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その場所は…

 今日は昨日の延長線。


 今はさっきの延長線。


 じゃあ、昔と今は同じもの?


 先にあるものは後に置いてきたものとは違う。


 けど、先にあるものは後にあるものとつながっていて、その跡があったからこそ更に先には先ができる。


 先にあるものが全く違う現実だからといっても、後を否定しようとはしないで。


 今は後の跡となり、その存在はもうすでに証明されているのだから。




 古い出会いと、古い別れと、新しい出会いと、その先にあった別れに、僕はただ、感謝したい。





 





 夢だと、自分でも分かっている。

 けど、それはやけに現実味を帯びていて、たまに、夢こそが現実で現実こそが夢なのではないかと疑ってしまう。

 感じるのだ。

 視点が定まらずぼーっとしてるとき、何かが、自分の中から抜けていくのを。だがそれは、いつの間にかまた自分の中へと戻ってきていて、その何かがちゃんと中にいるときこそ、自分は“完璧な自分”であると感じるのだ。


 何かがいない時、その自分は“半分”でしかない。


 “何か”が抜けて、その“何か”が何をしてるのか、漠然と伝わってくる。それは本当に漠然すぎて、“何か”が何かをしたのだが、一体何をしたのかがわからい、っと言った状態になる。

 けど、その“何か”がした何かは、自分が納得して行われた事なのだ。

 内容としては、絶対に自分が拒まないような事。

 自分が拒むような事は、その“何か”は絶対しない。

 何かは自分の半分だから。

 自分は何かの半分だから。

 だからそれは自分の行い。


 なぜだか最近、そんな夢を見る。


 白昼夢―――


 ―――自分が自分であって、自分が“何か”である夢。



 *



 降水率0%。それはこの空を見れば誰でもわかった。

「これは天が俺に味方しているとも思えないか?」

 朝早く、例の聖堂へと向かうなか、僕にそうに尋ねてきたのはどことなく機嫌のよさそうなシンだった。

 確かに、この天気なら絵の具の乾きも早く、作業が早く進むだろう。だが、乾燥剤などを一切使っていないただの油が、一日で乾くはずもない。昨日の絵具も、まだキャンバスの上でてかてかと光っているし、今日はきっと、まだまだ描きこむつもりなのだろうし。

 本当にシンは今日で完成させてしまうのだろうか?

 僕は頭の隅で疑問に思う。

 いや、できるだろ。

 僕は一瞬の疑問を一掃した。

 こういう事になぜか強いシンだ。きっとやり遂げてしまう。

 苦笑いだか呆れ笑いだか、僕は小さく笑みをこぼす。

「そうだね。それもこれも日頃からの行いが良い僕のおかげなんじゃないかな」

「お前の日頃の行いか。随分あてにならない話だな」

「ちょっと。そこらの誰かさんよりは全然良い事してると―――」

 どんっと、何かがぶつかり言葉が切れた。

 シンは全くダメージを受けていないようで、僕の視界は軽くぶれただけでとどまる。

 その足もとで、何かがむくりと姿を現した。

 子供だ。

 シンにぶつかったのはきっと彼だろう。

 ぼろぼろの服を着て、体中砂や誇りで汚れていた。よく見れば生傷もいくつかある。それらはとても今ぶつかってできたとは思えない。

「大丈夫かい?」

 今ぶつかったことの他にも、いろんな意味を込めて僕はその子に問いかけた。

 すると、一瞬だが彼が顔をあげた。

 前髪に見え隠れする、そのまあるい瞳………。

 僕はぞくりと身を震わせた。

 自分が絵である事も忘れて、鳥肌が立ったような気もした。

 たった数秒目があっただけのその瞳が、頭にこびりついて離れない。

 黒くて、深くて、でも真っ白で。

 余計な感情は捨て、自分の中にため込んだ何かをふつふつと煮詰めて熟させたような、そんな色。

 くすんでいて。でも単純な一色で透き通っていて。

 僕はぼーっと、その一瞬を思い出しては消して思い出しては消してを繰り返していた。

「おい、………おい、」

 彼はもういない。僕はあの子供が立ち去る光景をしっかりみていた。だが、その残像に囚われて“今”を忘れていた。


 何度か声をかけたが返答がない。

 茫然と、呆けたような表情の絵に、俺は呆れて呟いた。

「まさか絵も頭打つのか?」

 そもそもキャンバスの中に頭をぶつける壁があるのかどうかも不明だ。

 それとも目を回したのだろうか?

(目を回す絵か。…聞いたことないな)

 俺は構わず聖堂に向かった。

 心配する必要もない。

 そのうち我にかえってまたいつもの通り、にこにこと気持の悪い笑みでも浮かべていることだろう。


 俺の考えは見事に当たった。

 木々の群れを抜け、あの聖堂が姿を見せ始めたころ、キャンバスの中から間抜けな声が上がる。

「あれ?もうついたんだ」

 早いね、などと驚くそいつを尻目に、俺は聖堂の戸を押した。

「おはよう!」

 元気な声で迎えてくれたのは、まだ4〜5歳の女の子だった。

 俺の腹に体当たりしてくる勢いで抱きついて、きゃっきゃと楽しそうに笑っていた。

 まだ来たばかりで何もしていない。その上俺はこの子供に好かれるような記憶はなかった。

 だからただ、少々の驚きを隠せないままに「…ぉ、おはよう」とだけ答える。

 別に子供は嫌いではない。

 だが好きでもない。

 大人も子供も、俺の中では全く一緒だった。

「きょうもお絵かきするの?」

 彼女は俺の腰にぶら下がったままそう尋ねる。

「そうだな。今日が最後のお絵かきだ」

 俺は入ってすぐ、左に並ぶ席に座ろうかと一歩足を踏み出した。

「………」

 すると、そこには無言で俺を見上げる、昨夜の子供がいた。


 額のつけられることのないキャンバスの中、僕はあたりを見回した。

 いつの間にかたどり着いていた聖堂で、突然シンに抱きついたのは見覚えのある女の子だった。

 そう。そう言えばあの子だ。

 昨日、絵を描くシンの横で、と一緒にその作業をじっと眺めていたのは。

「………」

 子供に抱きつかれて少しまいっているようなシンをくすくすと笑っていると、誰かの視線を感じてそちらを見た。

 すると、そこには噂のがいた。

 そう。

 あの施設を描いていた初日に、初めてシンに話しかけてきた彼。シンに助けを求めた彼。そして、昨夜一つの家を燃やそうとしていた彼。

 彼は黙って僕を見つめていた。

 特に何かを言いだす様子でもなかった。

 だから、僕から話しかけてみようと思った。

「おは―――」

「おい、」

 僕の声が誰かさんの声にかき消される。

「そこは俺の場所だ」

 シンだ。

 しかも、なんと無愛想な言葉だろう。

 まず朝出会った人間とは「おはよう」を交わしあうのがマナーだろうに。

「………」

 彼は黙ってシンを見上げた。

 そして何も言わずに腰を上げる。

 僕は苦笑してその様子を眺める。

 どこか、彼はこの無愛想な絵描きと似ていると思った。

 不器用なところだろうか?愛想のないところだろうか?

 いや、もっと根本的な何かなんだろうな、と僕はそこで考えるのをやめる。


 俺は子供のいなくなった席に腰掛け、いつものように鞄から道具を取り出す。

 その隣であの子供と、腰にぶら下がっていた子供がじっとそのようすを眺めていた。

 いつの間にか、わらわらと聖堂の奥から子供が集まってくる。

 また昨日と同じだ。

 子供の群れ。

 その中心に俺。

(好きじゃないな)

 俺は周りの様子などお構いなしに絵を描き続けた。

 この間は誰がいようと自分一人。

 それ以外存在しない。

 俺一人の、静かな空間。


 シンがもくもくと絵を描き進めていく中、僕はそのまわりに集まってきた子供たちを眺めた。

 みんな、痩せこけていて、着ている服もぼろぼろだ。

 だが、瞳は前会った時よりも輝いているように見えた。

(あの子)

 今朝シンとぶつかった子。

 多分、施設に残った子だろう。

 この子たちとは随分と違う瞳をしていた。

 昨夜、が言っていたっけ。施設の子供たちは、前よりもひどい状況で生き延びている、と。

 絶望をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、うつろな目が脳裏に浮かぶ。

「お兄ちゃん、何で絵の中にいるの?」

 突然隣から問掛けらた。

 問いかけてきたのはシンの腰にぶら下がっていた子だ。昨夜の彼もその隣にいた。

 二人は仲がいいのだろうか?

 並んで立っている姿は兄弟のようにも見える。だが、女の子の茶色い髪と、彼の黒い髪を見ると血のつながりは感じられない。

 いや。血の繋がりなど関係が無いだろう。

 ここにいる子供たちにとっては、皆が皆家族なのだ。

 互いに助け合い、支えあってる。

「お兄ちゃん、悪い魔女に閉じ込められちゃったの?」

 女の子は不思議そうに僕へまた問いかける。

 僕はトキナの時を思い出し、くすくすと笑った。

「そうなんだ。悪い絵描きに閉じ込められちゃって、」

「誰の事だ?」

 不機嫌そうな声が隣から上がる。僕は突然のことに驚いてしまった。

 また倒されるかと思い、目も瞑る。

 だが、キャンバスに揺れを感じることはない。どうやら今回は倒されずにすんだらしい。

 隣を見ると、もくもくとシンの手は筆を動かしていた。

「次妙なこと言って見ろ。お前の顔に緑色のシミを作ってやる」

 それはごめんだった。

 僕は両手を頭の高さまで上げ、カラ笑いを浮かべる。


 時間も忘れ、キャンバスに向かっていると、突然大きな音が鳴り響いた。

 ここの古い時計の音だ。

 ボーン…ボーン…っと、正午の時刻を伝える。

 俺の腕から、ふっと力が抜けた。

「お昼休みかい?」

「あぁ」

 ごそごそと鞄を漁り、俺が取り出したのはある紙袋だった。

 その中から一つ。

 大きめのパンを取り出すと、俺は紙袋を閉じて隣に差し出した。

「モチーフ代だ」

 紙袋をよこされた昨夜の子供は目を丸くする。

「人数分はないだろうが、お前らなら丁度よく分けられるだろ」

 俺は自分の食事にかぶりつく。

「………ありがとう」

 少しの間茫然と俺を眺め、食事だと喜ぶほかの子供等のもとへと駆けて行った。

 腰にぶら下がってきた子供も、その後を追う。

「優しいんだね」

「馬鹿言え。こんな状況で俺一人飯食ってたらあいつらに泣き喚かれそうだ」

「そんなことないってわかってるくせに」

 そう。

 昨日俺は自分の分の食事しか持ってこなかった。

 だが、腹を空かしているだろうに、あいつらはそれをねだっても来なければ、俺の目の前でつばを飲むような事もしなかった。

 ただ一度あったとすれば、小さな男の子が『ぐー………』っと腹を鳴らし、それに一人の女の子が『しーっ!』と指を立てたことくらいだった。

「………アレの方がしつこくねだられるよりよっぽど効くだろ」

 “アレ”と言ってユウヤにも通じたらしく、となりから「そうだね」という笑い交じりの返事があった。

 少し視線をずらすと、むしゃむしゃと俺の与えた餌に頬張りつく子供等の姿が目に入った。

 俺も自分の分を思い出し、また食べ始める。


 食後、一度大きく伸びをすると、自分の今描いている絵の経過を眺めた。

 大丈夫そうだ。

 今日中に終わらせる。

「ちょっといってくる」

 隣のあいつに一声かけると「うん」という返答がかえってきた。

 昨日同様、俺は絵をもって外に出る。

 それを地面に置き、日光をたっぷりとあててやる。

 その隣に俺も座る。

 ずっとキャンバスと向き合っていたのだ。

 なれているとは言え、精神的に疲れるのは当然。

 俺は壁に寄りかかり、温かい日差しの中少しの休憩をそこで取る。


 ―――だめだよ

 燃えていた

 ―――だめだよ

 何かが俺の手を引く。

 やめろ。

 俺は早くこの絵を完成させないといけないのだ。

 ―――だめだよ

 ほほ笑む聖母が赤く紅く燃えていく。

 黒いシャツを着ていた頃の俺が、聖堂の一番奥に座って絵を描き続ける。

 そうしている間にも、聖母は焼かれ、俺の周りにある紅の勢いが増していく。


 ―――だめだよ


 ―――だめだよ


 ―――だめだよ


 ―――………


 かさっ


 物音に目を覚ますと、逆光になった白い布地が目の前に見えた。いや、シャツだろうか。

(………なんだ?)

 俺は訝しげに眉を寄せ、視線を上げる。

 すると逆光になった子供の頭部が目にはいった。

 ここの子供だろうか。

 俺は眠たさにあくびを一つ。

 すると、子供の姿はなくなっていた。



 *



「本当に、君と来たら天才だよね。二日で絵を仕上げちゃうなんて」

「当たり前だ」

 俺は完成したばかりの絵を横に、荷物をまとめる。

 もうここには用はない。

 扉を出て振り返ると、ここを今の宿としている子供等がぞろぞろと出てきて俺を見ていた。

 何だろうか。とても居心地がいいものではない。

 何かを言いだそうともせず、その子供等はただ俺と喋る絵を見ていた。

 俺は頭を掻いて歩き出す。

 そのままいってしまおうかと思ったが、振り返らないまま、軽く手を振ってやった。

 横からユウヤが「シャイなんだから」と俺を笑う。

「そうかもしれないな………」

 俺は自分に呆れながらそう呟いた。

 歩きながら、あの聖堂の事を思い返す。

 沢山の子供。細く、弱弱しい体。

 だが、目の光だけは違っていた。

 あの聖堂は、あくまで“宿”なのだ。

 奴等はきっと、自分たちの力で、本当の“家”を手に入れる。

 別に俺がそうしてほしいとかそういうんじゃない。

 奴等の目がそう言っていたのだ。

 自分たちを信じ、未来を信じ。

(難儀なもんだな)

 俺は空を見上げる。

 そう言えば、あの夢はあの頃の“記憶”というやつだろうか。

 燃える聖堂、ほほ笑む聖母。

 だが、あの時俺はあそこにいなかった。

 そして、絵を描いていたのは現実での話。

 今と昔を混合した夢?

 夢ならよくある話かもしれない。

 もしかしたら、あの時実は自分も聖堂の中にいて、あの人と一緒に焼かれていたとか。面白い話ではないか。

 もうとっくに死んでいた自分。それに気づかず、今をさまよう自分。さまよい、そして何をするでもなくただ絵を描いている。

 絵を描くお化け、か。

(つまらない想像だな)

 くだらない思想にため息をつき、俺はそろそろ見えてくる孤児院と、最後の晩を明かす宿とを遠目に眺めた。


 シンジが孤児院の前を通り過ぎようとしたとき、一人の子供が飛び出てきた。

 どんっと揺れるその細い体は、ぶつかった衝撃に折れてしまうかと思えた。

(こいつ………)

 今朝の子供だ。

 シンジは無言で手を差し出してやる。

 だが、子供は意思のなさそうな目をよろりとそちらに向けただけで、一人で起き上がり、駆けて行った。

 真っ黒で、空っぽの瞳がシンジの頭に焼きつく。

「随分と差がついたな」

 出ていくかとどまるか。

 たった二つの選択が、今の彼らを大きく分かれさせた。

 だが、とどまった方もあと少しの辛抱なのだろう。ここの孤児院は潰れた。別の孤児院への出立はもう約束されたものなのだから。

 あの聖堂の子供たちも、そのころに戻ってきて合流するつもりではないだろうか。

 「難儀だ難儀だ、」と、他人事ながらに適当に呟き、女の家へと入って行った。



 *



『施設にまわされるはずだった資金は、すべてなくなる』

 それはこの女の半分以上の生活費を無くすという事。贅沢な暮しの何もかもを絶やすという事。

 

 シンジはその家に入るなり、顔を歪ませた。

 テーブルの上に置かれた、首飾り、ネックレス、ブローチ、鞄。どれもこれも、きらきらと宝石が輝き、高値でありそうなものばかりだった。

「あら絵描きさん、お帰りなさい」

 家主は数日間と変わらぬ優しげな微笑みを絵描きに向けた。

「あらあら、いけない。私としたことが食事の準備が…」

 彼女はテーブルの上の物ものを手荒くも横に払い落とす。

 高価そうな首飾りや鞄が、じゃらじゃら、ぼとぼと、と床に落とされる。

「どうぞどうぞ、好きなだけ食べてください」

 彼女はキッチンから沢山の皿を持ってきた。

 しかも、どれも高級な食材を詰め込むだけ詰め込んだような。祝いの日でもないのに、大きなケーキまで。

 一体何人で食べるつもりなのか。

 シンジは彼女の運び出してくる食事達へ、覚めた瞳を向けた。

 そして、自分の前に向かい合わせに座る彼女を、黙って見つめる。

 彼女は両手を合わし、「頂きます」と言った。

 そして、関を切ったように手づかみで自分の料理達を口に詰め込んでいく。

 そこには決して“上品”という言葉は存在しなかった。

「私は、ずっと、こうしてきたの、沢山の…くちゃ、…宝石や、服、に、囲まれて、…‥バリバリ……今更、この生活を、やめ、ろですって…ムシャムシャ………ばかなこと言わないで…そんな、事、今更、…バリバリ…っくちゃくちゃ………」

 まるで出されたものを出されただけ食べてしまう豚のようだとシンジは思った。

 まだ彼女の手がのばされてない食事をいくつか皿に乗せ、彼も手を合わせて食べ始める。

 正面にがちゃがちゃと騒がしい音を聞きながら、彼はまるで壁一枚隔てた場所で食べているかの様に通常の食事を行っていた。

 食器が割れ、いくつかの料理たちが床に潰れる。

 そんな光景を、絵描きの後ろに置かれた絵はどう見ているのだろう。

 シンジは料理を口に運び呟く。

「………美味いな」

 彼は早々と食事を終わらせ、いくつかのパンをカバンに詰めた。

「ごちそうさまでした」

 ガチャガチャと鳴り響いていた食器の音が、一瞬ぴたりとやむ。

「えぇ、ごゆっくり」

 家の主人は数日間となんら変わらない優しげな微笑みを絵描きに向けた。

 絵描きが階段を上って行くと、彼女はまたくちゃくちゃバリバリと食事を始める。壮絶なその光景は、狂気という言葉が嫌というほど似合った。


「ふぅ」

 腹ごしらえをしたシンジは、ベッドの上にどさりと腰掛け息をつく。

 今日で本当の本当に最後だ。

 完成した絵を眺めようと、シンジはキャンバスへと手を伸ばす。

 だが、いくら手を伸ばそうにも目的の絵がその指先に触れることはなかった。

「………、」

 シンジは「まさか」と目を見開く。

 あの聖堂に、置いてきてしまった?

 いや、俺がそんな間抜けなことするはずない。

 シンジはかぶりを振り、ユウヤへと視線を向けた。

「おい、ユウ………」

 ―――カツッ

「は?」

 シンジは窓から上がった小さな音に顔をしかめる。

 ―――カツッ

「まさか、」

 またあいつか?と、彼は立ち上がった。

 ―――カツッ

 窓に小石があたり、跳ね返り落ちて行く。

 シンジは石が当たってはごめんだと、窓を開けないまま外を覗いた。

 すると、そこにいたのはやはり子供だった。

 昨晩よりも月の明かりが小さいせいで、顔まではよく確認できない。だが、あの白いシャツの胸元に、確かに彼は自分の絵を見つけた。 

 ではやはり、俺は聖堂に絵を置き忘れていたのか?とシンジは片手で額を抑えた。

 だが、帰るとき確かに自分は絵を持っていた。

 ならば、孤児院の前で子どもとぶつかったとき?

 いや、アレごときの衝撃で、自分が絵を落とすとは思えない。それに、絵が落ちたならすぐに気づけたはずだ。

 ならあの絵はいつ…?

 そんな思想に頭を抱える中、絵描きの頭に自然と一つの言葉が浮かんだ。

 ―――取りに行かなければ。

 あぁ、その通りだ。と自分の考えに頷きながら、無意識でユウヤを持ち上げる。その時鞄の紐も一緒に握ってしまい、「くそっ」と言いながら、そのまま荷物も持って行く。移動用の小さな鞄だ。気にするほどのことではない。そう思いながらも、その小さな鞄が彼にはとても邪魔に思えた。

 今思えば、なぜあの時シンジは鞄を置いて行かなかったのか、はなはだ疑問だ。

 彼は一気に階段を駆け降り、今もものを口に詰め込む主人を通り過ぎ、早々と戸をあけ外に出た。

 庭に回り込み、あの子供の姿を探すが見当たらない。

 一体どこへ?と視線を巡らす彼の視界に、ちらりと白が入り込んだ。

 それを追って、彼は走る。

 木々の合間を抜け、道に出て、更にまた白を探して追いかける。

 町に行き、壁の合間に白を見つける。

 飲んだくれの男が寝息をたててる横を通り過ぎ、噴水のある公園へと出る。

 ベンチの奥に白を見つけ、彼は又走った。

 どんどんどんどん、白を追い続けているうちにたどり着いたのは、盛大な篝火かがりびを灯した一軒の家だった。

 轟々(ごうごう)と燃えたぎる炎。

 そのまわりに、子供たちが円を作って囲んでいた。

 その瞳には、皆涙を浮かべている。

 なんの祭りだろうか。絵描きは思う。

 だが、この顔ぶれや、周りの木々の配列は、この二〜三日で見慣れた何かと似ていた。いや、似ているのではない。全く同じなのだ。

「なんだこれ」

 声を漏らしたシンジに、一人の子供が気付く。

 駆けよってきた彼は、あの日宿としている家に火をつけようと企んでいた子供だった。

 彼は初めて会ったときとはまったく別人のような、人間らしい表情を浮かべ、シンジを見上げていた。

「火が、…火が……」

 彼はシンジの服をつかみ、その場に崩れ落ちる。

 どうしたものか、と眉を寄せる彼に、子供は震える唇を小さく動かした。

「まだ、中に、」

 ―――たすけて

 子供の声の向こう側に、小さく女の子の声が聞こえた。

 燃えたぎる火の音にまぎれて、それはすぐにかき消される。

 だが、またすぐに「あつい」「たすけて」という鳴き声にも似た声をその耳に捉え、シンジは考えなしに飛び出してしまった。

 まだ火は再骨頂に達していない。

 いつかの光景を思い出した彼は、なぜか中にまだ入れることを感じ、今自分が持っているすべての物を置いて走った。

 地面を蹴るたびに、顔に当たる熱風の温度があがってゆく。

 後ろでユウヤの声が聞こえた気がした。

 引きとめているのか、ただ反射的に呼んだだけなのか。今のシンジには考える余地もなかった。


 飛び込んですぐ、絵描きはすぐに少女を見つけた。

 もともと小さな聖堂だ。扉を開けてすぐ、並んだ椅子の群れと、その中心にこしらえられた通路。その通路を真っすぐ向かった場所にはあの聖母。

 それだけの聖堂で、彼女を見つけるのはたやすい事だ。

 少女は燃えたぎる炎の中で、聖母の足もとにその身を丸め、泣いていた。

 シンジは少女を抱きかかえると、目の前にある聖母の顔を見上げる。

「また、ほほ笑むだけなんだな」

 木で作られた聖母は、いつかの記憶と全く同じ表情で、その身を焼きつくす火を許し微笑んでいた。

 彼女から与えられるのは変化のない微笑みばかり。

 聖母とは微笑むだけ。誰を救う事も出来ず、その場所にあるものを拒むことも許されない。

「お前は助けてやれないんだ」

 「じゃあな」と一言置いて、シンジは自分の真後ろにある出口へと走った。

 もう、壁も柱もボロボロだった。

 いつ崩れてもおかしくない。

 額を伝う汗もぬぐう事を忘れ、絵描きは少女を抱えただ走った。

 ―――ッ、ガガガガガ………

 突然の大きな音と、目の前に生じたなにかの歪み。

 シンジは一瞬、自分の目が暑さに錯覚を起こしたのかと思った。だが違う。

 建物の一角。出口に向かって左側の柱が燃え落ちたのだ。

 長方形の出口が左へ左へと傾き、ひし形へと形を変えてく。

 あのままでは出口がつぶれる。

 いや、今がまさにその瞬間。

 シンジは考える間もなく、崩れゆくひし形の中に少女を投げ飛ばした。

 泣きじゃくる少女は、突然中に投げ出され、不安と恐怖に絵描きを見る。

 少女が伸ばした腕を、シンジは避け、小さく区切られた外の風景に飲み込まれて行く彼女の姿を、幻を見ているかの様な気分で眺めていた。


 ―――ゴォン………

 子供たちは周りでその様子を見守っていた。

 自分たちから見て右側の角から、聖堂は盛大な唸りを上げ崩れた。

 その瞬間に吐き出されるように出てきた少女を見て、何人かの子供が駆けよった。

 だが、そこには少女しかいない。

 炎の中に飛び込んで行った絵描きの姿はどこにもなかった。

「ユウ、」

 涙をながす少女は、駆け寄ってきた一人の少年にすがりつく。

「ユウ、ユウ、…どうしよう、どうしよう………」

 少年はじっと燃え上がる炎を見つめた。

 何も言わず、ただ、涙の止め方はわからず、泣きながらもずっと炎をにらみ続けた。



 *



『―――だめだよ』

 これはいつかに聞いた声。

 そう、夢の中の子供の声だった。

『帰ろう』

 これはいつかの夕夜ユウヤの声だ。確か、逃げるのは気に入らないと言った俺に、あいつは『逃げるんじゃなくて帰るんだよ。お腹空いたろ?』と言い返したのだ。

『君は相当意地悪だよ』

 あの優男。随分なことを言ってくれるものだ。

『あのねぇ、ずっと言わなかったけど、君の見た目は随分と怖いんだよ?』

 怖い怖い言いながら、お前は平然と俺に口立てしてきたではないか。

 そういうお前は、ずいぶんな猫かぶりだと俺はずっと思っていた。

『もしかしてあなたじゃないの?』

 彼女の声が聞こえる。

『窓ガラス割ったでしょ』

 身に覚えのない事を、そうやって俺に聞くんだ。

『こんど、私の絵を描いてよ』

 あんたの絵?

 そんなものとっくに―――


 シンジははっと我に帰る。

 まだ自分は死ぬ気はない。

 人に作られた出入り口がふさがれただけで、何のんきに自分はぼーっとしていたのかと己を叱咤する。

 ほかに出口が無いかと周りを見渡すが、狭い聖堂は一角が崩れ落ち、更に狭さを増していた。

 早く外へ出なければ、と上を見上げた矢先、天井の柱が唸りをあげて落ちてきた。

 シンジはギリギリのところでそれをよけ切り、地面に体を打ち付ける。

「………ぐっ」

 衝撃が肺に来て、声が漏れた。

 どうする。このままでは自分があの少女の身代わりだ。

 誰かの代わりに損をするなど割に合わない。

 立ち上がろうと顔を上げれば、先ほど別れを告げたはずの聖母があった。

 避けたとき、自分はこちらに跳んでいたのか、と彼は納得する。

「腐れ縁って奴か?」

 シンジはくくくと笑った。

 どうしたらいいものかわからず、その場所に腰を下ろす。

 自分の目の前ではガラガラと声をあげて焼け焦げた聖堂が崩れ落ちていた。

 もう逃げ場も何もない。

 この火が収まるまで、自分は堪えていなければならないのだろうか。

 人にそのようなことが可能であろうか?

 ふぅー………、と彼はため息をつく。

 そもそも一人の子供のために、こんな地獄絵巻のような場所に飛び込んだ自分が馬鹿だった。

 くだらない正義感というものを、まさか自分も持っていたのだろうか。

「まったくくだらないな………」

 そもそも、自分はどこかでこうなる事に気づいていたはずだ。

 あの無表情の子供に、半数は孤児院の残骸の元に残ったと聞かされた時。確かにどこかでこうなることを予想していた。

 二つの選択で大きく行き違った子供の瞳。

 残った側に見えた、薄暗い絶望と、何にぶつけたらいいかわからずくずぶっていたどす黒い怒り。

 残された子供はあの場所で、逃げだした子供たちを少しずつ怨み始めていた。それは羨ましさから生まれた小さな種でしかなかったはずだ。女の仕打ちや野宿の寒々しさが、その種をこのような形で芽吹かせてしまった。

 今朝ぶつかった子供の瞳を思い出す。

 きっと、ここに火をつけたあの子供は泣いている。

(ったく。一体俺は何をしてるんだか。同情に胸を痛めてる場合か? 下らない。今はそんな場合じゃ、)

 シンジは大きく息を吸い込んだ。

「………っ! がっ、げほ、げほ、げほっ、………」

 酸素の薄くなったこの場所。でなくても漂う気体は熱を帯びてからからに乾いていた。

 シンジはゼィゼィと息を荒げ、燃え盛る天井を見上げる。

「こんなところで………ごめんだからな…」

 体内中の酸素が不足しているのを感じる。

 煙が肺に入り込み、内側から毒してく。

 シンジはふぅっと、その瞼を細めた。

 どうする事も出来ず、ただその場で途方もなく時間をつぶしている自分を、少し情けなく感じた。



 *



 ―――シン!!!

 炎の中に消えてく彼の背中を、僕はどこかからかじっと見ていた。

 見ているだけで、それは追う事も、動くことさえもかなわない。

 なぜかって、それは僕が絵だからだ。

 無力な自分に、涙が頬を伝った。

 ―――………、

 いつもの感触と、何かが違う。

 頬を伝う涙。いつかも自分は泣いた。だが、あの時よりもクリアに感じる、涙のぬくもり。

 妙に現実感があって、妙にソレは僕の心を震わせて。

 僕は目を覚ました。

 絵の中にではない。

 “もう一人の自分の姿”で。

 視線を下ろすと、白いシャツがひらひらと熱風に揺られていた。

 手をかざすと、小さく細い五本の指が、炎に透けて紅くぼやけていた。

 そう。これは僕だ。

 いつかの僕。

 そして、この僕は、僕の意識から抜けて、たまにシンの前に姿を現していた。

 絵の僕には叶わない事を、僕の代わりに、僕である彼がやってくれていたのだ。

 そして今も、僕は僕のために、シンのために……… 



 *



 カタっという音を背中に感じ、彼は振り返る。

 一瞬希望のようなものを抱いた自分に嘲りながら、彼は腰を上げ、聖母の後ろへと回った。

 そのタイミングで、今までシンジの座っていた場所に柱が炎を伴え落ちた。

 彼はそれを振り返ってみる事もせず、今自分の目の前にあるものを凝視した。

 子供だ。

 白い服を着た。

 黒い髪に、まあるい黒い瞳。

 その腕には、自分がよく見なれた。だが、最近全然目にしていなかった絵があった。

 ユウヤの絵だ。

 だが、いつも見ているモノとは違う。

 そこには赤い絵の具が塗りつけてあり、血に染まった一人の男と猫の姿があった。

「なんで、」

 からからに乾いた彼の唇が、小さく動く。

 白いシャツの少年は、にこりとも微笑む事もなくその場所を一歩のいた。

 そして、シンジはその後ろにあるもの見て、わが目を疑った。

 出口だ。

 大人1人がかがんで出られるくらいの小さな扉。

 少年はシンジの服をぎゅっと握り、その扉を示す。

 シンジは「あぁ」とうなずくと、彼の言っているであろう通りにした。

 ぐっと押すと、扉はぎしぎしと音をあげた。

 なかなか開くことが無いので、シンジは地面に手をつき、思いっきりその板きれを蹴り飛ばす。

 その瞬間、外から新鮮な空気が流れ込んできた。

 その空気に炎は勢いを増し、聖母の背中を飲み込む。

 小さく開かれた出口もあっと言う間に火の輪のよになるが、大人1人が出るには十分な時間だった。


 シンジは外のひんやりとした風を感じ息をつく。

 そして振り返ると、あの出口は炎に蓋をされ消えていた。

「ユウヤ………」

 灰色の瞳は大きく見開かれる。

 勢いを増す炎が、いやらしく彼に腕を伸ばしてきた。

 シンジは一歩、後ろに下がろうと足を持ち上げる。

 すると、その足に何かがかたりとぶつかった。

 彼の荷物だ。

 炎に飛び込む前、確かに聖堂の正面に置いてきたはずが、なぜか今彼の居る聖堂の裏側に移動されていた。

 なんで………

 彼は声に出さずに問う。

 更に、そこには今日描き上げたはずの聖堂の絵もあった。

 彼はそれを持ち上げ、その絵とは似てもにつかないありさまにある今の聖堂を見つめた。

 揺らめく炎。立ち込める煙。

 静かに眺めていた灰色の瞳に、白いシャツがちらちらとはためいた。



 *



 そこには、熱さも痛みもなかった。

 確かに感じた涙のぬくもりも、今はもう感じない。

 やはり、もう僕は死んでいたのだ。

 絵が燃えれば僕は消える。

 だが、この少年の僕が、もし消えるような事があれば?

 絵の僕も一緒に消えたのだろうか。

 何かの裏付けがあるわけではないが、たぶんそうなのだろう、と僕の奥で何かが頷いていた。

 少年の僕が燃えている。だが、意識も、視界も、すべて何の問題もなくそこに存在する。

 もう僕は、物体や物質である事に囚われなくなった存在になってしまったのだろうか。

 僕の絵も、小さな僕も、この炎からは逃れることを許されていない。

 僕は動けなくなったその場から、じっと外へ目を凝らした。

 彼は、どんな顔をしているだろうか。

 今の僕を見て、あの頃のことを思い出してるだろうか。

 だが、そうだとしても、きっと僕の事は覚えていない。

 それは別に、悲しい事ではなかった。

 僕と彼は、また会えた。

 そして、彼は僕の存在を確認し、僕も彼の存在を確認していた。

 だから、小さい頃の話などもうどうでもいいのだ。

 ただ、ここで彼とお別れをしなくてはならないことを、とても辛く思えた。

 きっと、これは何かの縁なのだ。

 あの人を燃やした聖堂の火。

 そして、つまらない事で死んでしまった僕に、彼は二度目の人生を与えてくれた。

 その終着点がまた、聖堂だっただけの話だ。

 あの人は、僕を待っていてくれてるだろうか。

 とっくに彼女の元に行っていなくてはならなかった僕を、優しく微笑みながら、迎えてくれるだろうか。

 僕は………シンに、彼の記憶に、とどめて貰う事ができるだろうか………



 *



「―――!!!」

 シンジは炎に揺れる白いシャツへ、考えなしに駆けよった。

 赤と紅の合間に、少年が微笑みを湛えて立っている。

 炎はそれ以上シンジを近づけまいと燃え上がる。

「………ゆう、や、?」

 シンジは片腕で自分の目をかばいながら、少年へと腕を伸ばした。



 *



 シンの姿が見えた。

 灰色の髪が、煌々と燃え盛る炎に揺られ、オレンジ色に輝いている。

 なんでだろう。彼はひどく痛そうな顔だ。

 いつもひょうひょうとしていて、何があろうとも泣くような事が無かったのに。

 なんでだろう。彼の瞳に涙が見えなくとも、彼が幼い子供のように泣きじゃくってるように見える。

 ―――まさか君が、僕のために泣いてくれるなんてね

 僕は不思議と笑っていた。

 嬉しさと、悲しさと、別れへの切なさに胸がきしきしと痛んだ。

 手を伸ばす彼が、あの頃の記憶と重なった。

 鐘楼から落ちそうになった僕を助けてくれた、白いシャツの彼。

 あぁ、あれも、君だったんだ。

 くすくす、くすくすと、自分の笑い声だけが耳に響く。

 だけど、もう彼に助けて貰う事は出来ないんだ。

 ここはもう、絵として僕がとどまっていた世界とは違う。

 彼は、来てはいけない場所。

 手を伸ばす彼に、僕はほほ笑む。

 あの、寂しがり屋の黒いシャツの少年に。

 あの、意地悪で怖い顔の絵描きに。

 あの、僕を描いてくれた、昔からずっと変わらないシンに。



 *



 少年は、一人の死んだ男の絵を大切そうに抱きながら、幸せそうな笑顔を浮かべ、言った。



 *



 いくら待とうとも、絵描きがそこから現れることはなかった。

 少年は泣きじゃくる少女の頭をやさしくなで、立ち上がる。

 そして、あの時絵描きが置いてった絵と荷物が無い事に気づいた。 

 絵描きも、そしてその道具も、なくなってしまったという事実にひどく絶望した。

 絵描きは探せなくとも、道具だけは、と彼は立ち上がった。

 そして燃え盛る聖堂を眺める仲間たちの後ろを駆けながら、ぐるりと聖堂の周りを走りゆく。

 ぴたりと、少年の足は止まる。

 ちょうど聖堂の裏がわ。何もないそこに、絵描きがいた。

 聖堂とともに燃えてしまったと思っていた彼が、そこにいた。

 少年は絵描きに近づく。

「………なに、してるの」

 絵描きは答えなかった。

 黙って、今日書き上げたはずの絵に、赤い絵の具を塗りたくっている。

「なんで、絵を描くの」

 答えてくれる声はない。

 いつもなら、無愛想な絵描きの代わりに、愛想のよい絵が答えてくれるはずなのに。

 あの絵はなぜか、ここにいない。

「ねぇ、なにを描いてるの」

 絵の中の聖堂は、あっという間に炎に覆い包まれてしまった。

 だが、一つだけ、赤い炎の中に、小さく、白い柱のようなものが描かれていた。

 少年は途方に暮れる。

 絵描きは何も答えてくれない。

 そして、いつものあの絵もいない。

 なぜだかとても、さびしい気持ちになった。


 ふと、自分の上に影が落ちるのを感じて、少年は自分の上を見上げた。

 そこには、いつもにもなく鋭く、冷たく、尖ったナイフのような眼をした絵描きがいた。

 熱風に踊らされる彼の髪は、銀とオレンジに輝いている。

 彼の炎を見つめる姿に、少年はなぜか見とれてしまった。

 なぜか切なく。なぜか悲しい。

 胸を締め付けられるその光景に、いつの間にか少年は、止まったはずの涙をまた流していた。

 突然、絵描きが炎から視線をそらし、自分へとその灰色の瞳を向けてきたので、少年はびくりと肩を揺らす。

「お前、名前は?」

 絵描きは静かに尋ねる。

 少年は二〜三回、音の出ない口を動かし、やっと一言、こう言った。

「………ゆうや」

 絵描きはそっと、少年の小さな頭に手を乗せる。

「これ、お前にやるよ」

 その手に渡されたのは今先ほど描いていた燃え盛る聖堂の絵だった。

 少年は戸惑いながらもそれを受け取り、絵描きを見上げた。

「じゃあな、ユウヤ」

 絵描きはそれきり、その町から姿を消した。


 聖堂を燃やしたのは、孤児院に残った子供の一人だった。

 彼は悔しかったのだ。

 生活に耐えられなくなり、窓から飛び降り自殺した姉。その死を隠し通してしまった女。

 残った自分たちの苦しみと、出て行った者たちの、何物にも脅されない平穏な生活。

 悲しかった。悔しかった。どうしたらいいかわからなかった。

 だから燃やした。すべて燃やした。

 女の家も。

 あの、孤児院だった廃屋も。

 全て全て、彼はこの場所を恨んでいたから。

 だがそのことを知るのは子供たちだけ。

 町の人間は、火事の犯人を絵描きだと思った。

 なぜなら、彼だけ何の被害も受けず、しかも、火事の日とともに姿を消してしまったから。

 子供たちは自分たちが悪いのだと言った。だが、だれも、本当の放火の犯人を指さして、「あいつが悪い」などとは言えなかった。

 そして、放火をした少年も、自分が全て悪いのだと、言えなかった。

 そのせいで犯人はあやふやとなり、すべてはよそから来た絵描きが行ったものだとされた。

 大人たちは落ち着かなかったのだ。

 すべてがはっきりと定められ、信じられなければ。


 少年は、あのとき絵描きに渡された絵を抱きながら、焼け尽きた聖堂の前に座る。

 みんな、この絵を見て奇麗だというのだ。だが、少年は、この絵を見るたびに、「綺麗」とは違うもっと別の何かを感じていた。まるで胸が締め付けられるような。だけどなぜか包み込まれるような安心感を覚えるような。

『じゃあな、ユウヤ』

 あの時頭に載せられた、絵描きの手が忘れられない。

 あの時、確かに絵描きは小さく微笑んだ。

 そうだ。まるで、あの聖堂にある聖母にも似た。

 いや、だが、聖母のものよりは不器用で、けど、温かい微笑みだった。

 彼は泣きそうな顔をしていた気がする。

 あの時のことを思い出し、少年は自分の膝に顔をうずめた。

「また、ね、………」

 それは、もうこの町を立ち去ってしまった絵描きへの言葉。

 優夜ユウヤは微笑む。泣き腫らしたような目を空に向けて。

 黒いシャツが風に揺れる。



 *



 燃え盛る聖堂。

 そこに立つ僕。

 炎はどんどん燃え上がる。

 それでも最後に伝えたかった言葉。

 それは幾ら言ってもきりがない位に、身近で簡単すぎる言葉。

 けど、今も昔も、僕に見つけられたのはこの言葉だけだった。


 ―――ありがとう


 僕はほほ笑む。

 実は泣き虫な、灰色の絵描きに。

 とても大好きだった、この世界に。




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