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止めるために殺した話 (仮題:何て素晴しい・・・)

 騒がしい雑音。目が回りそうな色。落ち着けない人並み。

 男は走った。

 ただ平穏を求めて。

 静かな場所に行こう。

 そこで静かに暮らそう。

 そして静かに果てよう。

 男は走った。

 自分の死に場所を探して。



*** *** ***



 その客が来たのは夕刻だった。

 人気のない田んぼ道を、重そうな荷物を背負いながらひたすら歩いていた。

 私は彼に話しかけ、彼を家に招いた。

 『ここらに宿はないから、うちにおいで、』

 そしてこの仮宿は、その客人を最後に今日で消える。


「ありがとうございます。本当に助かりました」

 絵の彼はそういった。

 そして絵描きの彼も小さく頭を下げる。

「ありがとうございます」

 鋭い印象を受ける青年だったが、その言葉には感謝の念がちゃんと感じた。絵の彼を描いたのは彼だという話だが、なるほど。彼のその灰色の瞳を向けられた瞬間、私という意識がすべて吸い込まれてしまうかのような感覚を感じた。素晴らしい絵を描く人間がどういうものかを知らないが、きっと彼のような瞳の持ち主のことをいうのだろう。

 彼らは旅をしているそうだ。若いとはなんと素晴らしいことなのだろう。年をとるとよくわかる。

 私は彼らを心から歓迎し、心から感謝した。

 今日という日に来てくれてありがとう。

 今晩の食事はいつもより多めに作った。そしていつもより丁寧に作った。

 客人は疲れている。ならば私が癒してあげよう。そしてこれからの旅も頑張ってもらおう、と。

「シン、あれ絶対においしいよ。ほらあれも。早くしなきゃ冷めちゃうよ!」

 絵の彼ははしゃぎながら絵描きの彼に品を進め、まるで自分が食べているかのように満足そうに笑ってくれた。

 どうやら食事は気に入ってもらえたようだ。

「せかすなっつうの。お前はそこで絵具でも食ってろ」

 絵描きの彼は絵の彼と楽しそうに話しながら、私の食事をすべて食べてくれた。その表情は決して「楽しそう」と呼べる代物ではないが、私もこの年だ。あの若い青年の言葉の裏に、言葉通りの冷たさや嫌悪の情がないことは簡単に理解できる。

 あぁ。本当に、今日はなんてすばらしい日だろう。

 いつもとは違う、他人のいる食事。

 それはとても新鮮なものだった。

(すばらしい、本当に素晴らしい………)

 絵の彼の楽しそうな笑い声を聞いていると、なぜかとても安らかな気持ちになれた。


「タツさんは、ずっとここに一人で住んでるんですか?」

 絵の彼にそう尋ねられたのは、絵描きの彼が風呂に入ってすぐだった。

 話し慣れた人間がいなくなって、暇の潰しにと私へ話かけたのだろう。

「そうですねぇ。もうずっと昔から。かれこれ40年位ここで暮していますかね」

「………退屈じゃないんですか?」

 彼のその言葉は少し遠慮気味だった。

 私は「別にいいのだよ」と微笑む。

「そうですね、他の人から見るととても退屈なことに間違いありません。………けど、これは自分が望んだことですから」

「望んだ………?」

「はい。もう、ずっと昔から………」

 絵の彼は「そうですか、」と笑った。

 だがその笑いは私にはどこかせつなく、悲しく見えた。

 まるで私の内心と過去をすべて見透かしたように。そしてそれを憐れんでくれているかのように、とても優しく。

「………だれも、信用できなかったんですよ」

 だから私は話してしまった。どうせ彼には読まれているのだ。なら話してしまったほうが楽ではないか。そう思った。だから、話してしまった。

 形のないぬるい何かが、いつも上唇と下唇とを縛っていた止め糸を淡く溶かして押し出てきた。

「悲しいことですね。誰もかれも、信用できなかったんです」

 足のかかとから、頭のてっぺんまで。私の中に蓄積されてきたどろどろとした無機質な何かが動きだす。踵から上へ、頭から下へ。そのどろどろはすべて私の口へと向かって移動を始める。

 楽になれる気がした。ここですべてを彼に話してしまえば、私の人生を苦しめていたすべてを、捨て切れる気がした。

 だから。

「………聞いて、いただけますか?」

 私は笑った。

 すべてを捨て切れる、すべてを忘れられることを信じて、笑った。

 ほほ笑んだ。

 きっと、今鏡を見たら自分のこの笑みは泣き顔に見えることだろう。

「いいですよ」

 彼も、笑ってくれた。

 私とは違い、温かく、落ち着く笑顔で。


 あぁ。本当に、私は今日という日に感謝しよう。



*** *** ***



 少年は毎日一人だった。

 薄暗い部屋に、一人きり。

 奥でカタリと音がする。

 そちらを見れば、女がひとり。露出度の高い服を着て、グラスを片手に、泥に沈みゆくかのように熟睡している。

 少年の瞳は光が薄れ、霧の向こうだった。

 そう。そこには一人しかいない。一つの部屋に、二つの世界。

 一つは、暗く、冷たい、愛を受けることのなかった少年の世界。

 自らの母から教わったのは、痛みと悲しみと絶望だけ。いつしか彼の中には誰も入れ込めなくなり、いつしか彼は、自分以外の存在しか信じなくなった。本当に冷たくて寒いから、彼は社会へ自身を露出するのをやめた。

 だって寒いから。

 きっと凍えてしまうから。


 もう一つは、社会に飽きて、愛さえ忘れた女の世界。

 自らの子供に愛を与えることも忘れ、負の感情をただ押しつける。社会の無情をただうらんでは、みずからの無情には気づこうともしない。あぁ、なんてつまらない人生。何もかもが私を満たしてはくれない。あぁ、なんてつまらない世界。女は歩かず待つばかり。自分をこの先に連れてってくれるいい車を。だから女は気付かない。自分が歩かなければどこにも行けないということに。

 だから女は抜け出せない。

 自らが嫌う、この憂鬱な毎日から。


 二人の世界は決して交わることがなかった。

 決して互いを見ようとはしないのに、なぜだろう。お互いに、誰かに見てほしいという悲しみはあったのは。



*** *** ***



 ざー―――………

 シャワーの音が耳を叩く。

 汗の滲んで乾いた肌を気持ちよく洗い流し、湯は排水溝へと吸い込まれていく。

 木造りの温かい風呂場。しめった木材が色を濃くして水の軌跡を残す。

 絵描きは借りた風呂場で今日の疲れを荒い流していた。

 灰色の短髪を銀に濡らし、旅で鍛えられた体をお湯でほぐし。

 彼は手に取ったシャンプーを見て顔を濁らす。

「女物かよ」

 隣に並んで置いてある男物のシャンプーを取り直し、彼は何事もなかったかのように頭を洗い始めた。

 いつからあるのか、女物のシャンプーは色が褪せているばかりで、使われる様子もなくその中身を満たしていた。



*** *** ***



 いつしか少年は青年になった。

 そして彼は本当に一人になった。世界や思想の中だけでなく、実際に、その部屋にいるのは彼だけとなった。血に染まったドライバーを片手に。

 赤く染まった女を前に、彼の瞳は徐々に光を灯しだす。それは女の存在が消えると共に、奥底から抜け出してきた小さな光。女が消えることで、奥底から解放された光。小さな光はもう何物にも揺るがない。押さえつけられることはない。

 彼の体中のあざは、色こそ引かずとも痛みはもうなくなっていた。

 青年は自分の体についた赤をみた。

 淀み。

 狂い。

 歪み。

 そこに見えたのはただ「汚い」と思うものばかり。

 なぜかそこに、アルコールのにおいも感じた。今は亡き母がよく飲んでいた酒の匂い。

 彼は顔をゆがめる。

 真っ赤な母の血が、皮膚の上から自分に染みて、奥底に溶け込んできているように思えた。


 彼は走った。

 この光を、もう誰にも奪われたくなかったから。

 走った。

 母を殺し、今、新しい自分を自ら生み出し。

 走った。

 誰にも傷つけられたくなかったから。

 走った。

 もう、誰も殺したくなかったから………

 ………走った。


 走って走って走って、彼は自分を汚そうとするすべてを拒絶した。

 ―――自分さえも。



*** *** ***



「私は人を殺した。そして人知れず生きてるうちに、時効などとっくに過ぎていた。だが私には時効など関係なかった。自分の罪が社会的に消えていることを知っても、こうしてここに一人生き続けた」

 老人は深いしわを微動だにもせず、たんたんとその身の上を語る。絵に向かい、たんたんと。

 彼としては、話し相手が絵せあることで本当に素直になれたのかもしれない。自らにとって重大な過去。人になど絶対に打ち明ける事が無いだろうと思ってい居た過去。

 絵の中の男は、ただ「そうですか」と頷いた。人殺しを前に、恐れることもせず、咎めることもせず。

「ユウヤさんは、犯罪者である私を許しますか?」

 静かな沈黙。

 絵は少し悩み、曖昧な表情を浮かべる。

「僕に許せることは何もありませんし、僕が咎められることは何もありません」

 その言葉は、「すべてあなた自身なのだと分かっているのでしょう」と言外に言っていた。

「そうですね」

 老人は微笑む。

 そして質問を変えてまた尋ねた。

「では、私の罪は、多勢の中では許されるでしょうか?」

 絵も微笑んだ。

「きっと非難されることでしょう」

 この言葉と笑顔を無情ととるか優しさととるかも彼次第―――

 


*** *** ***



 絵描きは風呂からあがり、前もって洗面台に置いておいた自分の歯ブラシへと手を伸ばした。

 その手が近くに置いてあったコップに触れる。

 カン―――っと、プラスチック製の高い音をたてて、それは床に落ちた。

「ちくしょ」

 青年はかがむ。

 そして床に転がる、今落とした物とは別のもう一つのコップを見つける。落してしまったそれと全く同じ形の、色違い。

 白のコップと、薄い桃色のコップ。

 それはもともと二つで一つだったもののように思えた。

 青年は白いコップを広い、元の通り洗面台の上に乗せておいた。

 薄い桃色のコップも、手に取ることなく元の通り床に転がしておく。

 彼はまた、何事もなかったかの様に歯を磨き始る。

 薄い桃色は文句も言わず床に眠る。



*** *** ***



「風呂まで貸していただけるなんて。本当にありがとうございます」

 絵描きの彼はジャージに白いシャツという簡単な格好でリビングへ来てそういった。どうやらそれが今日の寝間着のようだ。ジャージもシャツもところどころ絵具で汚れてしまっている。その様子を見ると「あぁ、彼は本当に絵描きなんだな、」と再確認した。

 人を外見で判断してはいけないとは、よく言ったものだ。彼はその言葉によく当てはまる人柄で、鋭い見た目とは裏腹に話せばなかなか気のいい青年だと私は思う。

「いえいえ。こちらこそ、久しぶりに楽しい会話ができましたよ」

 私は本心からそういった。なにしろ、こうして人と言葉を交えるのは丁度10年ぶりだ。

「それはよかった」

 彼はただ一言いって頷いただけだった。だが、その表情に小さく遠慮がちな微笑みが見えた気がして、私はなぜか嬉しくなった。

 何てすばらしい客人だろう。

 私も自然と笑みがこぼれる。


 彼等はいったん、私のあてがった部屋へ行き、荷物を整理した。そして戻ってきたところで私は軽く話題を振る。

「絵描きさんは、ここらで絵をかく予定はありますか?」

 私の正面に座る青年は小さく首を振った。

「いえ。特には」

「どこかいい場所でもありますか?」

 足もとから声が上がる。絵の彼だ。

 絵の彼は申しわけ無い事にテーブルの下にいた。なにしろ家にはイスが二つしか無い。

 絵描きの彼が絵の彼を持ち上げた時は、膝に乗せるのだと思ったが、彼は当たり前のようにそのキャンバスを床に置いた。

 下にどかされ、絵の彼は口を尖らせて反論していたのを思い出す。その光景がおかしくて、私は笑うのを精一杯こらえた事だ。

「いい場所ですか。………あそこなんてどうでしょ?」

「あそこ?」

 答えたのは絵の彼だ。

 顔は見えないが、興味深々といった視線は感じた。

「この家の裏を真っすぐに歩いて行くと、景色のいい崖に行き当たります。………えぇ、本当にいい景色ですよ」

「そうですか。ありがとうございます。シン、行ってみようか?」

「そうだな」

 絵の彼の弾んだ声が聞こえてきた。素直な人だ。いや、絵だったかな。私はくすくすと笑う。

「お二人は明日の朝発つんですよね?」

「はい」

 絵描きの青年は落ち着いた様子で答えた。

「では、私は明日、日の出前に行かないといけない用事がありますので、カギなど気にせず出発してください」

「わかりました」

 「用事とはなにか?」と、干渉してこない彼が本当に彼らしいと思えた。

「朝食はテーブルにパンを置いていきますので、旅用に全部持ってってくれてかまいませんよ」

「ありがとうございます」

 絵描きの彼は私に小さく会釈する。

 そんな些細な動作が嬉しくて、もっと今までに良い事をしておいたらよかったと私は後悔した。

 そのあと私たちは軽い会話をしたのち床に就いた。

 絵の彼は私が人殺しであることを知りながら、普通に接してくれた。絵描きの彼は果たしてどうなのだろうか。会話の様子では、絵の彼は絵描きの彼に私の打ち明け話を伝えてはいない様子だった。

 だが、きっと絵描きの彼もこの老いぼれが人殺しと知っても、変わらず普通に接してくれることだろうと思える。今日会ったばかりなのに、彼らのことがここまで信頼できるのが不思議だった。

 彼らにとっては社会のルールに違反すという行為は、本当に些細な事でしか無いのだろう。

 あぁ、素晴らしい日が終わろうとしている。

 私はベッドから腰を上げ、ランプを灯す事もせず外へ出た。

 さぁ、そろそろ行かなければ。


 日付が変わる前にと、彼は急いで足を進める。寝静まった家の戸を押し、客人たちの眠る窓を振り返り彼はそっと微笑んだ。

 その日の夜。一人の老人が身投げをした。だがそれを見た者はおらず、その老人を知る者もいない。



*** *** ***



 ザァ………ザザァ……

 波の音は絶え間なく響く。

「いい場所、か………」

 切り立った崖の上、眩しい朝やけを眺めながら絵描きは呟いた。

 その足もとのはるか下では寄せては砕ける白波が大きく弾けて細かな泡を立てていた。

 脇に抱えられた絵は呟く。

「きれいだね」

 青年はその言葉に対して何も言わず、来た道を黙って引き返して行った。

 はたして彼等は、ここで昨晩一人の人間が死んだことを知っているのだろうか。

 そして、あの老人が自らの最後の場所を、この絵描きに描いてほしいと望んでいたことに気づいていたのだろうか。


 静かに満ちる朝の陽ざし。

 絵描きはもうそこにいない。



*** *** ***



 シンジは歩き続けた。

 目に映るのは土の茶色と木々の緑。

 ユウヤはその間口を閉じ、運ばれるがままでいる。

 絵は昨夜の老人との会話を思い出す。

 来た道をたどれば、たどり着くのはスタート地点。しばらくすればあの老人の家が木々の間から垣間見えてくる。

 シンジは黙ってただ歩く。


 一人の人間の帰宅に、その家は優しく向かいいれてくれた。

 窓から入り込む木漏れ日。木造りの温かい壁。人の暮らした温もり。

 この家は本当に優しい。

 シンジは荷物をはじに寄せ、そこへユウヤを立て掛けた。

「はじめから、ここに決めていたんだろ?」

「正解。百点満点だ」

 子供を適当にあしらうように言うと、シンジは鞄から筆をとりだす。

「甘く見ないでくれるかい? 来たときからわかってたよ。少し嬉しそうな顔してたの、自分では気づいてたかい?」

「全く気付かなかったな。じゃあお前は、ここに何人の人間が暮らしていたか気づいたか?」

 何人の人間が。ユウヤには言っている意味がわからなかった。口を閉じて頭をひねる。

「二人だ」

 シンジにはユウヤの答えを待つつもりはないらしくさっさと答えをばらした。絵具を巾着から取り出し、使いやすいように自分の右側にまき散らす。

「二人?」

 ユウヤは初めて知ったように眼を丸くした。

「たぶん、妻だろ」

「妻? 初耳だな」

「当たり前だ。俺も聞いてない」

「なるほど。で、その妻は?」

「死んだよ」

 さらりとした返答。彼らしいと言えば彼らしいが、と、ユウヤは苦笑する。

「その根拠はなんだい?」

 シンジは書き始めた筆を止め、顔をキャンバスに向けたまま、視線だけをユウヤへと投げかけた。

「日記だ」



*** *** ***



 今日、私は彼女を殺した。あれからどれだけたったのだろう。また、私は同じ事を繰り返してしまったのだ。また一人になった。一人になれた。一人になってしまった。これはどうとったらいいかわからないが、確かに私は彼女を殺したのだ。それは些細なことだった。本当に些細なことで、私は彼女を殺してしまった。彼女は、たまに『彼女』とだぶった。彼女より『彼女』のほうが若かったが、年齢など関係なしに彼女には『彼女』と似て重なるものがあった。今思えば、彼女との出会いは『彼女』を殺した時に決まっていたのかもしれない。私は愛情に飢えていた。だが、それと並ぶくらいに人間社会を嫌っていた。それは、人間社会が『彼女』をああしてしまったからだと信じているからだ。だから、久々にあった人間に『彼女』の面影を見つけると、私は彼女と暮らすことを決意した。私は『彼女』を愛していたのだ。だから彼女にひかれてしまったのだ。だが今夜。彼女の中の『彼女』の面影色濃く出すぎてしまった。私はまた、愛する人を殺してしまった。『彼女』を二度も殺してしまった。

 殺してしまったのだ。

 そしてまた、私は人を殺す事を考えている。



*** *** ***



 この家はずっと見てきた。

 一人の男の老い立ちを。

 その苦悩を。悲しみを。切なさを。寂しさを。だが壊してしまうという、全ての矛盾を。

 優しく温かく見守ってきた。

 まだまだここにいていいのだよ、と。ずっと、ずっと。



*** *** ***



 明日が来る。とうとうこの日が来たのだ。明日でちょうど十年か。私が大切な人を二回も殺めてから。

 明日、私は次の日の太陽を目にするかしないかのうち、人を殺す。一人の人間を殺し、人となる。



*** *** ***



 揺りかごのように。子守唄のように。

 この家は、この日まで彼のためにあった。

 そしてこれからは、彼のために静かに朽ちようとしている。



*** *** ***



 今日が来た。ついに今日が来た。


 客が来た。全く予想外の出来事だ。彼は絵描きらしい。そして彼は絵らしい。人が訪れてくるのは十年ぶりだ。というより言葉を交えるのが十年ぶりなのだろう。彼らが私と最後に言葉を交える人となるだろう。こんな日もいいかもしれない。いつもと違う日。いつもにはない夜。こんなにも人と居る事が楽しいことは知らなかった。こんなにも自分が安らかな気分になれるとは知らなかった。

 何てすばらしい日。

 何てすばらし客人。

 何てすばらし最期。


 追伸:絵描きさん。ユウヤさん。きっとこの日記を見つけていることでしょうね。あなた方は本当に素晴らしい方々だった。あなた方の存在は、私の人生最大の幸せだ。どうか、この老いぼれの二度の罪を知っていただけないだろうか。重荷を背をわされるようで嫌だというならこの日記を燃やしていただいてもいい。だがどうか、私という愚かな人間が愚かな人生を送っていたという事を頭の隅にしまっておいていただきたい。嘲笑っていただきたい。これは報いなんです。私の一生を認められることなく、人間の屑として誰かの記憶に残る。体は朽ち果てようとも私という存在の記憶は残り、消えるまでずっと屑として記憶に生きなければいけない。本当は生きてこそ償える罪なのでしょう。ですが、あの夜に決意したんです。私が生まれて十年。父は死にました。それから十年。私は母を殺しました。その十年後、彼女に出会いました。そして何年も私と共に生きてくれた彼女を殺しました。十という数字は、私の中では死を表しているのでしょうか。少なくとも私と私の母には深いかかわりのある数字には違いありませんね。私はあの夜、彼女を殺し、自分も殺そうと決めました。本当ならすぐにでも彼女のあとを追うべきでした。ですが、怖かったのです。だから十年待とうと、決めたのです。

 本当におかしい限りですよね。人を死なせておきながら、自らの死は怖かったのです。私は思い出しました。なぜ一人になったのか。人に傷つけられたくなかったから。人を殺したくなかったから。人を殺すことで傷つきたくなかったから。そう。そもそもの発端は私でした。私は、愛していたはずの人たちよりも、自分が抜けて大切だったのです。だから、自分が傷つくよりはと、人を二人も殺してしまったのです。

 そして今、三人目を殺そうとしています。それを止めるために私は彼を殺します。

 私は私を殺す気です。だから私は私を止めるために、私を殺します。


 シンジさん、ユウヤさん。こんなつまらない老いぼれの一生に触れてくれてありがとう。

 素晴らしい旅路に幸あれ。



*** *** ***



 温かいブラウンはやがて灰色に朽ち果てる。

 彼はそれを絵に収める。

 ブラウンは形を変えて世に残る。

 いくら月日が経ちほこり被ろうが、ブラウンはブラウンのまま生き続ける。

 帰ることのない主人を暖かく包み続ける。


 あぁ、何て素晴しい―――



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