運命
もし『運命』という存在が本当にあるのだというなら、僕はそれを受け入れるのだろうか。
それとも、僕にはそれをぶち壊す勇気があるのだろうか。
とある町。茶色いレンガが並ぶ道。灰色の髪の青年は、青い空の下荷物を小脇に悠々と歩く。
「ははは、何言ってんのお前?」
鋭い目つきは笑顔に崩され、その間だけ鋭さをなくす。まるでいたずらっ子のようなその笑顔。どこか子供のように純粋なものを感じるが、その道を通り過ぎるだけの人々はきっとそのことには気付かない事だろう。
僕は思う。
僕にはそんな勇気はないと。
決まったことを崩し去るような勇気はないと。
運命があったとしたら、僕はその決まりきった道を拒否するすべを知らず、ただおろおろしながらひかれたレールの上を歩き続ける事だろう、と。
だけど。
だけど、
きっと彼は違う。
もしも運命というものを、拒否権もなく差し出されたら。
きっと彼は拒否をする。
拒否権もないそれを拒否する。
そして描くのだ。
自分の筆で、自分の行く先を。
誰にも描いたことのない絵を描き、きっと―――
*** *** ***
「坊や、運命を信じるかい?」
彼女はしわがれた声で僕を脇に抱える彼にそう言った。
僕は「坊や」と呼ばれた彼が、一瞬頬をひくつかせたのを見た。
「くすくすくす…」
「おい、何がおかしい」
最低限、極力抑えたつもりだったが、僕の笑い声は彼の耳に届いていたらしい。僕は彼にキャンバスの裏を小突かれて、「だってさ、」と言いながらまだ笑い足りないのかまた笑ってしまった。
老婆は道端の壁に背を預けながら腰掛け、こんな僕らのやりとりをほほえましそうに、悲しそうに見守っていた。
老婆は一見、どこかから流れてきた難民のようにも見えた。
垢で汚れた皮膚はところどころまだらに茶色く。羽織るように肩にかけたフェルト生地は砂ぼこりに汚れ、少し湿り気を帯びていた。
「坊やは絵が上手だね」
からからともがらがらともいえる声は僕らの鼓膜を嫌に震わせて脳へと振動を伝える。
「ありがとうございます」
シンは軽く会釈した。
これはシンのお決まりな行動だ。絵を褒められた時に返す、一番無難な返答。
「あなたは幸せそうだね。二度目の『生』に感謝し、その『生』を楽しんでいる」
老婆の白濁した瞳が僕へ移る。
その瞳には、本当にこの世界が見えているのだろうか?
僕は疑問ながらも老婆の言葉に笑顔で頷いた。
なぜだか知らないが、ずるい考えかもしれないが、この時僕は、彼女を通してこの感謝の気持ちを彼に伝えられるかもしれないと思った。僕が絵となった現実を恨んではいない事を。彼との出会いを心から喜んでいる事を。普段言えない、この感謝の気持ちを。
彼女にはすべてお見通しに見えたのだ。
見えそうにない瞳を目の当たりにしながら、だが彼女という存在にほかの人間とは違う何かを感じて。
「坊やが描いたんだろう?」
彼女は木彫りを連想させるしわだらけの顔をシンに向けた。
「…そうですが、何か?」
シンの表情も声色も、いつもの通りに感じられる。だが、彼は僕以上に彼女の存在に敏感だった。僕以上に彼女の異常を感じ、彼女を苦手としていた。
彼は得意のポーカーフェイスで苦手との対峙に当たっていたのだ。それは負けず嫌いの彼の人柄からか。それとも彼女が彼を逃がさんとしていたのか。
もちろん僕には分りもしない。
彼女は固くなった皮膚をそっと持ち上げてほほ笑む。
見えない恐怖におびえる子供を、安心させるように。
「坊やは、絵が好きなんだね、」
この言葉に僕は違和感を覚えた。
だって、今思えば絵をかく彼から「絵が好きだ」という言葉を聞いた事がなかったから。
「いや、………別に、」
そうだ。彼は今みたいに、特に興味のなさそうな態度で絵を口にするのだ。
熱い情熱も、重い心意気も、彼は絵に対して決して持ってはいない。いつもふらりと絵を描いては、いつもふらりとその場を後にするのだ。
「そうだね。坊やは正直だ。坊やはそこまでの熱意を絵に抱いていない」
僕の隣で、「いったいどっちだよ、」と小声でごちるシンの言葉が聞こえた。
僕はよくわからなかった。彼女が何なのか。なぜいきなり声をかけてきたのか。
そんな僕の心情を知らぬ顔で老婆は続ける。初めに抱いた僕の期待を裏切るように、老婆は自身の言葉を遠慮なく僕らに見せる。
「坊やは絵が好きじゃない。嫌いでもない」
知った事を繰り返す。
「坊やは儚く脆く、つらく悲しい現実を生き抜いた哀れな魂に僅かな慈悲を与えてるんだろう?楽しく温かいひと時を、優しく筆で包み込む」
たいそうな人間像だな。
皮肉を含んだ台詞が、隣から小さく聞こえた気がした。
「そうやって報われない魂を救おうとしているんだろう?」
老婆は木の枝のような手を僕へと運び、画面をそっと、かさりと撫ぜた。
「いい加減にしてほしいもんだ」
シンは不愉快そうにそうごちった。
日が暮れるというのに宿を探そうともせず、その街を通りぬけて後にする。
僕にはあの老婆の言葉が忘れられなかった。
救っている。
そう。確かにシンは救っている。それは人であったりなかったりはするものの、確かに彼は、僕から見たらいろんなものを救っているのだ。
だがそれは、僕には老婆が言うような恩着せがましいものには思えないのだ。
確かに老婆の言葉はあっている。
だけど何かが納得いかない。
僕はキャンバスの中で口を紡ぐ。
そうしているうちにシンの足はその街から遠ざかり、道の整備もろくにされてない森へとずんずん運ばれていく。
老婆は言うのだ。
『こうして自分の短い人生の印を残しているのだろう?』、と。
シンはつまらなそうな、だけどどこか嫌そうな顔をして老婆に答える。
『そうかもしれませんね』
あくまでそれはそっけなく熱のない言葉。
彼女は僕にも語りかける。
『あなたは彼の印だ。彼が残す、この世界への遺品』
その言葉は僕の首筋をぞくりとさせる。
『滅多なことを言わないでください、』
僕は困ったような笑顔を浮かべた。
自分より年上の彼女をたしなめるように。
『いいや。私にはわかるんだよ。何もかもお見通しさ、』
シンは気に入らなくもからからと笑い老婆に尋ねる。
『あなたは占い師か何かか?』
老婆の白濁した瞳、濁った白乳石を思わせる瞳。岩窟の奥に埋まった冷たいそれ。
それの視線は確かに彼のもとにある。もしかしたら、彼女にはほんとに、何もかもが見えているのかもしれない。僕の鼓動はことんと小さく呟いた。
『そうだねぇ。若かりし頃。私には本当にいろんなものが見えたものさ。だが見えすぎた。見えすぎた上で、私はそれに従った。自分のこれから歩む道を、そして迎える結末を。すべてを迎え入れてここにいるのさ。運命を、ただ受け入れて、』
彼女の言葉。それはなぜか僕の心を締め付ける。
『私はねぇ、この町で最後なんだ。そして坊やで最後なんだ』
そう、坊やもねぇ。
語尾の小さな言葉。もしかしたら空耳かもしれないその言葉が、僕の耳に、とげのように引っかかる。今の言葉、彼の耳には届いているだろうか?
どくどくと、焦りが体内を駆け抜ける。
目に入った彼女の瞳。それはなんとも言い難い光をたたえていた。白く黒い瞳の奥で、普通の人間にはないような、小さくも強い光。不思議で、未知な、先を照らし見るような光。
『だからね、坊や。教えてあげよう。坊やは気に病むことはないのだよ、』
その言葉は本当にやさしい。泣きやまない子供をなだめるかのように。眠れない羊の背をそっとなでてやるように。静かな水面を波を立てずになぞるように。
そして、最後の時を迎える人間に心残りをさせないに。
ぞくりとした。
この老婆は何を言っているのかと。
僕は、こんな形でこの気持ちをばらされたくない。
『坊やは、、胸を張るべきだ。彼を描いた事を。決して悔やんではいけない』
―――やめてくれ
『だから、坊やは何も悲しむことはない』
―――やめてくれ
『彼は感謝しているんだよ。こうしてチャンスを与えられて』
―――やめてくれ
『そして私も感謝しているんだよ。坊やとの出会いに』
―――やれてくれ
『坊やはよくやった。坊やの絵は、本当に、』
『シン!』
気づけば僕は声をあげていた。
老婆は驚いた顔をして僕を見る。まるで僕が口をはさむことなど、全く予想だにしていなかったかのように。
だがそんな老婆の様子も尻目に、僕はシンを促した。
焦っていたのだ。
何か。見えない何かに。
とてつもなく恐ろしい、見えない何かを。
シンはそんな僕の焦った様子に気づいたようだった。
普段人の言葉を遮ることのない僕のこの行動に片眉を上げ、「どうした?」と言おうとしたのか口を開く。
だが僕は、そんな彼の短い言葉にも待つ余裕がなかった。
『いこう、そろそろ宿探さなきゃ!』
シンはよろりとよろめいた。
まるで何かに押されるように。
そしてそのあとは自分の足で踏みだした。
2〜3歩、バランスを取るようにふらふらと歩きだした時だ。
恐れていた事は起きた。
今まで彼らがいた場所が、大きなトラックに押しつぶされたのだった。
世にいう飲酒運転。
突っ込んできたトラックは、老婆という尊い被害者を出してそこに鎮座していた。
シンはその様子を返り見て、茫然と立ち尽くしていた。
僕の高鳴る鼓動はまだやみそうもなく鼓膜を叩く。
どくどくと、どくどくと。
やがてとてつもない騒音を響かせ静かになったその場所に、次は人々のざわめきが響き始めた。
僕は急かす。
『行こう、』と言って。
シンは寝起きの子供のように、小さく頷いて歩き出した。
「なんだって俺がこんな目に、………しかも、人の目の前で、………さっきまでのうのうと話してたくせに………」
ぶつぶつとシンは文句を垂れる。
その横で僕は思想に暮れる。
『そうやって報われない魂を救おうとしているんだろう?』
違う。
『あなたは彼の印だ。彼が残す、この世界への遺品』
そんなもの、まっぴらごめんだ。
僕はシンを見上げる。彼は、そんなことのために絵を描いたりしない、と。
自分の終わりを見据えた絵。そんな絵を、彼は描いたりしない、と。
彼は絵をかく。
だがそれはなぜなのか。
僕は全くわからなかった。
彼が絵を愛してるわけではないのは確かだ。
そして、描いてるからには嫌いではないのも確かだ。
ではなぜ?
なぜ彼は絵を描くのだろう。
なぜ彼は僕を描いたのだろう?
もしも、彼が自分の遺品として絵を描いていたら、その一部である僕は本当に悲しい。
シンジは森を歩いていた。
絵を抱え、荷物を背負い。
そして彼は森の中にあるものを見つける。
それは、本来なら温かく、柔らかとしているモノ。
「ねえシン、」
「ん」
シンは歩き続ける。
お喋りな絵には視線も与えず。前だけを見据え。
「シンは、何で絵をかくの」
「は?」
間抜けな声だった。
僕はなぜかじれったいと感じた。いつのも自分なら、相手の言葉を待つ余裕くらい十分にあるはずなのに。
「何でだい? 君が絵を描く理由」
シンはあいてる片手で頭を掻いた。
「何となくだよ、」
いらっとした。
彼らしいその返答に、僕は苛っとしたのだ。
自分でも珍しいと思った。温厚な性格。もしかしたらただ鈍感なだけ。そう、自分のことながら、自分の性格はちゃんと理解していたつもりだ。なのに、自分でも自分を「滅多に怒らない人柄」と介していたにも関わらず、今僕は苛ついている。
「真面目に答えてくれるかい。ちゃんとした理由くらいあるだろう」
あからさまに、どこか怒りを感じる口調。
シンはそんな僕にちらりと一瞥をくれた。そして立ち止まる。
僕を、キャンバスを木の幹に立てかけて向き合った。だが僕は自分が置かれたことにも気づかない。
「まさか、君は本当に、」
彼女の言う通り「遺品」として僕らを………「僕」を描いたのかい?!
そう尋ねようと思ったが、向き合った彼はすぐにそっぽを向いてしまった。
僕は彼のその行動に頭を熱くするばかりだった。
明らかな怒りを感じる。シンが、己の死を前提にして絵を描いていたとしたら。そんな寂しい動機で今までの旅を続けていたとしたら。そうだとしたら、まるで、この旅事態が彼の死に場探しのようではないか。と。
頭がいろんな思いでパンパンになっていた。だが気づく。
あたりの変化に。風景の不自然さに。
いつの間にか置かれていた自分。
道らしき姿は一つもない、うっそうとした木の群れ。
いつの間にか道から外れ雑林の中に入り込んでいたことを知り、「どういうことか」とここに存在する唯一の人間に目をやった。
僕は小さく息をのむ。
彼は土を掘っていた。
頭に浮かぶ、「なぜ?」という単純な疑問。
そこらに転がる木の棒で。ざくざく、ざくざく、と土を掘っている絵描き。
一瞬その行動の意味がつかめずに呆然としたが、周りの様子を見て、その場の状況にやっと気がつく。
ウサギが横たわっていた。
青年のわき、呼吸に胸を上下させることもなく。じっと、冷たく、横たわっている小さな塊。
知らず知らずのうちに、穴はウサギを飲むくらいに成長する。
シンはその穴にウサギを横たえた。
「………なんで」
僕の口から言葉が漏れた。だがそれは、自分でも何に対しての「なんで」かわからなかった。
その「なんで」にシンは答える。
「何となくだ」
自分が振った会話なのに、彼の言葉に僕の頭は追いつかない。
この「なんとなく」は何に対してのなんとなくだろう。絵を描くこと? うさぎを埋めること? それとも別の何か?
だが、次から出たシンの言葉で、この「何となく」が絵を描くことに対して発せられたものだとわかった。
「何となく、描きたいと思ったから描く。描きたくないから描かない。寝たいから寝る。食べたいから食べる。それと同じだ。気まぐれだろうがなんだろうが、理由は理由だろ。それを真面目な理由と呼べないなら、俺が絵を描く理由はない」
横たえられたウサギに、少しずつ、少しずつ大地がふりかけられて行く。
「報われない魂を救う? 人生の印を残す? くそくらえだ。自分の死を前提にした絵なんて、そんなもの誰が描くものか。救われない魂ってやつも、考えただけできりがない。………だいたい。そもそもだ。俺は魂やら霊魂やら。そういった類の存在を信じちゃいない」
彼の足もとには小さな塚ができていた。
それは本当に小さくて、気づかずに踏んでしまいそうなほど。
絵描きはそれに小さく手を合わせる。
その様子を茫然と眺めていた僕は、老婆の言葉に感じたあの違和感が消えていることにようやく気付いた。
そう。彼は描きたいから描いていた。それだけなのだ。別に、何かを救おうなんて高望みはしていない。その行動は人一人の自己満足であり、それはそんなつもりもなくに様々なものを救ってきた。
彼が描きたいと思った感動。それに込められた力。やりたいと思ったからこそ描き遂げられる絵。
すべては偶然なのだ。
まるで全てが必然であるかのような彼女の言葉自体、偶然の中で生きているかのようなシンには不似合いだった。だから違和感を感じた。
彼は誰かを救う事を目的に絵を描いているのではない。彼は自分の遺品として、この世に絵を残すのではない。
描きたいから描き、それに胸打たれた人たちが勝手に絵を残す。
描かせているのだ。風景が、生き物が。彼に描かせたいと思わせるような感動を与え、彼もそれを当たり前のように同意して。
僕も小さく手を合わせた。
カサリと葉がこすれて、その場のすべてが手を合わせているように感じた。
*** *** ***
「魂なんか信じない、か。そういえばさ、どっかの線路で男の人から血相変えて逃げたのはどこの誰だっけ?」
いたずらな声に青年は目を座らせる。
「ったく。さっきまで駄々っ子みたいに拗ねてたやつが。今度は人の上げ足とって楽しもうってか」
絵はくすくすと笑う。
「だってシン、言ってる事がいつもばらばらなんだもの」
そうだ。いつだってこの絵描きは矛盾だらけ。本当のことなんかわかりもしない。きっと本人自身も。いつも自分の突発的な意思に行動を任せてばかり。自分に忠実なのだ。驚くくらいに。自分がなぜそう思ったか考える前に体が動く。きっと、だから彼が彼でいられるのだろう。
行動のほとんどに理由を持たないのは、彼が理由を必要としていないから。それはとても強いことだ。強い人間だからこそできること。
僕はずいぶん前からそのことに気が付いていたはずなのに、今回あらためてそのことに気がつかされた。
そして、なぜだかそれがとても嬉しい。
風は彼らを包み込む。月夜は優しくその道を照らす。
*** *** ***
私は知っていた。
今日という日が何なのか。
未来を先読むこの瞳が、自身に告げた、冷たい事実を。
今日この日。私はトラックに押しつぶされこの世を去るのだ。しかも一人でではなく、まだ若い青年を連れて。
瞳は告げていた。それは絵描きであると。根無し草にも旅をして、この世を描く絵描きだと。
これは避けられない運命。
私は彼に同情した。
だが彼には彼を記憶としてとどめる絵があった。その絵は彼への感謝を忘れず、彼がなくなった後もこの世で生き続け、一人の絵描きの人生を語り続けるはずだった。
だが現実は、私の予想を、瞳をも、はるかに超えた。
青年は動いたのだ。
最後の場で。
その一歩が、どんなに大きなモノかも知れずに。一歩、踏み出したのだ。
その瞬間、彼の運命は変わった。
そして私は―――
*** *** ***
青年はその時の不思議な感覚に茫然としていた。
「いこう」
絵の言葉と共に押された背中。
目の端に捉えた子供の姿。
顔は見なかったが、確かに視界に入った彼。
子供は小さな体で、一生懸命、自身の倍あるであろう自分の体を、必死になって押していた。
そして、その甲斐あってかその体はふらりとよろけ、傾いだのだ。
青年は崩れるバランスに、一歩、足を踏み出した。
バランスをとるためにもう一歩。踏み出した足はさらに進んだ。
振り向けば背中を押した少年はいない。
そしてただ、そこにあったのは巨大なトラックと―――。
「行こう」
聞きなれた彼の声は、その時やけに落ち着いた。
*** *** ***
運命など気にしない絵描き。
ただ気に残る、背を押した小さな体温。