表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リコリス・ディープ・ニルヴァーナ  作者: ネオもろこし
紅蓮の黙示録(クリムゾン・アポカリプス)編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/21

第六話「黙示録の赤竜(アポカリプス・レッド)」1

第一章 老いた虎の不在


 魔都・虹海(ホンハイ)の下層スラム、『澱河(ヨドミガワ)』。 ドブ色に濁った運河の上を、生暖かい風が撫でていく。 それは、湿気を含んだ重たい風だった。腐敗したゴミの臭いと、どこか焦げ付いたような鉄の臭いが混じり合い、肌にまとわりつくような不快感を運んでくる。これから訪れる破滅を予感させるような、不吉な(なぎ)


 古びた屋台の前で、陳 幽寂(チェン・ヨウジー)は空を見上げた。 紅い霧の向こう側、天龍街の摩天楼がぼんやりと霞んでいる。


「……嫌な風だ」


 老道士の研ぎ澄まされた勘が、大気の揺らぎを感じ取っていた。単なる天候の変化ではない。 もっと禍々しい、巨大な悪意の塊が、このスラムに向けて鎌首をもたげている気配。 辰巳響(たつみ ひびき)と仲間たちは、上層エリアへの侵入ルートを探るために情報収集に出ている。屋台に残っているのは、留守番の李 小蓮(シャオ)だけだ。


「じっちゃん? どうしたの、怖い顔して」


 シャオが、蒸籠(せいろ)の湯気の中から顔を覗かせた。額に玉のような汗を浮かべ、客の注文を捌きながらも、彼女の笑顔は向日葵のように明るい。


「……いや、なんでもない」


 チェン爺は、キセルの灰をコンと落とした。 不安を悟られないように、いつもの好々爺の顔を作る。 だが、胸騒ぎは消えない。 響の身体を蝕む渇望。ドクター・メイの影。そして、この街の龍脈の悲鳴。 全てが限界点に達しようとしている。


「シャオ。……ワシは少し出かけてくる」


「え? どこ行くの、じっちゃん。もうすぐお昼のピークだよ?」


「買い出しだ。……響の嬢ちゃんたちのために、もっと強力な霊薬の材料が必要だからな。西街の闇市場まで行ってくる」


 それは半分嘘だった。 本当は、この嫌な予感の正体を突き止めるために、スラムの最深部にある情報屋と接触し、先手を打つためだった。もし、何かが迫っているのなら、ここで座して待つわけにはいかない。


「すぐ戻る。……店を頼んだぞ」


「もー、しょうがないなぁ。……気をつけてね! お土産よろしく!」


 シャオの元気な声に見送られ、チェン爺は路地裏へと姿を消した。 その背中を見送るシャオの笑顔が、これが見納めになるかもしれないとは露知らず。老いた虎が巣を空けたその数分の隙が、致命的な運命の分岐点となるとは、百戦錬磨の道士でさえ予測できていなかった。


 チェン爺が去ってから数十分後。 屋台は、いつものようにスラムの住人たちで賑わっていた。 肉まんの蒸しあがる匂いが、路地裏の悪臭を一時だけ忘れさせてくれる。


「はい、肉まん一丁! 熱いから気をつけてね!」


「おう、ありがとなシャオちゃん! 今日も元気だねえ」


「元気だけが取り柄だからね!」


 シャオは客たちに笑顔を振りまきながら、手際よく釣銭を渡す。平和な日常。 泥にまみれたスラムの中で、ここだけが温かい光に包まれているようだった。


 その日常が、唐突に切り裂かれた。


 ヒュォォォォォ……!


 上空から、空気を切り裂くジェットエンジンの噴射音が聞こえた。 紅い霧が渦を巻き、突き破られる。黒い影が、隕石のように屋台の前へと落下してきた。


 ズドォォォォン!!


 轟音。 着地の衝撃波で、屋台の屋根が吹き飛び、提灯が弾け飛んだ。 蒸籠がひっくり返り、白い肉まんが泥水の中に転がる。客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。


「きゃあああ!」


「な、なんだ!? 空襲か!?」


 土煙が立ち込める中、その影はゆっくりと立ち上がった。異形だった。 かつては人間だったものが、機械と肉のパッチワークによって無理やり繋ぎ合わされた、悪夢のような姿。


「……見つけたわ」


 金属のこすれるような、不快な声。煙が晴れると、その全貌が露わになった。


 王 麗琳(ワン・リーリン)


 かつて天龍街のペントハウスからスラムを見下ろしていた、あの高慢で美しい少女の面影は、そこにはなかった。 彼女の肉体は、破壊された人工ドラゴン『プロト・レッド』の残骸パーツと無惨に融合し、機械と肉が混じり合ったキメラと化していた。左腕は巨大な鋼鉄の爪に換装され、背中には折れた金属の翼が突き刺さるように生えている。皮膚の半分は焼けただれ、人工皮膚で補修されているが、その継ぎ目からはオイルと膿が混じった体液が滴り落ちていた。


「……あ、あぁ……」


 シャオが息を呑む。 目の前の存在が放つ、圧倒的な狂気と殺意に、肌が粟立つ。


 リーリンの瞳は充血し、焦点が合っていなかった。ただ一点、「龍になる」という妄執だけが、彼女の壊れた精神を駆動させている。


「私の……チケット」


 リーリンの視線が、シャオを捉えた。 彼女が求めているのは、ライバルである響ではない。最強の人工ドラゴン『黙示録の赤竜(アポカリプス・レッド)』を起動させるための鍵――生体CPUであるシャオだ。


「アンタは……!」


 シャオが、瓦礫の中から立ち上がる。 彼女は構えた。 雷鳴はなくとも、彼女にはチェン爺から教わった拳法がある。 そして何より、この店と、ここに集う人々を守るという意志がある。


「帰ってよ! ここは私のお店だ! ……乱暴するなら、許さない!」


 シャオが踏み込む。 地面を強く踏みしめ、鋭い正拳突きを放つ。 狙いはリーリンの懐、生身の部分が残っている腹部。


 だが、リーリンは避けもしなかった。


 ガギィッ!


 鈍い音が響く。シャオの拳が、リーリンの胸部装甲に弾かれたのだ。硬い。 生身の人間が殴っていい硬度ではない。シャオの拳から血が滲む。


「……邪魔よ、出来損ない」


 リーリンが、鋼鉄の左腕を無造作に振るった。 ただの裏拳。 だが、それは鉄骨をへし折る質量兵器の一撃だ。


「くっ!」


 シャオは両腕でガードするが、圧倒的なパワーの前に吹き飛ばされた。屋台の柱に激突し、棚が崩れ落ちてくる。


「ぐぅっ……!」


 激痛が走る。腕の骨にヒビが入ったかもしれない。 シャオは呻きながら顔を上げた。


「卑怯者……!」


「卑怯? ……勝てばいいのよ」


 リーリンは嗤った。彼女は、倒れたシャオに歩み寄るのではなく、逃げ遅れて瓦礫の下敷きになっていた客の一人――幼い子供の襟首を掴み上げた。


「なっ……!?」


 リーリンの巨大な爪が、子供の細い首筋に食い込む。 子供が泣き叫ぶ。


「ママ! 痛いよぉ!」


「動かないで」


 リーリンは、シャオを見下ろして冷酷に告げた。


「この子がどうなってもいいの? ……貴女が大人しくしていれば、このゴミ屑は見逃してあげる」


「やめ……て……!」


 シャオの動きが止まる。 卑劣。 だが、勝利のためなら手段を選ばない、なりふり構わぬ執念。リーリンにとって、他人の命など路傍の石ころ以下の価値しかないのだ。


「いい子ね」


 シャオが抵抗を止めたのを確認すると、リーリンは子供をゴミのように放り投げた。同時に、反対の手で隠し持っていた注射器を、電光石火の速さでシャオの首筋に突き立てた。


 プシュッ。


 高濃度の神経毒と、鎮静剤の混合液が注入される。


「あ……が……」


 シャオの視界が揺らぐ。 手足の感覚が消え、力が抜けていく。 意識が闇に沈む直前、彼女は見た。 リーリンの顔に浮かぶ、歪んだ歓喜の笑みを。


「勝てばいいのよ。……私は、何をしてでも龍になる」


「じっ……ちゃん……響……ちゃん……」


 シャオの声は、誰にも届くことなく途絶えた。 彼女は人形のように崩れ落ちる。 リーリンは、意識を失ったシャオを小脇に抱え、背中のブースターを点火した。


「さあ、行きましょう。……貴女が、私を『本物』にしてくれるのよ」


 ゴオオオオオッ!!


 轟音と共に、彼女は空へと消えていく。奪われた太陽。 残されたのは、破壊された日常と、絶望に染まったスラムの風景だけだった。


「……小蓮(シャオ)ッ!!」


 チェン爺が戻ってきたのは、リーリンが飛び去った数分後のことだった。 彼は買い出しの荷物を放り出し、半壊した屋台へと駆け寄った。 息が切れるのも構わず、瓦礫をかき分ける。


「シャオ! 返事をしろ! シャオ!」


 だが、そこには愛娘の姿はない。 あるのは、恐怖に震える住民たちと、割れた蒸籠、そして泥にまみれたシャオのエプロンの切れ端だけ。


「……遅かったか」


 老人の顔から、好々爺としての表情が消え失せた。全身から、凄まじい殺気が噴き上がる。 大気がビリビリと震え、周囲の瓦礫が浮き上がるほどのプレッシャー。 伝説の道士が本気で激怒した瞬間だった。 その背中には、かつて数多の妖魔を葬ってきた修羅の影が重なる。


「……じっちゃん!」


 遅れて、響たちが息を切らして戻ってくる。彼女たちは、遠くで上がった黒煙と、不穏な気配を感じて、急いで戻ってきたのだ。だが、目の前の光景を見て、言葉を失った。


「嘘だろ……。屋台が……」


 響が、瓦礫の山を呆然と見つめる。 昨日まで、笑い声が溢れていた場所。 肉まんの湯気が立ち昇っていた場所。 それが今、無惨な残骸となっている。そして、そこに一番大切な「あいつ」がいないことに気づき、顔色を変えた。


「シャオは!? じっちゃん、シャオはどこだ!?」


 響がチェン爺に詰め寄る。 チェン爺は、空を見上げたまま、静かに答えた。その声は、怒りで低く震えていた。


「連れ去られた。……天龍街へ」


「……アタシが……ついていながら……!」


 響が、地面を殴りつけた。 拳から血が滲む。 まただ。 また、アタシのせいで。アタシが目を離した隙に、大切な友達が奪われた。後悔と自責の念が、響の心を押しつぶそうとする。神の力を持っていても、結局アタシは、肝心な時に何も守れない無力なガキだ。


「泣くな、響」


 チェン爺の声が、厳しく響いた。 彼は、響の肩を強く掴み、立たせた。


「泣いている暇などない。……あの子はまだ生きている。生贄として捧げられる前にな」


 老人の瞳には、深い悲しみと、それ以上に燃え盛る怒りの炎が宿っていた。 彼は、エプロンの切れ端を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。


「ワシの命に代えても、あの子は取り戻す。……たとえ、この街を敵に回してもな」


「……ああ」


 響は涙を拭い、立ち上がった。 その瞳孔が、鋭く縦に裂ける。 龍の怒りが、彼女の中で渦を巻く。


「追うぞ。……あの塔へ」


 チェン爺が指差した先。 紅い霧の向こうに、不気味にそびえ立つ『虹海タワー』。 そこは今、悪魔が孵化しようとしている地獄の揺り籠だった。


「取り戻す。……絶対に」


 響の声が、低く唸るように響いた。老いた虎と、傷ついた龍。二つの獣が、牙を剥いて魔都の頂を目指す。硝子の牙が砕けようとも、その咆哮だけは止まらない。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ