虚ろな乞食
例えるなら灰色。
静かで生気の無い音の沈んだ道。
人々の活動する賑やかな色にあふれた大通りから一転して、その路地には生気にあふれた鮮やかな色、物、匂いが存在してはいなかった。
そう。命さえも。
そこにいるのは埃にまみれた人々。この町の貴族たちから追いやられた乞食。
その瞳には生きる希望すら見いだせず、自分たちを迫害してきた貴族達への怒りすら失われていた。
瞳はガラス。もう感情すら映し出さない。
写りこむものをただ写りこませるだけ。
何も思わない。何も感じない。
沈んだ空気。乾燥した何かが沈殿したようなその場で、一人の乞食が建物の間から覗く小さな空を、その何もないガラス玉へ移しこませた。灰色に濁ったそこに、写りこんだ空の青い色が加わる。
ああ。
この青はこんなにも青いのか。
あんなにも小さな青。
この外にはこの青が悠然と広がっているのか。
ああ。
なんて美しいのだろう。
なぜ今まで気付けなかったのだろう。
彼のカサカサになった腕が空へ延ばされる。枯れた植物のようなそれには回復の余地が見受けられず。
それを分かっているかのように彼はそっと涙を流した。
ああ。
私たちは、生きているのだろうか。
*** *** ***
町の貴族たちが「薄汚い」とののしっていたスラム街。それはあまりにも小さく、狭く、「街」と呼んでいいものか困る点があった。
「まるでゴミ捨て場だな」
道の端に何をするでもなく横たわる乞食たちを見て、この場によく似あった灰色の髪をもつ男は小声で一人つぶやいた。
「奇遇だね。僕も同じような揶揄を内心でしていたところだ」
ひとりごとかと思われたつぶやきに答えた若い声。それは灰色の男が方脇に抱える、10号程のキャンバスの中に描かれた男が発したものだった。
それを偶然にも見ていたのは一人の乞食。
彼らとすれ違う間際に耳にした会話。
彼はふっと足を止め彼らを振り返った。
「………わっ」
僕の視界が突然ぐらりと揺れた。
何なのかと視界を巡らせると、キャンバスの端に引っかかる枯れた何かを見つけた。
「なんだこいつ」
シンの言葉に僕は気づく。枯れたそれは人だったのか、と。
十分な水分を補給されていないのか、僕のキャンバスをつかむ彼は本当枯れかけた植物そっくりだった。
「ぅ、あっあぁ………」
からからの唇からこぼれ出たそれは言葉ではなく声。
シンは眉をひそめ彼の手を払った。
「………ぁ、ぁぅ…う…」
何かしゃべっていのか。それとも呻いているだけなのか。全くわからないそれからは、全く何も伝わってこない。
シンは払えども払えども繰り返し僕に手を伸ばしてくる彼を見て、面倒くさそうに口を開いた。
「残念ながらこれは売り物じゃないんだ」
「うう、…あ………」
わかっているのかいないのか。彼はかさかさした唇から音を漏らし、僕からそっと手を引いた。
どうしたものかと、僕はキャンバスの中から彼を見上げる。
「………あ、あ…う………」
目が行くのは彼の乾いて堅そうな唇。そしてまるで出っ張りの感じられない鼻筋、窪んだ鼻腔。そして薄いまぶたの下に納められた濁ったガラス玉のような瞳。
シンの髪とはまた違う灰色がそこにあった。
それを見つめ続ける。
瞬きのないそれは、僕を見つけてからずっと視線を外そうとはしてくれない。今もなお、彼は僕をじっと見ている。
―――な、んで
かすれた何かに僕の耳が自然とそば立つ。
パリパリに乾燥しきった木の葉同士がかすれあうような霞な声。
聴覚に集中仕切っていた僕。そこにふと何かとがった物がつきたてられる。
実際にではない。「そんな感じ」がしたということだ。
僕はそれの元凶を探して視線を上げた。
そこにあったのは彼の執拗な視線だった。
さっきまでガラスだったはずのそれに、何か熱い感情という色を感じた。
「なんなんだ、こいつ」
シンは呆れたように頭をかいた。
だがそんな彼の声が僕の耳に入らいない。
僕は彼の瞳にくぎ付けだった。決して一目ぼれをしたわけではない。ただ、彼の瞳に何か訴えるようなものを感じた。
「おい………。おい。ユウヤ」
僕の名を呼ぶシン。だけど聞こえない。だって今は彼が何か言っている。
けど彼は動かない。
「おい、もう行くからな」
しびれを切らしたのか、シンは足を持ち上げた。
突然だった。
「ドン!!!」と「ドサ」だ。
ふたつの音が静かなそこに埃を立てた。
ぶつかって、何かが地に倒れた音。
そして、シンが倒れて僕が落ちた。
違う。
倒されたのだ。
倒したのは乞食の彼。
自らの体を自分より背の高いシンにぶつけ押し倒した。そして「いったい何だ」と茫然とするシンをほおって、地に落ちた僕めがけてよろよろと走り寄る。
そして見た。彼がいつの間にか握っていたきらめきを。
どくん
僕の心音が僕の意志とは関係なしに跳ね上がった。
振り上げられたナイフ。
もしかしたらそれは、彼が護身用にといつも持ち歩いていたものかもしれない。
もしかしたらそれは、偶然にもそこらへんに転がっていたものを偶然にも今さっき彼が拾ったのかもしれない。
もしかしたらそれは、―――彼が本当に飢えた時、他の人間からものをただで譲りもらう、………奪い取るために使われていた、彼のかけがえのない家宝だったのかもしれない。
でも、これらはあくまで僕の思想。
僕は彼について何も知らない。
だって、彼とは今さっき出会ったばかりなんだもの。
一人のある乞食のナイフは一枚の絵へと振り下ろされる。
*** *** ***
「ドン!!!」と「ドサ」。
ふたつの音が緊迫して静かなそこに埃を立てた。
ぶつかって、何かが地に倒れた音。
今回地に倒れたそれは乞食。そしてぶつかったのはシンだった。
ナイフがカラリと彼の手からこぼれおちる。
あのままナイフが振り下ろされていたら、絵の僕でも死ぬのだろうか?
それとも生きていたのだろうか。
僕の脳裏に浮かんだ光景。
顔のど真ん中が裂けた男。彼は痛みも感じずに笑い続ける。裂けた布の下で、裂けた自らの顔に痛覚もなく、やがて裂けていることも忘れ、裂けた笑顔をその狂ったキャンバスの画面に浮かべる。
―――ぞくり
寒気が走った。
「………く、そっ」
そんな僕を我に返してくれたのは聞きなれた不満。むせてかすれるシンの声。
シンは埃にまみれたその体をはたきながら立ち上がった。
乞食もよろよろと立ちあがる。そしてまたもや僕へと手を伸ばす。
僕の頬は恐怖にひきつる。
「おっと、」
視界がぐらりと揺れた。世界が下のほうに追いやられ、埃に汚れた白い布地が僕の視界に広がった。
「残念だがこいつは売り物なんだ。大切な商品に傷つけたら弁償だぞ」
埃に汚れた白い布地。どうやらこれはシンの服らしい。多分場所としては腰あたり。僕はいつも通りシンのわきに抱えられていた。
さっきと言ってることが違うではないか、と僕は安心して笑っていた。
「………」
シンの言葉に返る彼の言葉はない。
シンはもう片方のあいた手で頭を掻くと軽く手を振った。
「じゃあな」
「―――・・・・・・・・・・…」
「え?」
彼が何かを言った気がした。
僕は絵の中で振り返る。
「おい!!」
そしてその後すぐ、何か嫌な音が聞こえた。
シンが声を荒げ、視界に広がる彼の脇腹が焦ったように揺れた。
ナイフの落ちる音。
ぴしゃりと水溜りを踏む音。
雨が降った覚えはない。
僕がその様子を見ようとすると、シンは勘付いたのかキャンバスの画面をその自らの体にべたりと押し付けた。僕の絵具が乾いていなかったら服が大変なことになっていたことだろう。
「なに。シン! いったい何が起きたんだ!?」
聞かなくてもわかった。
「………なんでもない。………行くぞ」
ばればれの嘘にもすぐわかった。
だが僕はそれ以上問い詰めない。
「………ああ」
僕にできるのは区切られたキャンバスという画面の中で、小さく手を合わせることだけだった。
灰色の髪の男。
灰色という色はこの場所に嫌というほど似合うはずなのに、その青年の灰色はどういうわけかこの路地の住民から見ると、見慣れた灰色とは混ざりあえない「灰色」をしていた。
何か違う、強く眩しい色。
住民たちは彼に近づけないでいた。
その鋭い瞳とも、視線を合わすことができないでいた。
彼の立ち去った路地で、身を隠していた人々が少しずつ現れ出す。
そして、灰色の青年が通った道の上、一人の男が首から血を流しているのが見つかった。
彼を見つけたのは一人の乞食。
そしてそれは二人と増えて、三人、四人、五人………と、匂いにつられてわらわらと飢えた者たちが集まる。男、女、子供、老人。彼らには性欲もなければその場で集まった仲間たちと言葉をかわそうという欲もない。
今あるのは、ただ純粋な食欲。
赤く染まった彼を囲んで、彼らはガラス玉をギラギラと輝かせた。
ひとりが彼に手を伸ばしたのを始まりに、乞食たちは今ある極上の食事へと争うように手を伸ばす。
*** *** ***
なんでお前は生きてる。
実際にこの世界に体を持ち、自らの足で歩く私より、なぜお前は生キテいる。
死んでいるお前より、なぜ私の方が死んでいる。
なぜお前は瞳に様々な色をもつ。
なぜ死んだ人間が生きた人間より恵まれる。
死んだ人間が生きた人間よりものを感じていいのか。
死んだ人間が生きた人間より生きていいのか。
なぜ世界はそれを許した。
なぜ生きた私より彼を生かす。
憎い。
お前が憎い。
生きてるのに死んでいる私。
死してなお生きるお前。
許せない。
いけない。
お前のような奴がいてはいけない。
だから私が、お前を消そう
*** *** ***
むしゃむしゃ………・・
…ぐしょ・・・
・・・べちゃ…ぴしゃ…・・・………
路地に人々がものを喰う音が響く。
人々はこの男に感謝した。
嗚呼、嗚呼、………
貧しさに苦しんでいた友よ。
我等が敬愛なる友よ。
死んでくれてありがとう。