理。こんなとこ、怪我するわ。男の人と女の子じゃ、筋肉もスピードも違うんやから。力で吹っ飛ばされるだけ!」

 紅葉が咲良を引っ張った。


「そう。見てかはったらええ。型の真似だけで居合と言うなら、誰でも出来るけどな」

 山上が言った。


「型がいくら上手くても、二人一組で対戦したことない人は、出来てるつもりで出来てへん。動かへん物を斬るんとちゃう。相手は動く。まず、届かなあかん。向こうも斬りかかってくる。防御も間合いも、実際にやらな、身に付かへん。ほれ、旭。隆一。本物目指して稽古してるとこ、見せたれ!」

 山上が足の裏をボリボリ掻きながら、顎で指示した。


「はい、山上さん」

 旭と隆一が(さや)付き木刀を帯に差した。

 鞘付き木刀を使っている道場は珍しい。

 咲良はワクワクした。



 礼をした後、旭と隆一は互いに睨み合いながら、間近に寄った。

 一歩立ち上がるとぶつかる距離で、片膝を立てて腰を下ろした。


「この距離で引いて抜き合うから、居合やで」

 山上がニヤニヤした。

「始め!!」


 瞬間、旭と隆一が引きながら抜刀して打ち、木刀が鋭くパンッと鳴った。

 そこから続く打ち合いは速過ぎて、咲良には殆ど見えない。


 音が不規則に鳴り続けた。

 旭と隆一の位置は、目が回りそうなほど速く変わった。

 二人はさっと開いて互いに中段になり、動きが一度停まった。


「お互い、手の内はわかってる。剣道と一緒や。ここからは読み合い…」

 山上が豪快に笑った。


 紅葉は咲良より、動体視力がよい。

「へぇー…。旭って人、本当にすごいかも……」

 紅葉は旭の動きを、目で追い続けた。


 隆一は居合を始めてそんなに経たないので、動きはもろに剣道だ。

 直線的だが、剣道のスピードと瞬発力をちゃんと生かしている。

 旭は剣道に居合を重ねたキャリアが、結構長い。両方の良さを持つ。


 旭と隆一が停止していた状態から、いきなり数回打ち合った。

 咲良がちゃんと見たのは、最後の瞬間だけ。

 旭が隆一の首に木刀を突き付けた状態で、勝負が終わった。



「呆気ないやろ。これでお終い」

 山上が立ち上がった。


「紅葉ちゃん…。私、ここの道場でやってみたい…」

 咲良が眸をきらきら潤ませて言った。

「えー!!」

 旭と紅葉が同時に叫んだ。



「何年ぐらいで、そこそこのレベルになれるんですか?」

 咲良が改まって正座し、山上の背中に問うた。


「槍は一年、剣は十年て言うてな。旭で、剣道と居合を足して十二年。大抵、そこそこまで十年かかる。それでも、やってみる?」

 山上が振り向いた。

 彼もまさか、咲良が土下座しているとは思わなかった。

「よろしくお願いします!!」

 

「やるの? へぇー」

 山上が面白そうに受けた。


「は? 山上さん?」

 息を弾ませた旭が、山上を睨んだ。





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