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参伍 絵から抜け出た雷神


 紅葉はふらふらしながら病室を出た。

 意識のない蘇芳はどんどん衰弱していく一方で、このままでは危ない。

 彼女は精神的に参った。


 エレベーター前の長椅子に座って放心していると、スマホが鳴った。

「もしもし?」

 紅葉は電話に小声で答え、裏階段から病院のロビーに降りた。


「紅葉ちゃん? 今、話しても大丈夫?」

 電話は咲良だった。

「咲良ちゃん…」

 紅葉は胸がいっぱいで、言葉に詰まった。


 咲良はいつものペースで、おっとりと話した。

「今ね、蘇芳さんの魂を飲み込んだ鬼を見つけたんだけど、捕まえ方がわからないの。雷神の子供なんだけど。仁和寺の五重塔が、落雷で燃えてる…」

「仁和寺にいるの?」

 紅葉は病院の玄関から、西の空が暗くなっているのを見た。


「咲良ちゃん。雷は電気やからね。感電せーへんように捕まえてね。20万アンペアとか、すごい数字やった気がする。あ、でも、子供ってことはそれほどでもないんかな?」

「電気かぁ…」

 咲良は紅葉の言葉を受けて、考える間を置いた。


 咲良の沈黙の向こうから、別人の怒鳴り合う声が聞こえてきた。

「咲良ちゃん、誰が鬼と戦ってるの?」

 あんまり咲良がのんびりしているので、紅葉は不思議に思った。

「うん。山上さんと旭さんが斬り合ってる」

「えっ!? なんで!?」

 紅葉が問い返したが、突然電話が切れた。





 咲良は電話を切り、山上と旭の戦いを眺めた。


 山上は神剣・東雲を隠すように脇構え。

 旭は勝手に動く日本刀に引き摺られ、山上に斬りかかる。

「旭、やめろ!! 御神刀に傷が付いたらどうする!?」

 山上は切り結ぼうとせず、逃げ回った。


「僕にはどうしようもないですよ!! 刀が勝手にー!!」

 旭は巧みな剣術もそっちのけで、ひたすら刀を大振りした。

 彼はわかってないけれど、背後にべったり張り付いた鬼の玉雷が、旭の手を操って刀を振り回している。


 玉雷の剣術は稚拙で、山上は白刃をうまく避けた。

「そっちも俺の刀なんやで。旭、もう折らんといてくれよ…」

 刀は高価なので、山上は刀の心配をしている。

 しかし、それより切れ味を心配するべきだ。

 少し掠っただけで服を裂き、鼻でも耳でも斬り飛ばす。


「うわぁー、滅茶苦茶だ…」

 旭は刀に振り回され、足が追い付かず、参道を滑って転びかけた。

 刀が先走り、旭の腕が伸びきって、どこまでも引き摺られた。


「くそっ」

 山上は神刀を足元に置いた。

 姿勢を低くして旭の右腕の外側に回り、旭の肘を取った。

「旭、まだおまえには負けへん。年は食ったけど」

 山上は素手で真剣に立ち向かい、旭の肘を巻いて蹴りを入れた。

「うぁっ」

 旭は空中で回転して地面に落下した。


 鬼は舌打ちして、旭から離れた。

 勿論、これで終わりではない。



 咲良は燃え上がる五重塔を見上げ、

「天の神様、仁和寺の仏様。どうか、雨で火を消して下さい…」

 と、祈った。

 だが、雷雲は仁和寺の上を通過し、雨が次第にやんでいく。

 咲良の持つ神泉は雷雨を呼ぶ刀だが、山上の持つ東雲は晴れを呼ぶ刀なのだ。


 五重塔の屋根には、玉雷が落ちて飛び散った火花から小鬼が生まれて、オレンジ色の炎となって駆けまわっている。

 真っ黒の煙が濛々と空へ昇っていく。



 コマチは俯き、小刻みに震えていた。

「コマチちゃん、大丈夫?」

 咲良が声をかけたら、コマチは、

「ダイジョウブ…」

 と答え、鞄から裁ちバサミを取り出した。


「え、なんでハサミ…、どうするの?」

 咲良が驚いた。

「次ハ、こまち…。コノ女ノ子ガ戦ウンダヨ…」

 コマチがロボットみたいな話し方をした。

 長い髪が雨で乱れていた。

 コマチが裁ちバサミを持ち上げ、咲良を見て、にんまり笑った。

 異様な感じがした。


「あっ、コマチちゃ…」

 咲良は一瞬にして、凍った。

 これはコマチじゃないと思った。


「死ネ。殺シテヤル。友達二殺サレテシマエ…」

 鬼がコマチの口を借りて、囁いた。

 コマチの目の色が変わっている。

 白目が黒く、黒目が白い。



 鬼がコマチに憑りついた。

 山上と旭も、すぐに異変に気付いた。

「咲良ちゃん…」

 旭は地面に手を着き、ぜいぜいと息を切らしていた。


 鬼はコマチの内部に入り込み、彼女の意思に反して体を操った。

 コマチが鬼の形相で、裁ちバサミで咲良に襲いかかった。

「きゃあっ…」

 咲良は慌てて、大木の後ろに逃げた。


「待テェ…!」

 コマチが髪を振り乱し、咲良を追いかけた。

 咲良はうまい具合に楓の木の周囲を回り、鬼の執拗な攻撃を防いだ。


 鬼は咲良を傷付けることが出来ずに、

「フフフ、可愛イ顏ヲシテル。コノ子ハ顔ガ自慢ナンダネ…」

 と、裁ちバサミを持ち替え、コマチの顔を傷つけようとした。


「やめろ!!」

 山上が怒鳴った。

「やめて!! コマチちゃんの顔を切らないで!!」

 咲良が悲痛な声で叫んだ。

 義父に顔を殴られ、骨折したことのある咲良。


 裁ちバサミは長い刃に露を煌めかせ、ざっくり人間の皮膚を裁つ威力を思わせた。

 ナイフよりリアルで怖かった。



 鬼は一笑に付した。

「咲良、止メルナヨ。君モ本心ジャ、コノ子ヲ憎タラシク思ッテタンダロ? こまちハコンナニ可愛クテ、くらすノ男子モ、優シイ神谷先生モ、カッコイイ雨音クンモ、当然私ノモノ…ト、思ッテル。…君、こまちガ…ウットオシインダロ?」

 鬼がコマチの頬にハサミの先を付けた。


「思ってないよ!!」

 咲良は即座に否定した。


「ワカルヨ…。こまちハ道場二、雨音クン目当テデ来ル。君ハ真面目二稽古シヨウトシテルノニ、横デウルサイ。…ソリャ、ウットオシイヨネ。こまちナンカ、酷イ目二遭エバイインダ……」

 ハサミの先がコマチの右耳に触れ、ぷつんと音を立てた。

 皮膚一枚裂け、血が滲んだ。


「思ってないよ、やめてよ…!!」

 咲良は泣きそうになった。



 その時、石畳を全力で疾走する靴音が二つ、聞こえてきた。

 誰もが振り返った。

「咲良ちゃーん!!」

 雨音と雲林院が、五重塔の参道に駆け込んできた。


「雨音!! おまえ、何やってんねん!! なんで連絡付かへんかってん…!!」

 山上が雨音の顔を見て怒鳴った。

 しかし、微笑んでいた。

「雨音、遅いだろ!! 寝てたのかよ!?」

 旭も目を吊り上げ、怒鳴った。


「へぇ…」

 雲林院は好奇心いっぱいの様子で、燃える五重塔と、参道にへたばる彼等を見比べた。



 コマチは片目だけ細め、恐ろしく口を歪めて、

「来タネ、源次…」

 と、囁いた。

 雨音は無言で鬼切を抜く。


「雨音くん!! コマチちゃんを斬らないで!!」

 咲良が叫んだ。

 雨音が菊井を斬ったことを思い出す。


 雨音は鬼を見据え、そろそろと間合いを詰めていく。

 鬼を斬ろうという気迫に満ちている。


「源次。頼光ノ魂ハ、モウ僕ノ胃袋ノ中ダ…。次ハコノ女ノ子ヲ食ウ…。コノ子、本当二君ヲ好キナンダッテサ。今、僕ノ中デ、君ノ声ヲ聞キ、君ノ姿ヲ見テル。是非、君ガ斬リ殺シテヤリナヨ…」

 鬼が挑発した。

 鬼はコマチの耳を、今度は本当にスパッと裁ちバサミで切った。

 鮮やかな血が滴った。


「…蘇芳さんの魂を、返してもらう…」

 雨音は低い声で呟いた。


「雨音くん、やだよ。お願いだよ。コマチちゃんの首を斬らないで…」

 咲良が雨音にすがった。

 雨音は咲良を乱暴に振り解き、片手で突き飛ばした。

 咲良は参道に転んだ。


 咲良はそれでも、

「聞いたでしょ!? コマチちゃんは雨音くんを好きだって。それでも殺すの!?」

 と、突っかかった。

「関係ない。蘇芳さんは恩人だ。義理がある」

 雨音は腰を落として低い体勢になり、前に跳び出した。

 彼は鬼の正面から突っ込んだ。


 雨音の鬼切が、コマチの細い胴を薙ぎ払おうとしている。



 コマチは鬼の支配の下、全部見ていた。

「雨音くん、鬼ごと私を斬り殺すの…? 前は命がけで、鬼から助けてくれたのに…」

 コマチは鬼の中で、しくしく泣き出した。



「雨音、止まれ!!」

 誰かが叫び、雨音はコマチを叩き斬る直前で、刀を止めた。

 寸止めどころか、ほんの数ミリ手前だった。


 声の主は山上だった。

「雨音!! 俺の言うことがきけへんのか!?」

 山上が怒鳴ると、雨音は静かに刀を引いた。

 山上は緊張し、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。

 雨音は鬼を睨んだまま、立ち尽くした。



「来ナイノ!? ジャ、僕ガコノ子ヲ殺シチャウヨ…!?」

 鬼が裁ちバサミの先をゆっくりと、コマチの喉元へ動かしてゆく。

 コマチは鬼の白目、大きな口でげらげら笑いながら、自分の白い喉を反らせ、尖ったハサミを付けた。



「き、君達、何やってはるの!?」

 仁和寺の僧らしき人達が駆けつけ、五重塔を見上げた。

「ああっ!!」

 彼等は世にも不思議な光景を目の当たりにした。


 巨大な鬼が燃える火の手を、五重塔の屋根に巻き付けている。

 大鬼は炎と同じ皮膚の色、全身に鬼火が渦巻いて赤い毛波のようになっている。

 大鬼が塔の屋根を少しずつ砕いていく。

 炎には小鬼達が飛び跳ね、踊っている。



 咲良は覚悟を決めた。

 咲良自身がコマチの肩に、神泉を突き付けた。

「コマチちゃん、鬼から自分を取り戻して!!」


 咲良は片足のスニーカーを脱ぎ、ゴム製のソールを神泉で貫いて、ゴム部分を手に握っていた。

「玉雷、私は感電しない。おまえの電気は金属の刀に吸い取られてしまえ!!」

 咲良が呪詛のように言い渡した。

「ヒイッ…」

 鬼が息を飲んだ。


 咲良が神泉を引くと、鬼がずるずるっと、コマチの肩から引き出された。

 磁石に引かれる鉄のように。


 咲良が鬼を捕まえた。


 コマチの肩から突き出た、鬼の首。

 コマチは自分の体の自由を取り戻した。


「う…。これが、鬼…」

 彼女はハサミを肩上に突き上げ、鬼の前歯を割った。


 コマチはハサミをぐっと開き、玉雷の口をこじ開けた。

「よくも、私の体を乗っ取ってくれたね…。許さへんから!」

 コマチは耳を切られた分を、自分でやり返すつもりだった。

 ぐいぐいと玉雷の口をこじ開けた。


「雨音、ええぞ。今や!! 鬼の首を落とせ!!」

 山上がコマチの脇の下から腕を回し、後ろからがっちりと支えた。

 その間、咲良は神泉を回転させ、玉雷を神泉に巻き取っていく。

 玉雷はどんどん引っ張り出され、祇園祭の稚児のような着物の胸あたりまで、コマチの肩から出た。


「はい。でも、その前に」

 雨音は玉雷の口に指を突っ込み、白くネバネバした餅みたいなものを引っ張り出した。

 蘇芳の魂だ。


 雨音が玉雷に触れると、青白い雷光が閃いて、バチバチ鳴った。

 彼は平然として、指を玉雷の喉まで突っ込んだ。


 雨音は溶けかけた餅みたいなものを、自分の指に絡め取っていった。

 そして、道着の帯に挟んでいた、コンビニのビニル袋を出して、蘇芳の魂を入れた。

「そんなとこに入れる?」

 山上は目を丸くした。


 雨音はビニル袋を帯に挟み、鬼切を構え直した。


 玉雷はじたばたと暴れた。

「源次。卑怯だぞ…」

 鬼が泣き言を言った。


 コマチは玉雷に、

「何言ってんの。卑怯なのはそっち。あんたが死ねってば!!」

 と叫んで、裁ちバサミで玉雷の喉をちょん切った。


「ぐはっ…」

 玉雷の喉から、藍色の血がダラダラッと滴った。

 コマチの額に、生温かい血が勢いよく垂れた。

 視界が藍色に染まり、彼女は嫌悪感に悲鳴を漏らした。


 玉雷はふがふが言った。

 最早、声は聞き取れなかった。


「コマチちゃん、頭下げてて!!」

 雨音が鬼の裂けた喉を突き上げ、脳幹まで貫いた。

 コマチはギラギラ光る真剣を下から見上げ、恐ろしくて硬直した。


 玉雷はのけ反って、ビクビクと痙攣した。

 やがて、力尽き、一瞬で燃えてしまった。


 コマチの服の上に、鬼の灰が散った。



「ひゃー、はぅー。ひゃー、はぅー」

 五重塔を燃やしていた大鬼が、悲しみ惑う声を轟かせた。

 炎の小鬼達も声を合わせた。

 仲間が死んだ。

 落雷以上の大音響に、仁和寺の僧達は失神した。


 大鬼が小鬼の群れを連れ、空へ飛び上がる。

 流れてゆく雲を掴み、最後に一つ、一番上の屋根に大鬼の足跡を残した。

 五重塔を足場にして、大鬼は空へ蹴り上がった。



 五重塔の火が消えていた。

 既に表面は焼け焦げ、ひどく壊れていたが、何とか修復可能だろう。




 雨音は山上に深々と頭を下げ、

「勝手して、すみませんでした。紅葉ちゃんとこ行ってきます。蘇芳さんの魂を戻しに…」

 と、言った。

「車に乗れ。みんなで行こう」

 山上が荷物を抱え、急いだ。


「雨音ー。俺、遂に鬼が見えたっ…。今のでかいヤツ、空に昇ってくところ…」

 旭が浮かれていた。



 帰りの車の中。

 雨音は咲良からハンカチを借り、鬼の血で汚れたコマチの顔を拭いてやった。

 力いっぱいゴシゴシと、デリカシーもない拭き方だが、彼の優しさは伝わった。

 雨音はコマチの耳の怪我の、応急処置をした。


 咲良は気まずい思いで、二人を見ていた。

 雨音がコマチを殺す気なのかわからないのに、咲良は言い過ぎた。

 雨音はいつもドライな態度を取るけれど、本当は仲間思いの人なんだと思う。





 紅葉は蘇芳の枕元に突っ伏して、いつの間にかうたた寝していた。

 気が付いたら、横に咲良がいた。

 雨音が来ていた。

 コマチ、旭と山上もいた。


 薄暗い病室。

 既に夕方。



 雨音は紅葉の知らない、雲林院を連れていた。

 雨音は紅葉に微笑みかけ、

「もう大丈夫だよ、紅葉ちゃん。待たせてゴメンね…」

 と、ビニル袋を取り出した。


 彼は蘇芳の口から酸素マスクを外し、顎を引いて、ビニル袋に入ったペースト状のものを押し込んだ。

「それ、何?」

 紅葉は不安げに見た。

「紅葉ちゃん、これが見えるの? 人間の魂だよ。量が少しだから、回復に時間かかると思うけど。全部消化される前でよかった…」

 雨音がにこにこした。

 紅葉と雨音が見詰め合い、何となく笑った。



 蘇芳の中へ、魂が吸収されていった。

 血色が少しよくなり、呼吸が少し大きくなった。


 蘇芳はまだ意識を取り戻さなかった。

 雨音はかなり安心したようで、雲林院を促し、先に病室を出た。

 咲良は涙が出て来て、止まらなかった。

 その場にいた者が全員笑顔で、温かく蘇芳の寝顔を見守った。


「みんな、ありがとう…」

 紅葉が咲良とコマチに抱き着いて、涙をぽろぽろ零した。


 廊下に出た時、雨音が、

「紅葉ちゃん。蘇芳さんが目を覚ましたら、伝えてくれる? しゅとーん部で待ってます、って。どうしても蘇芳さんが必要なんだ。一緒に来て欲しい…。危ないことだらけになるんだけど」

 と、申し訳なさそうに言った。


「雨音、俺も手伝うよ。出来ることがあれば」

 雲林院が言った。

「歓迎するよ」

 山上が手を差し出し、雲林院と握手した。





 雨音が酒井の家を訪ねてきた。

 昨夜、着信が何回も入っていたからだ。


 蘇芳の魂を取り戻した後、雨音が酒井に電話をかけたが、応答無かった。

 警察の勤務中なのかも知れない。


 雨音は酒井の帰りを待つ為、一人で彼のアトリエ兼自宅に来た。

 駐車場に酒井の車はあった。

 でも、ドアホンをいくら鳴らしても、酒井が出て来ない。

 見れば、窓が開いている。


「警官なのに、酒井さん、不用心だな…」

 雨音はそっとアトリエの方へ回った。

 彼はドアを激しく叩いた。

「酒井さん!! 雨音です!!」

 ドアが揺れた。


 ドアの鍵がかかってなかった。

 雨音は不審に思った。


「入りますよ、酒井さん!」

 嫌な予感がして、雨音がアトリエに侵入した。

 照明が消えていたので、スイッチを押した。

 その日のアトリエは綺麗に片付けられ、酒井にしては掃除がよく出来ていた。



 あちこち見て回ったけれども、酒井はいない。

 ドアを開けたまま、窓を開けたまま、車を残して、酒井が消えてしまった。


「突然、散歩にでも出たのかな。あの人、気紛れな芸術家だからな…」

 雨音は勝手に納得して、壁に飾られた数々の作品を見て回った。

 最近描いていたものは、どれも鬼をテーマにしている。

 不気味で怪しげな、おどろおどろした色彩の暗いものが多い。


 ぶちまけられた内臓のような、冷蔵庫の中の腐った肉のような、気持ち悪い絵がある。

 雨音は最近の酒井の精神状態を心配した。

 こんな気持ち悪い絵ばかり描いてて、彼はまともな状態でいられたのだろうか。

 忙しい合間を縫い、絵ばかり描いていた酒井。

 独身で一人暮らし、しゅとーん部の他は人と付き合いもしていない。


「うーん、芸術って…難しいな…」

 雨音は絵の前で、首を捻った。


 次の絵の前で、雨音は立ち止まった。

 おかしなことに、絵の中央に大きな空白がある。

 とても大きな絵で、壁に立てかけただけで、額もない。

 一番新しい作品のようだ。


 これが酒井の言っていた、鬼の絵だろうか。

 満足する出来栄えで、雨音に見せると話していた。


 背景はよく描けている。

 夜空、暗い谷間、灰色の鳥居がぼんやり浮かんでいる。

 空には雲が渦巻き、ムンクの叫びのような、気持ち悪い歪みがある。

 精神のバランスの崩れかけた人が描いたような、独特の妖しい雰囲気を表現している。

 表現しているのは、マナブであったり、鞍馬寺の怪異であったり、彼の内面の不可解さであったりする。


 しかし、主役がないのだ。

 肝心の鬼がいない。

 輪郭はある。

 空に向かって、藍色の流星の尾のようなものが引かれている。

 藍色の光に包まれた人型の空白がある。


「これ…?」

 雨音が空白に手を触れた。


 パシッ、と何かが弾ける音がして、電気のヒューズが飛んだ。

 部屋が一瞬で、真っ暗になった。



 雨音は気付いた。

 絵の中にいたはずの、鬼がいない。

 絵の空白の部分には、本物の鬼の気配が残っていた。


「酒井さん…!? 酒井さん…!!」

 雨音はパニックに陥りながら、酒井の気を追った。

 酒井の気配は途絶えていた。


「絵から…鬼が抜け出た…!? そんなはずない…。絵の中の鬼が…」

 雨音は数歩、絵から後退した。


 彼は窓際に駆け寄った。

 月明かりが窓を照らしていた。

 窓枠に一つの掻き傷があった。


 でかい熊が爪で引っ掻いたような、真新しい傷跡だった。





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