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参陸 鬼志願者


 屋根にブルーシートが掛かった廃屋。

 塀は瓦が落ち、漆喰が剥がれ、土が見えている。

 庭は草がぼうぼうに生えて、屋根の上で麒麟草の黄色い花が咲いている。


 男は周りを見回しながら、ロープを乗り越え、敷地に侵入してきた。

 玄関の格子戸のガラスが割れ、中が見えている。

 土が被った上り口に、自転車のサドルが落ちている。


 格子戸は僅かに開いていて、壁に張り紙がしてある。

「鬼志願者 面接会場」

 と、汚い字で書かれている。


「あった…。本当にここでよかったんだ…。嘘みたいだ…」

 男は怪しみながらも、中に入っていった。


 男が戸を開けると、埃が舞い上がった。

 上り口から廊下の奥に向かって、黒いシートが敷いてあった。

「面接会場」の張り紙に、奥へ向かう矢印が付いている。

 そこから先は空気が違うみたいで、ひんやりとしている。

 外の、蝉が騒がしい蒸し暑い夏と、隔絶された空間が待っている。



 男はシートの上を歩き、昼でも薄暗い廊下を進んだ。

 蜘蛛の巣が顔にかかった。

「ぺっ…」

 男は顔に引っかかった蜘蛛の巣を手で払い、「待合室」と張り紙された部屋に入った。


 廃屋の、かつては和室であったと思われる場所。

 雨戸が壊れ、ガラスも割れて、天井から空が覗き、直接光と風が入る部屋だ。

 腐った畳に草が生え、柱にキノコが生え、鴨居には野鳥がとまっていた。



 既に三人の先客がいて、用意されていたパイプ椅子が埋まっていた。

 先客はマスクをしたり、パーカーのフードを深く被ったりして、互いに目を合わせないようにしていた。

 四人目の男は隅に立ち、庭を眺めて順番を待った。


 大きくなり過ぎたソテツが、庭を狭めて視界を塞ぐ。

 茂った草むらのゴミだらけの庭と、塀の穴を塞ぐ板、その向こうは…普通の路地である。

 一ブロック先に大通りがあり、近代的な高層ビルがあるはずだ。


 男は緊張してきて、落ち着かなかった。


 一人ずつ呼ばれて、隣の板間へゆく。

 黒いカーテンで仕切られているのも、魔女の占い部屋みたい。

 面接官らしき若い男の声が、ボソボソと聴こえてくる。


 一人ずつ面接を終えた者が帰っていき、また新たな訪問者が来て椅子に座る。

 男は意地を張って、平気そうな顔をしていた。

「次、どうぞ…」

「はっ…、はい…」

 男は驚いて跳び上がった。

 そして、やたらぺこぺこしながら、黒いカーテンを捲った。





「熊井です、よろしくお願いします…」

 男が頭を下げ、面接官を上目に見た。

「熊男さんね。はい、お座り下さい」

 若い面接官が真っ暗な部屋の中央で、テーブルに肘を着いていた。


「あの、熊井…なんですけど」

「はい、熊男さん。今回はご応募ありがとうございました。エントリーシート拝見して、厳正な審査の上、一次選考通過者のみ、本日面接をさせていただいてます…」

 面接官は早口に言った。


 少しずつ、暗さに目が慣れてくる。

 熊井は面接官の前の椅子に座り、相手をちらちらと見た。

 汗が噴き出した。


 面接官は痩せた長身の男で、顔色は青白く、唇は紫がかっていた。

 長めの前髪を掻き上げると、片目側は黒く窪んで、闇が宿っている。


「あの、…本当に…鬼の方なんですか…?」

 熊井は上ずった声で質問した。

「そうですよ」

 面接官はあっさり認めた。


「本当に…鬼の面接なんですよね? 普通に求人出てて、驚いたんですが…」

 熊井はおずおずと尋ねた。

「そうですよ。やはり時代に合わせたやり方で、鬼のなり手を募集しなくちゃ。ご心配なく。誰でも出来る、簡単な仕事です。年齢性別、学歴は不問。人間を襲って驚かしたり、殺したりするだけの仕事です…」

 面接官はすらすら答えた。


「じゃ、まず、応募の動機を窺ってもよろしいですか? 熊男さん」

「はい…。その、私は昔から…一度、誰か人間を殺してみたいと思っていたもので…」

 熊井はもじもじしながら話し出した。

 しかし、話しているうちに、彼は興奮してきた。


「別に、誰にも恨みとかないんですよ。ただ、殺して、死体を処分してみたいんですよね。薬品で溶かしたり、凍らせて砕いてみたりしたいですね。腹の立つ相手はたくさんいますよ。近所のうるさいジジィとか、スーパーで見かける変なヤツとか、前の職場の上司とか、よく行く飲み屋で常連のオッサンとか、全部殺してやりたいですね。別に理由はないんです。殺してみたいだけなんです」


「なるほど。それは立派な応募動機だと思います」

 鬼の面接官は頷いた。

「熊男さん。どんな人間をどう殺してみたいか、もう少し詳しくお願い出来ますか? もし鬼に採用されたら、どんな仕事をしてみたいですか?」


 熊井は悩みながら、面接官の質問に答えようとした。

「…世の中には、不要な人間がたくさんいると思います。自分に見合った底辺でおとなしくしてりゃーいいのに、無理していい大学に入って、いい会社に就職しようとするから、奴等はストレスで壊れてしまう。いい迷惑なんです。どいつもこいつも大したことないのに、他人に尊敬されようとして、親切めかしたり、知ったかぶったりしている。つまらない奴が多い。私はそういう不要なゴミを一掃したい。私達をいじめて成績を稼いでいる警官を殺したり、学校の妄執教師どもを殺したり、バカ学生どもを殺したり、偉そうな店員を殺したり、社会の足を引っ張る底辺どもを始末したい…」


 面接官は頷いた。

「あなたはクソですね。完全にクズです。…ええ、合格です。採用しましょう」


「本当ですか!?」

 熊井は嬉しくて、思わず面接官の手を握り、その冷たさに驚いて手を放した。


 面接官は汚いものを触ったみたいに、熊井に握られた手をスーツの表面で拭いた。

 面接官は口を歪めて笑みを作り、

「鬼になると、多少外見が醜くなりますが、その点は大丈夫ですか? あと、給料は一切、お支払い出来ません。フレックスタイム制ですが、残業手当、ボーナス等もありません。仕事の制限やノルマはありません。報酬は全て、自分で捕まえた人間の血、肉、魂があなたの自由になるということだけです…」

 と、囁いた。


「いいじゃないですか。充分です。ハハハ、言い忘れましたが、世のイケメンどもを殺してやりますよ。ええ、私はイケメンとか呼ばれて調子に乗ってる奴等が大嫌いなんです。それと、自分を綺麗だとか、カワイイとか勘違いしているドブスども、殺しまくってやりますよ。あの程度の顔で、自分をカワイイとか勘違いしてるのは許せません…。あの程度の顔で…」

 熊井が唾を飛ばして言う。


「あなたにはシビレますね、クズ過ぎて…」

 面接官が手を叩いた。


「では、早速、この契約書にサインを」

 面接官が出した真っ白の紙に、熊井は名前を書き込んだ。

 急ぎ過ぎて、字が乱れた。


「どうやって、鬼になるんですか?」

 サインしてから、熊井は焦ってきた。

「ああ。注射みたいなもんですよ。いや、注射より痛くないと思います」

 面接官がテーブルの下から、怪しげな小箱を取り出した。


「失礼ですけど、その目はどうなさったんですか?」

 熊井は面接官の片目について、質問した。

「これは鬼に食わせたんですよ。私が鬼になる時に…。でも、あなたは目を差し出す必要はありません。ほんの一滴、血をくれればいいんです…」

 面接官が小箱を開く。


「血を一滴…? それぐらいなら…」

 熊井は注射かと思い、シャツの左袖を捲った。

「熊男さん。何日で鬼に覚醒するかはわかりません。個人差があります。もし途中で鬼になるのが怖くなったら、ご連絡下さいね…」

 面接官の開けた小箱には、グロテスクな小鬼が入っていた。


「あっ…」

 熊井が嫌悪感を感じ、とっさに身を引いた。


 猿と熊と何か異形の獣を混ぜ合わせたような、とても醜くおぞましいもの。

 糞尿に似た悪臭が漂った。


「キシェー!!」

 小箱の中の小鬼が唸り、熊井を威嚇(いかく)した。

 小鬼が躍り出て、熊井の左手の指に噛み付いた。


「うわっ!!」

 熊井が小鬼を払い除けた。

 面接官は落ち着いている。

 小鬼を箱に追い戻し、封をした。


「これで、鬼の力はあなたのものです。熊男さん。存分に人間を殺して下さい…」

 面接官が囁き、熊井はふらふらしながら、廃屋から出た。





 半日経つと、熊井は後悔し始めた。


 あんなものは嘘だ。

 鬼なんて、いるわけない。

 自分は騙されたんだと思う。

 お金を取られたわけじゃないから、まあいいけど。


 あの小箱の気持ち悪い生き物は何だったんだろう。

 悪魔のフィギィアみたいだった。

 それがキィキィ鳴いていた。



 熊井の全身の毛穴から毛が逆立つ感じがした。

 ぞわぞわ、寒気がした。

 夏なのに寒くて仕方ない。血が冷えていく。

 熊井は一人でいるのが心細くなって、マンションの外に出た。


 通りを観光客が歩いていく。

 生命の輝きに、生き生きと輝きながら、家族と互いに笑みを交わしながら。

 熊井は自分が影に覆われたように、孤独を感じる。



 熊井は停車しているパトカーに近付いて行き、警官に話しかけた。

「空き家で勝手に商売してるヤツがいるんですよ…。おまわりさん、あんなの放置していいんですかね…。いや、私は通りすがりで、そいつと関係ないんですけどね…」

 クズの熊井は、その日のうちに鬼を売ろうとしていた。


「どんな商売を?」

 無精髭を生やし、髪を一つに束ねた警官が聞き返した。

 しゅとーん部の酒井だ。


「こんな長髪のサムライみたいな警官、京都府警にいるのか?」

 熊井は心の中で呟いた。

「おまわりさん。鬼の面接ってのを、空き家でやってるんですよ。あんなのに応募する奴は、頭がいかれてると思うけどね…。実際、マトモじゃないでしょ…」

 と、話した。


「鬼の…面接ぅー!?」

 酒井は熊井に詰め寄った。

「そこ、すぐに案内して下さい。不法侵入で現行犯逮捕してやる。鬼も、鬼になりたい奴も…!」

 酒井のすごい剣幕に、熊井の方がびびった。



 パトカーが廃屋に着いた。

 熊井はパトカーを降りると、怯えたように大通りに後ずさりした。

「じゃ、私はこれで…」

 彼は逃げようとしている。


 酒井はもう一人の警官と熊井に頼んだ。

「五十嵐、おまえは裏口に回ってくれ。熊男さん、あなたはここで見張ってて下さい。俺は玄関から入るから、何かあったら大声で教えて下さい…」

 熊井はもう立ち去りたくて、

「すんません、私はちょっと用事が…」

 と言いかけ、酒井に睨まれた。


 酒井の迫力に()され、熊井は渋々、玄関の前で立っていた。

 酒井の相棒が庭を通って、建物の裏に回る。

 夕暮れに見る廃屋は、とても不気味だ。


 酒井が玄関を上がると、埃まみれの廊下に敷かれた黒いシート、たくさんの靴跡が付いている。

 酒井は鼻をヒクヒクさせ、匂いを嗅いだ。

「マナブ…か」

 彼は目を細め、前方を見詰めた。




「クソ。あんなとこ、戻ってたまるか…」

 熊井はじりじり下がり、やがて大通りに駆け出した。

 しかし、急に胸が痛くなって、路地にしゃがみ込んだ。

 心臓の発作ではなかった。

 何か、胸に穴が開いて、急に内側がスカスカになっていくようだ。


「お、俺の内側が…空洞になってゆく…」

 熊井は自分の内側に広がる、藍色の闇を感じた。


 熊井は次第に怖くなり、廃屋に入って、酒井を追いかけた。

「おまわりさん…。一人にしないで下さいよ…」


 廊下の先の暗がりから、酒井の優しげで力強い声がした。

「そこで待ってて下さい、熊男さん。もし俺に何かあったら、京都市内の東雲(しののめ)神社って小さい祠と鳥居を捜して、そこの社務所兼倉庫の、しゅとーん部って看板出てるとこで、俺の仲間に伝言をお願いしたい…。酒井はマナブを追いかけてったと…。後はよろしく頼む、と……」


「しゅとーん部? 何の話ですか?」

 熊井は胸を押さえ、空虚感に震えながら、奥へ進んだ。

 建物は先刻より、長く廊下が伸びているみたいに思う。

 そろそろ、「待合室」の紙が貼られていた場所に着きそうなのに、まだ着かない。

 酒井との距離も、微妙に開いていくようだ。




 その頃、五十嵐巡査は草を掻き分け、廃屋の裏口に着いた。

 母屋の土間と、右手に離れの便所、風呂、左手に古井戸があった。

「怖ぇー」

 五十嵐巡査は震え、古井戸の側を通り抜けた。


 彼は建て付けの歪んだ、ガラスの割れた戸を外し、廃屋の中へ入った。

 蜘蛛の巣が張っている。

 長いこと、誰も住んでいない。



 いきなり、ガタガタ物音がした。

 誰かが戸を開け、奥から出て来た。

 スーツ姿の身なりもこぎれいな若い男、ビジネスバッグを肩から掛けている。


「あれ…?」

 五十嵐巡査は目を瞬かせた。

 想像していた侵入者や空き巣と、イメージが違う。

「どうしたんですか?」

 スーツの男が五十嵐巡査に尋ねた。


「空き家で勝手に商売している人がいると、通報があったんですが…」

「そうですか。私はここの地権者の関係者です。今度、建物を解体して、土地を売ることになりまして。私は代理人です。お勤め、ご苦労様です…」

 若い男は会釈し、堂々と警官の前を通り過ぎようとする。


 五十嵐巡査は、若い男が靴を履いたまま土間へ降りてきたことに気付いた。

「地権者の身内の方が、靴を履いたまま中に入りますかね?」

「これだけ埃で汚れてますからね。どうせ解体するんだし」

 男は次々と嘘を並べた。

 五十嵐巡査は嘘を見抜くことが出来た。

「嘘ですね? 身分証明書を見せて下さい」


 マナブは前髪を掻き上げ、片目の闇を見せた。

(ぼくら)の証明は、他にない…」

 藍色のガス火に似た炎が、眼窩から1センチぐらい出ていた。



「うっ…、どういうトリックですか?」

 五十嵐が引く。

 マナブは五十嵐に顔を寄せ、

「つまらない詮索はこのぐらいにしましょうよ…。急いだ方がいい。警官を殺したい鬼志願者と、人を食い殺しかねない鬼警官が、一つ屋根の下にいるわけで…」

 と、囁いた。


「どういう意味ですか?」

 五十嵐が唸った。

「それとも、ここで僕を取り調べるのもいいですよ…。僕は差し(つか)えない。…ほら、こんな商売です…。死体から漏れた怨念と糞尿から生まれた小鬼…」

 マナブがビジネスバッグから小箱を取り出し、蓋を開いた。


 五十嵐が小箱を覗き込んだ。

 心が正しく清らかな五十嵐には、汚れたものが見えなかった。

 悪臭が鼻を突いただけだ。


 しかし、一瞬後、彼の右手の人差し指から血が出た。

 針で刺したような傷が二つ。

「痛っ…」

 血が滲み、赤い風船のように膨らんで、五十嵐の指から滴った。


「あなたは小鬼に噛まれました…」

 マナブが囁く。

 余りに気持ち悪くて、立ち竦む五十嵐。

 マナブはその場から、煙のように消え失せた。


 五十嵐は慌てて、土間から座敷へ上がり込んだ。

 蜘蛛の巣もお構いなしに、暗い迷路を突き進む。

「酒井さーん!! 酒井さーん!!」

 五十嵐の右手の傷が、ズキズキ痛んだ。





「おまわりさーん!! お願いだ、一人にしないで下さいよー!!」

 熊井が壁をドンドン叩いた。

 酒井は壁一枚隔てた隣室にいた。


「何か、嫌な感じですね。俺はこういう迷路に、前にも入り込んだことがある…。熊男さん、ありがとう。あなたの話は本当でした。ここは鬼の棲家みたいです…」

 酒井が壁越しに感謝を述べた。


「私が嘘を言うもんですか。こう見えても、正直者の熊井、正直過ぎて損ばかりしてるほどですよ」

 熊井は嘘を言った。

 何か喋ってないと、静寂で恐ろしさが増す。


 熊井は吐き気を感じた。

 胃が縮んでいく感じ。

 がっと吐いた。


 ちょっと前に食べたミックスフライ弁当。

 チキンカツとトンカツとクリームコロッケとエビフライの、揚げ物ばかりのこってりした弁当だ。

 彼が吐き出したカツが胃液で溶け、半分どろっとしている。

 それをグロテスクな小鬼達が、キッキッと鳴きながら食っている。

 彼の体内で、既に小鬼が増殖していた。


「うわわぁっ!!」

 小鬼を見て、熊井が後ろの壁までひっくり返った。



「どうしたんですか!! 熊男さん!!」

 酒井が反対側から壁を叩いた。


 酒井は拳で、自分の膝を叩いた。

「クソッ。熊男さんが鬼に襲われてるっぽいのに…」

 歯痒く思った。

 酒井は拳銃を抜いた。

 果たして、この弾丸がマナブ相手に通用するか。


 酒井は自宅のアトリエに残してきた絵のことを考えた。

「雨音は…うちに来るかな…? それとも…旭が先に見るか…。あの雷神の絵…、雷神が抜け出してしもた…」

 ぶつぶつと呟く。

「熊みたいな爪の…」

 酒井は絵から抜け出した雷神の、醜悪で恐ろしい姿を思い出した。


 突然、吐き気を催した。

 酒井は唾を吐き出し、床に膝を着いた。

 頭がガンガン鳴って、痛みに気が狂いそうになった。

「またや、この偏頭痛……」

 酒井は自分の中の鬼を怖れた。


 自分がまた一つ、何か別のものへ近付く。

 醜くおぞましい何かへ。

 ぞっとする。


「クソッ。俺は一般市民を守らなアカン。俺の命なんて、どうでもええ…」

 酒井は頭痛を堪えて、立ち上がった。

 迷路は遠回りした方が、目的の場所に早く着くかも知れない。

 酒井はあえて、熊井の声から遠ざかった。

 銃を握り締め、前方に向けて構えながら、とにかく正気を保つのに必死だ。


「熊男さん、今、助けに行く…」

 酒井は熊井の為に力を振り絞った。




 熊井はゲホゲホと咳き込み、小鬼を周囲に撒き散らした。

 吐いても吐いても、彼の中で小鬼は増殖していく。

 猿と熊に似ている。そして、ヘビのような尻尾がある。

「キィー、キィー」

 小鬼はとんでもなく醜い。

 これが今後の熊井の姿を象徴しているんだろうか。


「すんませーん。私、やっぱり、鬼になるのやめまーす…」

 熊井が泣き言を言った。

 怖いし、臭くて汚くてみっともないし、こんな鬼になるぐらいなら人間でいた方がましだ。

 鬼になれば、たくさん人を殺して罪悪感もないだろうし、いろいろ清々すると思った。

 しかし、二度と人間に戻れなくなるのだ。


 暗闇に、あの面接官からの返事はない。

 きっと、もう後戻り出来ないのだろう。



 熊井はだんだん自棄(やけ)になってきた。

 こうなったからには、いっそ最強の人食い鬼にでもなってしまおうか。

 まずは、あの警官から殺してやろう。

 そう思うと、全身に力が(みなぎ)ってきた。

 凶悪なことを考えるほど、楽しくなって余裕が出た。


 あの親切そうな警官の、束ねた髪を引っ張って、頭を首からもいでやろう。

 熊井はニヤニヤした。

 手の指を摘んで手首まで裂き、一本ずつ裂いて十本まで終わったら、足の指も裂いてやろう。

 もし途中で命乞いしてきたら、

「これが鬼になるということだ」

 と言って、頭を踏ん付けてやろう。

 屈辱的に殺してやろう。


 考えるうち、どんどん熊井の顔が小鬼の容姿に近付いていく。



 その時、近くで銃声が聞こえた。

 熊井は真ん前に酒井の気配を感じた。

「ま、ま、待って下さい…。私です、熊井です…。お、鬼に襲われて、あ、あの、小鬼まみれで…」

 熊井は手をかざし、しどろもどろの言い訳をした。


 酒井が荒い息をしていた。

「はぁ、はぁ、はぁ…。熊男さん、その小鬼達から離れて下さい…。はぁ、はぁ、小鬼の元を断ちます。…すぐ近くに、親鬼がいるはずです…」

 酒井の震える指がトリガーに掛かっている。


 熊井は銃に(おび)え、急速に力が()えていった。

「た、助けて下さい、おまわりさん…。私を撃たないで…。私は鬼じゃない…」

 熊井の両目からダラダラ涙が流れた。


「わかってます、熊男さん…。鬼はそこに…」

 酒井の銃が左を向く。

 そこには古い鏡台があった。

 一枚の姿見が、銃を構える酒井の全身を映し出していた。


 醜く変貌しつつある酒井を。


「鬼…!!」

 熊井が酒井を見て、呟いた。


 酒井の顔が黒ずみ、閉じた唇から牙が四本はみ出ていた。

 酒井は頭を殴られるような痛みを感じ、鏡を正視できなかった。

 彼は当てずっぽうで、鏡に向かって二発目の銃弾を発射した。





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