受け継がれるもの
2016/3/22:記号◇の位置を動かしました。
2016/3/31:本文誤字修正しました。
2016/10/21:本文修正しました。
八ヶ月。それは風色を移ろわせ樹林が羽織る衣を着替えるには充分な歳月であった。
見渡す限り広がる白銀の絨毯。樹々が密生してるからこそ織り成される息を呑む光景であった。肌を刺す冷気が白銀の絨毯の上を滑るように駆け抜け、白塵を巻き上げる。その白塵も何事もなかったかのように己が寝床に戻っていく。そうして静寂が権威を振り翳し辺りはまた音を失うのであった。
しかし、その影響を受けていない場所が山腹にあった。見ると洞窟があり、その入口で何人かの男たちが忙しく行ったり来たりしているのが見える。慌ただしいと言い直したほうが良さそうだ。
「こらダンテ! お湯が足りないよ! さっさと持ってきなぁ!!」
洞窟の奥から活気に満ちた老婆の声が飛び出てくる!
「はぃっ! 何で俺が!? サマンダとクルツを連れてきたのはこれのためじゃないのかよ!?」
「何グズグズしてんだい!? 早くしなぁっ!」
「はぃっ!!」
130cm程の背で、豊かな媚茶色の髭を頬から口元に蓄えている小太りの男がお湯を満たした桶を抱えて洞窟の奥に駆け込んでいく。その姿を見ながらお湯を沸かしている釜の側に立つ長身の美青年がにやりと口元を歪めるのだった。
金髪で薄緑色の瞳をしたその男の耳は尖っている。人のそれと比べたら二倍の長さはあるのではないか。男はエルフだ。先程大きな声を張り上げていた老婆の護衛と名目で付いてきたのだが、結局雑用を手伝わされていたのである。
本当は先程お湯を運んでいったドワーフの男、ダンテの嫁のテレジアが出産するのでその立会にラウラが指名されてやってきたのだ。だが、今までの経験上そんなに静かに終りはすまいと予想していたら、案の定。こうなった。
「フィーニクス! もっとお湯を沸かしとくれっ!!」
「おぅよっ!」
老婆の声に負けじと大きな声で応える。お湯の元なら周りにいっぱいある。フィーニクスと呼ばれた男は空の平桶を手に洞窟の外に出て、降り積もった雪を平桶に詰め込み始めるのだった。そしてそれを再び釜の上にかけてある大鍋に入れてお湯を確保する。
一見簡単そうだが、この単純作業を彼此一刻はやりっ放しだ。流石に腰に疲労感を覚えている。今回のお産はエルフの里と同じやり方にするらしく、男子禁制だ。夫のダンテが入って行けるということはまだ始まってないということだろう。それはドワーフ族でも同じらしく意外な共通点があることも分かった。
「ふぅ、次からは家の前までお湯を届けるだけで良いそうだ」
そう奥から戻って来たダンテが額の汗を拭きながら報告する。
「だがこうエルフとドワーフが出産に同席するとは奇妙なものだな」
「ふふ、違いない。俺も初めての経験だ」
フィーニクスの言葉にダンテが笑う。その笑いに合わせるかの様にパチパチと釜の中の薪が罅ぜる音が洞窟内に静かに響いていた。
◇
洞窟内の家の中では四人の女たちがそれぞれの役割を果たそうと慌ただしく動いていた。その内一人は椅子に座っていたのだが、椅子の作りも変わったものであることに気付く。背凭れのある椅子の肘掛けの部分が頑丈な作りになっており、座面の前半分も背凭れに向かってUの字にくり抜かれているのだ。座産用の椅子である。着衣はワンピースのようなひと繋ぎでゆったりとしたものだ。
この時代、仰向けに横になった状態で出産に臨むことは稀であり、立産かテレジアの場合のように座産となる場合がほとんであった。ある種の幻獣族やその他の水棲種は水中出産を行うようだが、その多くが人眼に触れる前に終わっているために噂の域を出ないのが現状だ。
「テレジア陣痛はどうだい? 間隔が短くなってきたかい?」
座産用の椅子に腰を預けているテレジアの顔が痛みの為に歪んでいる。陣痛が本格的に起き始めて一晩は経っていた。初産だけに不安はあるのだが、眼の前で様子をうかがてくれるエルフの老婆ラウラの存在がより大きな安心感をもたらしていたである。ラウラの移色の瞳がまっすぐテレジアの銀灰色の瞳を見据えていた。その表情から少しでも胎の状態を知ろうとして…。
「くっ、はい。先程より痛みの間隔が半分位で来るようになりましたし。うっ、い、痛みの長さも少し、な、長くなったような気がしますっ」
「そうかいそうかい。順調だね。 もう少しで生まれるから気を抜くんじゃないよ?」
「はいっ」
ラウラは眼を細めて、テレジアの後ろに回り優しく背中を摩り始めた。それで少し痛みが和らいだように感じたのか、彼女の表情が柔らかくなる。その様子を微笑ましげに見ていた美しい女性が、背中まで伸ばした金髪を揺らしてテレジアに近づき手にした布で額の汗を拭き取るのだった。
「テレジア、初産は大変だけど、味わうこともできる喜びも一段と大きいから頑張りなさい。わたしの時も母様に助けてもらったのよ?」
そう言いながらいたずらっぽくテレジアの背中を摩るラウラに視線を向ける。
「ふんっ! あんなに手のかからない出産は初めてだったよ! その娘もこんなにでっかくなってしまって」
「もうお婆様ったら! なんでそんな弄れた言い方しかできないの!? こんな可愛い孫娘が手伝いに来てるっていうのに!」
「はん、よく言ったね。それだけ言えれば大したもんさ」
どうやらこの三人は血縁の様で、老婆、老婆の娘、老婆の孫という関係らしい。先程ダンテが口走っていた女性の名前に合致するのだろうが、どちらがどうかわからない。ただ、ダンテですら口答えできない老婆に面と向かって言いたいことを言える孫娘も相当なものだろう。
口悪く言い返すラウラではあるがどうやらこの会話を楽しんでいる節がある。目元が笑っているのだ。それは家族でなければ気づかない些細な変化に違いない。テレジアはそんな遣り取りを楽しそうに眺めては時折苦痛に顔を顰めていた。
家の中でも暖炉が焚かれており、そこでも湯が沸かされている。テレジアが出産したらすぐに横になれるようにすぐ近くにベッドも準備され、その上に稚児が生まれたらすぐに包めるように襁褓や体を拭くための布が置かれていた。
「本番はこれからさ、始まったら休憩も飯を食べる事さえ出来やしないよ。サマンダ、今のうちに食事を出しておくれ」
「はい、母様」
テレジアの背中を摩りつつ、ラウラは己が娘に促す。先程から鼻孔に美味しそうな匂いが漂ってきていたのだ。山羊の乳のスープだね。あれは良い、消化も早いし精がつく。ふぇっふぇっ、この子もなんだかんだ言って出来るようになってきたね。ラウラはそう思いながらテレジアに微笑むのだった。
「悪いがテレジア、あたしたちは先に食事を摂らせてもらうからね」
「あ、はいっ。お気遣い無くっ、あぁっ」
どうやら言葉を出すとつい苦痛に喘いでしまうようだ。テレジアの背中側に丸テーブルが置かれており、そこに丸椅子が三つ置かれている。そして、テーブルにラウラの予想通りの山羊の乳のスープが各木皿に取り分けられて配分され、固めのパンがカゴに入れられた状態で置かれる。
「クルツ、あいつらにも持って行っておやり。まだ湯を作ってもらなきゃならないんだ、倒れない程度に食べておけと伝えてくれるかい?」
「うん、分かったわ。お婆様」
ラウラに言われて座ろうとしていたのをやめ、奥で二人分のスープとパンを取り分け木製のトレーに載せて外に持って出るのだった。孫娘をクルツ、娘をサマンダというらしい。
◇
「フィーニクス小父ちゃん、ダンテさんご飯だよ! お婆ちゃんがね、まだ湯を作ってもらなきゃならないんだ、倒れない程度に食べておけ、だってさ」
食事を家の外にいる男たちに食事を持ってきたクルツはそう言って木製のトレーごとフィーニクスに渡すのだった。
「ありがとう、クルツ」
「助かる。ラウラの婆さんに扱き使われすぎて子どもの顔を見る前に倒れちまうかと思ったよ」
「へへ。 お婆ちゃんは其処まではしなけど、慣れない人は大変だろうね。はい、これこっそりおまけ持ってきた」
「「おおっ!」」
ダンテの泣き言を何故か嬉しそうに聞くクルツだったが、彼女は知っているのだ。自分の祖母が気に入った者しか使わないということを。ただ、その事を本人には決して伝えない祖母の性格も弁えていたので、こっそりと布で包んだものを二人に手渡したのだった。
干し肉だ。元々は母のサマンダが食事の準備をしながら娘にこそり渡してくれたものだ。こっちに手伝いに来る時に一緒に持ってきた食材の一つであるのだが、スープとパンだけじゃ持たないだろうからこれも渡してあげなさいと言われてたのである。
その時はお母さんが持っていけば?と思ってたんだけど、結局わたしが食事を運んでる。お母さんの読みって鋭いよねぇ~。そんな事を考えながら男達に食事を渡してたのでつい笑が溢れたのだ。可愛らしい少女の笑みに勝る癒しはない。男たちは胃袋だけでなく、心もほっこりさせてもらったのであった。
「テレジアの状態は?」
妻の状況が知りたいらしく、スープに浸したパンを口に運びながらダンテがクルツに尋ねた。
「これからが本番だろって。わたしもお産に立ち会うのは初めてだからよく分からなくて。ごめんねダンテさん」
「いや、いいんだ。それさえわかれば心積もりもできる。ありがとう」
「ううん、じゃ、わたしもご飯食べておくね! 終わったら家の前に置いておいて!」
クルツはそう言い残して元気よく家の中に走り込んでいったのであった。
「良い娘だろ?」
「なんであんたがそれを言う?」
「ふふっ。里の娘はある意味自分の娘みたいなもんさ」
「お前のとこにも子がいるのだろ?」
「いや、いない。と言うか嫁をとってないのだ」
「その歳でか? いや、すまん」
「ふっ、いいのだ。ラウラの婆さんにいつも言われてるからな」
「お前ほどの男前だ、俺と違って寄って来る娘もたくさん居るだろうに」
「まぁ居るにはいるが。正直なよなよした娘には、な」
「ぶわっはっはっは! なよなよしたか!! そりゃいい!!」
「おい! 口の中のものを俺に飛ばすな!」
その後ろ姿を見ながら、男たちは食事を続けながら近況を語り合うのだった。だが、フィーニクスが独身でいる理由を聞いた時にダンテが思わず噴き出してしまったのだ。だがダンテとしてはその理由に共感が持てた。自分もそういう理由で里の娘との縁談を断り続けてテレジアに巡り会えたのだから。
「いや、すまんすまん! つい嬉しくてな」
「は? 喧嘩売ってるのか?」
「ぶふふっ! いやいや、俺もそうだったからよく分かる」
「ーー」
「まぁエルフと違ってドワーフ族は美人は居ない。居ない事はないがどっちかといえば可愛い、か。そういう娘らを嫁にと押し付けられた記憶が甦って、つい笑ってしまったんだ。すまん」
「ドワーフこそなよなよしとらんだろうに」
「ぶはははっ! そうだ逆だ! 可愛いのに逞しすぎてな、その娘らを嫁に取った自分が想像できなかったのさ!」
「ぷっ、なんだそれは」
「だからお前の気持ちは良くわかるぞ、フィーニクス! お前さえよければドワーフの」
「いるか!」
「ぶわっはっはっは!」
「だから口の中のものを俺に飛ばすな!」
男たちの談笑は続く。ダンテは久々に腹の底から笑った気がした。そしてフィーニクスとは良い友になれそうだ。そんな事を想いながら干し肉を噛み千切り、ゆっくりと噛み締め唾液と混ぜるのだった。口の中から鼻に向けて燻したいい薫りが抜けていく。旨い、思わずそう呟いていた。
◇
「ぶわっはっはっは!」
外から夫の陽気な笑い声が家の中に届いた。あぁ、いつぶりだろうか。あの笑い声を聞くのは。わたしの好きな笑い声。あの声を聞いてるだけであぁ、わたしの決定は間違ってなかったとそう思える。不思議とさっきまで感じていた痛みが和らいだ気がする。あの人の御蔭? そこまで言ったらラウラ様に笑われてしまうわね。
これが子を宿し、産むということ。頭では分かっていたけど、それとは全然違ったわ。娘ができたらしっかり教えてあげなくっちゃ。でも、この子は女の子じゃない気がする。ラウラ様もわたしの顔を見るなり言ってたわね。「こりゃ男だね」って。ふふ、今はどちらでもいい。わたしたちの大切な子どもなのだから。
「ぶわっはっはっは!」
あ~また笑ってる。人がこんなに大変な思いしてる時に何を笑ってるのかしら? もう、後でしっかり教えてもらいますからね! ふふふ、でもこんなに幸せでいいのかしらと思えるわ。サマンダさんが言ってくれたように「味わうこともできる喜びも一段と大きい」ってこのことかしら。あなたもママやパパの顔が早く見たい?
わたしたち家族は、普通の家庭のように平安な生活を送れずそういったものからは無縁になってしまうかもしれないけど。でも、幸せだって感じれる時間をいっぱい作るからね! ママもパパもそのつもりであなたを身籠ったのだから!
……パパはね、あんなによく笑う人なのよ。だからいっぱい一緒に笑いましょうね。
「うぅっ! 痛いっ!」
「!! 始まったかいっ!? あんたたち、お湯を用意しな! クルツはダンテたちに湯をもっと沸かして持って来いって伝えてくれるかい!?」
「「分かった!」」
慌ただしく女たちが動き始める。ラウラは娘と孫に指示を与えて、テレジアの裾をがばっと捲る。下着を着けていない女性の太腿の付け根にある大事な部分から半透明なものに包まれた頭部の様な物が出始めていた。
「出てくるよ! 急ぎな!!」
「「はいっ!!」」
◇
「始まったよっ!! お湯の準備お願いしますっ!!」
「「分かったっ!!」」
クルツ声が洞窟内に響く。家の扉を開けて叫んでるだけなのによく通る声だ。それに負けないように力強い男たちの声が家の中に飛び込んでいくのだった。それを確認したクルツはにこっと笑って踵を返すのだった。
◇
「ううっく! あぁあっ!!」
「息んだらダメだよ! もう頭が出始めてるんだ! 痛いだろうけど、息まずにゆっくり呼吸してごらん」
「ふぅぅぅぅ~~~っつぅうっ!!」
「そうその調子! ゆっくり、ゆっくりだよ」
「ふぅぅぅぅうぅ~っ」
「あんたたち! 何ぼさっとしてるんだい! いつ出てきてもいいように平桶に湯を張るんだよ!」
「「はい!」」
ラウラの言葉に出産に釘付けになっていた二人がびくっと体を震わせて動き始める。サマンダもエルフの出産には幾度となくラウラの助手で立ち会った事があるものの、獣人の出産に立ち会うのはこれが初めてなのだ。クルツにとっては出産する様子自体が初見だから無理もない。
だがそれは遠巻きの事情であって、出産している本人とこの世に姿を現そうとしている赤子にとっては関係のない話であった。家の奥の方でざざーっとお湯が流し込まれている音がする。サマンダがいるのだ、ある程度の目算で温度調節をしてくれるだろうさ、そんな事を考えながらラウラの眼は赤子に釘付けになっていた。
「(なんだいこれは。獣人てのは獣を生むのかい? いや、違うね)」
自問自答を繰り返す。
「湯を持ってきたぞっ!」
「クルツもらっておいで!」
「はいっ!」
扉の向こうからダンテの声がして我に返り、孫娘に仕事を任せる。ダンテに聞きたいと一瞬考えたが、男子禁制ですると言った以上筋は通す。そう自らに言い聞かせ、己の知識の蔵の扉を開け放つのだった。
多くの伝承や伝説がある中で出産に関する情報は多くはない。不貞を働いたこともないエルフの夫婦の間に起こる取り替えっ子と呼ばれる悲しい現象。稀に起きるこの事象で悲しい別れをした夫婦を何組もラウラは見てきた。長寿ゆえの悲し経験だ。
そういう子は決まって人間の街の子のない家にこっそりと捨てられることになる。“森の加護”を受けて。
混血の夫婦で見られる事案は純血種と容姿が若干異なる。人とエルフの場合、人らしい容姿をしつつも耳はエルフのように尖っているということだろう。エルフのそれより短いためにハーフエルフと差別的に呼ばれることも多くない。多くは親元で育てられるが、差別に悩みやがてエルフの里を捨てる事になる。
そして、先祖返り。取り替えっ子よりももっともっと起きる事のない事象。二親や現存する二親に連なる種族の中あってさえ比肩することのできない能力を有して生まれてくる存在。始源の能力を有すると伝承では書かれていたが。
「母様これはーー」
サマンダがお湯を持って来て絶句した。その後ろにはクルツも居る。
「いいかいお前たち、ここで見たことは他言無用だよ。下手をするとあたしたちの命だけじゃなく里まで危険にさらすことになるからね」
「「ーーーー」」
ラウラの気魄に二人は息を呑んで黙ったまま頷くのだった。
「これはね、先祖返りだよ」
「ふぅううぅぅうぅぅ~~~っ」
「いい子だ、もう少しだからね。頑張るんだよテレジア」
彼女たちの話に耳を傾けるどころではないテレジアは一心に分娩を行なっているのだ。そんなテレジアを愛しそうに見つめ、頭を撫でながらラウラは励ますのだった。
「わたしも見るのは初めてだけどね。あたしらはいまとんでもない瞬間に立ち会ってるのかもしれないよ? ふぇっふぇっ」
未だ胎児から目を離せずにいる娘と孫にそう語りかけラウラは楽しそうに笑うのだった。あとは自然に出るのを任せるだけの状態になったことを彼女は経験から悟っていたのである。その言葉に娘と孫が一瞬ラウラに眼を向ける。そんな事象が目の前で起きてるの!?と。
「さぁ、いい子だ、肩が出たよ。ほら息を吐いてごらん」
「ふぅううぅぅうぅぅ~~~っ」
ずるんっ びしゃびしゃびしゃ
赤子が胎から抜け出た瞬間、子宮に溜まっていた残りの羊水が抜け出て床を濡らす。
「よし、テレジアよく頑張った! 男の子だよ!」
ラウラが取り上げるが息をしていない!? それもその筈、赤子は羊膜に包まれたままだったのだ。しかも狼の仔という姿で。
「テレジアよくお聞き、お前が産んだ子はまだ息をしちゃいない」
「!!!」
「お前が息をさせてやるんだ」
「どうやって」
ラウラが羊膜に包まれた赤子をテレジアに渡そうとすると。
「母様良いのですか?」
サマンダがその袖を引いて確認してきたのだ。産まれてこれだけの時間経っているのに泣き声もなく、息をしていないという事実が何を意味しているのかサマンダも経験から知っている。
「いいんだよ。こうじゃなきゃこの姿で生まれた意味がないのさ」
「それはどう言う」
サマンダは更に詰め寄ろとしたのだが、ラウラは袖を振り払いテレジアに羊膜に包まれたままの我が子を手渡したのだ。
「!!!!! これはーー」
「正真正銘あんたの子さ、多分先祖返りだろうけどね。早く膜をとって息をさせてやりな」
「先祖返り。あ、はいっ!」
「「えっ?」」
ラウラの説明に家族は耳を疑った。膜をしてるから息をしてないのだと。そう言ったのだ。状況が飲み込めていないのか、あるいは獣人としての本能の成せる技なのか、テレジアは優しく我が子の口元の羊膜をなでるように剥いでゆく。そして口が現れた時、彼女はその子に口づけをしたのだった。
「「!!」」
「…………」
サマンダとクルツは驚いているが、ラウラは当たり前のように優しい眼で見守っている。
ぴゅっ ぴちゃっ
口づけてはなかった。テレジアは我が子の口の中に詰まっている羊膜を吸い出していたのだ。不謹慎ではあるがサマンダとクルツは同じ光景を思い出していた。それは里で飼っている狼の出産だ。狼は出産したあと、我が子に着いた羊膜を綺麗に舐めとっていた。テレジアは狼の獣人と聞いている。そこでラウラの謂わんとしたことが理解できたのだ。
優しく吸出しを何度かした瞬間。
かはっ! こほっ!
仔狼が咳込み、喉の奥から羊膜や羊水を吐き出したのだ。その瞬間! 仔狼の体が銀色の閃光に包まれる!?
「「「なっ!?」」」
それは誰もが予想し得ない瞬間だった。その閃光の中さらに予想外なことが起きたのだ。
「おぎゃあっ! おぎゃあっ! おぎゃあっ! おぎゃあっ!」
元気な泣き声が家と洞窟の中を優しく包み込むかのように満たしていったのだった。誰も言葉を発していなかった。この胸を打つ瞬間に言葉などいらなかった。ただただ起きた奇跡に胸を打たれ、母の愛の偉大さに頭を垂れ、訪れた幸福を味わい皆が涙したのである。
それはある冬の昼下がりに起きた、色のない世界に彩を与えた瞬間であったーー。
最後まで読んでくださってありがとうございます。