一、汝は犬牛。哀れな招かれざる客人である
(2011/07/16修正)
春雨晶は妖怪である。
それを僕だけが知っている。
僕――春雨晶だけが。
僕は生まれついての妖怪だった。
自覚したのは、母の体内から外へ出た瞬間。
驚いたような顔で僕を見つめる周囲の存在が自分とは全く違うものだと、まだ言葉を話せない赤ん坊の時にそう感じたことを覚えている。
犬牛。それが僕の妖怪としての名前だ。
誰もそれを知らない。僕だけが知っている。
もやはただの妄想の域でしかないその認識を、けれども僕は信じている。
人と変わらぬ身でありながら、何の特別も持っていないくせに。
気が狂っている。
人が聞けばそう思う。僕も時折そう思う。
本当は僕がただ狂っているだけなのではないかと。
僕は妖怪に出会ったことなど一度としてない。
それでも、僕の中の何かが告げている。お前は人間ではないのだと。
だから、誰かお願いだ。
僕が狂ってなどいないと証明をしてくれ。
誰か僕に「お前は人間じゃない。妖怪だ」と言ってくれ。
これまで、そんなことを言ってくれた奴は誰もいなかった。
もうすぐ僕も高校生だ。そこで新しい出会いもあるだろう。
そこには、いるのだろうか。
僕を妖怪と呼ぶ、そんな運命の誰かが――
■
「殺しに来たわ――妖怪」
扉が勢いよく開け放たれたかと思うと、そんな険呑な言葉が飛んできた。
声がした方へ目をやると、そこに長い黒髪を背に垂らした見目麗しい少女がいた。
僕にはその姿も言葉も、日も暮れかけた高校の小さな一室には似つかわしくない非現実的なもののように感じられ、少しだけ妬ましく思った。
僕は彼女に聞こえないぐらいの小さな溜息をついた。声に出したわけではないが、僕が歓迎していないことには気が付いたのか、少女は常より鋭いその瞳を、より細く歪めてこちらを睨んだ。
僕は内心でもういちど溜息をつくと、彼女を無視して手に持った読みかけの文庫本へ視線を落とした。正直に言うと彼女とは関わり合いになりたくなかった。
彼女と出会うのは今日が初めてではない。こんな不躾な訪問も何度目だっただろうか。僕は過去を回想し少し憂鬱な気分になった。
少なくとも僕と彼女は親しいとか仲睦まじいなどということはなく、僕からしてみれば面倒で厄介な存在だった。
本来ならば彼女を歓迎すべきなのだ、僕は。なぜなら、彼女は僕を“妖怪”と呼ぶから。
なのに彼女を拒絶してしまうのは、けして僕だけの責任ではない、と思う。色々あった結果、僕は彼女に対して上手に立ち振る舞うことができない。
ここにはいま僕と彼女しかいない。
いまも本を読んでいるように見せかけているが、脳にはいっさい文章は入ってこないし、彼女からの痛いまでの視線だってしっかりと感じている。
それでも、僕は顔を上げず、本を読んでいるふりをする。
少女がこちらへ歩き出した。
見ていないけれど、なんとなく少女がどんな表情をしているのか、僕には予想が付いた。
冷たい視線で僕を見据えているのだろう。眉間には大きな皺だってよっているかもしれない。口はへの字に引き結ばれているだろう。
普通の女性がそんな顔をしても不細工なだけだが、美人は不機嫌な顔でも絵になるのがお得だ。ただし、それを向けられた相手は訳もなく罪悪感のようなものを感じてしまうのだということを、知りたくもないのに僕は知っていた。
僕の視界に、彼女の細く白い足が映りこむ。
椅子に座っている僕は、自然と間近に迫った彼女に見下ろされる形になり、頭にむず痒い感触を覚えた。
そのまま無視をしたかったが、先ほどから本のページをめくる手は止まっているので、彼女も僕が本を読んでいないことには気が付いているだろう。
僕は本を閉じ机に置くと、諦めて顔を上げた。そこにあったのは、僕が予想していた通りの、怒ったような表情だった。僕はそれに臆しそうになったが、意を決して声をかける。
「……何か、ご用ですか」
「用? もちろんあるに決まってるじゃない、妖怪」
「えっと、妖怪じゃなくて春雨晶って名前があるんですが――」
「ふん、妖怪の名前なんて知ったことではないわ。妖怪のくせに人間様の名前を拝借しようなんておこがましいにもほどがあるわ。死になさい」
こちらは下手にでたのに、返ってきたのは罵倒交じりの辛辣な言葉だった。
そう返ってくるとは予想していたが、ここまで自然に死になさいと言われると、怒りよりも呆れるような感情のほうが強かった。
彼女に死になさいと言われると、なんだかこちらが悪いことをしたような気になるから不思議だ。
僕が性格的に情けないということもあるが、彼女の容姿によるところも大きいだろうと思う。
細身の長身に、枝毛すらない流れるような長い黒髪。さらに鼻梁の線がはっきりとしているためか顔が引き締まって見える。それらが合わさり相乗的に少女を美しく見せている。
ただ、彼女の整い過ぎた顔は美しいがどこか人形じみており、あまり笑わないことも相まってか、周囲に冷たい印象を与えている。
ある男子生徒はそれがいいと豪語していたが、少なくとも僕は彼女に睨まれるだけで寿命が縮む思いがするので勘弁願いたい。
僕が無遠慮に彼女を観察していると、何を勘違いしたのか胸を抱くように腕を交差させ後じさりをした。
「っな、何をじろじろと見ているの! き、気色の悪い妖怪ね。死になさい。死に尽くしなさい。気持ちが悪い。反吐が出るわ。謝罪なさい」
「すいません」
矢継ぎ早に飛んでくる暴言に、つい反射的に謝ってしまった。
ただ、誤解のないように言っておくが、彼女はまるで僕が胸を見ていたかのような反応だったが、誓ってそんなところに目をやってないし、やましい気持ちも一切なかった。
そもそも、その平坦な胸のどこを見ろというのか。あと死ね死ね言い過ぎだし、むしろそっちが謝るべきじゃないか。
などと、心の中だけで呟いた。声にだして言えるほどの蛮勇は僕にはない。
少女は僕を罵倒して溜飲が下がったのか防御姿勢を解くと、本来の目的を思い出したのか(思い出さなくてもいいのに)再び最初の用件に戻った。
「と・も・か・く。妖怪は死ぬべきなの。なんなら自害でもいいわ。お手軽気軽にそこの窓から飛び降りて自害なさい」
そう言ってひょいと窓を指さす。
できるかっ。
「いや、それはちょっと」
「煮え切らないわね」
不満そうだが、当然だ。
そんな要求を飲めるのは自殺志願者かよほどのマゾヒストぐらいだ。
「男ならさっさと決めなさい。生き恥を晒すぐらいなら死んだ方がいいわ。かのナポレオンもそう言っていたじゃない」
「ナポレオンには詳しくないですが、おそらく言ってないと思います」
「言ってたわよ。……あれよ、あの有名な“余の辞書に不可能の文字はない”っていうのは『万が一不可能があったら生き恥だから俺さっさと死ぬわ、マジで』とかそんな感じの意味なのよきっと」
勝手に偉人の言葉を拝借したあげく、捏造まで始めた。というか「きっと」とか「感じ」とか曖昧な時点でナポレオンのことあんまり知らないだろ。
しかし、彼女はいいこと言ったとでも思っているのか、なぜか僕を期待のこもった目で見ている。
自分がいいこと言ってやったのだから飛び降りるだろう、とでも思っているのだろうか。
例えどれだけ彼女が素晴らしいことを言ったのだとしても、飛び降りるという選択肢は絶対にない。
だというのに、彼女は一向に飛び降りない僕がお気に召さないらしく、再び不満そうな顔へ移行したかと思うと、
「こうなったら……最終手段よ!」
などとのたまった。
ずいぶん早い最終手段である。
まだ罵倒しかされてないんだけど。
僕が呆れながらそんなことを考えていると、彼女は突然自分の服に手をかけた。
めくれた裾からわずかにのぞいた白い肌に、思わず目が行く。彼女に対してやましい気持ちなどないが、健全な青少年としては美少女の素肌というものに目移りしてしまうのは仕方のないことだ、と僕は自己弁護をした。
しかし肌が見えたのは一瞬で、彼女は服の内側から変な紙を何枚か取り出しただけだった。言っておくが僕は全く残念だなんて思っていない。
ともかく、彼女は妙な紙を取り出したかと思うと、それを僕にべたべたと貼り付け始めたのだ。
いきなりの奇行に思考が停止しかけたが、彼女の手があらぬところにまで伸びそうなのに気が付き、僕は必死で抵抗した。
「ちょ! ちょっと、やめてください!」
「んっ、動かないでよ。お札が貼れないじゃない」
「だから貼らないでくださいよ! ちょっ、顔はやめ、ってうぷ」
「ふん、だまって貼られなさい、悪霊退散よ! 退散!」
「だからやめ、って、悪霊じゃなくて妖怪でしょうが」
「あっ、ちょっと! はがさないでよ、というかやっぱり妖怪なんじゃない! やっと認めたわね、この妖怪!」
「だからぁ」
お互い取っ組み合うように激しく暴れる。その拍子に机に体がぶつかり、バサリと本が落下した。
この過剰なスキンシップは、ある意味女性からのセクハラであり、人によってはご褒美なのかもしれないが、どちらかと言えば嬉しいというよりは恥ずかしいという気持ちのほうが強い僕にとっては罰ゲームでしかなかった。
必死に抵抗をするが、女性に暴力を振るうわけにもいかず、手で彼女が触れるのを防ぐぐらいしか方法がない。
それにしても、あまりにも無防備に接近しすぎではないだろうか。ひょっとして妖怪だと思っているから、男として意識してないのだろうか。
とにかく、このままでは色々とヤバイ。どうにかしなければ、と焦燥感駆られた僕は、とっさに彼女の両手を掴んでいた。
「なっ、なにするの! こ、このヘンタイ! 警察呼ぶわよ、警察!」
顔を真っ赤にしてそんなことを言う少女。
僕から逃れようともがくが、意外と非力なのか僕程度の力でも容易に抑えることが可能だった。
まったく手を離そうとしない僕を恨めしげな眼で見る。少し涙目だ。
しかし彼女以上に混乱しているのは僕の方だった。
彼女の顔が僕の鼻先に触れそうなほど近くにあるとか、彼女の手が少し乱暴にしただけで折れてしまいそうなほど華奢だとか、頬を染め瞳に一杯の涙を溜めている姿が普段とのギャップで異常に可愛く見えるとか、そんなことが重なって、僕はもうどうしていいのかわからなくなっていた。
困り果てた僕が神に祈りを始めたころ、神がそれを聞き入れたのか、聞きなれたチャイムと共に校内放送が流れた。
『まもなく、最終下校時刻でーす。生徒はすみやかに帰宅してください~』
最終下校時刻を告げるアナウンス。それを聞いた瞬間、はっとしたように彼女は僕から視線を逸らし壁の時計を確認した。
僕もそれをきっかけに彼女から手を離す。自然と下に落ちていく彼女の手首は少し赤くなっており、僕は申し訳ない気持ちになった。
謝ったほうがいいだろうか、と僕が考えていると、彼女はふぅとどこか安心したように息を吐いた。
「ふん……時間切れね」
彼女は悔しさを滲ませた声でそうつぶやくと、踵を返し出口へ歩いていく。
助かった。いろんな意味でそう安堵していると、彼女は扉の手前で一旦立ち止まり、こちらを振り向いた。再び鋭い視線をこちらに向ける。思わず身構える僕。
「今日は――見逃してあげる。けれど明日こそはあなたを殺してみせる。あなたを殺すのは、この“原井、玉恵”よ――覚えておきなさい」
どこぞのライバルキャラのようなセリフを吐き捨てると、彼女は急ぐように部屋から出ていった。先ほどのやりとりなどなかったかのような、潔い退場だった。
開け放たれたままの扉を数分ほど眺め、彼女が戻ってくる気配がないことがわかると、緊張していた全身の筋肉が弛緩し深い溜息が漏れた。どうやら今日の危機は脱したようだ。異様に疲れた体をぐったりと椅子に沈み込ませ、天井をぼんやり眺め考える。
彼女が唐突に現れて変なことをするのはいつものことだったが、今日はいままで以上に焦らされてしまった。
これまで僕が助かってきたのは、彼女がなぜか最終下校時刻を律儀に守っているからだ。
彼女は本当に僕を殺す気があるのだろうか。よくわからないことはされるが、直接的な暴力は振るわれたことは一切ない。
だからこそ、僕も彼女をどう扱っていいのか、どこまで踏み込んでいいのか計り兼ねていた。
本音を言うならばもう来てほしくはない。
でも、彼女は明日も来るだろう。
「どうしたもんかねぇ」
僕はくたびれたようにそうつぶやくと、床に落ちた本を拾った。
それから気分を入れ替えようと立ち上がり伸びをする。
なんだか、胸がもやもやする。理由がわからず不快な思いでいると、はらりと何かが床に落ちた。
それはお札だった。そう言えば彼女にお札を貼られていたのだと思いだし、体を見るといたるところにお札が貼られていた。もやもやの原因はこれだろうか。
僕の体に貼られていたのは全部で十二枚。気が付かないうちに背中にまであったので驚いた。
そのお札はほんのりと暖かかった。僕の体温か、それとも彼女の体温なのか。
僕は彼女の腕をつかんだ時のことを思い返す。柔らかく細い、そして思っていたよりも熱を含んだ彼女の腕。そして白い肌に残った赤い跡。
そこまで考えて、まさか僕の胸のもやもやは彼女に謝り損ねたからだろうか。そんなことを思ったが、どちらかと言えばこちらが被害者なのに、どうして罪悪感を抱く必要があるのだと、すぐさま否定をした。
僕は本を鞄にしまうと、そのまま部屋を後にした。
窓の外はとうに暗くなっている。女性が出歩くには少し危険なほどに。
「なんとかしないとなあ」
薄暗闇の中、校門にむかって歩く黒髪の少女を窓から見下ろし、僕はそう嘆息した。
■
結局、僕を“妖怪”と呼ぶ運命の誰かは、むこうから来てくれた。
なら、僕がすべきことはもう一歩踏み込むことなのではないか。
いまの僕はひどく宙ぶらりんだ。何を怖れているのか。
得難いものを得るには境界を踏み越えるしかないというのに。例え後戻りができないのだとしても。
無知な妖怪は、今日も未知の境界に怯えて、歩き出すことができない。
――明日は僕から話しかけてみよう。
臆病な妖怪は、明日には揺らいでいそうな儚い決意を、今日もした。
あとがき
どうもはじめまして。TSと申します。
犬牛という妖怪は、創作ですので実際にはいません