線路脇で女と話す
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―――これは、誰もが思うおかしな話。
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「ここ、良いね」
俺の脇でそいつはそう言った。
「奇遇だな。俺もここにしようかと思ったとこだ」
そこは小さな踏切。俺は端に寄り、宿に置いてこなかった小荷物を下に下ろす。その際に、持ってきた一枚のキャンバスも下に置いた。そこには一人の男が描かれていた。
ユウヤ(夕夜)だ。
「シン、」
「なんだ」
「草が画面に当たるんだ」
「払えってか? どうせ痒くないんだろ」
「気分だよ、気分。こんな近くに葉っぱがあると、目に入るんじゃ無いかってはらはらするんだ」
「だから入りやしないだろ。絵の癖に」
俺は呆れて頭を掻く。というより、面倒くさくてだ。
「ほら。もういいな」
俺はユウヤの画面に当たる草を適当に払って立ち上る。
「まった」
引き止められて目線を下げると、したり顔で自分の鼻を指差す絵があった。
「鼻が痒い」
どこかの国の王子様が家来に言うようにそいつはそう言った。足下の絵へ、俺は目を据わらせる。
「嘘つけ」
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日は傾き赤茶に錆びた線路がオレンジ色に照らされる。
俺はあの場所から一歩も動く事なくそこにいた。
こんな線路と田舎風景しか無い場所で、今の今までずっと何をしていたのか。それはたった一つだ。
俺は絵を描いていた。
持ってきた小荷物の中身は油彩道具。絵の具にオイルに筆洗油。筆、ナイフ、ぼろ布。タオルと水筒と軽い食料。財布と言う名のぼろ袋。
一応持ち歩いている速乾剤の類いは余り使わず、俺はノーマルな道具で油絵を描く。頭に巻いたタオルは髪が視界に入らないようにするためだ。もともとそんなに長くは無いが、前髪は目にかかる低度にあるため、何かする時はこうしてタオルを巻いている。
地べたに腰を下ろし片手でキャンバスを支える。絵描きといえば、イーゼルにキャンバスを立て、自らの頭にベレー帽を乗せてるイメージがあるかもしれない。だが、俺にはイーゼルも無ければベレー帽も無い。イーゼルは便利だが、旅をするにはでかい荷物だ。そしてベレー帽は論外。あんな物を被って笑い者になるつもりは無い。
迷惑な事に、自分が動かなくとも景色は動く。線路には列車が走るし、その振動で置き石は少しずつ少しずつ移動をする。先程まで青々としていた木々は夕日に燃やされ、流れていた雲の姿は全くと言って良いほど地平線に吸い込まれてしまった。
腹立たしいとは思う物の、風景を描くなら当たり前な事。これくらいの変化は無いも同然ということだ。
日が傾いて来たせいか、風が冷たく感じる。
「そろそろ終わりか」
「そうだね」
誰ともなくに呟いた言葉へ、ずっと横にいたユウヤが相槌を打った。独り言のつもりだったのだが。
相槌を打ったそいつはというと、何もすることもなくただずっと俺が絵を描く様子を眺めていただけだったが。嫌気がさして来ることは無いのか、はなはだ疑問だ。
俺は知らずのうちにキャンバスの中の男を見下ろしていた。そんな俺の視線に気づき、中のそいつは俺を見上げる。
一瞬の沈黙。
どうでも良い時間の経過の中、そいつはなんとも楽しそうにほほ笑んだ。
多分、こんなに人当たりのいい絵はこいつくらいであろう。
*** *** ***
その女が現れたのは、まだ日が沈むことの無い夕方。
キャンバスの中に出来た風景に俺が満足し始めた頃だ。
「そろそろ終わりか」
「そうだね」
俺とユウの他愛も無い会話を、その女は一歩下がった場所から観覧していた。
「なにか」
俺はナイフについた絵の具をぼろ布で拭き取る。
「えぇ、とても良く描けてるわ」
「ありがとうございます」
筆の絵の具を、ナイフ同様ぼろ布で拭き取る。
「貴方、絵描きさんね」
「一応。自分でそう名乗った事はありませんが」
「ニートみたいなもんだよね」
横から口を出して来たユウヤに肘を入れる。ユウヤの絵は「わっ…」と声を漏らしてパタリと地面に倒れた。可哀相に。画面が下になってるではないか。きっと人間だったら顔が砂ぼこりにまみれていたに違いない。
裏の木枠があらわになったキャンバスを目の端に捕らえ俺はほくそ笑む。
「貴方は、今日ここに来たの?」
「そうです」
「そう…」
女は申し訳無さそうに表情を曇らす。少々伏せ気味な睫毛が長い影を落とし、細かく震える。彼女は大きく形のいい目を一回伏せて、何かを決めたように一歩踏み出した。
「あの、頼みごとがあるんですが、」
俺は筆洗油でほぐした筆をぼろ布の端の方で拭く。布の真ん中の方は絵の具でぐちょぐちょだ。
ふとした不注意で手からぼろ布が滑り落ちた。膝の上に被ったそれを見て小さく舌を打つ。
(汚れたか、)
俺はふと自分の横に視線を移す。そこには胸に手をあて執拗な瞳で俺を見下ろす女がいた。先程俺に見下ろされたユウヤには、俺がこのように見えたのだろうか。
「私は、いつもここに来るんです」
「そうですか」
ぼろ布を持ち上げると、膝には絵の具が角を立てていた。生クリームなら食べ頃な泡立ち具合だろう。
「いつもいつも、ここに来て、探し物をしてるんです」
「そうですか」
膝についた絵の具。こりゃ取れないなと、ある程度拭き取ってからあきらめる。今更絵の具汚れなんて慣れた物だ。
「ちょっと、シン…」
倒れたまま放置されていたユウヤが助けを求める。俺は溜め息を一つ吐き直してやった。
「どーも。でも、もし君に優しさがあったならもう少し早く起こして欲しかった」
「済まなかったな。おっと、画面に虫が、」
「虫なんていな、わっ………」
俺の優しさによりユウヤは倒れた。仰向けなだけ有り難く思って欲しい。
「手伝って、頂けませんか?」
女は俺らの会話に口を出す事なく頼み込む。
なんとも率直なお願いに、俺も率直に答えた。
「すみません。遠慮しときます」
女は潔く諦めることをしらない。
「お願いです。手伝って下さい。もうずっと探しているんです。でも、見つからなくて、」
「何をお探しですか?」
ユウヤが仰向けのまま口を挟む。
「指輪です。小さな宝石の付いた。宝石といってもそんな高価な物じゃないんですが。でも、私にとってはとても大切な物なんです」
「それはお可哀相に。でも僕はこの有様。そこの彼に人並みの優しさがあるなら、きっと貴方を手伝ってくれる事でしょう」
これは皮肉だろうか。自分が無力である事を証明するかのように絵の中で肩をすくめるユウヤ。仰向けな彼に向かい合うのは夕焼け空のみ。
「遠慮しときます」
片付けの作業を中断し、俺は彼女を見上げる。彼女は胸に当てた手を組み、
「そこをなんとか、」と頼み通す。俺は面倒臭さに溜め息を吐いた。
「なくし物なら自分で見つけて下さい。そんなに大切な物、俺が先に見つけてしまっては申し訳ありません。それに、なくした場所に心当たりの無い俺が手伝っても無駄でしょう」
ここまで拒否すれば、いくら鈍感な相手でも気付く事だろう。頼まれている相手が手伝いたくないと言葉の裏に言ってる事を。
だがこの女は鈍感を上回る鈍感だったらしい。頼むことしか知らないように、断る俺へ手伝いを乞う。
「探すあてならあります。あの線路の枕木あたりなんです。お願いします。どうか一緒に探して下さい」
「シンー………」
女の懇願に、ユウヤの呼び掛け。片方は自分に探し物を手伝えとせがむし、片方は自分へ、自分を起こせと言外に訴える。
(どいつもこいつも………)
俺はタオルの上から頭を掻く。崩されて頭から剥れたタオルを、そのまま手に握り、俺は立ち上がった。
「申し訳ありませんが、俺は貴女の探し物を手伝えません。というより、この散らかった残骸の片付けを、俺も丁度誰かに手伝って頂きたかった所です」
柔らかめに放った俺の言葉に、女は一歩後ず去った。
「もうすこしで日が暮れます。貴女も帰った方がいい。それに、本当に探し物を見つけたいならもっと明るい内に来るものですよ。それこそ朝早くから」
女は潤ませた瞳で、その身よりも高い俺を見上げた。悲しそうに俯き、
「ええ、………ええ、…そうですよね」
「ご迷惑をおかけしました」そう言って彼女は日の沈みつつある道を戻って行った。
「結局、探し物は探さず終いか」
俺は小さく息をついた。
人に頼み込む事に時間をかけるなら、その時間を探し物に費やすべきだろうに。
「シーンージー」
「はいよ」
俺は握ったままだったタオルを鞄の上に投げるように乗せ、今度こそ、倒れることの無いようにユウヤのキャンバスを鞄に立て掛けた。これなら俺が幾らつつこうが、もう倒れたりはしないだろう。残念な事この上ない。
俺が着々と片付けを進める中、ユウヤは暇を持て余すように、先程の女の話題を持ち出した。
「彼女、明日も来るかな?」
黒い瞳が幼く輝く。
好奇心の目だ。
「一目惚か?」
「僕には勿体ないよ」
「そうだな。相手が絵じゃ女も不満だろ」
軽い口取りでそう言うと、じとりとした視線に「絵で悪かったね」と言われた。
「で、どう思う?」
ユウヤはキャンバスの中で身を鳴り出す
「なにが」
俺はその質問の意味がわかっていながらもわざと聞き返す。
「だから彼女、」
「あぁ。明日も来るかって? 来るんじゃないか」
「僕もそう思うよ」
ならわざわざ俺に尋ねる事無いだろうに。
何かを含んだような言い方だ。
「じゃあ、彼女の探し物は?」
まるで知りたがり屋の子供のように、ユウヤは興味深々といった様子でキャンバスの中肘をつく。
「見つからない」
思う所を単刀直入に告げる。
「ずっと?」
「ずっとだ。少なくともあの女が見つける事は無い」
「まるで予言者みたいな口振りだね。そんなに自信があるのかい?」
「………分かってるくせに。面倒臭い。…だいたいな、一日中探そうって気が無い奴に、そう簡単に見つかってたまるか」
「それはシンが指輪の気持ちになって出した意見かい?」
「まぁな。だが絵の気持ちはわからないんだ」
「え? ちょっと!」
俺はユウヤのキャンバスを立て掛けた鞄を引き抜いた。もちろんユウヤはまた仰向けに倒れる。
「シーンー!」
「落ち着けよ。つまりは絵の具を入れたかっただけだ。悪く思うな」
俺は特に感情のこもっていない言葉を返し鞄の中を軽く整理する。
真っ赤な夕日は地平線へと完璧にもぐりこんだ。