第七話「四神の黄昏」1
第一章 白虎の告白
重厚な鉄扉が、錆びついた蝶番を軋ませて開く。 その音は、長い眠りについていた獣が、欠伸をする音に似ていた。
陳 幽寂が先導し、私たちはその暗がりへと足を踏み入れた。 瞬間、肌にまとわりついていた虹海特有の湿った熱気と腐臭が断ち切られ、代わりに針のように冷たく、澄み渡った冷気が肺腑を突き刺した。
「……なんだ、ここは」
久遠灯が、短い感嘆を漏らす。
そこは、下水道のさらに深層。泥と汚物にまみれた都市の直下にあるとは到底信じ難い、古代の地層に穿たれた巨大な空洞だった。 天井は見えないほど高く、無数の鍾乳石が鋭利な牙のように垂れ下がっている。 足元には広大な地底湖が広がり、その水面は光源もないのに青白く、幻想的な燐光を放っていた。 静寂。地上で猛威を振るう赤竜の咆哮も、ここまでは届かない。 時が止まったかのような、幽玄の世界。
「……呼んでる」
辰巳響が、胸を押さえて呟いた。 彼女の視線は、地底湖の中央にある「島」に釘付けになっていた。 そこには、祭壇のような石造りの台座があり、その上に巨大な物体が鎮座していた。
高さ五メートルはあろうかという、巨大な青い水晶体。 いや、それは水晶というよりは、高密度に圧縮された「時間」と「霊力」の結晶だった。 内部で渦巻く光の粒子が、心臓の鼓動のように明滅している。
そして、その結晶の中に――男がいた。
古代中国の武人を思わせる豪奢な道服を纏い、両腕を胸の前で交差させて眠る男。 長い黒髪は水流のように漂い、その額からは、人間にはあり得ない二本の「角」が生えていた。 美しい男だった。 だが、その美しさは死人のそれではない。今にも目を開き、天を駆ける準備を整えているかのような、圧倒的な「生」の気配を内包したまま凍結されている。
ただし、その眠りは祝福されたものではない。水晶体の表面には、何重もの厳重な鎖が巻き付けられ、さらにその上から、禍々しい真紅の文字で記された西洋の呪符がびっしりと貼り付けられていた。
封印。 それも、東洋の術理ではない。 異国の、神の名を借りた絶対的な拒絶の檻。
「……これが、アタシの遺産?」
響が、震える声で問う。彼女の身体の中で、龍の血がざわめいているのが、傍にいる私にも伝わってくる。
チェン爺は、キセルの火を消し、静かに首を横に振った。 その瞳は、水晶の中の男を、親愛と悔恨の入り混じった眼差しで見つめている。
「違う。……これは、お前の『源流』だ」
老人は、ゆっくりとこちらを振り返った。 その瞬間、彼が纏っていた「冴えない屋台の親父」という空気が、霧散した。
曲がっていた背筋が伸びる。濁っているように見えた瞳に、凄絶な光が宿る。 小柄な老躯から放たれるのは、歴戦の武人だけが持つ、研ぎ澄まされた刃のような気迫。 それは、響や灯が持つ「個」の暴力とは違う。 大地そのものと繋がり、世界を背負う者の、重厚な覇気だった。
「……ワシの名は、陳 幽寂。そう呼ばれて久しいが、それは仮初の姿に過ぎん」
老人の声が、洞窟の反響音と重なり、厳かに響いた。
「真の正体は……大陸を守護する四神の一柱。西の方角を司る、白虎。……その当代だ」
白虎。古来より、青龍、朱雀、玄武と共に四方を守るとされる伝説の聖獣。 その名を継ぐ者が、目の前の薄汚れた老人だというのか。
「かつて、四神はこの大陸の霊的均衡を保っていた」
チェンは語り始めた。 それは、歴史の裏側に葬られた、神々の敗北の物語。
「東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。……我らは互いに力を循環させ、龍脈を制御し、この地に繁栄をもたらしてきた。だが……」
チェンの視線が、水晶の中の男に戻る。
「数年前。……全てが狂った」
彼は、痛みに耐えるように顔を歪めた。
「四神の長であり、最も強大な力を持っていた青龍・王 恒龍が……狩られたのだ」
「狩られた……だと?」
灯が眉をひそめる。
「ああ。……東洋の神秘を『異端』とし、管理下に置こうとする西の勢力によってな」
チェンは、水晶に巻き付けられた鎖を指差した。その鎖には、十字架の紋章が刻まれている。
「バチカン特務機関、聖槍異端監察庁(H.L.O.H.)。……奴らは、恒龍を『世界秩序を乱す高エネルギー体』と認定し、総力を挙げて襲撃した。……神を、害獣のように追い詰めてな」
響が息を呑む。 H.L.O.H.。 東帝都でルシウス・クロウリーが名乗った、あの組織。奴らは、響たちのような「個」の魔女だけでなく、土地に根付く「神」さえも排除の対象としていたのだ。
「恒龍は強かった。だが、奴らの持つ『聖遺物』の力は、我らの理を否定する天敵だった。……彼は敗れ、殺される代わりに、この龍脈の最深部に封印された。生きたまま、龍脈を吸い上げるための電池として利用するために」
守りの要を失った四神は、音を立てて崩壊した。
「北の玄武・玄 冷淵は、恒龍の敗北に絶望し、心を閉ざして行方不明となった。……おそらく、深い海の底で眠り続けている」
チェンの拳が、白く震える。
「そして……南の朱雀・朱 焔陽は、堕ちた」
「堕ちた?」
「奴は力を求めた。H.L.O.H.に対抗するため、あるいは恒龍を失った大陸を独力で支配するために。……奴は、禁忌に手を染めたのだ」
チェンの口から、憎悪のこもった名が吐き出される。
「ベルベット・ミラー。……あの吸血鬼の女狐と手を組み、自らの炎をどす黒い欲望の色に染め上げた」
四神の崩壊。 青龍は封印され、玄武は消え、朱雀は裏切った。残されたのは、老いた白虎ただ一匹。
「ワシは……無力だった」
チェン爺は、その場に膝をついた。地面を叩く拳から、血が滲む。
「仲間が狩られ、裏切っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。……この街の龍脈が『黄昏の黙示録団』に吸い上げられ、腐っていくのを、屋台の影から歯噛みして見ていることしかできなかった」
老人の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、数年間、彼が一人で抱え続けてきた孤独と悔恨の重さだった。
「ワシ一人の力では……この国を、支えきれんかった。……すまない」
響は、動けなかった。 彼女は知っていた。神と呼ばれる存在が、どれほど孤独で、どれほど脆いものであるかを。自分は逃げた。 京帝から追放され、東帝都で女子高生のフリをして、運命から目を背けていた。 だが、この老人は逃げなかった。 たった一人で、ボロボロになりながら、この腐りきった魔都の均衡を、ギリギリのところで支え続けてきたのだ。
響は、水晶の中へ歩み寄った。冷たいガラスの表面に、手を触れる。 ビリビリと、拒絶の電流が走る。だが、その奥にある「同胞」の鼓動が、響の血と共鳴した。
王 恒龍。 かつての青龍。響の遠い祖先であり、魂の兄弟。
(……聞こえる)
水晶の中から、声なき声が響いてくる。 『痛い』とも『助けて』とも言わない。 ただ、静かに、自身の運命を受け入れている、悲しい王の沈黙。
響は、拳を握りしめた。爪が皮膚を破り、赤い血が滴る。
「……じっちゃん」
響は、背中越しに老人に声をかけた。
「謝るなよ。……アンタは、すげぇよ」
響は振り返り、ニカっと笑った。 その笑顔は、いつもの強がりではない。 覚悟を決めた、一人の「龍」の顔だった。
「一人で頑張ったな。……でも、もういいぜ」
響は、水晶を親指で指した。
「こいつを……青龍を叩き起こせば、形勢逆転だろ?」
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




