壱 北野天満宮・太刀鬼切
1
鬼は、心のおもてか、うらか。
鬼は、器のおもてか、うらか。
2
異端を鬼と呼ぶならば、元のうち、姿は人と何ら変わらぬ。
鬼を封じた。
あれから、千年過ぎた。
封印の効力が、失われた。
3
京都市内、某私立中学校。
桜散る新学期に合わせ、咲良が転入してきた。
咲良は髪が短くて背が高め、中性的な顔立ち。
体育のジャージに着替えると、たまに男の子にも見える。
無口でおとなしくて、休憩時間はいつも席で寝ている。
一つ後ろの席の紅葉は、だんだん咲良が気になり始めた。
咲良は独りぼっちでも、ちっとも寂しくなさそうだ。
桜が散る様子をぼんやり眺めたり、雨を眺めたり、それだけで満足みたい。
授業が終わると、一番先に教室から消えた。
紅葉は、咲良が自由研究のテーマで悩んでいるのを見て、話しかけてみた。
「咲良さぁん。北野天満宮行ってみいひん? 面白いもんあるの、君、ご存知ぃ?」
「え、私?」
咲良が振り向いた。
紅葉は髪の長い、眼鏡の似合う美人さん。
二人は余り喋ったことがなかった。
「そう、咲良さん。私、君に興味あるから」
紅葉がにんまり笑い、北野天満宮のパンフレットを見せた。
「紅葉さんは…菅原道真をテーマにするの?」
「ちゃうよ」
紅葉は開いたページの、中央の写真を指差した。
「ここの宝物殿に、鬼切という刀があるの」
「うん」
「源頼光が酒呑童子を斬った童子切安綱は、東京国立博物館にある。頼光の部下の渡辺綱が茨木童子を斬った鬼切は、京都の北野天満宮にあるの」
「え…。それ……って、物語だよね? 実話じゃないよね?」
写真の鬼切は、柄も鞘もなくて刀身だけ。
美しい白刃が弧を描いて反り上がる。
「確かに。能とか歌舞伎、絵巻物の世界。御伽草子とかね」
「だったら、そんな刀あるわけないよ」
「そやけど。物語は後から付いたんやろけど、そう呼ばれてる刀があるの。源頼光は、直系の子孫が源頼朝と義経。安倍晴明の一条の屋敷のすぐ近くに住んでた。渡辺綱は、源氏物語の光源氏のモデルになった源融の、孫の孫。平等院は融の別荘跡を、藤原氏がお寺にしたもんなの」
「つまり、実在した人ってこと?」
「そう。どの史跡もそんな遠くないよ。自由研究、私とパワスポマップ作らへん?」
紅葉が咲良を誘った。
咲良は太刀の写真に見入った。
「…この刀、ちょっとだけ見てみたいかも」
「毎月二十五日に公開してる。春と秋も特別公開してる。今週、行かへん?」
「えー!? 結構面倒臭いって言うか…。だるい…」
咲良は積極的な紅葉にびっくりした。
「君、暇やろ? テーマも決まってへんし、もうこれでええやん!」
紅葉が強引に話を決めてしまった。
で、これが事件の発端。
4
咲良は北野天満宮に来たことがなかった。
市バスの中で、咲良は紅葉が持ってきた、歌川国芳の画集を見た。
歌川国芳は江戸時代末の浮世絵師だ。
画集は、おどろおどろした悪霊、奇怪な鬼の姿でいっぱい。
髑髏の絵は、人間の骨格を正確に表現している。
美人から鬼女、幽霊まで幅広く。
そして、渡辺綱が鬼を斬る場面があった。
この絵では、渡辺綱が重厚な鎧兜を着用している。
咲良はヒゲ面の渡辺綱を見て、吹き出した。
「手の甲に毛が生えてるー。ヒゲ濃くて、キモいー」
「君ね、そう言うけど。ほんまにこんなんやったかも知れへんでしょ。光源氏のモデルの子孫やから、綺麗な顔であって欲しいけどね」
咲良の頭の中で、歌川国芳の絵が動き出した。
平安時代、京の都。
一条戻り橋。
美しい女が困っているので、助けてやろうとすると、突如、鬼の姿に変わる。
鬼が渦巻く黒雲の中から、渡辺綱に襲いかかる。
「いやぁー、やぁー、やぁー」
青鬼の手から雷光が閃く。
鬼は眉が無く、ぎょろりとした目を血走らせ、広く上がった額の生え際から二本の角を生やしている。
鬼の毛むくじゃらのでかい手が、渡辺綱の兜を掴んできた。
渡辺綱を空中に引き上げ、連れ去ろうとする。
渡辺綱が鬼の腕をしっかりと掴み、腰に吊るした太刀を抜刀する。
「ふんっ」
渡辺綱は大きな眸で鬼を睨み付け、口をへの字に結んでいる。
口元には八の字ヒゲ、顎にも濃いヒゲがあり、体格は大柄で逞しい。
渡辺綱は一刀のもとに、鬼の腕を切り落とす。
「うぐわぁううるーるー」
鬼は獣のような唸り声を上げ、黒雲の渦に消え入る。
後日、かの鬼が渡辺綱の老いた養母に扮し、腕を取り戻しにやって来る。
渡辺綱は源頼光に言われた通り、物忌みをして誰にも会おうとしないが、養母にだけは気を許してしまう。
かくして鬼は醜い姿を現し、己が腕を持って屋根を壊し、夜空へ飛び上がる…。
「着いたえー」
「紅葉さん、待って…」
咲良が紅葉を追いかけ、バスを降りた。
すぐに石の大鳥居が見えた。
今にも雨が降り出しそうで、空がどんよりしている。
「なんか、だるいなー」
「君、それ、口癖やな」
北野天満宮は梅の名所だ。
「梅が咲いてる頃に来たかったな」
「その季節は人がぎょうさんいて、面倒やで」
紅葉が咲良を引っ張っていった。
「閉館が四時やねん。あんまり時間がないから、宝物殿見てから参拝しよな」
靴を脱ぎ、宝物殿の玄関に入る。
館内は静寂に包まれている。
受付で入館料を払うと、そこから先は誰もいなかった。
彼女達は鬼切が見たくて、最初に太刀の展示に向かった。
太刀が四本並んでいた。
鬼切は十三世紀、鎌倉時代中期の太刀と考えられている。
酒呑童子を斬った童子切と呼ばれる太刀も、安綱は平安時代後期の刀匠だから、源頼光より少し後の話だ。
鬼切は小切先で、他の太刀よりも長め。
軽量化の為に掻き通しの樋が入り、強めの反りが弧を描く。
薄暗い館内のガラス越し、金屏風の前に、絹を掛けた台に載った太刀。
スポットライトを受け、神々しく輝いている。
咲良はどこからか、鈴が玲瓏と鳴っているような気がした。
遥かな異界、隔てられた時空へ来たように。
咲良は耳を澄ませ、周囲を見回した。
「数百年経ってるものって、神霊が宿ってそうって思わへん?」
紅葉が言った。
「きっれぇー!!」
咲良は自分でも気付かないうちに、感嘆の声を漏らした。
「でしょ? 鬼を斬ったと言われるのもわかる気ーするなぁ。銘は国綱と刻まれてるけど、元の字は安綱やったらしい。それも定かちゃうけど…」
「なんで、鬼の物語が生まれたの?」
咲良は不思議に思う。
「さぁ。物語の原型は、室町時代には出来上がってたらしい。その頃の時代背景とかが、話に組み込まれてるかも知れへんな。鬼は比喩なんやろな」
紅葉が考えながら答えた。
咲良はしばらく無言になり、鬼切に見とれていた。
また彼女の頭の中で、歌川国芳が描いた絵が動き出すのだった。
陰謀の酒に酔い潰された酒呑童子は、岩を枕に大いびき。
人間の何倍もある大男で、美しかった顔の半分は、妖怪のように歪んで崩れている。
源頼光の四天王と呼ばれた家来が取り囲み、勇ましく太刀を振り上げる。
四天王は渡辺綱、金太郎こと坂田公時、碓井貞光、卜部季武だ。
気配に気付いた酒呑童子は、酒のせいで身動き出来ない。
その隙に酒呑童子の背後に回った、一際華やかな鎧の源頼光が、斜めに太刀を構える。
頼光は首を落とす機会を狙っている。
首を落とした瞬間、酒呑童子が頼光の兜にガブリと噛みついてくる…。
そこで紅葉が喋りかけ、咲良の空想も途切れた。
「うちの父親が骨董屋さんで買うてきた、抜けへん刀があるんやけど。桐箱に入って、紐で固く封してある…」
「錆びてるだけじゃない?」
「シャーマンにしか抜けないって、霊媒師が言うてたらしいの。抜いたら呪われるらしい。そんな気持ち悪い刀を、うちの父親は高い値で買うてきた」
紅葉がぶるっと震えた。
「私が抜いてあげよっか。そんな迷信、怖くないよ」
と、咲良が言った。
おとなしいと思っていた咲良がはっきり言い切ったので、紅葉は少し驚いた。
「へぇー、抜く自信あるの? 全然怖くない? ほな、今度、君に見せてあげる。私も見てみたい。こんな綺麗な刀やったらええけど、血の染みが浮かび上がってたりしてな…」
紅葉がスマホの時計を見た。
彼女達は館内を一周し、残りの展示品を見た。
宝物殿を出た後、参拝に向かった。
そろそろ、午後四時。
境内にいる人の数も減ってきた。
雨が降り出し、地面をぽつぽつと濡らしていく。
ちょうど、一人の高校生が参拝を終え、引き返してきた。
彼はブレザーの制服を着て、居合刀を入れる黒いケースを肩に掛けている。
垢抜けて細く、ぱっと人目を引くものがあった。
中門で彼女達と擦れ違い、前を向いて、さっさと歩いていく。
「あの制服、R高やん。うちの兄貴もR高行ってんの」
紅葉が振り返って、咲良に囁いた。
「…あのケースって、居合刀を入れるやつ。居合やってはるのかぁー」
紅葉が立ち止まった。
「めっちゃ綺麗な顔してはったなぁ…」
彼女はしばらく、少年の後ろ姿を見送っていた。
「宝物殿に入ったよ」
「え、もう閉館やで? 今からやと、全部見れへんのに」
咲良と紅葉は顔を見合わせた。
「ま、ええか? うちらには関係あらへん。どうせ、居合やってはる人なら、刀だけ見はるんやろ」
彼女達はお賽銭を入れ、鈴をじゃらじゃら鳴らした。
学問の神様・菅原道真を前に、真剣に手を合わせた。
5
咲良と紅葉が参拝するのに、五分かからなかった。
彼女達は参道を引き返しながら、そのうち黙ってしまった。
さっきの少年が宝物殿から出て来て、彼女達の少し先を、楼門の方へ歩き始めた。
追いつきそうで、追いつかない。
突然、少年と彼女達の間を割るように、宝物殿から女の人が走り出てきた。
「たっ…大変ですー!! 展示してた刀が…!! 鬼切が…ありませんー!!」
受付の女の人が引っくり返った声で叫び、外にいた関係者を呼んだ。
「ええーっ!!」
咲良と紅葉も大声で叫んだ。
女の人が転んだので、二人で助け起こした。
「鬼切がないんですか!? うちらもさっき、見せてもらいましたけど!?」
紅葉が尋ねた。
受付の女の人は、完全に取り乱している。
「あなた達、さっき入った中学生の…。今日の最後のお客さん。じゃ、それまで鬼切はあったということですね!?」
「さっき、高校生が一人来たじゃないですか?」
咲良が口を挟んだ。
「いいえ、あなた達が最後ですよ。何のこと?」
女の人は首を傾げた。
「警察を呼んでくる!」
ガイドらしき関係者が、社務所の方へ走っていった。
受付の女の人は、咲良と紅葉に状況を話した。
「警報器は鳴らなかったし、鍵も閉まってました。ガラスも割られてない。一本だけ無いの。他は価値の高いものも、全部残ってます。誰がどうやって盗んだんでしょう!? どうしましょう!!」
「落ち着いて下さい。すぐに警察が来ますよ」
咲良と紅葉は、女の人に付き添って宝物殿に入った。
さっき見たばかりの、あの鬼切がない。
鬼切の刃渡りは84.4センチ、全長は108.4センチもある。
通常の鞄には入らないし、鞘なしの日本刀だけに危ない。
刀を入れる箱などが必要だ。
「紅葉さん。さっきの高校生、刀のケース持ってたし…。もしかして…」
咲良はドキドキしながら、紅葉に小声で言った。
「十中八、九、あの高校生が犯人やろ。うちら、顔、しっかり見たな」
紅葉も興奮を抑えきれなかった。
「たった五分で、こんなこと出来るかなぁ!? あの高校生、ガラスを通り抜けたの?」
咲良が聞いた。
紅葉は我慢出来なくなって、
「まだ近くにいるかも。捜してくる!!」
と、宝物殿を飛び出した。
紅葉と咲良は楼門まで走った。
石の大鳥居まで、直線上に彼の姿はない。
通りに出てしまうと、最早、どっちに行ったのかもわからなかった。
やがて、北野天満宮の向かいにある上京警察署から、警官が到着した。
「防犯カメラの映像は、何故か途中で止まってます。犯行の瞬間は、何も映ってないようですね。いきなり刀が消えてる。狐につままれたみたいです。その高校生は、恐らく関わりないでしょう。忘れてあげて下さい」
「そんな…。うちらは鬼切を見に来たのに、その鬼切が盗まれるなんて」
紅葉は信じられなかった。
6
自宅に帰った紅葉は、兄の蘇芳と話した。
「それは大変やったな。盗難事件て、すごい現場に遭遇やんかー」
蘇芳はパソコンデスクの椅子に頬杖着き、面白そうに言った。
「犯人らしい高校生がいてん。おにぃと同じR高の制服着てはった」
「証拠もないのに、犯人扱いせんとき」
「犯人とは限らへんけど、怪しいねん。居合刀のケース持ってはった。おにぃ、誰かわからん? めっちゃ顔整ってはったで」
紅葉の兄は、R高の剣道部の主将だ。
「うちの剣道部に、居合やってるヤツおったかなー?」
蘇芳は思い当たらない様子だった。
「男前はいてるけど、めっちゃ整ってるて言われたら…誰やろな? 大体、剣道と居合は動きがちゃうから、ややこしくなるし、普通は同時にせぇへん。その人は、どっかの居合の道場に行ってはるんやろ。…なんや、一目惚れしたんか? 紅葉?」
「やめて、おにぃ!」
紅葉は赤くなり、誤魔化すように怒った。
彼女は兄のノートパソコンで、京都の居合道場を検索した。
十件以上ヒットした。
「こんなにあるんかー。思ったよりたくさんある」
紅葉はがっかりした。
「犯人捜し? やめとき。危ないわ。あんた、一人で天神さんに何しに行ったん?」
「クラスの友達と、パワスポマップ作るねん。自由研究で」
「あんた、クラスに友達出来たん?」
蘇芳は珍しい話を聞いたみたいに、驚いた顔で妹を眺めた。
「失礼やな、おにぃ。友達ぐらいおるわ。その子は四月から転校してきたばっかりで、いつも一人やねん。心配やから、誘っただけ。同じクラスのお姫様、小野真知の話、前にしたやろ。通称・小野小町。早速、その子はコマチ怒らしてしもてな。クラスで浮いてしまいそうやねん」
紅葉が転入生の世話を焼いていると知り、蘇芳は嬉しそうに、
「へぇー、小野小町を怒らしたん。なんで?」
と、話を続けた。
「その女の子、咲良って言うんやけど、めっちゃくちゃ可愛いの。それで男子が騒いでて、コマチはお気に召さへんのや」
紅葉が溜息をついた。
「へぇ、そうなん。親切にしたりや」
蘇芳が微笑んだ。
「うん…」
紅葉はまた、盗まれた鬼切のことを考え込んだ。
どうしても気になった。
鬼の仕業のよう。
蘇芳は妹の肩を叩き、
「もう忘れよし。あんたが考えても、しゃーないわー」
と、風呂に向った。