弐玖 鬼門と井戸
1
紅葉が暗闇に駆け出し、酒井を助けに行った。
咲良は仲間の松野に神泉をもぎ取られ、
「松野さん、待って。それ、大切な預り物なんです…」
泣きそうになって、彼を追いかけた。
足元は、円山公園の地面に倒れていた人達。
踏まずには進めない。
神泉のもたらした雷光を受け、松野の後ろ姿が浮かび上がる。
松野は一目散に楼門へ走っていく。
咲良は楼門の手前で、何とか松野に追いついた。
松野は結界の出口に辿り着き、嬉しそうに外を覗く。
「松野さん…、ヤバいですよ、そこ…」
咲良は一瞬息を飲み、鬼だらけの楼門を見上げた。
松野は何も気付かないのだろうか。
鬼と妖怪がいたるところからぶら下がり、壁から滲み出し、柱に巻き付いている。
「ああ…、松野さんてば…」
咲良は絶望的な悲鳴を漏らす。
松野の背中に鬼が這い上っていく。
鬼達の異様な姿。
どの顔も歪んでいるように見える。
数十匹はいる。
笑い顔のキツネ、人面のヘビ。
彼等の姿は半分透けている。
騒がしい老猿達。
柱から浮き出る、天狗の長い鼻といかつい眼。
柱の一部として溶け込んでいる眼が、時折瞬きする。
鬼火をいくつも従え、闇に漂う女の霊がいる。
女は髪を結い上げ、口が嘴のように尖っている。
裳裾と領布を優雅に靡かせながら、咲良の前を行ったり来たりした。
屋根瓦に張り付く奇怪な男、吸盤の付いた手足と灰色の太い尻尾を持つ。
このヤモリ男が咲良に気付き、屋根をそろそろと降り始めた。
やがて、松野は閉じかかった扉に首を挟まれた。
ギロチンの如く、錆び付いた大刀が首に落ち、彼の首は扉の向こう側に飛んだ。
彼は血を流して崩れ去り、怨霊の哄笑が辺りに響いた。
「うぁ、松野さんが…」
咲良は恐怖で気を失いかけたけれど、とにかく神泉を拾った。
強い妖気がねっとりと濃度を増していく。
妖気は屋根の上で人型の影になり、松野の背中辺りへ吸い込まれていった。
すると、死んだはずの松野が両手を着いて起き上がり、楼門の鬼達が大きな歓声を上げた。
「うっはっは…」
「わっはっは…」
楼門の鬼達の奇声。
松野の首無し死体が、咲良の方を振り向いた。
「あれ…、咲良ちゃん…。どうしたの、そんな暗い顔して…」
松野の臍の辺りから声がした。
人見知りしない、明るい松野の声ではないし、壊れかけたラジオみたいにノイズが混じっていた。
咲良は思わず、一歩二歩下がった。
「松野さんじゃない…」
彼女は血だらけの松野を見た。
松野は右手に、自分の頭を刎ねた大刀を握って立ち上がった。
「ふはは、誰だと思う…?」
松野が聞いてきた。
咲良は言葉を失くして、立ち竦んだ。
「それで、君は誰?」
松野が大刀を振り上げ、臍で話す。
「首無しの君、千年前の…、采女の稚桜でございます。紫野の斎院に居た…」
柱に巻き付いていた人面ヘビが、首無しの鬼に告げた。
空を稲妻が切り裂き、立て続けに何度も閃いた。
咲良と首無しの鬼が、影絵のように浮かび上がる。
雨音、紅葉、山上達から、楼門までの距離は結構離れていた。
いつの間にか、咲良の背後に、黄泉の醜女達が並んでいた。
髪を結い、顔は福笑いのように目鼻の位置がバラバラ。
咲良は逃げ道を阻まれた。
鳥口の女の霊が嘲りながら空を舞い、楼門の鬼達が咲良を囲んで、じりじり追い詰めていった。
「さて、次は…。その首、もらった…」
首無しの鬼が咲良の首めがけ、大刀を袈裟に振り下ろした。
咲良は短刀でどう受けていいかわからず、夢中で大刀を払った。
耳が麻痺するほどの雷が轟いた。
神泉と鬼の大刀が触れた瞬間、間近の楼門に落雷したのだ。
楼門が火を噴き、二階と屋根の部分が炎上した。
咲良が倒れた。
「痛いっ…」
咲良の下敷きになった人間達が呻いた。
楼門の鬼達が移動し、無数のハエが飛び立った。
醜女達が咲良を押さえ込み、ヨダレが彼女の顔に落ちた。
ヤモリ男と人面ヘビが彼女の足を這い登った。
醜女に口を塞がれた咲良が、必死に暴れて、息を大きく吸った。
雷光が眩く光り、咲良の目が灼かれて、視界が暗くなった。
2
視界が落ち着いてきたら、楼門が見当たらなかった。
ここは眩い光に満ちた世界だ。
咲良はどこか海沿いの屋敷の、裏庭らしき場所にいた。
鬼や醜女が消え失せ、咲良は絞められていた喉を擦った。
「ここは…?」
彼女は潮の匂いを嗅ぎ、白い砂利の上を歩いた。
「気を付けて。首無しの君の大刀があなたを狙ってる…」
誰かが咲良に忠告した。
その相手は透けそうなほど色白の若い女で、髪を束ね、紺の男物の狩衣を着て、井戸端に腰を下ろしていた。
「あなたは…?」
咲良はその女を、よく知っているように思った。
「私は、泉…」
女が名乗った。
「ほら、見て」
女は乱暴に咲良の肩を掴み、井戸の中を覗かせた。
「何をするんですか?」
咲良は落っこちそうになりながら、井戸を覗いた。
井戸を覗いたら、不思議に井戸の底が上に抜けているように思った。
見下ろしているのに、空を見上げているような感覚になった。
咲良の頭上の青い空が映り込み、彼女の顔も光を受けて明るかった。
さざ波立つ水面に、咲良の顔と、泉という女の顔が映っている。
そのうち、咲良の後ろの誰も居ないはずの部分に、もやもやと灰色の霧がまとわりついてきた。
「咲良。あなたは首無しの鬼に憑りつかれた。今、あいつはあなたの頭を片手で押さえ、喉を刃で掻き切ろうとしている…。首が落ちるまで、あと一秒もない…」
泉が囁いた。
「そんな…!!」
咲良が絶望して叫んだ。
「私が少しだけ時間をあげる。その間に考えて…」
泉が水面の中の咲良に向かって、囁いた。
水面に映った咲良の二つの眼孔が黒い闇に変わり、そこから闇が井戸の底全体に広がっていった。
咲良は闇の中に、暗い顔をして俯く自分を見い出した。
彼女は恐怖を思い出した。
継父が咲良の顔を殴った。
彼女は鼻血を垂れ、倒れた。
腹を蹴られた。
とても痛かった。
咲良が必死に頭と体を庇う。
無抵抗の彼女に、継父の暴力が襲いかかる。
「おまえのその陰気な目つきが、無性に腹が立つ…」
仕事がうまくいかなくなって以来、彼は咲良に八つ当たりするようになった。
母親の再婚相手で、母親よりずっと若かった。
「やめてぇー!!」
母親の悲鳴が聞こえ、救急車のサイレンが聞こえた。
バタバタと走る足音、ストレッチャーに載せられた咲良は病院の暗い廊下を流されていく。
「顔の骨が折れています」
医師の声を、包帯が巻かれた下の耳でぼんやりと聞き取る。
「元に戻るんでしょうか!?」
母親が泣いて、医師に尋ねた。
紫色に腫れ上がった顔の咲良に、母親が泣いて謝っている。
「ごめん、咲良。あんな男、もう離婚するから…」
咲良の記憶がごちゃごちゃに押し寄せる。
医師が、
「左目に眼瞼下垂がありますね。元から目を開く筋肉が弱いんですね。左右の目でわりと差があるけど、目立たなくすることは出来ますよ」
と、母親に言った。
「未成年だし、もう少し大人になるのを待ってからと思ってたんですが…。こんな怖い目に遭ったんだし、あの子の心の傷の回復になるなら…」
母親が呟いていた。
母親の離婚はなかなかうまく行かず、ストーカーと化した父が追いかけてきた。
母娘で逃げる日々が続いた。
離婚が成立すると、母方の実家の京都で、新生活が始まった。
咲良の顔の傷が治った。
どちらかと言えば地味な雰囲気だったのに、垢抜けた感じに変わった。
むしろ、転校した中学校でもかなり目立つようになった。
「咲良ちゃんて、めっちゃ可愛いねー!!」
クラスの女の子達の嫉妬。
急に、周囲の大人も咲良をチヤホヤするようになった。
「見ないで、私の顔…」
咲良は顔を手で隠し、クラスの友達と距離を置くようにした。
記憶の狭間で、突然降って湧くように、雨音の声がした。
「おっとりしてるのにねー。不思議なとこが可愛いよねー」
出逢った頃の雨音がにこにこ微笑んで、人懐こく話しかけてきた。
咲良の心にピキッと、ヒビが入った。
ガラスのように脆く、心が壊れた。
「私の顔を見ないで。可愛いなんて、言われたくないよ…」
咲良は雨音に心を閉ざし、精神的なバリケードを築いた。
涙に霞んで、色々なものが見えなくなっていく。
「紅葉ちゃんて、ホントに綺麗な子ねぇー。クラスで一番頭よくて、スポーツも出来て。今流行りの顔してて、モデルみたいよねぇー」
母親が言っていた。
友人なのに、咲良は紅葉が羨ましくて、嫉妬を感じた。
咲良の頭の中で、再び元父の暴力が思い出される。
衝撃と恐怖と痛みがよみがえる。
「ああっ…」
咲良は頭を振って、井戸から離れた。
「あなたが一番見たくなかったもの、それは真実の自分…」
井戸の側で、泉が両手を腰に当て、囁いた。
「あなたはあなたに出来ることだけすればいい。誰を羨ましいと思う必要もないし、誰に何を恥じることもない。怖れることもない。だって、あなたは自由な人間なの」
泉に決断を迫られ、咲良の背中が井戸に当たった。
咲良の視線が井戸の底へ向かう。
青い空が映り込んでいる。
近くの岩場で、波の砕ける音がする。
潮風が吹き、咲良の短い髪を撫で、額を撫でて通り過ぎる。
海原の表は波立っていても、その深き底は静かで、冷たく澄みきっている。
見渡す海の色は、紺碧の空や、空を映し込んだ井戸の水面と同じ色で、咲良の心を癒していった。
咲良はふと、我に返る。
灰色の霧が彼女にまとわりついているのは、首無しの鬼が彼女の心の弱さに付け入ったからだ。
鬼は弱い者しか、脅かすことが出来ない。
だから、まず怖がらせるのだ。
井戸の水面に、今度はくっきりと首無しの鬼の姿が映り込んだ。
咲良の頭に左手をかけ、古代の環頭大刀を右手に構え、彼女の喉を今にも引き斬ろうとしている。
「わかった」
咲良が呟いた。
「私はこうしたい、神泉!」
3
首無しの鬼が咲良の喉を掻き斬った。
いや、咲良の方が一秒速く動いた。
彼女は顎をのけ反らせ、ぎりぎり刃を避けた。
彼女の突き出した神泉の切先が、鬼の左胸に触れる。
刹那、閃光が視界を真っ白に染め上げた。
その夜最大の雷が、神泉から迸る。
首無しの鬼の心臓を、雷が撃った。
鬼と、咲良を押さえ込んでいた醜女達は弾き飛ばされ、黒煙を上げた。
松野の遺体は黒焦げになっていた。
首無しの鬼は黒焦げの体を振り起こし、
「…稚桜…ぁ…!!」
と、唸った。
左胸には大きな穴が開き、肉の焦げる香ばしい匂いがした。
咲良は燃え上がる楼門に向かった。
「紅葉ちゃん、手伝ってぇー!!」
咲良が紅葉を呼んだ。
ちょうど、雨音と紅葉、旭が楼門の前に到着したところだった。
「何をしたらええの!?」
紅葉が息を切らし、駆け寄ってきた。
咲良は親友を頼もしく感じて、目頭が熱くなった。
「この楼門を使って、異界の道を閉じるの。イザナギノ命が黄泉路を塞いだみたいに…」
咲良が燃える楼門に入り、火が付いた扉を押した。
「そんなこと出来るん? 咲良ちゃん、火傷するよ!?」
紅葉は驚いたが、咲良を信じることにした。
楼門の二階と屋根は、強烈な勢いで燃えている。
火の粉がパチパチと降ってくる。
雨音は楼門の鬼と対峙した。
咲良の道着を、飛んできた鳥口の女の霊が掴む。
「邪魔すんなよ!」
雨音が女の領布を引っ張って、背面から叩き斬った。
鳥口女の霊は、どろんと大きな鬼火になり、二つに割れて消えた。
その間に、今度は人面ヘビが紅葉の首筋に咬み付こうとしている。
雨音が瞬時に斬り伏せた。
「雨音くん…」
紅葉が振り向いた。
「いいから、続けて!」
雨音が老猿を斬り飛ばしたが、また襲いかかってきた。
キツネとヤモリ男は逃走した。
「何たる屈辱…」
焼けただれた首無しの鬼が、半歩よろめいた。
心臓もない、頭部もない。
山上と酒井は首無しの鬼を見て、
「うーん、この鬼はどこを刺し抜いたらええんかな?」
と、首を捻った。
「せーの!!」
咲良と紅葉が力を合わせ、楼門の扉を閉める。
閉まる間際、四条通りと八坂神社前の交差点が見えた。
大勢の人間が毒ガスのテロに遭ったみたいに、道路に倒れていた。
扉がギィギィ鳴って軋み、やがてぴったりと閉まった。
「言葉は呪い。どんな言葉でもいいんだ。それを声に出して言うことが、異界の道を完全に閉ざしてくれるの」
咲良が紅葉に言った。
二人は顔を見合わせ、互いを信頼して頷き合った。
彼女達は声を揃えて言った。
「イヤサカ…! 栄えあれ…!!」
空気が震える。
目には見えなくとも、異界の道が徐々に閉じていく。
空間が揺れ動く。
四条通りに開いていた、異界の道が消滅した。
それを象徴するように黒塗りの楼門が消え去り、辺りの鬼火が一斉に消えて、真っ暗になった。
4
首無しの鬼が深いダメージを負った状態で、何とか大刀を構え、
「源次…。何が望みだ、聞いてやるぞ…」
空気の漏れる声で強がりを言った。
「あなたの為に僕の頭をあげたいんですけど、たぶんくっつかないですね…」
雨音は荒い息を重ねた。
彼は疲れ過ぎて腕が痺れ、長い刀が重く感じた。
「ふふん、その生意気なところが気に入らん…」
首無しの鬼が錆びた大刀を振り回した。
雨音は鬼切で応じた。
鋭い金属音がした。
鬼の大刀が半分で折れ、切先側が数メートル飛んで、地面に突き立った。
「僕の刀、鎌倉時代の太刀なんですよ。古墳時代の環頭大刀とは、質と切れ味が違う…」
雨音が鬼の大刀を斬った。
首無しの鬼は舌打ちして、その場に固まった。
雨音は、
「僕、何となくわかったんですよ。あなたの急所。あなたは頭部がなくて、頭蓋骨を捜してましたから」
と言って、鬼の折れた大刀の先を、鬼切で砕いた。
大刀の先は、土で出来ているみたいに簡単に粉々になった。
雨音は鬼の手から大刀の残りをもぎ取って、もう一度鬼切で叩いた。
すると、大刀の残りもハニワのように、粉々に砕けた。
首無しの鬼は立ったまま、風に吹かれ、さらさらの土になって崩れていった。
「あなたは古い大刀に依りついてた。その大刀も千年経って、錆びて、腐食で崩れて…。あなたが思ってた以上に脆くなってました。あなた自身も、この千年で怨みが薄れてきてましたよね…」
雨音は土を一掬いして、掌で細かな鉄の粒を選り分けた。
彼は錆びた鉄粒を、山上に渡した。
百足の大臣は、切刃造りの剣。
首無しの鬼は、環頭大刀だった。
山上は受け取ってから、
「これが、俺らの捜してきた鬼なのか…。…虚しいもんやな…」
と、鉄粒をまじまじ見詰めた。
雨音は明るい声を張り、
「じゃ、帰りましょ。僕、腹が減っちゃいましたー」
と、先に円山公園の坂道を下り始めた。
鬼の結界が消えていた。
疲れ果てた旭は、破れて泥だらけの袴で、坂に座り込んだ。
円山公園に倒れていた人達が正気を取り戻し、
「なんで俺達、ここで寝てんの?」
と、旭に聞いた。
「見てなかったんですか? 時代劇の撮影みたいなシーンやってたんですよ」
旭が真面目に話しても、誰も信じずに立ち去っていった。
彼等が疫病に感染してなさそうなのを見て、咲良と紅葉は満足して微笑み合った。
「松野、可哀相やったな…。まぁ、行方不明ということで…」
酒井は溜息をつき、合掌した。
それから、車のキーを取り出した。
5
七月十七日。
祇園祭、前祭の山鉾巡行の日が来た。
朝九時、長刀鉾を先頭に、二十三基のきらびやかな山と鉾が、四条烏丸から出発した。
京都は既に真夏の猛暑。
沿道はびっしり観光客が埋め尽くし、熱気で蒸していく。
山と鉾は祇園囃子の音とともに、四条通りをゆく。
鴨川の手前、河原町通りの交差点で辻回しをして、北上して左折、御池通りに入る。
咲良は涼しげな薄地の浴衣に下駄で、団扇を持って、汗ばんだ肌を扇ぎながら、祭りを後にした。
手には、赤く熟れた鬼灯の束がある。
お寺の住職である叔父に頼み、用意してもらった。
彼女は西に歩いて、人混みを避けてバスに乗った。
降りたのは、堀川通り、一条戻り橋。
バス亭からすぐの、あの石の橋に向かう。
咲良は小さな橋のたもとに、鬼灯の束を置いた。
「学瀛のお墓がどこか、わからないんだ。ごめんね」
彼女はそっと手を合わせ、目を閉じた。
蝉の声が、暑さを一層感じさせた。
「マナブ。これ以上、もう人を殺さないで…」
一条戻り橋で、咲良が一心に祈った。
空には入道雲が湧いていた。




