その場所の灰色の絵
子供が戻った孤児院では、一つの部屋にその施設の子供全員が集まっていた。その部屋はこの建物の中でももっとも広く、安全だ。
だが、それももう時間の問題………。
子供たちは膝を抱え、小さく遠慮気味に灯されたろうそくの火を眺める。
そこへ、一つの足音が響いた。
黒いシャツから出た肢体がゆっくりと浮かび上がる。
「―――いこう」
たどり着くなり、足音の主はそう言った。
「だめだ。ここから出たら母さんが怒る」
一人の子供は小さく、呟くようにそう言った。
だから、たどり着いた足音の主はわずかにその表情を曇らせた。曇らせたといっても、その動きは本当に僅か。彼の人形のように動かないその顔をみて、彼の喜怒哀楽を見分けられるのは、毎日を共に過ごしているこの孤児院の子供たちだけだ。
「もう、じかんがない。………行こう」
彼の言葉はどこか焦っていた。
子供たちは顔を見合す。
「どうしたの? 今日の***、なんか悲しそう、」
小さな女の子が、その枯れ枝のように細い腕を伸ばした。だが、その***と呼ばれた少年は、小さくうつむき、結局は女の子の言葉に何も返そうとはしなかった。
「いいから、いこう」
「でも、お母さんが、」
そうだよ、お母さんが怒る。
お母さんがぶつよ。
お母さんが閉じ込めるよ。
お母さんが、お母さんが、と、子供たちはさざめき始めた。だから***は静かに告げた。
「無理にとは言わないから」
ぼくは、行くよ。
薄汚れた黒いシャツの裾がわずかに揺れて、彼はその場に背を向ける。
たったったったった、っと駆けて行く小さな足音に、幾人かの子供たちも続いた。それはこの施設の子供たちの約半分。
残りの半分はそのまま部屋に残り、自分の膝に顔をうずめていた。
彼等は呟く。
あと、二日………。
*
あの女がそわそわと俺たちの部屋へ訪れたのは次の日の朝だった。次の日というのは、散歩をした昨日の次の日。というのは、つまりは3日目の朝の事だ。
彼女はどこか落ち着かない様子で、俺たちへとごまかすような笑顔を向けた。
「お、おほほほほほ、ごきげんよう。目覚めはいかがでしたか?」
「はぁ、まあまあでした」
俺は適当に答えたが、その後にユウヤの「とても良かったですよ」という声が続いた。
「それはよかったですわ。ところで、」
女の声のボリュームがわずかに変わった。
「昨夜、窓の外に何かみませんでしたか?」
「いいえ。何も」
「泥棒でもはいったんですか?」
この質問はユウヤのものだ。
「いいえ。そうではなくて、」
女のぶくぶくに肥えた手が、人差し指にはめられた指輪をもてなして回していた。目は言葉を選ぶように泳がされており、なんて読みやすい奴だろうと、俺は内心嘲る。
「えっと、ですねぇ、子供が何人か、…迷子になってしまったようでして、」
「へぇ、子供が」
俺は視線を床にうつした。
昨日の子供、やはり行動に移ったらしい。何しろ、昨日の時点でもってあと2日だ。今日明日にでては、もう間に合わないかもしれないのだから。
(なら俺も、早くあの絵を完成させるとしよう)
顔を上げれば、ユウヤが適当に女の相手をしていた。
「大丈夫ですよ。僕等また、夕方頃散歩に行く予定ですし」
そしたらついでに、町の人たちにも聞いてみます。
そう言う絵の男の言葉に、俺は片眉を寄せる。そんな予定、一体誰が決めたやら。
そして、あの女もあまり嬉しくなさそうに、曖昧に言葉を濁した。
「それは、とても嬉しい事ですが、そうですねぇ。街の方々にはあまり心配をかけたくないので、」
おほほほほ、と口に当てられた手は小さく震えている。
「そうですか?わかりました」
なんとも理解の早い返答に、女はどこか安心したようすで去って行った。朝食はリビングに置いとくそうだ。念のため2人分用意するかと尋ねられたが、昨日と同じく一人分でいいと俺は答えた。
頬を膨らますユウヤが目の端に写ったが、お前は食べられないだろうにと、俺は無視を決めこむ。
「ねぇ、」
筆を進める俺へ、絵の中のそいつは声をかけてきた。いつもは、俺が絵を描いてる間は黙って眺めているのだが。ついに飽きたのだろうか?まぁ、完成もまじかという事もあり、俺はその会話に乗ってやることにした。
「なんだ?」
「家出だと思う?」
今朝の話だろう。俺は目の前のぼろい孤児院を眺めながら答える。
「さぁ、」
「わかってるくせに、シンだってもう予想はついてるんだろう?」
「何のことだ?」
「“迷子”の行った場所さ」
ユウヤは自分の考えをつらつらと話しだした。俺はそれに半ば耳を傾けながら絵を描き続ける。
なぜ、あの女が困ったのか。なぜ出て行った子供が全員ではなかったのか。
それはどれも予想でしかないが、確信には迫っていた。まぁ、そんな事俺が判断することではないし、本人たちが確信に迫っているといったわけでもないので、これからどうのと話を膨らませるだけ無駄にも思える。
この男だって、それをわかって話しているとしか思えない。
「町の人たちにばれたくないんだろうね。今までの子供たちの生活。こないだの話だと、ここの生活費には町の支援金が含まれてるらしいしね。オーナーっていうのも大変だね」
嫌味や懸念の色はないが、どこかいつもの語り口調とは何か違う。俺はあいつの表情が気になり、何となくそちらへと視線をやった。
すると、あいつよりも、その後ろを軽やかに駆け抜けてく子供の姿が目に入った。
軽く乾いた地面を蹴り、砂埃や音もなくあの孤児院の中へと駆けて行く。
白いシャツをはためかせ、その子供は灰色の建物の中へと消えて行く。
今日昨日崩れるともしれない建物の中に。
俺は何も言わず、それを見送る。
「シン?」
はっと我に返り振り返れば、荷物に立てかけられたあいつが不思議そうに首をかしげていた。
「なんでもない」
俺はいつの間にか止まっていた筆をまた動かし始める。
なんだろう。あんな子供に気を取られるなんて。
(あと一日)
そう、この孤児院は今日明日崩れるともしれない。
この絵は早く完成させなければ。そして―――俺の記憶に浮かぶ風景。赤い聖堂。揺れる影。最後の微笑み。
―――そして、次はあの聖母でも描こうか。
俺の筆はペースを落とすことなく、あと僅かな命となった灰色をそのキャンバスに写し取ってゆく。
*
夕刻、部屋に戻り、二つの絵を立て掛けた。一つは地べたに、一つは椅子の上に乗せ背もたれに。
「ちょっとちょっと!」
また一体何なのか。俺は集中力を使い果たし、へとへとになった瞳をあいつへと向けた。
「ねぇ、これなんかおかしくないかい!?」
「何のことだ」
「なんで僕が床で、そっちが椅子の上なのさ! 逆じゃないか!」
俺はぼんやりと視線を巡らした。ベッドの上に横たわり、視線だけをめんどくさげに移動させる。
あの灰色の絵。孤児院は椅子の上、背もたれによっかかり、まだ湿り気たっぷりの画面を窓の外から差し込む日没の明りにてらてれと輝かせていた。そしてあいつ。あいつはというと、ベットの上にいる俺からでは見えない低い場所で声ばかりをあげていた。
「別に何も間違っちゃいないだろ」
「君ってば!!」
今日完成したばかりの新参者に、いい場所を取られたのが不服のようだ。
「はいはい、」
俺は適当な返事もそこそこに、僅かの眠気に瞼を閉じた。
***
音は聞こえない。
自分以外何もいないから。
何度も何度もエッジを描き続ける自分の手。
そこに浮かびあがってゆく、聖母の姿。
―――だめだよ
突然上がった声に、俺は顔をあげた。
そこには自分と同い年くらいの子供。俺とは対照的な、白いシャツを着ている。
そいつは俺の左手首をつかんで、執拗な瞳を俺へと向けてきた。
―――だめだよ
俺はなぜだか苛ついた。
なんで、こんな見も知らずの子供に、絵を描く事を否定されなければならないのか、と。
だが子供は聞かない。
俺の手首をつかむ手に力を加え、俺へひたすら繰り返す。
―――だめだよ
―――だめだよ
―――だめだよ
―――だめだよ
―――………
***
俺は目を覚ました。
室内は暗く、ともし火も何もない。あるのは外の淡い光源だけ。
上半身を持ち上げると、キシリとベッドのスプリングが鳴った。
「おはよう、気持ちよく眠れたようで僕も嬉しいよ」
床の方から、不機嫌なユウヤの声。どうやら、あのまま地べたに放置され、少し拗ねているようだ。
「あぁ、良く眠れた」
俺は灰色の髪をわしゃわしゃとかき乱す。立ち上がり、ぐっと体を伸ばすと、窓の外に月が見えた。
「いま何時だ?」
「あのねぇ、僕の位置から時計が見えるとでも思ってるのかい?」
「あぁ、わざとだ」
この言葉にお喋りな絵は反論を上げたが、あいにく耳には入ってこなかった。俺は自分で時計を見上げる。白い壁に掛けられた時計はカチカチと僅かな音を立てながら、7と8の間を示していた。まだ朝ではないのは確かだ。だとすると、夜の8時前。
俺が眠気に襲われたのが多分4〜5時ごろ。と言う事は、最低でも3時間の眠りだったわけだ。
「なんだ、まだこんな時間か」
結構真夜中だと思っていたのだが。
「そう、まだこんな時間」
「あぁ、飯でも食ってくる」
「ちょっと、」
「あ?」
「一人で行くつもり?」
「はいはい、」
俺はキャンバスへと手を伸ばし、ドアの取っ手をひねった。
「ちょっとシン!!」
キャンバスから声が上がった。そう、下の方から。
俺は孤児院の絵を片手に嘲る。
「おっと、間違えた」
「いい加減にしてくれよ!」
あいつは頬をふくらませる。
(子供じゃるまいし)
可愛くもなんともないそれを、俺は手に取り、孤児院の方を下に置いた。
持ち直したキャンバスの中、「食べ終わったら散歩にでも行こうよ」という声が聞こえた。
俺は「はいはい」と空返事をし、下へと続く階段を下ってゆく。この家では、こんな階段にも電気をつけているらしい。照らされた足元は明るく安全で、なんとも楽に一歩一歩を踏み出せる。
この贅沢な住まいは、あの、夜になろうとも灯をともされることのない建物とは本当に対照的なものだな、と俺は思った。
なんとも居心地のよい宿。俺はあくびを一つかいて席に座った。
そこには、数時間前には温かく、湯気を立てていたであろう食事が並べられていた。あの女はおらず、“遠慮せずにどうぞ”とだけ書かれた置手紙。
「さぁ、遠慮せずに頂くとするか」
あの孤児院の子供は、きっとこういった食事の味も知らないのだろうな、となぜか思った。