参弐 雷神の子
1
夜中、咲良の祖母・トキが目を覚ました。
住職である咲良の叔父は一階で寝起きして、咲良と母親と祖母の三人が二階に部屋を持っている。
咲良の母親は看護師で、今夜は夜勤の為、不在。
咲良の部屋から話し声と、黒い妖気が漏れ出てくる。
「この気配は…」
トキは廊下に出て、そっとドアを押し開き、細い隙間から咲良の部屋を覗いた。
暗闇の中、咲良がベッドでうなされている。
彼女の枕元に、誰かいる。
闇の塊。
人の頭の高さ辺りに、もやもやと浮かぶ、白い霧。
「鬼だ…」
トキは心臓が止まりそうなほど驚いた。
闇の中に浮かぶ白いもやもや、女の顔のようでもある。
ぎょろっと丸い二つの眼だけが、はっきりわかった。
血走った白目で、黒目が小さい。
人形に嵌め込まれたガラス質の眼を思い出した。
鬼の眼が、トキを見た。
トキはその瞬間に、金縛りに落ちた。
動けない。汗がたらたら流れていく。
トキの目が暗闇に慣れてくると、鬼女のばさばさの髪が長く広がり、部屋の中を蜘蛛の巣のように張っているのがわかった。
鬼女はだらっと手を垂れたままで、咲良の枕元で、延々と何か怨みごとを呟いていた。
咲良は汗をびっしょりかいて、必死にもがく。
「痛い…、痛い…」
彼女は奥歯をきつく噛み合わせ、歯軋りして唸った。
彼女は何かを払い除けようとするように、手で腹を触っていた。
そこに小さな鬼火が一つ、浮かんでいた。
「胎児…」
トキは感じ取った。
咲良は薄い夏用布団を蹴り、じたばた暴れた。
痙攣を起こすようにのけ反り、ピクピク震えた。
「咲良が危ない…」
トキは焦った。
「きゃああ!」
咲良の悲鳴が、トキの耳に届いた。
夢の中、鬼女は皺だらけの老婆になり、胎児を胸に抱いて、咲良を何度も包丁で刺した。
「嫌だっ…」
咲良は何度も、夢から起きようとした。
目覚めなければ、もうすぐ死ぬと思った。
トキが咲良の夢の中に入って来た。
「何故、おまえがここにいる? 孫を救う為なら、命も投げ出して、身代わりになろうと言うのか?」
鬼女が憎々しげにトキを睨んだ。
「おばあちゃん!! 逃げて!!」
咲良が叫ぶ。
鬼女は泣いてる胎児を、トキに投げた。
ホンギャア…、胎児が泣きながら牙を剥き、トキに飛びかかった。
トキは、
「堪忍やで。恨まんといてな」
胎児をびしっと平手で叩き落とした。
「咲良、目を覚まし。朝やで!!」
トキが言った。
「嘘だ。まだ夜は明けぬ…」
鬼女は狼狽え、東の窓を見た。
黎明の光は未だ訪れぬ。
しかし、鬼が去った。
咲良は夢から目覚めた。
彼女はパジャマを汗びっしょり濡らし、荒い息で祖母を見た。
祖母は枕元で、咲良の手を握った。
「怖かったか。もう大丈夫、あの鬼は二度と出て来ぅへん」
「なんでわかるの?」
「人間に騙されて、驚かされたんや。鬼は恥ずかしくて、出て来れへん」
祖母が言うと鬼も人間味に溢れていて、咲良は思わず笑った。
「おばあちゃん。私、死ぬかと思った…」
「死ぬわけあらへん。ちょびっと怖い夢を見ただけや。魔に勝つには、力で勝つ以外にも方法がある。ほんまにくじけそうになった時、形勢を逆転する言葉があるねん。言葉って言うのは、えらい力を持ってる。逆に、その場をあかんようにしてしまう言葉もある」
と、トキが呟いた。
咲良は知りたがった。
「どんな言葉なら勝てるの?」
「一番あかんのは、あーあ、とか、クソとか、しまった、とか、チッって、要するに舌打ちやな。運気を下げてしまう、最たるもの。失敗した時に失敗をギリギリセーフに変えてくれる言葉もある。あーあ、って言う前にな、大丈夫、まだイケる、って言い直すねん。そしたら、ほんまに何とかなる。言葉が形勢を変えてくれる」
「それ、魔法の言葉? 何にでも使えそう」
咲良は灯りを点け、体のどこにも傷がないことを確認した。
「魔は言葉に弱い。覚えとき」
トキが咲良に伝えた。
2
夏休みになって、数日後。
蘇芳は剣道部の更衣室にいた。
薄暗い更衣室に、ただ一人。
ロッカーから荷物を全部取り出し、名前を抜き取り、鍵を付けたまま扉を閉める。
溜息が零れた。
高校最後の夏、思うような成績が残せなくて、とても悔しかった。
部室を出ると、雨音が待っていた。
「何の用や? 雨音…」
蘇芳はわざと、雨音にスポーツバッグの角をぶつけて、側を通り過ぎた。
「お疲れ様です」
雨音は体育会系らしい礼をして、先輩を見送った。
「おまえは退部したんやろ。顏出すな」
蘇芳は背中を向けて言った。
二人はそのまま、無言で廊下を歩いて行った。
雨が降り出す直前の、不快な湿度がピークに達している。
「そう言えば…、紅葉が部屋に剣道着を干してたけど、あいつ、しゅとーん部に行ってんの?」
蘇芳が雨音に尋ねた。
雨音は少し困った。
「あいつ…、あんなに行くなって言ったのに。しゅとーん部には関わるなと…」
蘇芳が舌打ちした。
彼は廊下の真ん中に立ち止まった。
「しゅとーん部なんかに関わるから、隆一も……」
蘇芳は頭を振り、また早足に歩いた。
「しゅとーん部、あそこの空気は合わへん。…ちょっと鬼の気配がしてる。おまえか?」
「鬼はどこにでもいます。…最近は、僕の方に寄って来ます」
「雨音はいつから鬼が見えるの?」
「東京にいた時から。昔からよく見てます。誰にも話したことないけど」
「鬼って、何なん?」
蘇芳は、インコの頭を食いちぎった紅葉の顔を思い出した。
「…蘇芳さん、もし、たまに竹刀振りたくなったら、しゅとーん部に…」
「行かへん」
蘇芳は冷たく断った。
「俺、居合ってわからんねん。刀振り回しても演武ばかりで、武道と言える? それもな、言っちゃ悪いけど、剣道に比べたらめちゃ遅いって言うか…、技と技の間、あの長い間の置き方は何なん? 瞑想でもしてんの? そんなん、すぐに殺られてしまうやん?」
蘇芳は剣道大会の時に、居合道の演武の試合を通りすがりに見て、批判的に思っていた。
「剣道は完璧な一本でないと、審判に旗上げてもらえないじゃないですか。武士に卑怯な人間は存在しない前提で、…まさか頭を傾げて面を避けて、完璧な当たりじゃないから一本じゃないと言う奴がいるなんて、想定してなかった。…もし真剣だったら、そんなの、袈裟斬りで死亡なんですけど」
雨音が考えながら話した。
「蘇芳さん。剣道は竹刀で、防具も着けてるから、ガンガンぶつかってガンガン打ち込めるわけで。真剣だったら、ちょっと掠っても指が飛ぶし、やっぱり慎重にギリギリの一太刀を狙うことになると思います…」
「そうかな」
蘇芳は口を尖らせ、不満げだった。
「一本に価値を持って、追い求める剣の道だから、剣道はかっこいいと思う。オリンピック種目になるべきじゃないって、みんな言ってました。海外の常識が異なる人に、武士道を理解してもらうのは難しいですよね?」
「みんな、って誰のこと? しゅとーん部の奴等か? うちの剣道部か?」
蘇芳が聞き返した。
「雨音。俺、紅葉と咲良ちゃんが心配やねん。おまえ、あの二人に関わらんといてくれる?」
蘇芳が命令するように言った。
「はい…、わかってます…。僕、必要以上に話しかけないようにしてます。二人とも、すごく可愛いけど、好きにならないようにしてる。蘇芳さんがきっと…怒るから…」
雨音はおどおどした。
雨音は肩から居合刀のケースを掛けている。
そこには、鬼切が入っている。
蘇芳は刀ケースをじっと見た。
「蘇芳さん、聞きました? 最近、校内に鬼が出たらしいんですよ」
「鬼ー? 知らんけど。そんな話」
「剣道部の二年の雲林院が見たんですよ。あいつ、同じクラスなんですけど。部活の帰り、急に雨が降り出して、雷が鳴って…、雷が落ちるのを見たそうで。次の日学校に来たら、サッカーゴールの近くに…鬼が立ってたって……」
雨音の話を聞き、蘇芳は爆笑した。
「雲林院瑛太郎!? あいつは普段から寝ぼけ過ぎや!! いつも、菓子パン食ってるか、ヨダレ垂らして寝てる」
雨音は苦笑した。
「そうですね。…でも、ちょっと気持ち悪い話なんです。雨の中、他に誰もいないグラウンドに、傘も差さずに小さな子供が立ってる。小学生ぐらいに見えたんで、おかしいと思って、雲林院が目を擦ってよく見たら…、子供の頭に一本の角が生えてたって…」
雨音が真剣に話しても、蘇芳はますます爆笑した。
「ええけど。暇やし、雨音に付き合うたるわ」
蘇芳がグラウンドに向けて歩き出した。
3
ちょうど日が沈む。
空が曇っているせいか、昨日の夕方より暗かった。
部活に来ている生徒達が、グラウンドに元気な声を響かせていた。
「雨降るぞ」
誰かが言い出し、サッカーボールを蹴りながら、屋根の下に入って来た。
芝生の上にぽつぽつと雨が散る。
彼等は後片付けを始めた。
雨音と蘇芳はグラウンドの隅に立ち、サッカーゴールのゴールポストを眺めていた。
「紅葉に憑りついた鬼、隆一を食い殺した鬼、咲良ちゃんを襲った鬼、マナブ…。俺は紅葉を守りたい…。鬼って、どんな姿してんのか、見れるもんなら見てみたいな。それで、隆一の仇を取りたい…」
雨音は上を向き、降ってくる雨粒を仰いだ。
「そうですねぇ…。僕が最初に鬼を見たのは…六歳頃…。人間の姿をしてたんですよねぇ…」
雨音は記憶を振り返った。
十一年前。
雨音の父親が死んだ。
白木の棺の中の父親は穏やかな表情で、ただ眠っているように見える。
雨音は父の死が信じられなくて、お通夜の後ずっと棺を覗き込んでいた。
彼を産んですぐ母親が死んだので、彼には兄弟もいない。
親戚が関西にいるらしいが、付き合いは殆どない。
天涯孤独。
真夜中二時頃、黒と白の幕の後ろから、誰かが出て来た。
そこは壁だと思っていたのに、不自然なところから出て来たので驚く。
「遊ぼう…」
小さな男の子が呼びかけてきた。
夜中の二時に子供がいるわけないのに、雨音は年が同じくらいのその子に親近感を抱いた。
「今はダメだよ…。お父さんが死んじゃったんだ…。でも、もしかしたら、まだ目を覚ますかも知れない。それを待ってるんだ…」
雨音が訳を話すと、謎の子供は彼を引っ張って、
「公園に行こう…」
と、誘ってきた。
見れば、男の子は古びた生地の着物姿だ。
しかも、その着物が濡れている。
「どこの子なの? 遅い時間だから、家まで送ってくよ…」
雨音はお通夜に来た人の子供かと勘違いして、その男の子を玄関へ連れて行った。
二人が玄関まで来た時、ドアがひとりでにすーっと開いた。
雨音がびっくりしていると、濡れた男の子は雨音の腕を引っ張って、裸足で玄関を出た。
「遊ぼうよ…。鬼ごっこしよう…。僕が鬼。君は逃げるの。僕が君を捕まえたら、殺して食べてもいい…」
雨音の背後で、玄関ドアが閉まる音がした。
雨音も裸足で、家の外に出ていた。
その時の嫌な感じ、雨音は忘れないだろう。
追われる恐怖。
逃げなければ殺される、その危険な空気をぴりっと感じたのだ。
彼は必死に走った。
無我夢中で走り、途中、赤い鳥居を見つけ、参道へ飛び込んだ。
小さな稲荷社だ。
彼は賽銭箱の後ろにしゃがみ、ぶるぶる震えた。
「見ぃ…つけたぁ…。出ておいでよ…、お尻が見えてる…」
男の子が鳥居の外から手招きした。
その男の子の頭に一本の角があり、男の子の歯が二本尖って長かった。
雨音は出ようとしなかった。
男の子はけらけら楽しそうに笑う。
男の子の地味な着物から水が滴り、水溜りが出来る。
その水溜りに、男の子の半身がブクブクと沈んでいく。
男の子の目の下に、薄紫の斑紋が浮かんだ。
男の子は薄紫の長い舌を吐き出した。
舌の先は二股に割れていた。
男の子の目はアーモンドのような形になり、目全体が青白く光った…。
雨音は鈴から垂れた紐にしがみつき、二度三度振った。
じゃらん、じゃらん…、大きな鈴の音がした。
「神様、ちょっと貸して下さい」
彼は祈ってから、賽銭箱の外に落ちていた五円玉を拾って、男の子に投げつけた。
五円玉は操られるように飛んでいき、男の子の燃える目に当たった。
「あっ」
男の子が怯んだ隙に、彼は脇を擦り抜けた。
今来た道を全力疾走し、自宅の玄関に戻った。
そして、中からきっちり鍵を閉めた。
明日になったら、あの賽銭箱に自分の五円を返しに行こう。
…雨音は父親の死に顔も思い出してしまい、ほろ苦い気分になった。
「心にぽっかり穴が開くような感じでした…。そういう時に鬼がやって来るんです。…まるで引き寄せられるみたいに…。鬼も寂しいのかも知れません」
蘇芳は自分の胸に手を当てた。
「俺の胸にも、今…、ぽっかり穴が開いてる…」
蘇芳はゴールポストを見詰めた。
「…おらへんな。鬼、今日はおらへん」
雨音は溜息をついた。
「いますよ。見えないんですか? すぐ近くにいる…」
彼は残念そうに言った。
「どこに?」
蘇芳はきょろきょろして、ゴールポスト周辺に目を凝らした。
雨がどんどん強くなる。
雨が屋根を叩く音が、軒下の二人に響いて聞こえる。
「…いるじゃないですか。そこですよ。蘇芳さんの後ろ…」
雨音が蘇芳の背後を指差し、肩から刀ケースを下ろした。
そしてゆっくりと、ファスナーを開ける。
「は…? 俺の後ろ…?」
蘇芳が少しずつ首を曲げ、背後の様子を窺う。
だらりと力の抜けた子供の手が、蘇芳の両肩に乗り出す。
「う…」
蘇芳が凍り付いて、子供の腕を見る。
死人のような、青白い爪だ。
蘇芳の後頭部に額を押し付け、子供の顔は二人から見えない。
宙に浮いた子供をおぶっているような格好になったが、蘇芳は重さを感じなかった。
半透明の子供の腕が、ひんやりと冷たかった。
腕は青白い光を発し、古過ぎる着物の袂がちらっと見えた。
蘇芳は冷や汗をかき、雨音に向き直った。
「俺ごと斬る気か、雨音?」
グラウンドには、もう誰もいない。
サッカー部は引き上げた。
雷が鳴った。
「まさか…。僕が蘇芳さんを斬るわけないでしょ?」
雨音が別人の顔に変わっていく。
彼にも、何かが憑りついている…。
蘇芳は今、はっきりとそのことを知る。
「斬らせるか。おまえの腕で、俺が斬れるもんか…」
竹刀袋を左手に握り締め、蘇芳が呟いた。
雷光が二人の横顔を照らした。
雷光を合図に、雨音が動いた。
蘇芳も動いた。
雨音が刀袋を投げ捨て、刃長が80センチ以上もある刀を斜めに構えた。
蘇芳は距離を測りながら、袋が付いたままの竹刀を正眼に構えた。
「竹刀で真剣防げないでしょ。僕が斬る時、伏せて下さい、蘇芳さん!」
「信じられるか!? これじゃ、鬼の首と一緒に俺の頭も飛ぶ!!」
二人はじりじり動いた。
雨が軒下に吹き込み、二人はすぐずぶ濡れになった。
「クククク…」
男の子の声が、蘇芳の首の後ろから漏れた。
声に合わせて雷鳴が鳴り響き、空に雷光が閃いた。
蘇芳はぐっと首が締まるのを感じた。
「クククク…。見ぃ…つけたぁ…。僕が殺して…食ってもいい…」
鬼の囁きが、耳元から聞こえる。
「ざけんな…!」
蘇芳が鬼の片腕を掴み、素早く上体を前屈して、勢いで投げ飛ばそうとした。
突然、鬼が重さを現して、蘇芳は押し潰されそうに膝を着いた。
とんでもない重力が来た。
鬼はバチバチと静電気を鳴らした。
「あははっ…、楽しいな…」
無邪気な男の子の声で嗤う。
雨音は目尻を吊り上げ、険しい眸で鬼を睨んだ。
じりじり歩を進める。
「くそっ!!」
蘇芳が拳で、濡れた芝生を叩いた。
鬼は宙に踊り上がり、片腕で蘇芳を吊り下げた。
ごく可愛らしい男の子の顔で、眼と口から藍色の炎が零れていた。
薄汚れた着物が濡れていた。
蘇芳は鬼の顔を見た瞬間に委縮した。
「やぁ、源次ー。元気ー? 久しぶり。そろそろ来ると思ってたー? 来たよ、こっちから。あははっ…」
雷神の子が薄紫の舌で、蘇芳の顔を舐めた。
「これは僕が喰う…。うまそうだ、頼光…」
鬼が飛び立ち、蘇芳が連れ去られる。
「待てっ!!」
雨音が駆けていき、ゴールのサイドネットを駆け上って、ゴールバーを足場にして跳んだ。
「ヤァァッ!!」
剣道場に響くような雄叫びを上げ、雨音が空中で鬼に斬りかかった。
「おっと、危ない」
鬼は雨音の剣をかわし、蘇芳の体を盾にした。
「蘇芳さん!!」
芝生に落ちた雨音は、水飛沫を撒き散らしてグラウンドを走った。
鬼が空高く昇ろうとしている、雷が轟いている。
空は真っ暗で、鉤裂きの閃光だけが走る。
「雨音っ!!」
鬼の腕の中の蘇芳が頭を下にして、竹刀を彼に向かって伸ばした。
袋が解けていって、長く抜けていく。
雨音が思いきり手を伸ばし、袋の端を掴んだ。
袋がすぽっと抜けて、彼の前に落ちた。
「蘇芳さん、鬼を斬るから避けて!!」
雨音がコンクリート製の手洗い場を足場にして、宙に跳び上がった。
刀の先は鬼に届きそうにない。
鬼より、蘇芳の方に近い。
雨音は精一杯腕を伸ばし、半身で反らして可能な限り、遠くを狙った。
両手ではギリギリ届かないところ。
一番遠い間合いで、鬼の腕を斬った。
腕が落ちるほどではなかったが、鬼はつい、蘇芳から手を放した。
墜落する蘇芳の片足が、鬼の着物の袂に引っかかった。
鬼は弾みで、下方向に引っ張られた。
「雨音、来いよ!」
蘇芳が両手を重ねて、雨音のジャンプする足を受けた。
雨音が跳び上がって鬼の肩口に斬り込み、全体重を乗せて深々と切り裂いた。
「はああー!!」
鬼が体勢を崩し、地上に落ちる。
蘇芳が落ちていた竹刀を手にするや、鬼の喉を突いた。
雨音が反対側から、鬼の後頭部から口まで、鉢半分を割るように割った。
鬼がどっと血を噴いた。
鬼の体から電気が放出され、薄暗い周囲を青白い光で照らした。
「見てて下さい、蘇芳さん。こうやって、鬼を殺します」
雨音が鬼の側に寄り、口の中に剣先を差し込もうとした。
「ま、ま、待ってくれ…。殺さないでくれ…」
鬼が哀願し、涙を流した。
頭が半分壊れたけれど、まだ息があった。
蘇芳は複雑な気持ちが内側でせめぎ合い、思わず目を反らした。
雨音はこういう時、容赦しないはずだ。
「殺されそうになったんだから、殺すに決まってるでしょ?」
雨音は冷静に言い返し、鬼の脳幹を貫こうとした。
「クククク…」
鬼が薄笑いした。
雨音が刺し貫いたところに、鬼がいなかった。
「なっ…」
彼は芝生を散らし、草きれを少し舞い上げただけだった。
「…なんで…!?」
雨音は何かの動く気配と、強烈な殺気を真横に感じた。
雨音めがけ、蘇芳が竹刀を振り下ろしてきた。




