参 一条戻り橋の鬼
1
堀川通りに面して、西に晴明神社、東に一条戻り橋がある。
咲良と紅葉は晴明神社前のバス停から、源頼光邸跡へ歩いて向かった。
平安京の大内裏は、北は一条大路から南は二条大路まで。
現在の京都御所は、平安京の大内裏の位置から東にずれている。
源頼光が住んでた一条邸は、一条戻り橋から東に進んですぐ。
以前は小さな石碑が民家の軒先にあったが、現在は撤去されて、紙切れ一枚出ているだけ。
「ちょー…っ!! 石碑が撤去されてしもてるー!! どうなってんのー!!」
パワスポマップに載せる写真が撮れず、紅葉がブチ切れていた。
彼女は泣く泣く、咲良に説明した。
「咲良ちゃん。源頼光の一条邸がこの辺り。晴明神社が安倍晴明の屋敷跡。晴明と頼光は、こんな近所に住んでたんやな! めっちゃ近い! 何、この近距離!?」
と、紅葉の拳に力が入る。
咲良は辺りを見回し、がっかりする。
当時を思わせるものはない。
「咲良ちゃん、今渡ってきたのが一条戻り橋やで」
「へぇー。小さいんだぁー」
白っぽい御影石の平凡な橋が、一条戻り橋のイメージに合わない。
咲良が見た歌川国芳の絵では、太い橋桁が描かれていた。
「せめて、建て替えの時に宇治橋か三条大橋みたいな、高欄に擬宝珠ついた橋にしてほしかったなぁー。これは風情がない。今度平等院行ったら、宇治橋見よな!!」
紅葉が言った。
「安倍晴明と源頼光は、何歳違うの?」
「晴明は頼光より、二十七歳上。渡辺綱は頼光より、五歳年下」
紅葉が資料を読み、計算した。
「こんな話があるよ。藤原氏が自分の孫を即位させる為に、花山天皇を退位させた。花山天皇の出家を警備したのが、頼光達。その政変の夜、晴明は屋敷にいて、一条大路を連れられていく天皇のことを、式神に知らされるという逸話…」
咲良の頭の中に、その光景が絵に変換されて浮かぶ。
夜の一条大路を、松明の火が流れてゆく。
僅かな警護の者に守られて、最も高貴な牛車がゆく。
中には、二十歳にも満たぬ、若い天皇。
出家の為に向かった先は、山科の元慶寺。
式神が月に隠れ、心配そうに成り行きを見詰めている。
松明の明かりが届く範囲は、僅か。
明かりは闇を退けるけれども、光の届かない影には物の怪が潜む。
平安京の夜は、静かで真っ暗だ。
明かりに照らし出される先頭に、頼光と、あのヒゲ面のふてぶてしい渡辺綱がいる。
厳しい表情で、口をへの字に引き結ぶ。
一行が鴨川にかかる橋を渡った。
空の上では、鬼が流れる雲を飛び歩いている。
骨ばった顔の輪郭。
眼孔に目玉が見えず、黒い闇が覗いている。
その黒々とした眼窩から、鬼火のような青白い炎が零れ出ている。
「ふぁー、ふぁー、ふぁー」
鬼が何やら喚きながら、雲を蹴散らして飛ぶ。
雷がガラガラと鳴り、四方に稲妻が散る…。
…と、咲良が空想していたら、紅葉が、
「晴明は花山天皇の依頼で、那智山の天狗を封じたことがあるらしいで」
と、言った。
「天狗も鬼の一種かな?」
「ほな、式神も鬼の一種? この話の晴明は、花山天皇の立場を思って悲しんでるよね。物語では、渡辺綱が鬼の手を切った後、晴明に相談したことになってるけど…」
「晴明と頼光、全然仲良さそうじゃないね」
「わからへん。同時代のご近所さんやから、物語を抜きにしても、実際に会ったことぐらいあるでしょ?」
咲良と紅葉は一条戻り橋に立ち尽くした。
朝から曇っていて、一雨ありそうだった。
北野天満宮行った時も、雨に降られた。
「頼光はどんな仕事してたの?」
咲良が質問した。
「頼光は地方の知事みたいなもん。ギリギリ殿上人やった。綱は官位なし。摂津渡辺(大阪市)に勢力を築いたんで、本当の姓は源やけど、渡辺と名乗ってるわけ。全国の渡辺さんの祖先。頼光と綱は、昔の人にしては長生きしたらしいよ。頼光は享年七十四、綱は七十三」
「嘘…っ…」
咲良は紅葉の資料を疑いたくなった。
「単純に言ったら、ちょうど千年前に生きてた人なんやね。平安時代は疫病にさえならなかったら、結構長生きやで。七十代まで生きた人とか、よくいる。晴明は享年八十五」
「ええ!? それじゃ、現代の男の人の平均寿命を越えてるよー!」
咲良のイメージの中で、晴明は玉手箱を開けたように、白髪の老人になった。
「ほな、晴明神社へ行こか。咲良ちゃん、戻り橋で鬼に会えなくて残念?」
「うん…、そうだなぁ…。鬼切を見てから、私、ずっと鬼のことを考えてる…」
咲良は橋から遊歩道を見下ろした。
「面白いテーマかもな。君は鬼を探してる。また、帰りに寄ろか?」
紅葉が気遣って言った。
2
雨が降り出し、肌寒くなってきた。
「君、どう思う? 安倍晴明は天文陰陽博士やろ。てことは、今で言えば大学教授みたいなもんかな?」
と、紅葉。
「占い師とか、霊媒師なんじゃないの?」
「ちゃうと思う。晴明は陰陽道の研究書を執筆したんよ。ほな、教授やん?」
話すうちに、晴明神社に着いた。
五芒星がついた鳥居、五芒星の行燈、五芒星の魔除けのお札。
五芒星の…、五芒星だらけの神社。
参拝客の年齢層は、他の神社より断然若い。
彼女達は参拝後、パワスポマップの写真を撮影した。
「雨やから、写真がイマイチやな。悔しいわ」
「紅葉ちゃん、雷が鳴ってるよ」
咲良が空を見上げた。
瞬間、空が光った。
強いストロボのように、世界が白くぼやけた。
「うわっ、スゴイ音! 雷、こっち来んのとちゃう?」
雷鳴に、紅葉は身を竦ませた。
晴明神社を出る間際、雨が急に激しくなり、彼女達はバス停の屋根の下に駆け込んだ。
鋼板の小さな屋根で、数人しか入れない。
もう満員。
咲良はバス停から、一条戻り橋の方向を眺めた。
「あ、誰かいる…」
男が一人、黒い雨傘を差し、橋の欄干に座っている。
後ろ姿に気味悪いものを感じ、咲良の表情が暗くなった。
辺りは薄暗くなっている。
風が吹き、雨が斜めに道路を叩いた。
稲妻が連続して光る。
紅葉が咲良に話しかける。
「なぁー、咲良ちゃん?」
雷雨、車の騒音が、紅葉の声を掻き消した。
咲良はひたすら、戻り橋を見詰めている。
「あ…」
戻り橋に座っていた男が振り向き、顔が半分だけ見えた。
見知らぬ男の顔は、病んでいるように青白かった。
前髪は額にへばりつき、目尻が切れ長に上がり、口端が斜めに上がっていた。
歳は十九歳ぐらいだろう。
ガリガリに痩せていて、黒い服を着ている。
男が咲良に気付き、こちらを凝視した。
見てはいけないものを見たように、咲良の心臓の鼓動が速くなった。
男がこちらに向かって、歩き始めた。
歩道を歩いてくる間も、顔はやはり半分しか見えなかった。
傘を斜めに差し、鬱陶しい前髪が邪魔していたからだ。
咲良は目を逸らそうと努力した。
しかし、男の片目に釘付けになってしまった。
男がバス停の数歩手前で、咲良を手招きした。
何故だか、咲良の意志に反して、足がずるずると前へ出る。
男の方向へ、ぎこちない動きで引き寄せられていく。
稲妻と同時に、バリバリと砕けるような雷鳴が轟いた。
ドドーン。
近くに落雷した。
轟音で麻痺した耳に、一瞬の静寂が流れた。
その後、
「ちょっと、咲良ちゃん。どうしたん? 濡れるよ?」
紅葉が慌てて、咲良を呼んだ。
その声で、咲良の呪縛が解けた。
咲良が紅葉の後ろに走って隠れた。
「…も、紅葉ちゃん…!!」
「咲良ちゃん?」
紅葉は何か異変を察し、男の方を向いた。
男は傘から顔半分だけ見せて、紅葉と咲良を睨んでいる。
この世のものか、あの世のものか。
鼻筋が細く高く、顔立ち自体は悪くない。
しかし、一種の妖気を感じさせる。
男の手から、傘が後方に飛んだ。
薄手のコートを風雨に靡かせ、男がバス停に入って来る。
小さな屋根の下、待つ人が数人、身を寄せ合うように雨を避けている。
男はバスを待つ列に割り込み、他の人は眼中にないように、咲良とだけ向かい合った。
「見つけた……。やっと……」
彼がぶつぶつと、咲良に話しかけた。
「僕と同じ目をしてる……。見えるよね、君にも…、…影の中に、蠢く異質なものが……」
彼が咲良の眸を覗き込んだ。
「う…」
咲良は声も出なくなり、紅葉にギュッとしがみ付いた。
「鬼ごっこをしよう…。君がお姫様の役で、僕が鬼…。追いかけて捕まえたら…、殺して食べてもいい…」
男が咲良の眸に、間近から語りかけた。
男が説明したルールに、聞いていた紅葉がキレた。
「はぁ!? 何の話ですか!?」
「怖がらないでよ。怪しいもんじゃないから…。僕は東京から来た…。マナブって言うんだ…。…じゃ、お姫様は逃げて…。早く逃げないと、すぐ捕まえてゲームが終わっちゃう……」
マナブはボソボソと話した。
「何か、この人、危ない…」
紅葉と、バスを待つ人達は思った。
「濡れてる…。風邪引くよ。僕の知り合いが近くにいるんだ…。今から、行かない…?」
マナブがいきなり、咲良の腕を左手で掴み、自分の方に引き寄せた。
「嫌だ…!! わ、私…、お姫様じゃ…ない…!!」
咲良が声を絞り出し、身を硬くして抵抗した。
「違わない!!」
マナブが断言した。
「捜したんだよ。君をずっと捜してた。あの橋で休んでたら、会えそうな気がした…。ハハハ…。そんな怒らないでよ。僕は君を、地獄から解放してあげたいだけ。こんな世の中、生きててもいいことないでしょ?」
マナブは右手に、ナイフを隠し持っていた。
大型のものではなくて、実用的な小型のナイフ。
咲良の手の甲に引っ掛かり、一筋、浅い傷が付いた。
少量の血が流れ、ポタポタと滴った。
マナブが咲良の血を舐めた。
「…やめて!! お願いだから、咲良ちゃんを放して下さい…!!」
紅葉が震える声で言った。
周囲でバスを待つ人達が、
「うわわ、刃物だー!!」
と、悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。
「紅葉ちゃーん!! 助けてぇー!!」
咲良が激しく暴れ、大声を上げた。
「おとなしくしてくれたら、乱暴なことは後に回す。僕と行こう。知り合いが大学の……」
マナブが咲良を抱きかかえ、攫おうとした。
「嫌がってるでしょ!! 咲良ちゃんを放して…!! お願い…!!」
小柄な紅葉が必死に突っかかり、マナブを引き剥がそうとした。
「邪魔すんな!!」
マナブが紅葉に向かって、ナイフを振り回した。
「やめろや!」
誰かが一喝した。
マナブはナイフを握った手を後ろから捩じられ、体勢を崩した。
彼は膝を曲げて沈み、ナイフを落とした。
「いてて…。何する…、うぁっ」
誰かが立ち回って、マナブがすっ転んだ。
「あ。おにぃ……?」
紅葉は呆然と、兄の蘇芳を見た。
蘇芳はR高の制服のシャツを袖捲りしている。
剣道部の仲間を三人連れて、部活の帰りみたいだ。
「紅葉。あんた、ここで何してんの?」
蘇芳は瞬きして、妹を見た。
「ああ、ちょうどよかった。おにぃ、この人が変なんやけどぉ…」
紅葉が話す間、マナブは蜘蛛のような動きで地べたを這い、ナイフを拾った。
「僕は鬼になる…。今から鬼の首塚へ行くんだ……」
マナブはナイフに付いた、咲良の血を美味そうに舐めた。
「お、鬼…の首塚!?」
咲良が聞き返した。
「さよなら、咲良ちゃん。君は…本当にお姫様じゃないの…? 僕は前に、鬼にこれを喰わせてやった。見て…」
マナブが前髪を掻き上げ、紅葉と咲良に見せた。
マナブの左目の位置に、黒い空洞があった。
自ら抉り出した目玉を、彼は何に喰わせたと言うのか。
彼は蘇芳達の人数を見て、不利を悟った。
身を翻し、戻り橋を渡り、一条通りに消えていく。
蘇芳の仲間の一人が、
「俺が追っかける!」
と、走っていった。
「大丈夫?」
蘇芳が咲良の傷を確かめようとした。
その途端、パニックに陥っていた咲良は、
「うわぁ!!」
と、再び大声を出し、道路に飛び出した。
「轢かれるで!! 何してるん!」
蘇芳が咲良の手を取り、抱き寄せるようにバス停に引き戻した。
「おにぃ、咲良ちゃんは男の人が怖いねん!」
紅葉が蘇芳の手を、咲良から切り離した。
「へっ!?」
蘇芳が驚いて、咲良を見た。
咲良はガチガチ震え、縮こまっている。
「この子が咲良ちゃん? …あ、紅葉の兄の蘇芳です。妹がお世話になってます」
「も…、紅葉ちゃんの…お兄さん…!?」
咲良が蘇芳を見上げた。
雨が小降りになり、雷が遠のいていく。
空が少しずつ明るくなり、先程まで存在していた妖気が消えていった。
蘇芳が咲良を近くの病院へ連れて行った。
咲良の怪我は大したことなかった。
蘇芳は仲間から電話を受けた。
「逃げられたって。あかんな、あいつは。…ほな、俺、こいつらとメシ食って帰るし。紅葉、母さんに言うといてや」
蘇芳が紅葉に言った。
「一応、交番で届け出すんやで」
「あ、おにぃ…! ちょっと待って…!」
紅葉が追いかけようとした。
「紅葉ちゃん、置いてかないで。一緒に帰ろうー」
泣きそうな咲良が、紅葉の袖を引っ張った。
紅葉は兄の後ろ姿と、咲良の不安げな顔を見比べた。
「…ああ、わかってる。…君と帰るよ」
紅葉が咲良の痛々しい包帯を見た。
「すごく怖かったよ。気持ち悪かった。さっきの男の人、本当に一条戻り橋の鬼かと思った……」
咲良が言った。
3
その夜、咲良は鬼の夢でうなされた。
屋根の上に、小さな鬼が座っている。
子供ぐらいの身長で、顔の中央に一つ目があり、口が大きく裂けて、歯はギザギザに尖っている。
頭のてっぺんに、一本の角がある。
空では稲妻が、龍の暴れるがごとくうねる。
咲良が住むお寺の屋根の上だけ、黒い雲が低く垂れ込めて渦巻く。
小鬼は平安時代の水干のような、古い着物を着ている。
童髪を結い、菊綴のボンボンを胸と袂に付け、短かめの袴の裾を絞っている。
手足の指が三本しかない。その尖った爪が、異常に長い。
草鞋を履いている。
一つ目の小鬼は青白い光に、ぼぁーっと包まれている。
咲良が目を覚まし、布団に上体を起こした。
目を擦って見たら、布団の足下に何かいる。
青白く、ぼぁーっと光っている。
「咲良、咲良…。見つけたぁ…」
小鬼の顔が、暗闇にぼぁーっと浮かんでくる。
咲良は息を飲み、祖母からもらった水晶の数珠ブレスレットを投げ付けた。
青白い光と小鬼が消えた。
彼女はベッドから這い出し、廊下を這って、隣りの部屋の戸口に喋りかけた。
「おばあちゃん…、おばぁちゃん…!!」
「どうしたんや?」
すぐに祖母が布団から起き上がる気配がして、ぱっと電気が付いた。
祖母と咲良が部屋に戻り、彼女のベッドを見回したが、何もいない。
「おばあちゃん。あれ、夢だったのかな? 鬼が来たの……」
「どんな鬼やった?」
祖母が咲良をベッドに寝かせ、布団を被せた。
「一つ目の子供…。角が一本あって…、すごく古い着物着てた…」
「一つ目か。それはな、そいつの邪眼を見たらあかん。引き込まれて、操られる。…昔話やけどな」
祖母は優しく、咲良の髪を撫でた。
「おばあちゃん、信じてくれるの?」
「うちは代々、神社の神職やったし。おじいさんの代までは、不思議な話がぎょうさん語り継がれてたんやで」
「鬼、どうしたらいい?」
不安げに咲良が呟いた。
「心配せんでええ。どうもあらへん。あんたはうちの神さんと仏さんに護られてるさかい」
祖母が言うと、不思議に咲良の心は落ち着いて、目を閉じた。