第六話「黙示録の赤竜(アポカリプス・レッド)」1
第一章 老いた虎の不在
魔都・虹海の下層スラム、『澱河』。 ドブ色に濁った運河の上を、生暖かい風が撫でていく。 それは、湿気を含んだ重たい風だった。腐敗したゴミの臭いと、どこか焦げ付いたような鉄の臭いが混じり合い、肌にまとわりつくような不快感を運んでくる。これから訪れる破滅を予感させるような、不吉な凪。
古びた屋台の前で、陳 幽寂は空を見上げた。 紅い霧の向こう側、天龍街の摩天楼がぼんやりと霞んでいる。
「……嫌な風だ」
老道士の研ぎ澄まされた勘が、大気の揺らぎを感じ取っていた。単なる天候の変化ではない。 もっと禍々しい、巨大な悪意の塊が、このスラムに向けて鎌首をもたげている気配。 辰巳響と仲間たちは、上層エリアへの侵入ルートを探るために情報収集に出ている。屋台に残っているのは、留守番の李 小蓮だけだ。
「じっちゃん? どうしたの、怖い顔して」
シャオが、蒸籠の湯気の中から顔を覗かせた。額に玉のような汗を浮かべ、客の注文を捌きながらも、彼女の笑顔は向日葵のように明るい。
「……いや、なんでもない」
チェン爺は、キセルの灰をコンと落とした。 不安を悟られないように、いつもの好々爺の顔を作る。 だが、胸騒ぎは消えない。 響の身体を蝕む渇望。ドクター・メイの影。そして、この街の龍脈の悲鳴。 全てが限界点に達しようとしている。
「シャオ。……ワシは少し出かけてくる」
「え? どこ行くの、じっちゃん。もうすぐお昼のピークだよ?」
「買い出しだ。……響の嬢ちゃんたちのために、もっと強力な霊薬の材料が必要だからな。西街の闇市場まで行ってくる」
それは半分嘘だった。 本当は、この嫌な予感の正体を突き止めるために、スラムの最深部にある情報屋と接触し、先手を打つためだった。もし、何かが迫っているのなら、ここで座して待つわけにはいかない。
「すぐ戻る。……店を頼んだぞ」
「もー、しょうがないなぁ。……気をつけてね! お土産よろしく!」
シャオの元気な声に見送られ、チェン爺は路地裏へと姿を消した。 その背中を見送るシャオの笑顔が、これが見納めになるかもしれないとは露知らず。老いた虎が巣を空けたその数分の隙が、致命的な運命の分岐点となるとは、百戦錬磨の道士でさえ予測できていなかった。
チェン爺が去ってから数十分後。 屋台は、いつものようにスラムの住人たちで賑わっていた。 肉まんの蒸しあがる匂いが、路地裏の悪臭を一時だけ忘れさせてくれる。
「はい、肉まん一丁! 熱いから気をつけてね!」
「おう、ありがとなシャオちゃん! 今日も元気だねえ」
「元気だけが取り柄だからね!」
シャオは客たちに笑顔を振りまきながら、手際よく釣銭を渡す。平和な日常。 泥にまみれたスラムの中で、ここだけが温かい光に包まれているようだった。
その日常が、唐突に切り裂かれた。
ヒュォォォォォ……!
上空から、空気を切り裂くジェットエンジンの噴射音が聞こえた。 紅い霧が渦を巻き、突き破られる。黒い影が、隕石のように屋台の前へと落下してきた。
ズドォォォォン!!
轟音。 着地の衝撃波で、屋台の屋根が吹き飛び、提灯が弾け飛んだ。 蒸籠がひっくり返り、白い肉まんが泥水の中に転がる。客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「きゃあああ!」
「な、なんだ!? 空襲か!?」
土煙が立ち込める中、その影はゆっくりと立ち上がった。異形だった。 かつては人間だったものが、機械と肉のパッチワークによって無理やり繋ぎ合わされた、悪夢のような姿。
「……見つけたわ」
金属のこすれるような、不快な声。煙が晴れると、その全貌が露わになった。
王 麗琳。
かつて天龍街のペントハウスからスラムを見下ろしていた、あの高慢で美しい少女の面影は、そこにはなかった。 彼女の肉体は、破壊された人工ドラゴン『プロト・レッド』の残骸パーツと無惨に融合し、機械と肉が混じり合ったキメラと化していた。左腕は巨大な鋼鉄の爪に換装され、背中には折れた金属の翼が突き刺さるように生えている。皮膚の半分は焼けただれ、人工皮膚で補修されているが、その継ぎ目からはオイルと膿が混じった体液が滴り落ちていた。
「……あ、あぁ……」
シャオが息を呑む。 目の前の存在が放つ、圧倒的な狂気と殺意に、肌が粟立つ。
リーリンの瞳は充血し、焦点が合っていなかった。ただ一点、「龍になる」という妄執だけが、彼女の壊れた精神を駆動させている。
「私の……チケット」
リーリンの視線が、シャオを捉えた。 彼女が求めているのは、ライバルである響ではない。最強の人工ドラゴン『黙示録の赤竜』を起動させるための鍵――生体CPUであるシャオだ。
「アンタは……!」
シャオが、瓦礫の中から立ち上がる。 彼女は構えた。 雷鳴はなくとも、彼女にはチェン爺から教わった拳法がある。 そして何より、この店と、ここに集う人々を守るという意志がある。
「帰ってよ! ここは私のお店だ! ……乱暴するなら、許さない!」
シャオが踏み込む。 地面を強く踏みしめ、鋭い正拳突きを放つ。 狙いはリーリンの懐、生身の部分が残っている腹部。
だが、リーリンは避けもしなかった。
ガギィッ!
鈍い音が響く。シャオの拳が、リーリンの胸部装甲に弾かれたのだ。硬い。 生身の人間が殴っていい硬度ではない。シャオの拳から血が滲む。
「……邪魔よ、出来損ない」
リーリンが、鋼鉄の左腕を無造作に振るった。 ただの裏拳。 だが、それは鉄骨をへし折る質量兵器の一撃だ。
「くっ!」
シャオは両腕でガードするが、圧倒的なパワーの前に吹き飛ばされた。屋台の柱に激突し、棚が崩れ落ちてくる。
「ぐぅっ……!」
激痛が走る。腕の骨にヒビが入ったかもしれない。 シャオは呻きながら顔を上げた。
「卑怯者……!」
「卑怯? ……勝てばいいのよ」
リーリンは嗤った。彼女は、倒れたシャオに歩み寄るのではなく、逃げ遅れて瓦礫の下敷きになっていた客の一人――幼い子供の襟首を掴み上げた。
「なっ……!?」
リーリンの巨大な爪が、子供の細い首筋に食い込む。 子供が泣き叫ぶ。
「ママ! 痛いよぉ!」
「動かないで」
リーリンは、シャオを見下ろして冷酷に告げた。
「この子がどうなってもいいの? ……貴女が大人しくしていれば、このゴミ屑は見逃してあげる」
「やめ……て……!」
シャオの動きが止まる。 卑劣。 だが、勝利のためなら手段を選ばない、なりふり構わぬ執念。リーリンにとって、他人の命など路傍の石ころ以下の価値しかないのだ。
「いい子ね」
シャオが抵抗を止めたのを確認すると、リーリンは子供をゴミのように放り投げた。同時に、反対の手で隠し持っていた注射器を、電光石火の速さでシャオの首筋に突き立てた。
プシュッ。
高濃度の神経毒と、鎮静剤の混合液が注入される。
「あ……が……」
シャオの視界が揺らぐ。 手足の感覚が消え、力が抜けていく。 意識が闇に沈む直前、彼女は見た。 リーリンの顔に浮かぶ、歪んだ歓喜の笑みを。
「勝てばいいのよ。……私は、何をしてでも龍になる」
「じっ……ちゃん……響……ちゃん……」
シャオの声は、誰にも届くことなく途絶えた。 彼女は人形のように崩れ落ちる。 リーリンは、意識を失ったシャオを小脇に抱え、背中のブースターを点火した。
「さあ、行きましょう。……貴女が、私を『本物』にしてくれるのよ」
ゴオオオオオッ!!
轟音と共に、彼女は空へと消えていく。奪われた太陽。 残されたのは、破壊された日常と、絶望に染まったスラムの風景だけだった。
「……小蓮ッ!!」
チェン爺が戻ってきたのは、リーリンが飛び去った数分後のことだった。 彼は買い出しの荷物を放り出し、半壊した屋台へと駆け寄った。 息が切れるのも構わず、瓦礫をかき分ける。
「シャオ! 返事をしろ! シャオ!」
だが、そこには愛娘の姿はない。 あるのは、恐怖に震える住民たちと、割れた蒸籠、そして泥にまみれたシャオのエプロンの切れ端だけ。
「……遅かったか」
老人の顔から、好々爺としての表情が消え失せた。全身から、凄まじい殺気が噴き上がる。 大気がビリビリと震え、周囲の瓦礫が浮き上がるほどのプレッシャー。 伝説の道士が本気で激怒した瞬間だった。 その背中には、かつて数多の妖魔を葬ってきた修羅の影が重なる。
「……じっちゃん!」
遅れて、響たちが息を切らして戻ってくる。彼女たちは、遠くで上がった黒煙と、不穏な気配を感じて、急いで戻ってきたのだ。だが、目の前の光景を見て、言葉を失った。
「嘘だろ……。屋台が……」
響が、瓦礫の山を呆然と見つめる。 昨日まで、笑い声が溢れていた場所。 肉まんの湯気が立ち昇っていた場所。 それが今、無惨な残骸となっている。そして、そこに一番大切な「あいつ」がいないことに気づき、顔色を変えた。
「シャオは!? じっちゃん、シャオはどこだ!?」
響がチェン爺に詰め寄る。 チェン爺は、空を見上げたまま、静かに答えた。その声は、怒りで低く震えていた。
「連れ去られた。……天龍街へ」
「……アタシが……ついていながら……!」
響が、地面を殴りつけた。 拳から血が滲む。 まただ。 また、アタシのせいで。アタシが目を離した隙に、大切な友達が奪われた。後悔と自責の念が、響の心を押しつぶそうとする。神の力を持っていても、結局アタシは、肝心な時に何も守れない無力なガキだ。
「泣くな、響」
チェン爺の声が、厳しく響いた。 彼は、響の肩を強く掴み、立たせた。
「泣いている暇などない。……あの子はまだ生きている。生贄として捧げられる前にな」
老人の瞳には、深い悲しみと、それ以上に燃え盛る怒りの炎が宿っていた。 彼は、エプロンの切れ端を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ワシの命に代えても、あの子は取り戻す。……たとえ、この街を敵に回してもな」
「……ああ」
響は涙を拭い、立ち上がった。 その瞳孔が、鋭く縦に裂ける。 龍の怒りが、彼女の中で渦を巻く。
「追うぞ。……あの塔へ」
チェン爺が指差した先。 紅い霧の向こうに、不気味にそびえ立つ『虹海タワー』。 そこは今、悪魔が孵化しようとしている地獄の揺り籠だった。
「取り戻す。……絶対に」
響の声が、低く唸るように響いた。老いた虎と、傷ついた龍。二つの獣が、牙を剥いて魔都の頂を目指す。硝子の牙が砕けようとも、その咆哮だけは止まらない。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




