思い出した友
その絵描きは思っていたより若かった。
ある日、召使に連れてこられた部屋で、今から私の肖像画を描く事を告げられた。私は訳の解らないまま正装させられ、座れ馴れた書斎の椅子に移された。
「初めまして」
当たり前だが、絵描きは初対面の私にそう告げた。
「旦那様、彼は私が選び抜いた絵描きです。きっとそのままの貴方を絵に納めてくれる事でしょう」
満足そうな召使の声に、私は口許を綻ばせた。彼が良い絵描きを見つけて来てくれたことにではなく、彼のその優しさが嬉しかった。きっと、老い先が短い私を気遣ってくれたのだろう。
私はこの時初めて召使に告げられた。彼が前々から絵描きを探していた事を。だが、なかなか気に入る絵描きが見つからなかった事を。絵描き募集の旨を張り紙や新聞の広告に記して、いつか自分の待ち望む絵描きを待っていたという事を。
こんなにまでこの召使が手を回していたのに、なぜ私がそれに気付く事が出来なかったのか。それは目が見えないからだ。目が見えない私を、この彼はいつも気遣ってくれていた。そして、肖像画を描こうと言い出したのも、多分そんな彼の心配りからだろう。
『とうとう見つけたんですよ旦那様!』
彼が絵描きの事を説明する前の第一声がこれだった。どうやら相当興奮していたようだ。
実は、この絵描きが現れる前にも沢山の絵描きが申し出に来たらしい。だが、この召使はそのどの絵描きも気に入る事が無かった。彼が言うには、その絵描き達のどの絵にも、感動する事が出来なかったらしい。
『所詮奴等は報酬額に目が眩んだだけの小物なんです。私は気持ちのこもった絵を描く絵描きしか望んでませんでしたから』
彼らしいと思った。何よりも気持ちを優先し、そしてその気持ちこそがこの世で一番素晴らしく大切な物だと考える。もちろん金よりも。そして物にこもった気持ちを見抜く目も持っていた。いや、第六感といった方が正しいだろう。
だから、彼が今回屋敷に招き入れたこの絵描きの絵は、本物と称しても良いという代物だったのだろう。物を選び抜く面で、とても評価が厳しい彼に、よく認めて貰えたものだと感嘆した。
「でわ、旦那様。私は失礼していますので、何かありましたらいつものようにお呼び下さい」
でわごゆるりとどうぞ。彼はそう言って扉から出ていった。小さく戸の閉まる音を、物音に敏感な私の耳が捕らえた。
*** *** ***
「ほぉ、では旅をなさっているのですね」
私は今、向かい合って絵を描く彼と、とりとめの無い会話に興じていた。
「まぁそんな感じです」
彼はあまりお喋りな質ではないらしい。だが、このお喋りな老人の質問に率直に答えてくれる声音を聞くと、あまり邪険にはされていないように思える。私はそんな寛大な彼に甘え、次から次へと言葉を投げ掛けていた。
「絵を描きながら旅を。きっと大変な事でしょうね」
「そうですね。もう飽き飽きしてますよ」
「おやおや、それはそれは」
私はほっほっほっと笑いごほごほとむせてしまった。今までキャンバスにあったのだろう彼の視線を感じ、私は軽く手を振って見せた。
「いやいや、すみませんね。老い先短い体ってのは、どうも錆び付いてていけない」
彼が目を細めた空気を感じた。突き刺さる視線。きっと絵描きには不似合いな鋭い目付きをしてりのだろうなと思い、なぜか面白い。どこかのマフィアに所属しているような男。だがその手に握られるのは銃でも煙草でも無く筆とパレット。向き合うのは筆の的であるキャンバス。
なんて滑稽な図だろう。
視力を失い捉えようのない相手の姿を勝手に想像し、私は一人、子供に戻ったような気持ちで楽しんだ。
しばらくすると、筆の音がぴたりと止まった。
「おや、もう終わりましたか」
にこやかに尋ねた私へ、彼は『はい』と頷いた。
思ってた以上に早い完成に、私はさすがプロだと感嘆した。
「ですがまだ仕上げがありますので、」
「そうですか、そうですか、ではあと少し。お互いに頑張りましょうね。と言っても、私は座ってるだけですが」
「お気にせず。そのままゆっくり寛いでいて下さい」
「ありがとうございます」
頭を下げかけて、モデルが動いてはいけない事を思いだし私は笑ってしまった。
「すみませんね」と軽く会釈し、先程通りに座り直す。
「動いても大丈夫ですから、楽にしてて下さい」
「そうですか。でわお言葉に甘えて、」
私は無理に伸ばしていた背筋をほぐし、ゆったりと椅子にもたれた。絵描きの彼の方から、小さな物音が聞こえ、最後の仕上げをしているのだろうと想定する。
「随分大きなお屋敷ですね」
作業を続ける彼から声があった。
「私の一生があった記しみたいなものですか。若い頃はいろんな事に目が眩んで、苦労を重ねて積み重ねて出来た我が家。この家には私の汗と涙が詰まっています」
「そうですか。報酬額からして、かなりの資産家だという印象を持ちました」
「そうですね。こんな言い方はおかしいですが、この屋敷にはお金なら腐るほどあります」
「でしょうね」
「ですが、それに比例してか、金に目の眩んだ哀れな亡者もあつまってくるんです。私は静かに暮らしたい。何も考えず、今ある時間をこの錆びて堅くなった肌で感じていたい。そう思うんですよ」
静かな沈黙が流れた。私はこの沈黙も、滑らかなムースを舌に感じるように、じっくりと味わっていた。
やがて、沈黙の中にコトリ、と小さな音が跳ねる。
「昔は、まだその体が利く頃は、随分無茶をした事でしょうね」
私は彼が、椅子から立ち上がったであろう事を悟った。
「そうですね。いろいろな無茶をしました。あの頃は本当に回り見ずな無鉄砲で、………あぁ、本当に、いろんな人達に迷惑をかけた事でしょう」
ゆっくりとした口調。絵描きの彼を焦らしてしまった気がして、最後に小さく『申し訳ない』と付け足す。
「今更謝ったって手遅れですよ」
彼は私の『申し訳ない』をどう受け取ったのか。冷めた口調を私に突き刺す。
「もう遅い。もう遅いんだ。………覚えていらっしゃいませんか。一人の男を。この豪勢でくだらない生活の贄となった、哀れな男の事を」
私は相手の言葉を耳で食べ、脳でゆっくり消化する。
「黒髪で、人の良さそうな男です。覚えてませんか。それとも自分の手を汚した汚い過去は事は、とっくに忘れ去ってしまいましたか」
「………誠に申し訳ない。老いぼれたこの脳みそでは、貴方の話が理解できないようだ」
「そうですか。では思い出して下さい。雨が降っていたあの公園を」
雨。公園。その言葉で、私の脳がハイスピードで働き出した。男。黒髪。人の良さそう。
「あぁ、」
懐かしい記憶に声が漏れる。
「………彼か。思い出したよ」
その言葉とともに、口の中に苦さが広がった。それは、どんなコーヒーよりも苦く黒い、罪悪感というものだった。
本当は忘れたことなどなかった。彼の存在が、彼との出会いが、どれほど自分を苦しめてきたことか。
絵描きの言葉に早く思考を巡らせられなかったのは、まさか彼が『彼』を知っているとは思わなかったからだ。
「思い出したな。コルド・コーガ。あんたはあの公園であいつを殺した」
彼の口調がガラリと変わる。
「彼は、死んだのか…」
「あぁ。あんたの仕業だ」
「そうか、…彼は………。すまない事をしたな………」
「わかるだろ? もう遅いんだ」
私はもうろくに見えない目を、うっすらと開けた。
あぁ、やはり、何も見えない。
「じゃあな」
一体、彼はどんな表情をしているのだろう。仇を取ろうとするこの声が、とても寂しく聞こえるのはなぜだろう。
町の中でも一際大きな屋敷から、幾つもの発砲音が響いた。その屋敷の主コルド・コーガは、その音の全てを一身に受け、血に染まってみつかった。犯人とされる絵描きは逃げて、残されたキャンバスには黒々とした赤でこう描かれていた。
―――復讐
*** *** ***
黒髪の男が走っていた。私には彼が何ものかから逃げているように見えた。
気付いた時にはその男の手を引き、己の車に詰め込んでいた。
車を走らせながら、私は彼と言葉を交わす。
「若気の至りってやつかな?」
「まぁ、みたいなもんです」
彼は車内へ吹き込む風に黒い髪をばさばさと乱されながら苦笑した。
「聞いてもいいかな?」
青年は困ったように頭を掻き、一言。
「逃げてきました」
その一言は聞く必要もないくらい明確な事なのに。なのにあえてそう告げた彼に私は笑った。
彼は楽しそうに微笑んだ。
車を走らせる事一時間。彼を降ろしたのは私の作業場でもある小さな倉庫だった。
そこで彼はマフィアから抜け出して来た事を告げる。マフィアという言葉が、どれほど彼に不釣り合いだったことか。
「そりゃあすごい。私には程遠い世界だな」
人事ながらに笑う私へ、彼は「だろう?」と言って共に笑った。なぜマフィアを抜けたのか、彼は私に包み隠さずばらしてくれた。
女が、死んでいたそうだ。それは話したことが無ければ、目も合わせた事も無いような。自分とは全く無関係な女。初対面ですらない女。なにしろ彼女と出会ったのは、彼女が亡骸となったあとなのだから。
その女は腕に子供を抱いてたらしい。多分庇っての事だろう。だが、その子供も、女共々死んでいた。
「惨めだったんだ」
彼は苦しそうに笑い、そう言った。
惨めだった。
惨めだった…。一つの命を助けるに、一つの命を張ろうとも、それは結局助けられず終まい。『壊すのは簡単』。彼はその肌を持って、この言葉を改めて実感したのだ。行き先の無い自分を、小さい頃から育て物教えてくれたボスには申し訳ないと思った。だが彼は抜け出さずにはいられなかった。もうこんな思いはしたくないと思った。
「逃げたんだ。マフィアからも。自分からも。辛い事に、立ち向かおうともせず、」
彼の自身に困ったような笑いが、私にはとても辛かった。
「無理をする事はない。それも全て必要な事さ」
彼は一筋、涙を流した。
そして結果、私たち、というより彼は、無事逃げ切った。
少なくとも、私が彼と居る間はそう思えた。
だが悲しもがな。
あの公園。彼は別れの場所で悟っていたのだ。すべてを悟っていたのだ。己がこれから、行く先を。
知らないでいたのは私だけだったのだ。
ある公園で、車から彼を下ろした。
『あなたとは会わなきゃ良かった。だって、こんなに運転が下手な人、他にはいないもの』
彼は言った。
『私は会えて良かったよ』
私は言った。
『・・・本当に…』
彼は俯く。そして顔をこちらに向けほほ笑む。
『君とはもっと、早く会いたかった』
私は空を仰ぐ。そしてかれと同じくほほ笑む。
『なんならこれからも一緒に、』
彼がこの町にいられるはずもないと、わかってもいたのに。
彼はさびしく笑った。
『わかるだろ?もう遅いんだよ』
その言葉の意味に、なぜ私は気付けなかったのだろう。
『………じゃあね』
『またいつか、』
彼は、私の背を押した―――
*** *** ***
そして、俺は偶然にもあいつに出会った。
偶然の出会いにはじめは気付けずにいて、あいつを俺は他人事で眺めていたんだ。
ふと、目を開いたあいつ。
なぜかその黒い瞳に、胸が熱くなった。
他人の命の消える瞬間に、ひどく心が痛みを発した。
あいつの唇がうっすらと動く。
『コルド・こ…がに、………』
*** *** ***
「わっ!」
カタン
一枚のキャンバスが地面へ落ち、声をあげた。
その横では二人の男が倒れ、起き上がろうとしている。片方の、30代半ば頃の男は早々に立ち上がり走り去った。もう片方の男も、その男が走り去るのを未届けながら立ち上る。
「シン、あの人」
シンと呼ばれた男は体を払いながら「あぁ」と頷く。不可思議な絵。キャンバスの中の男は言葉を続ける。
「昨夜、酒場で絵を買ってくれた人だよね。どうしたんだろ」
「さあな」
興味がなさそうな男は短に答え、喋るキャンバスを持ち上げた。
「人を殺して逃亡中とか」
キャンバスは彼の左脇で冗談を言って笑った。
「馬鹿言え」
男はそんなキャンバスの冗談を軽く流した。
なにしろ本当に馬鹿らしい話だったから。
*** *** ***
町の外れ。見る人のいない新聞がはらはらと風に舞う。
『町一番の富豪殺される』
『幸せすぎる男へ神が嫉妬?』
『犯人は絵描きに成り済まし、二人きりの部屋で発砲』
『ラングド氏とニコル嬢の不倫疑惑』
『新しい電球の開発に成功』
『犯人は30代半ば頃の痩せた男。彼は前日の夜に絵を買い、それを自分が描いたと偽り―――』
*** *** ***
あいつの遺した最後の言葉。俺はそれを、あいつを殺った、真の犯人の名だと思った。
まさか、知らなかったのだ。あんな穏和で人に好かれる質な奴が、マフィアの育ちだったなんて。
あいつは普段、俺が見ている限り、自分の身の上を決して回りの人間には喋ってくれなかった。そして、それは親友の俺にも同じ事だった。俺はそんなあいつを、詮索した事はなかった。
俺は憎んだ。そして探した。コルド・コーガを。
親友の仇を。
恨みやら憎しみやらを募らす事に夢中な俺は、あいつの最後の言葉を考えようともしなかった。
『コルド・こ…がに、………』
―――コルド・コーガに、心からの感謝を。
『彼』が彼に望んだのは、人生への幸福。
人に恨まれ、命を狙われる事のない、平穏で平和な人生。