第七話「四神の黄昏」2
第二章 傷だらけの帰還者
辰巳響の問いかけに、陳 幽寂は深く頷いた。 だが、その顔には希望の光だけでなく、深い苦渋の影が落ちていた。
「ああ。王 恒龍が目覚めれば、奴は大陸の龍脈を掌握し直すことができる。……赤竜への供給を断ち、逆に奴を干上がらせることも可能じゃろう」
「なら、話は早い。さっさと起こそうぜ」
響が水晶に手を伸ばそうとする。しかし、チェン爺はその手を遮るように杖を突き出した。
「待て。……そう簡単ではない」
老人の声が、冷徹な事実を告げる鐘のように響いた。
「この封印は、バチカン特務機関H.L.O.H.が施した、最高位の『聖法気』による絶対的な錠前だ。……東洋の術理とは根本的に異なる、異質の概念で固められている。外部からの物理的な破壊は通用せん」
「じゃあ、どうすんだよ」
「内側から開けるしかない。……この水晶は、龍の魂に反応する。封印を解く唯一の鍵は……同族である龍の一族の命だ」
チェン爺の言葉は、地底湖の水面を渡り、重く、冷たく、私たちの鼓膜を打った。 それは宣告だった。希望への道筋を示すと同時に、その代償として絶望的な犠牲を強いる、残酷な等価交換。
「……命、か」
響が、乾いた唇を舐める。 彼女の視線は、青い水晶の中に眠る男に釘付けになっていた。彼を目覚めさせるには、誰かがその命を燃料として注ぎ込み、封印を焼き切らなければならない。 そして今、この場にいる「龍の一族」は、響ただ一人だ。
「チェン爺。……他に方法はねぇのか?」
久遠灯が、低い声で尋ねる。だが、老人は首を横に振った。
「ない。……他の者の命では、波長が合わず、中の恒龍ごと砕け散るじゃろう」
沈黙が落ちた。 天井から滴り落ちる水滴の音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。 誰もが理解していた。誰かが死ななければ、全員が死ぬ。 そして、その役割を担えるのは誰かということを。
(……そうかよ)
響は、ふっと息を吐いた。 恐怖はあった。だが、それ以上に、腑に落ちる感覚があった。 京帝から逃げ出し、東帝都でヘラヘラと笑って過ごしていた自分。 神としての責務を放棄し、ただの女子高生として生きてきた自分。そのツケを払う時が来たのだと。
「……なら、アタシがやる」
その沈黙を破ったのは、響だった。彼女は迷いのない足取りで、祭壇へと歩み寄った。
「響!?」
「止めんな」
響は振り返らず、水晶の前に立った。 その背中は、いつもの強がりや虚勢ではない、静かな覚悟に包まれていた。
「どうせ、今のアタシじゃ……あの赤竜には勝てねぇ」
彼女は自分の手を見つめる。 アポカリプス・レッドとの敗北。圧倒的な質量の前に為す術もなく弾き飛ばされ、泥水を啜った記憶。 タピオカでカロリーを補給し、誤魔化しながら生きている今の自分は、全盛期の龍神とは程遠い「出涸らし」だ。
「あいつ……『アポカリプス・レッド』は、アタシの友達を核にして動いてる。……あんな化け物を止めて、あいつを救い出すには、本物の青龍を叩き起こすしかねぇんだよ」
響は、懐から護身用のナイフを取り出した。銀色の刃が、青い燐光を反射して鈍く光る。
「響、よせ! 早まるな!」
灯が叫び、駆け寄ろうとする。 だが、響はナイフを自分の喉元に突きつけ、灯を牽制した。
「来るな、灯! ……これは、アタシのケジメだ!」
響の声が震える。死ぬのは怖い。 まだタピオカも飲み足りないし、新作のコスメも試していない。けれど、ここで逃げれば、私は一生、自分を許せない。
「神様失格の半端者が、最後に役に立てるなら……。安いもんだろ」
響は、水晶の中の男を見つめた。かつての同胞。自分と同じ血を持ちながら、最後まで戦い、封印された英雄。彼を目覚めさせるための贄になる。それが、逃げ続けた自分にふさわしい最期だと、彼女は信じ込もうとしていた。
「……あばよ、みんな。楽しかったぜ」
響が、ナイフを握る手に力を込める。皮膚が切れ、血の珠が浮かぶ。
「やめろォォォッ!!」
灯が手を伸ばす。 間に合わない。刃が、動脈を切り裂こうとした――その時。
「……待ちなさいよ、馬鹿犬」
闇の奥から、しわがれた声が響いた。それは、錆びついた鉄同士がこすれ合うような、不快で、しかしどこか懐かしい響きを持っていた。
響の手が止まる。全員が、声のした方を振り返る。
鍾乳洞の入り口。 暗がりの中から、一つの影が足を引きずりながら現れた。
「……誰だ?」
鉄鏡花が警戒し、義手を構える。 だが、その影が光の下に出た瞬間、私たちは息を呑んだ。
それは、ボロ雑巾のような姿だった。 かつては豪奢だったチャイナドレスはズタズタに裂け、泥と油で真っ黒に汚れている。左腕の機械義手は半壊し、コードが血管のように垂れ下がっている。 髪は乱れ、顔の半分は火傷のような傷跡で覆われていた。
だが、その瞳だけは。泥沼の底から這い上がってきた者だけが持つ、凄絶な光を宿していた。
「……リーリン?」
響が、信じられないものを見るように名を呼んだ。
王 麗琳。 響に敗れ、ドクター・メイに見捨てられ、タワーから墜落したはずの少女。 彼女は生きていた。 スラムの汚水の中、ネズミに齧られそうになりながらも、チェン爺に拾われ、一命を取り留めていたのだ。
「……生きて、たのか」
「ええ。……地獄の底から、這い上がってきたわ」
リーリンは、壊れかけの義手からオイルを滴らせながら、一歩ずつ歩み寄ってきた。 その歩みは遅く、痛々しい。 だが、誰も彼女を止めようとはしなかった。彼女が纏う気迫が、それを許さなかったからだ。
「みっともないわね、東洋の龍。……神のくせに、自殺志願?」
リーリンは、響の目の前で立ち止まり、嘲笑った。かつてのような、高慢な嘲りではない。同じ痛みを知る者への、叱咤に近い響き。
「アンタは……」
響がナイフを下ろす。
「アンタこそ、ボロボロじゃねぇか。……そんな体で、何しに来たんだよ」
「決まってるでしょう」
リーリンは、響の手からナイフをひったくった。乱暴な手つき。 だが、その手は温かかった。
「私の……『夢』を叶えに来たのよ」
彼女は、響を押しのけ、水晶体の前に立った。ガラスに映る自分の姿を見る。醜い。汚い。 かつて自分が誇っていた美貌も、王家の血筋というプライドも、見る影もない。 だが、不思議と、今の自分の方が「マシ」だと感じていた。メイに媚び、偽物の翼で空を飛んでいた頃よりも、ずっと地に足がついている。
「……どけよ、リーリン」
響が、リーリンの肩を掴む。
「それはアタシの役目だ。……お前には関係ねぇ」
「関係あるわ」
リーリンは、響の手を振り払った。
「私は……龍になりたかった」
彼女は、水晶の中の王 恒龍を見上げた。憧れ。嫉妬。執着。 彼女の人生を狂わせ、そして支えてきた感情の源泉。
「偽物の翼でも、機械の身体でもよかった。……誰よりも高く飛びたかった。誰よりも強くなりたかった」
彼女の声が、微かに震える。
「でも、間違ってた。……私がなりたかったのは、誰かを傷つける怪物じゃない」
リーリンは、背後を振り返った。そこには、チェン爺がいる。 泥水の中で死にかけていた彼女を拾い、黙って傷の手当てをしてくれた老人。 「生きて罪を償え」と、不味い粥を食わせてくれた人。
「誰かを守れる……気高い龍になりたかったのよ」
彼女の瞳から、涙がこぼれた。 それは血の涙ではない。透明な、人間の涙。
「貴女は戦いなさい、響。……貴女には、守るべき仲間がいる。帰るべき場所がある」
リーリンは、ナイフの切っ先を、自分の心臓に向けた。
「『鍵』になるのは……偽物の私で、お似合いよ」
「……ッ、ふざけんな!」
響が叫び、飛びかかろうとする。だが、リーリンの周りに、青い風が巻いた。 彼女の中に眠っていた、わずかな龍の因子が、最期の瞬間に覚醒しようとしているのだ。
「来ないで!」
リーリンの絶叫が、風圧となって響を押し戻す。
「これは私の意志よ! ……誰の命令でもない! 私が、私のために選んだ結末なの!」
彼女は笑った。 泥と油にまみれた顔で。今までで一番、美しく、誇り高い笑顔で。
「見てなさい、東洋の龍。……私が、アンタより先に『本物』になってみせるから」
彼女は、覚悟を決めてナイフを振り上げた。 その切っ先が狙うのは、自身の胸。 命という名の鍵穴。
「……ありがとう、じっちゃん。……あのお粥、美味しかったわ」
最期に、彼女は小さく呟いた。それは、誰にも聞こえないほどの、小さな感謝の言葉。
水晶が、共鳴を始める。 偽物が本物を超え、歴史を動かす瞬間が、今まさに訪れようとしていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




