弐 伏見稲荷大社・鬼の太刀
1
月曜日の朝。
紅葉は早速、北野天満宮での事件について、咲良と話した。
「先週はびっくりしたね。鬼切を盗んだ犯人、すぐ捕まるかな?」
廊下を歩きながら、咲良はのんびり欠伸していた。
「あの高校生のこと? さぁ。今頃、居合の練習に使ってるんじゃないの?」
と、咲良はユニークな返事をした。
紅葉は笑ってしまった。
「ふふ、それやったら面白いね! でも、刀として使う為には、鞘とか柄とか、部品全部を特注であつらえなあかん。拵えっていうやつ。職人さんにすぐバレて、警察に通報されるよ」
「ふーん。そうなの?」
咲良は犯人捜しに興味なさそうだった。
咲良は唐突に、
「鬼って、可哀相だよね?」
と、話題を変えた。
「君、盗まれた刀より、鬼に興味があるの?」
「だってさ、鬼が本当に悪い事したか、わからないし。でも絶対、物語の最後には殺されるんだよね…」
「君、本気で鬼に同情してんの?」
紅葉は少し力が抜けた。
「ま、ええわ。咲良ちゃん。GW、パワスポ行かへん? 暇ある?」
「うん、結構暇ー」
面倒臭がりの咲良が、紅葉の誘いに応じた。
「五月は葵祭があるし、下鴨神社と上賀茂神社は外せへんな。パワー特盛の伏見稲荷も行きたいし。一条戻り橋と晴明神社も行きたいな」
紅葉は指を折って数えた。
何でも紅葉が調べてくれるので、咲良は観光気分で気楽だった。
次は伏見稲荷大社に行くことになった。
3
「咲良ちゃん、馴れた靴履いて来た?」
紅葉がまず、咲良の靴をチェックした。
「今日は稲荷山に登るからね。お稲荷さんの本殿の裏の…」
「大丈夫。ね、紅葉ちゃん。キツネグッズがいっぱいだね。帰りに、お土産物屋さんに寄っていい?」
咲良が修学旅行の学生のようなことを言う。
彼女は眸を輝かせ、店先の食べ物を見て歩く。
紅葉は道を歩きながら、ずっと喋っている。
「菅原道真は亡くなってから、雷神になって京の都に雷をいっぱい落とさはった。お祀りして、やっと鎮まった。お稲荷さんも怖いって言う。伏見稲荷は特別。知ってるよね?」
稲荷大社の楼門が見えてきた。
五月晴れの青空に、鮮やかな朱色と漆喰の白がよく映える。
石段を昇った左右に、白狐の石像がある。
片方の狐は、口に巻物をくわえている。
目の前を、袴姿の巫女さんが歩いていく。
いつ来ても、とても大勢の参拝者で混雑している。
外国人観光客も多い。
「やっぱ、混んでるなー」
紅葉と咲良は人の波に押されながら、参拝した。
それから、有名な千本鳥居へ行く。
朱塗りの鳥居が二筋、長く並ぶ。
緩やかな坂道で、鳥居は余り大きくない。
昼時の日差しが射し込み、柱にオレンジ色の光を生み出し、石畳に縞の影を作り出す。
織りなす景色は、神秘的としか言いようがない。
千本鳥居の参道がややカーブしているので、オレンジ色のトンネルがずっと続くように見える。
「きれいだなぁー」
咲良は声を弾ませ、参道を歩いた。
異界へ繋がる入口みたいだ。
歩き続けると、知らない間に異界へ入り込んでしまいそう。
「これは実話なんやけど。ある人がこともあろうに、お稲荷さんの森でクワガタ採ってはってん。採ったクワガタ売るつもりで。夜明け前、まだ暗いうちに、この千本鳥居の間から森に入って行ってな…」
紅葉が声を低くした。
「そしたら、道に迷って、延々歩きまわって。何べんも鳥居に戻って来るんやって。鳥居からまっすぐ歩いて森に入って行くのに、また鳥居に戻ってくる。堂々めぐりさせられはってん。それで懲りて、もう二度と、お稲荷さんの生き物は取らはらへんようになった」
紅葉は大袈裟に震えて見せた。
「日が沈んだら…、神社には入りたくないな」
咲良が言った。
「そうや。怖いわ。元の世界に戻って来れなくなりそう。神域侵すべからず、や」
紅葉も頷いた。
喋っている途中、咲良は鳥居と鳥居の間に、人影を見た気がした。
紅葉の薄気味悪い話を聞いたからかも知れなかった。
咲良はぎょっとして立ち止まり、振り返った。
前も後ろも、同じ景色が続いている。
どの鳥居の間か、もうわからなくなってしまった。
一瞬見た人影は、十歳ぐらいの女の子に見えた。
赤い着物を着て、髪はおかっぱ。
こちらを見て、鳥居に片手を掛けていたように思う。
「あれは…」
観光客ではなかった。
第一、着物の年代がとても古そうだった。
すごく昔の子供の写真みたいに。
ほんの一瞬なのに、咲良の記憶にぼんやりと残っていた。
「…神域を守ってるんだ…」
咲良は小さく呟いた。
「どうしたの?」
立ち止まった咲良に、紅葉が聞いた。
「何でもない。…ねぇ、紅葉ちゃん。鬼って、何だろうね?」
咲良がまた、鬼の話をした。
「鬼は比喩やろ? もしかしたら、その時代の人が社会への不満を鬼に例えて、物語の中で殺したのかも知れへん。それで殺す結末にした後で、やっぱり可哀相になって、鬼は元は美少年やったとか、いい人やったとか言い出して…」
紅葉は苦笑いした。
「鬼は元から鬼なのかな? 元は人間なのかな?」
咲良は紅葉と全く違う視点で、物語を捉えようとしていた。
「君は…ほんまに変わってるねぇ。ええよ、そういう視点もありかな」
と、紅葉は受け入れた。
「紅葉ちゃん。元が人間だったとしたら、なんで鬼になっちゃうのかな? 単に、悪い人っていう設定でいいよ。鬼っていう比喩は、殺す為の言い訳みたいじゃない?」
と、咲良の疑問は尽きなかった。
「いろんな説があるみたいやね。うちの父親が言うには、昔は特殊な能力を持った人達が居たんやって。いわゆる、シャーマン。…けど、何も力を持たへん一般人にとっては、シャーマンは不気味で怖ろしい存在やった。シャーマンを怒らせた人は、呪われたりするかも知れへん。…そやから、鬼と呼んで、殺したと…」
紅葉が父親の言葉を借りてみた。
予想に反して、咲良の反応は大きかった。
「もしそうだったら、鬼がすっごく可哀相!! 鬼は何も悪くないかも!?」
「咲良ちゃん。物語では、人間を殺して喰ったことになってるよ。人喰いみたいなもん。都のお姫様や、子供を攫って喰ったって。それと、大江山の鬼の凶暴さは、由良川の氾濫のイメージがあるのかも知れへんな」
紅葉は慌てて言い直した。
咲良が鬼に同情して、泣き出しそうだったので。
「食べ物のない時代には、飢饉とか起きたら、本当に人間が人間を食べたかも知れないよねぇー」
咲良が呟いた。
千本鳥居を抜けて、二人は奥社で、おもかる石を抱いてみた。
灯篭に、漬物石みたいな石が載っている。
それを持ち上げて、重いと感じるか、意外に軽いと感じるか。
軽いと感じたら、願いが早く叶うと言う。
「重いー」
力の無い咲良は、予想したより重く感じてふらついた。
「かっるいやんー!」
重いと予測していた紅葉は、軽々持ち上げた。
「ほな、お山に登ろか」
紅葉が奥社の先を見た。
そこからは、参拝者も半分以下になる。
昇り降りの坂道、曲がりくねる道。
稲荷山は素朴な石造りのお塚がひしめき合う。
ろうそくの炎が揺らぎ、誰かが一心に祈っている。
稲荷大社の豪華な建築と、随分空気が異なる。
「最近、神社に放火する事件が多いやろ。油撒いたヤツもおったな。ほんま腹立たしい。地元の人が大切にしてる場所に、なんてことするん。放火とか迷惑なことして、スッキリするなんて発想が、人として恥ずかしくない? 許せへん」
紅葉が憤慨した。
「八つ裂きにしたいよね」
咲良が一言で応じた。
「意外にハッキリ言うよね、君…」
紅葉が咲良の横顔を見た。
咲良は涼しい顔で、坂道を下っていった。
彼女が森に入って行けば、葉擦れの音が追いかけるようにさわさわと鳴る。
彼女自身が風のように、森を鳴らせて通り抜ける。
「不思議な子……」
紅葉には咲良が、森に呼ばれているように思えた。
3
急な階段を昇ったら、眼下に市街が見渡せた。
道は枝分かれし、稲荷山をめぐる複数のコースの出発点になっている。
紅葉は看板の地図を見て、一つのコースを選んだ。
地図にはたくさんの塚の目印になる、お社の名前が書いてある。
咲良が予想したより広い神域だった。
「稲荷大社のご祭神は、イナリノ神。ウカノミタマノ大神とも言う」
紅葉が山を見渡した。
「古代日本は、自然崇拝。自然のあちこちに神を見出した。あの世に近い山の上で神様を祀り、神様に近いところに古墳を造った。…やがて、山の麓に、神様を拝む為のお社を造った…」
「ふーん」
咲良は楽しそうに、谷に降る道を降りていった。
新緑の葉が茂って、二人の天井は濃い緑だった。
「咲良ちゃん。そこ、お参りしたいねん」
薄暗い坂道を降りて来て、突然、紅葉が立ち止まった。
御剣社と書いてあった。
そこは特別、霊気の強い場所だった。
「稲荷山にも、早い時期の古墳があったらしい。稲荷大社とは全く関係のない古墳。つまり、稲荷山は相当古くから神域やったんや。きっと、自然崇拝の時代から。神が降りて依りつく磐座の一つが、そこにも」
二人は剣石と呼ばれる岩を見た。
注連縄を巻かれたこの岩は、雷神が封じられていると言う。
「雷神か。誰が封じられたんだろね?」
咲良は友達の話をするように、雷神について話す。
「平安時代、京都三条に宗近という刀匠がいたの。現存する太刀は少ない。徳川に伝わった三日月宗近は、国宝。他に小狐丸という太刀の謡曲がある」
紅葉がスマホで剣石の写真を撮った。
「宗近は三条のお稲荷さんのお使いに手伝ってもらい、傑作の太刀を鍛えたと言われてる。それが妖刀・小狐丸…。小狐丸は実存せぇへん。でも、不思議な話やろ?」
咲良の頭の中で、歌川国芳の絵が創り出された。
それは画集にない場面だったが、咲良は鮮明に映像を見た。
ある刀匠が懸命に、刀を鍛えている。
火花が飛び散り、鉄を打つ音まで聞こえてきそうだ。
「私は至高の一本を何としても作りたい」
ヒゲの濃い刀匠が、眸をぎょろっと、咲良に向けて言う。
「その為に、私は何年も山に籠り、神仏に祈り、来る日も来る日も刀を鍛造する。命を削って、この熱い鉄を打つ」
額から、汗が流れて落ちる。
どうやら小狐丸の謡曲・小鍛冶と、全く別の物語である。
げっそりとやつれ、骨と皮になり、憑りつかれたように創作を続ける刀匠。
眸がぎらぎらと光り、血走っている。
「遂に完成した…。見てくれ、私の刀を。この傑作の一本を。私はこの一本の為に生まれたのだ」
満足そうに、刀匠が咲良に太刀を見せた。
太刀の見方は知らなくても、それが非常に稀な、見事な出来だということは明らかだった。
切れ味もさることながら、白刃の美しさには魂が吸い取られそうなほどだった。
気付いたら、刀匠はその太刀に吸い込まれていた。
彼自身が、太刀になっていた。
太刀はやがて天下の名刀と謳われ、武将の手へ渡る。
そして、神社の奥深くに奉納される。
暗き本殿に。
刀匠は二度と日を拝めないことが悲しく、夜毎に人の姿に戻って啜り泣く。
「誰か、私の至高の一本を見てほしい…」
その啜り泣きを聞いた神職の口から、都の噂となり、鬼の太刀と呼ばれるようになる…。
咲良は幻想から醒めた。
「私、今、何を見てたんだろ…?」
咲良は周囲を見回した。
どこからか、鈴のような音が微かに聞こえてくる。
シャリーン…、シャリーン…と、響いて消える。
「紅葉ちゃん。どこかで鈴が鳴ってる……」
「へ? 私には聞こえへんけど。巫女さんが舞ってはるのかな? 遠すぎて、聞こえるはずないけど…」
紅葉も周囲を見回し、耳を澄ました。
じっと耳を澄ましていると、紅葉にも鈴の音が聞こえて来る気がした。
「あかん。こんなん聞いたらあかん!」
ゾッとした紅葉が、咲良の耳を両手で塞いだ。
「お二人さん、何してはるんですか?」
誰かが道から昇ってきた。
紅葉達は同じクラスの男子生徒、菊井に気付いた。
菊井は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、
「紅葉さん、パワスポマップ作ってるらしいですね? 僕はゲームの聖地マップを、自由研究のテーマにしたんですよ。カブってますかね?」
と、剣石まで来た。
「いや、カブってへんと思うよ」
紅葉が言い返した。
咲良は人見知りをして、紅葉の背中に隠れた。
「ほな、ええけど。お二人さん、僕と組みません? 次の聖地でも会いそうでしょ?」
菊井が提案した。
紅葉は咲良を振り返り、
「行こか」
と言いかけて、びっくりした。
咲良が青い顔をして、紅葉の袖をぎゅっと掴んだ。
「菊井くん。咲良ちゃんはおとなしいから、君みたいな人見知りしないタイプ、苦手みたい。別々にやりましょう」
紅葉が断って、咲良を連れ、菊井の横を擦り抜けた。
「あ、そう? 残念。ほな、僕の発表、楽しみにしてて下さい。咲良ちゃーん、また学校でなー」
菊井がめげずに手を振った。
咲良はぺこっと、頭を下げた。
坂道を早足で歩きながら、紅葉は怒っていた。
「咲良ちゃん、可愛いから、変な男が寄って来るわ。私が守ってあげる!」
「あ、ありがとう…。私、男の人全部、苦手なんだ…」
咲良が打ち明けた。
「早帰ろ。夕方になると、カラスが増えてきて気持ち悪い」
紅葉は背後の山を振り返った。
不気味なほど、カラスが集まってきた。
咲良はカラスの羽音に、びくっと反応した。
「あれ? 鬼の太刀…は…?」
寝言のように言う。
「何、それ?」
紅葉が笑った。
咲良は風の音が変わるのを感じた。
二人は足を速めて、山を降りた。
4
その夜。
咲良が部屋で勉強していたら、窓の外で変な物音が聞こえた。
咲良が窓を開けて、二階から外を見下ろした。
四月初めに引っ越して来た彼女の、部屋の窓から見えるのは、お寺の墓地だ。
塀越しに、街灯が墓地を照らしている。
誰かが早足で歩いて行く、ペタペタという靴音が聞こえる。
咲良は靴に、びっくり仰天した。
見れば、彼女がいつも中学校に履いて行く靴が、ひとりでにペタペタと歩いているのだ。
靴は墓地に向かっている。
「うわぁ!! 私の靴がぁー!!」
咲良は階段を駆け降りながら、
「お母さーん!! おばあちゃーん!! おじさーん!!」
と、家の人を呼んだ。
誰の返事もなかった。
咲良は裸足で勝手口から飛び出し、靴を追いかけた。
途中、納戸に入って、あるものを探した。
咲良は探していたものを、すぐ見つけた。
「これだ!!」
咲良は釣りで使う網を手に取り、裸足で石畳を走った。
靴はもう墓地の中へ入っていた。
月明かりが、墓石と墓石の間の道をぼんやり照らしている。
光りと影で、白黒写真のように見える墓石に、お花が供えられている。
墓地の片側に竹林があり、さわさわと風に揺れて笹が鳴る。
咲良は怖かったけれど、怖いとも言ってられなくて、靴を追った。
咲良が靴に追いついた。
本当に不思議だが、靴だけがペタペタ歩いていた。
靴は咲良が追いかけて来たので、ぎょっとして、逃げるように走り出した。
「えいっ!!」
咲良は靴より上の、自分と同じ身長ぐらいの頭の高さを狙って、網を振り下ろした。
手応えがあった。
目には見えないが、誰かの頭に網が引っ掛かった。
と、思った次の瞬間。
水を掬ったみたいに、パシャッと手応えが弾けた。
網は勢いで落下し、靴を叩いた。
幽霊が網を擦り抜けるみたいに、靴を履いていた何かが逃げた。
「はぁはぁ…」
咲良は荒い息を弾ませていた。
興奮して、心臓が早鐘を打っていた。
靴は取り戻せたが、余りにも奇妙で、頭の中が真っ白だった。
咲良は靴が逃げ出さないように、しっかり握り締めて胸に抱き、道を引き返した。
生温い風が吹いてくる。
納戸に網を戻し、お寺の住居部分である庫裡まで来て、咲良はやっと、自分が裸足だったことに気付いた。
「…誰も信じないよね? こんな話…」
咲良は夢を見ている気分で、自分のほっぺたを抓ってみた。
咲良はペンで、靴の内側の目立たないところに、自分の名前を書き込んだ。
「透明さん、もう靴を盗らないでね。これは咲良の靴だよ」
彼女は靴を、庫裡玄関の下駄箱に戻した。