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絵描きの話

 私には素晴らしい妻がいる。美人で、気立てがよく、料理も家事も完璧だ。そして何より、彼女は大手の会社のご令嬢であった。

 だが彼女はその家とは縁を切り、今では私と貧乏暮らし。

 本当にすまないと思っている。

 いつか絶対、この美しい妻の絵を完璧に描き、高い値で売ってやろうと思った。

 そしてその金で妻に楽させてやろうと。


 いつか言うのだ。

「私の絵は君が居てこそ本当の意味を成すのだよ」 と。



*** *** ***



 世の中は何もわからないカスばかり。

 物の本性を知りもしないくせに、『これは良い』『これは悪い』だ。外見に囚われ、その物が秘める真の質に気付きはしない。

 青と白。

 油を加える。

 雲と波。

 絵の具を溶かす。

 海と空。

 筆を進める。

 分かってくれるのはあいつだけ。私は彼女のために絵を描こう。

 私を理解し、私の絵を理解してくれる彼女のために。


 人通りの疎らな海岸に、一人の絵描き。つまり私だ。

 私は一人、キャンバスに食いつくように、海と空を前に対峙していた。

 一人だと思って居た。

 私は気付かなかった。もう一人の絵描きの存在に。

 私が彼に気付いたのは、朝から6時間ぶりに口にする食事の際だ。私は朝の6時にここへ来て、午後の6時までここにいるつもりだった。

 昼食の際。どこか日陰に座り、ゆっくり休憩をとろうと思った私は、後方にある並木道を振り向く。その動作の中で、私はある物を視界の隅に発見した。

 絵描きだ。

 いや。それは私からみたら、絵描きと呼ぶには少々簡素なものだった。

 地べたに腰を下ろし、組んだ胡座の上にキャンバスを乗せて片手で固定していた。筆は5、6本しか見当たらず。油といったらペインティングオイル一本。

 素人だろうか。

 たまに趣味で絵を描く人間を見る。きっと彼もそうだろう。 人を外見で決め付けるのは失礼だとよくいうが、私はその失礼を普通に無視してしまった。彼の外見は、明らかに絵を描くような人柄にはみえなかったのだ。鋭い目つき、細い顎。まるで不良か何かだ。成人しているように見えるが、多分まともな職にはついていないだろう。といっても、これは私の勝手な偏見である。実際の彼の職など知るよしもない。

 帰りにまだいるようなら、軽く覗いてみようか。

 そう胸中に呟き、私は昼食をしに木陰へ歩くのだった。



*** *** ***



 居た。

 もう青い海も赤く染まる頃、あの男はまだ描いていた。

 素人にしていてはなかなかの粘り強さ。

 これは彼があのキャンバスにどのような成果を残したのか、この目に押さえておく必要がある。

 先生にでもなったつもりなのか、私は腰に手を当てて大きく息を吐きだした。

 自信があったのだ。

 誰にも負けない自信が。

 私の中で、本当の価値で私の作品に優る作品など、大昔の天才か、あと何十年後かの自分位にしか描けないと信じられていたのだ。

 だから、思いもしなかった。

 まさか、あんな絵に出会ってしまうなんて。


 私は足の取られる浜に注意しながら、その男へと近付いて行った。

「こんにちは」

 そう私に挨拶したのは若い男の声だった。だが、私を背後に絵を描き続けるこの男に、私という絵描きの存在に気付いている様子は無い。

 しかも、この男の声にしては柔らかすぎると思った。この男の声を聞いた事は無いが、なんとなく、この外見のイメージから想像していた頭の中の声と、今耳にした男の声とでは、大きなずれが生じたのだ。

 男の絵を覗き見る事も忘れ、私は他に誰かいるのかと辺りを見回した。

「何かお探しですか?」

 からかってるような口調。少し笑っている。

 私は声を頼りに視界を下げた。そこには一枚の男の絵があった。

 10号位のキャンバスに、腰から上の男の絵。柔らかそうな黒髪に、優しそうな目をした男。ちょうど私の方を向いた角度の構図で、口許が軽く微笑んでいた。どちらかというと色白な肌の質感から、雰囲気から、巧く引き出せている。

 この男が描いたのだろうか。

「彼に何か用ですか?」

 まただ。一体なんだと言うのだろう。

「まだわかりませんか」 楽しそうな声。まるでからかわれてる気分だった。

 私は探す。声の主を。なんとなく、目の前のこの男では無いであろう事は察していた。

 だから、この場に私とこの男以外に、第三者が居るはずだとひたすら視線を走らせた。

 海、浜、荷物、絵、男、絵、荷物、浜………

 視線はあきる事なく同じ風景を眺め回し、5往復位した頃、私はやっとその異変に気付く。

 絵。男の絵だ。

 先ほどまで両手は両脇にそろえられて居たはずの絵が、今では両手を胸の前に組んでいる。

 しかも顔の角度も少々違う。なんとなくこちらを首から見上げるような形だったその体制が、今は顎を引きおもいっきり上目遣いでこちらを見上げて居るのだ。

 眉を軽く寄せ、まるで犯人に確信したその犯行を暴いて見せるかのような探偵の目。獲物をいじって遊ぶかのような、意地悪な猫の目。大人を騙そうとするいたずら坊主のような目。 結局は最後の喩えが一番当てはまっているのだが。

 私はどうしたものかと悩む。

 絵に話かけるのはあまり良い事ではない。まともな人間ならあえて避けるような行動だ。ここで絵に話しかけ、違う場所から声の主が出て来たりしたら、私は偉い恥をかくはめになる。

(どうしたことか)

 私は腕を組んで考える。

 こうしてこの絵を見て居る間、全く絵の中の男は動かない。私の視線に気付いてのことか。それともただの絵だからか。

 どうしようどうしようと時間は過ぎる。

 私はうんうんと悩み、神経を足下の絵へと集中し始めた。

 カタリ

 敏感になっている私の耳に、この物音は爆弾のような効果を発揮した。私は肩を揺らし一歩後ずさるまでに驚いてしまったのだ。

 呆然とするなか恥ずかしさが押し寄せる。

「………ぷっ、くくく…」

 私は目を見張る。

 見たぞ

 そう。確かに今、私の目の前でこの絵は笑って居る。物音にびっくりした私が面白かったのか、中の男は口に手を当て楽しそうに笑って居た。その笑顔に幼さを感じ、絵にも個性や性格といったものがあるのだろうかと首をかしぐ。

「いい加減にしとけよ」

 絵を描いて居た男が上半身だけで後ろを向いた。笑い続ける男の絵の端をこつりと叩く姿は、ふざけ過ぎた子供をなだめる母親のようだ。

 どうやら私が悩んで居た間に、彼は片付けを終えてもう帰る準備さえ済ませてしまったようだ。

 多分あの物音は彼だろう。

「お疲れ」

 絵の男はいった。

 その言葉に軽く頷きながら、絵を描いていた男は頭に巻いていたタオルを外す。ずっと押さえられていたせいか癖をつけた灰色の髪がところどころ跳ねている。

 その癖を崩すように男は頭をがしがしと掻く。

「始めまして。絵描きさんですか?」

 絵が私に話しかける。

「あ、あぁ。まあね」

 私の声は緊張していた。

「あ、やっぱり! シン、お仲間発見だよ」

 冗談混じりに笑いながら、絵は私を『仲間』と呼んだ。と、いう事は。

「では、あなたも絵描きですか?」

 私は彼へ問いかける。

 灰色の男は私を見上げた。その時、私は彼の視線にたじろいでしまった。彼に悪気があるようには感じない。だが研ぎ澄まされた刃物のようなその視線は、本人の意思関係無く回りを弱気にさせてしまう気がする。

 だめだ。

 その気の無い人間にいすくめられるなど、私のプライドが許さない。

 絵描きかどうかという質問に、彼は軽く頭を掻く。

「まぁ…みたいなもんです」

 答えは曖昧だった。

 自分の絵に自信が無いのだろうか。絵。そうだ。絵と言えば、大切な事を忘れて居た。

「ねえシン、今日は…」

「あの、」

 絵の男の言葉を切ってまで、私には聞かなければいけない重要な事があった。

 それは………。

「あなたは、絵ですか?」

 笑われた。

 絵の男にも、灰色の男にも。



*** *** ***



「許せない許せない許せない許せない許せない許せない…」

 ぶつぶつと呟きながら歩く男がいた。彼の目は死んで居た。いや、その逆なのかもしれない。燃えて居るのか。

 手が黄色くなるまで握り締め、乾いた唇を小さく動かす。

 道の端、影の落ちる場所を小走りに歩く男に、回りの人間は気付いていなかった。

 そこには彼しかいなく、そこには彼はいない。隔離された世界。人々は彼をただの通り過ぎと見て、彼は人々をただの埃と見る。

 自分の魅力に気付かない人間などカスだ。だがいつか気付き、自分を賞賛のある目でみるはずだ。

 男は影となって居た。

 彼は熱くなりすぎるばかりに、自分の意思の中に閉じこもり、ただ頭に浮かぶ一つの物事にしがみつく。しがみつき、よじ登り、あら探す。

 頭に浮かぶ唯一の白。完璧であり潔癖な物。

 それは自分。

 いつも信じてきた。何があろうとも、最終的に選ばれるのは自分だと。私は私しか認めない。私は私以外を認めない。私は彼を認めない。

 しがみついた白で探すのは、これからの先。何をすればいいのか。どうすればいいのか。

 わかっている。

 男の瞳はぎらぎらとした光をたたえ、危なく狂気をちらつかす。

 わかっている、わかっている、わかっている、わかっている………―――

「わかって、いる…」


 最高の絵というのは、今にも動きそうだったり、いい知れない感情が胸に押し寄せて来たりするものだ。現代の美術であるなら、どこかしらに作品の意図が隠されて居て、人はそれを見つけた時、ただならぬ感動を覚え価値をつける。

 私の絵は完璧だ。

 美しく、目に映ったモノがくるいなく描かれて居る。そう、完璧なのだ。本物との違いが全くないほどに。完璧なのだ。まるで写真であるかのように。

 だが、わからない人間はつまらないと言う。

『ツマラナイ』

 絵としての面白みがない。

『ツマラナイ』

 絵である意味がない。

『ツマラナイ』

 こんなモノ誰にでも描ける。

『ツマラナイ』

 ツマラナイツマラナイツマラナイツマラナイツマラナイ………

「お前らになにがわかる!!!!」

 唾が飛び、狂気をまき散らされた。

 人々の視線が一点に集まり固まる。

 その先に居るのはあの男。イーゼルを肩に掛け、幾つかの荷物を背負うその男。

 表情を歪め、焦点のあって居ない瞳を怒りに燃やす。

 人々はそんな彼を避けて歩いた。視界に入って居るかは知れないが、できるだけ目が合わないように振る舞い、ある程度の距離をとって、彼の地雷原に踏み入れないようにする。

 踏み入れれば何をされるかわからないから。人々はただ、彼をよくある狂人と見て足早に通り過ぎる。

 彼はそんな回りには目もくれない。

 それは、これから何をするか彼の中で大きな決意があったからだ。

 隔離された世界で、空の手の平にひたすら握り締めるそれを、実行しなければいけないから。


 大切な人を描こう。今自分にできる、最良の描き方で。

 彼女を絵で生かそう。


 彼の頭には美しい妻の姿しかなかった。

 その美しく、女神を思わせる微笑みへ、彼はにたりと口の端を吊り上げる。

 街は海の音を風に乗せる。

 ビルに当たり音は砕け、霧状に分散され。沈みゆく太陽は明かりを波として家々の隙間へ染み入り溶ける。それは干潮。これから満ちるのは朱い月の哀しい夜。


*** *** ***



『この絵を描いたのは、君、か?』

『はい、………まぁ』

 灰色の髪の青年は曖昧に答えた。

 今にも動きそうな絵は、本物の証しだ。

 本物の腕。

 本物の技術。

 本物の思い。

 だが、その絵が本当に動いてしまったら?

『君には自我があるのかい?』

 私の問いに、絵の彼は楽しそうに微笑んでこたえる。

『もちろんですよ』

 それは絵としての再骨頂ではないか。

 そんな絵を、彼は自分が描いたという。

 昔から絵はあった。沢山の学者が研究し、絵描きは新しい自分だけの絵を発明しようと常に戦って来た。

 人と、時代と、理屈と。

 戦う敵は幾らでも居た。だがその敵は、幾ら居ようとも、ゲームのように雑魚もラスボスも存在しない。

 全ては繋がっていて、全ては一つなのだから。

 そう、敵はすべてなのだ。この世界にある全てが的であり、正面から見つめ、対話しなければいけない敵。

 昔から今まで、一体どれだけの人間(絵描き)が傷つきながら戦って来たことか。

 だが彼は、手に入れたというのだ―――。

『本当にこれは君の絵かい?』

『本当ですよ』

 ―――生きた絵を。


 許せるはずが無い。

 自分に出来ない事がその他の人間に出来るなんて、あるはずが無い。

 あってはいけない。

 微妙な色遣い。絵の具の凹凸。画面の艶。実物との差。

 この絵描きという世界で、自分ほどこれらの技術が完璧な人間はいない。

 そのはずだ。

「そのはず、なのに………!!」

 男の握り締めた拳から、赤い滴がぽたぽたと垂れた。



*** *** ***



 絵を描く。

 そう。彼に出来たのだから、私にも出来る。そのはずだ。

 出来なくてはいけない事実。

 私は生きた絵を描く。


 彼女はやはり美しかった。

 最高のモチーフ。

 白い肌。流れるブロンド。儚く揺れる長い睫毛。

 細い腕、細い足、ふくよかな胸。

 何もかもが生きた芸術であり、それを絵に納めれば、私の本物と変わらぬ完璧な絵に納めれば、生きた絵が完成するはずなのだ。


 男はひたすら画面に筆を立てる。

 100号よりあるキャンバスを前に、絵の具を混ぜ、油で湿らす。

 彼女は哀しそうな目をしていた。襲い来る眠気、はたまた意識の剥落。それらと戦う瞼は震え、窓から覗く満月を見上げる。

 あぁ、月が血を流している。

 彼女は泣いた。

 小さく泣いた。

 朱い月を見て思う。

 あの人は月まで殺してしまうつもりなのかしら…。


 彼女の白い体は夜の空気に冷やされていく。それと共に彼の興奮は熱を増す。

 筆の先には、火が付いたかのような鮮やかな赤が湿られていた。赤は夜に混ざり紫にあでく。



*** *** ***



『教えてくれないか?』

 必死だった。

『何をです?』

 私のプライドが見事に抉られて。

『どうすれば絵は生きる』

 許せなかった。

『は?』

『どうすれば、彼のように「生きて話す絵」が描けるんだ?』

『どうすれば………』

 世界が私でなく、彼を選んだ事が。

『君が何をしたのか、言ってくれればいいんだ』

 この事実が、許せなかった。

『俺が、何をしたのか………。………あぁ。そうか』

 彼は笑った。まるで自分をあざけるように。何かを思い出し、馬鹿らしそうに自分の頭を掻いて。

 彼が彼自身に呟くように発した言葉を、私の耳はしっかりと捕えていた。

『しいて言うなら、死んだ人間を描く………とか?』


 私に出来ない事など、存在しない。



*** *** ***



 完璧だ!

 完璧だ!!

 完璧だ!!!

 あぁ、なんて美しいのだろう。

 男は涙をながす。

 その胸にあるのは我が妻への感謝と自分への自惚れ。

 狂った男が前にするのは、手足を縛られた女。鮮血に染められた体は、赤以外なにもまとっていなかった。

 無理やりに脱がされたのか、女の服は部屋の端にぼろ布のように放られていた。縛られた場所は赤から青へと変色し、整え纏められていた筈の艶やかなブロンドは混乱に掻き乱され、柔らかい肌の上を妖艶に這う。

 全てが美しく怪しく完璧だった。

 少なくとも、男の目にはそう映っていた。

 なのに、いつまで経っても絵は生きない。

 絵が完成に近づくにつれて、モチーフの命は体から離れていくばかり。

 おかしかった。

 本当なら、あの体から命が去って行ったとしても、代わりにこの絵は小さく呼吸を始めていくはずなのに。

 狂った瞳は女に注がれる。

「……、……、―――」

 乾いた唇は小さく空気を震わせた。


 ―――足り、ない。

 男は部屋を出る。


 まだだ。

 まだ死が足りない。

 もっと、たくさん、死を探さなきゃ。


『私の絵は君が居てこそ本当の意味を成すのだよ』


 今の彼の絵に、彼女の存在の意味はもうなくなっていた。



*** *** ***



「あの人、結構上手だったね」

「ん? あぁ」

 前の街で出会った絵描きを思い出し、ユウヤは楽しそうに口を開く。だが、シンジは心ここにあらずといった感じだ。

 彼のその様子に、ユウヤは「まぁ、いつもらしいか」と苦笑していた。

 そして、そのいつもらしい彼は、いつもらしく口にはせずに、頭の中だけで何かへ問う。

 「なぜ俺はお前を描いた」「なぜお前は、そこで生きているのか」と。


 彼も“彼”どうよう、答えを探していた。

 だが、答えならもうとっくに出ている。


 「気分」と「偶然」。

 それが彼の全て。

 深く考える必要はない、と。


 



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