【ネオ・トーキョー・ゴースト】
舞台
西暦2242年、巨大企業が支配するサイバーパンク都市「ネオ・トーキョー」。空は常に酸性雨を防ぐシールドで覆われている。
主人公 アキラ(25歳、男性)。
元エリート企業のエンジニア。今は裏社会で「ゴースト」と呼ばれるフリーランスの情報屋兼運び屋として活動している。特殊なサイバー義体(義手)を持つ。
冒頭
ネオ・トーキョーの夜は、常に硝子の天井に閉じ込められていた。
2242年。空を覆う巨大な「エア・シールド」は酸性雨を防ぐ一方で、本物の星の光を完全に奪い去っていた。地表からそびえ立つ摩天楼のネオンだけが、この巨大な都市を彩る人工の星だった。
アキラは、汚れた路地裏のシャッターに背中を預け、冷たい雨の匂いを吸い込んだ。依頼人との約束の時間はとうに過ぎている。彼の左腕、黒光りするチタン合金とカーボンファイバーで構成されたサイバー義体の指先が、壁のひび割れを無意識に這っていた。この義手は、かつてのエリート企業のエンジニアだった頃、彼自身が設計した最高傑作だ。超人的な演算処理と、鋼鉄をねじ切るパワーを持つ。
「ゴースト。接続する」
義体の手首に埋め込まれた通信機から、合成音声が囁いた。依頼人、通称「オラクル」だ。アキラは顔色一つ変えず、静かに答えた。
「遅いぞ、オラクル。ゼウス社の警備配置は?」
「予定通り。今夜は警備ローテの谷間だ。だが、ターゲットの厳重さは予想を超えている。本社ビル、地下20階の極秘ラボ。ロックは量子暗号。データは**『クロノス・コア』**と呼ばれている。失敗は許されない、ゴースト。報酬はネオ・トーキョーを一年間生きられる額だ」
アキラは義体の手のひらを強く握りしめた。彼の
瞳に、ゼウス社の本社ビルの頂上に輝く赤いエンブレムが映る。
「一年間、か……。なら、倍額を要求する。この依頼の危険を考えれば妥当だ」
一瞬の沈黙。通信機が微かにノイズを立てる。
「...交渉成立だ。今すぐ動け。ゴースト、お前の時間だ」
アキラは立ち上がると、コートの襟を立てた。全身にアドレナリンが巡り、義体の内部機構が微かに稼働音を立てる。標的は、この街で最も堅牢な要塞。成功すれば伝説、失敗すれば死だ。
潜入:スカイウェイの亡霊
アキラは路地裏の奥、メンテナンスハッチの前に立った。彼はフードを深く被り、義体の左腕の掌紋認証でハッチのロックを解除する。中から吹き付ける生暖かく淀んだ空気は、巨大都市の排熱と埃の匂いがした。
彼はハッチをくぐり、地上から約50メートルにある地下鉄の廃線路へと降り立った。錆びたレールの上を数メートル歩くと、目の前に巨大な吹き抜けが現れる。ここは、都市の緊急輸送路として使われていたスカイウェイ・ターミナルの跡地だ。
アキラは義手の指先で小型のフックをレールに固定し、腰のホルダーから黒いデバイスを取り出した。**「スケルツォ」**と呼ばれる超小型の個人用グラビティ・スラスターだ。
「ゼウス社まで、直線距離で1.2キロ。垂直上昇が最も速い」
アキラはつぶやくと、「スケルツォ」を起動し、ターミナルの巨大な空間に向かってジャンプした。轟音と共に噴射が始まり、彼は一気に夜空へと舞い上がる。重力に抗う上昇は、体に強い負荷をかけたが、アキラは慣れていた。
数百メートル上昇したところで、視界の先にゼウス・コーポレーションの本社ビル「オリンポス・タワー」の頂上が見えた。その真紅のエンブレムは、まるで天空を睨む邪悪な瞳のようだ。タワーの周囲は、目には見えない音響バリアと、小型ドローンによるレーザー・グリッドで厳重に守られている。
「オラクル、ノイズを入れてくれ。ドローンが俺を認識する前に」
「任せろ、ゴースト。お前がタワーに接触するまで、電磁波の嵐で監視網を盲目にしてやる。チャンスは5分だ」
アキラは加速した。彼は義体でスラスターの推力を調整し、まるで都市の熱気の流れを読む鳥のように、ビルの谷間を縫って滑空する。時速200キロ。耳元を風が唸る。
ターゲットは、地上78階、CEO専用ヘリポートの真下にある外壁のメンテナンスハッチ。
ヘリポートの照明が接近するアキラのシルエットを捉え始めた、その瞬間。
ゴォォォォ!
都市全体の通信網に、一瞬だけホワイトノイズのような強烈な電磁パルスが走り抜けた。照明が一瞬、チラつく。アキラはその隙を逃さなかった。彼はスラスターを最大噴射し、一気にオリンポス・タワーの外壁めがけて突入した。
衝撃と共に外壁のメンテナンスハッチに激突する直前、彼の義手の指先が正確にハッチの縁を掴み、衝撃を吸収した。身体がビルの外壁に張り付く。
「着いたぞ、オラクル」
アキラの息は荒い。ハッチは、ゼウス社のロゴが刻まれた分厚いチタン合金製だ。警備ドローンがノイズから回復するまで、残された時間は3分。
彼は義手の指先をハッチのロック機構の隙間に差し込み、内蔵されたマイクロ・センサーで回路の構造を解析し始めた。
「ロックは量子暗号。従来のクラッキングツールじゃ無理だ。物理的にやる」
アキラはそうつぶやくと、左手の指先から極細のプラズマ・トーチを発生させた。青白い炎が、暗号ロックの回路基板に触れる。
極秘ラボ:クロノス・コア
アキラが発動させたプラズマ・トーチは、チタン合金のロック機構を一瞬で焼き切り、内部の繊細な回路を無力化した。メンテナンスハッチが音もなくスライドして開く。
内部は、外の喧騒とは隔絶された、無機質な静寂に包まれていた。殺菌された空気と、わずかなオゾンの匂い。アキラは通路に滑り込むと、ハッチを完全に閉鎖し、背後の痕跡を消した。
「オラクル、CEOフロアの構造図をオーバーレイ。警備ドローンの予備電源が復旧するまで、残りは90秒だ」
「了解、ゴースト。目標地点はフロア中央、高周波シールドに守られたセクションだ。おそらくそれが**『クロノス・ラボ』**」
アキラは、壁と床に仕込まれたレーザー・グリッドや、熱感知センサーを、義体の緻密な動きとカスタムメイドのステルス・スーツで回避しながら進む。彼の動きは計算し尽くされており、警備システムの監視下にあるにもかかわらず、その存在はノイズとして処理される。
通路の突き当り、重厚な金属製の扉の前で立ち止まった。扉の中央には、最新鋭の虹彩認証スキャナが赤く光っている。
「スキャナ起動。偽装データ、コード『Z-10-CEO』を流し込め」
オラクルの声と共に、アキラはスキャナに向かって目を晒した。一瞬、網膜のパターンが高速で読み取られる。セキュリティシステムが、ゼウス社の最高機密を知る重役の生体データと彼の義眼に仕込まれた偽装パターンを照合した。
ブブッ…
認証失敗の警告音。
「くそっ、パターンが古かったか?」
「待て、ゴースト。これはミスではない。ゼウス社はセキュリティレベルを上げた。虹彩だけでなく、脳波パターンも同時に認証している」オラクルが緊迫した声で告げた。「新しいパターンはない。物理的に解除するしか…」
アキラは即座に決断した。彼は義手の指先から極細のナノ・ワイヤーを射出。ワイヤーは扉の隙間に滑り込み、内部のロック機構をわずか数秒でショートさせた。
ガコンッ!
機械的なロック解除音と共に、扉は内側へスライドし、極秘ラボの全貌が露わになった。
クロノス・コア
ラボは巨大な円形の空間で、中央には氷点下で冷却された巨大なサーバー・コアが鎮座していた。それが、ゼウス社が秘密裏に開発を進める**時間制御プログラム「クロノス・コア」**の本体だ。コアの周囲には、青白いプラズマが微かに揺らめき、空間そのものが時間の流れを歪ませているかのような錯覚を覚える。
アキラは躊躇なくコアに近づくと、左腕の義手から特殊なデータ・サイフォン・ケーブルを取り出し、コアの冷却ユニットの奥にある隠しポートに差し込んだ。
「オラクル、データ構造を解析し、核心部分だけを抜き取れ。サーバー全体をコピーする時間はない」
「了解!転送プロトコルを起動。目標データサイズ、500テラバイト。推定所要時間、120秒!」
サーバーのステータス表示が、緑の光と共に「転送開始」を示した。
「2%… 5%…」
その時、ラボ内の無機質な空間が突如として赤く染まった。
「警告。無許可のアクセスを確認。ロックダウン・プロトコル、フェーズ3に移行します」
金属のシャッターが、ラボを外部から完全に隔離するように轟音を立てて閉鎖される。
「ゴースト!まずい、ゼウス社が切り札を切ってきたぞ!」オラクルが叫ぶ。
コアの冷却プラズマが激しく暴走し始め、アキラの全身を強烈な電磁パルスが襲った。義体の回路が悲鳴を上げ、視界が一瞬ホワイトアウトする。このパルスは、内部の侵入者を焼き切るために設計された、対義体用の最終兵器だ。
「ぐっ…!」アキラは奥歯を噛みしめる。データ転送が一時的に停止した。
「転送停止!残り45%!」
アキラは義体の腕を、コアに接続したサイフォン・ケーブルから離さなかった。彼は予備電源をフル稼働させ、体内に流れるエネルギーの流れを逆に制御し、電磁パルスを自身の義体に沿って流し込み、コアの接続部をシールドする。
「持たせてみせる…!お前の攻撃じゃ、俺は止まらん!」
義体の外装が熱で赤く変色し、関節から蒸気が噴き出す。だが、データ転送は再び再開された。
「48%… 60%… 85%…」
そして、極限状態が続いた95秒後。
「転送完了。データ・サイフォン・ケーブルを分離します」
アキラは最後の力を振り絞り、ケーブルを引き抜いた。コアのデータは、彼の義眼の奥に仕込まれた超小型ストレージに完全に収められた。
「…成功だ。オラクル、脱出経路を探せ!」
「逃走経路を検索中!だがゴースト、タワーの全警備システムがお前に向かっている!奴らは武装した私設部隊を派遣したようだ!」
アキラの表情に、微かな笑みが浮かんだ。
「上等だ。次は、脱出ゲームの始まりだ」
交戦と脱出:78階の闘い
「脱出ゲーム、開始だ」
アキラがラボの入り口を振り返った瞬間、チタン製の扉の向こうから、重厚なブーツの足音が響いた。
「対象を確認!武装解除し、両手を上げろ!」
ラボのセキュリティを突破したアキラの前に現れたのは、強化装甲に身を包んだゼウス社の私設武装部隊、**「ガーディアン」**の三人組だった。彼らのヘルメットのバイザーは冷たく輝き、手に持ったアサルトライフルは、対義体用の高周波弾を装填しているのがわかる。
「武装解除?それは選べない選択肢だ」アキラは低く呟いた。
「撃て!」
ガーディアンの一人がトリガーを引く。甲高い発射音と共に、オレンジ色の高周波弾がアキラめがけて殺到した。
アキラは床を蹴り、人間業とは思えない反射速度で通路の角に身を隠す。だが、彼の背後に立っていたサーバーラックが弾丸を受け止め、破裂音と共に火花を散らした。
「チッ、避けきれないか」
高周波弾は装甲を貫通する目的で作られており、普通の遮蔽物では意味がない。アキラは義手の左腕をかざし、内蔵されたエネルギー・シールドを極小で展開した。義体のエネルギーを瞬時にシールド変換するため、短時間しか持続しない最終手段だ。
キィン!
飛来した弾丸がシールドに接触し、軌道を変えて壁に跳ね返る。
「オラクル!ラボの冷却システムを最大まで上げろ!視界を奪う!」
「了解!システムをオーバーロードさせる!行くぞ、ゴースト!」
次の瞬間、ラボの床下に仕込まれた冷却ガスが、白い蒸気となって一斉に噴出し始めた。一瞬でラボと通路は濃密な霧に包まれ、ガーディアンたちの視界を完全に奪った。
「くそっ、視界喪失!熱感知に切り替えろ!」
アキラは霧の中、ほとんど音を立てずにガーディアンの隊列に飛び込んだ。彼のサイバー義体は、熱をほとんど放出しない特殊設計だ。熱感知に切り替えた敵のセンサーには、アキラの姿はまるで幽霊のように映らない。
**一人目。**アキラは素早く、義手の指先から放出した高電圧でガーディアンのライフルをショートさせ、同時に義体の肘関節で相手の頭部の通信ユニットを打ち砕いた。ノイズと共にガーディアンは崩れ落ちる。
**二人目。**アキラが体勢を立て直す前に、ガーディアンは背後から彼の腕を掴んだ。強化装甲の握力は凄まじい。
「逃がすか、ゴースト!」
「残念だ」
アキラは義体の腕を、掴まれた方向に合わせて360度回転させた。人間の腕ではありえない動作に、ガーディアンはバランスを崩す。その隙に、アキラは義手の掌から鋭利な超硬合金のブレードを展開し、敵の強化装甲の関節部分を正確に切り裂いた。
二人のガーディアンを無力化したが、残る一人、隊長格のガーディアンは経験豊富だった。彼はライフルを捨て、腰のホルダーから大型のスタンガンを取り出し、蒸気の壁を越えてアキラに向けて放電した。
アキラは間一髪で避けるが、電流が床を這い、義体の足先に触れる。強烈なショックが全身を貫き、動きが数秒間硬直した。
「終わりだ、ゴースト!」隊長が彼の胸部に銃口を突きつける。
「いや、まだだ」
アキラは、スタンガンの影響を受けていない右手の指先で、通路の天井にある緊急消火システムのリセットボタンを正確に押した。
ブザー!
天井から、超高圧の消火剤が一斉に噴射された。隊長は視界を奪われ、反射的に目を閉じる。そのコンマ数秒の隙に、アキラは義体の腕の拘束を振りほどき、隊長の頭部に強烈な掌底を叩き込んだ。バイザーがひび割れ、隊長は昏倒した。
脱出:ビル・ダイブ
「オラクル、脱出経路は?」アキラは荒い息で尋ねる。
「エレベーターは停止、階段は封鎖済みだ!唯一のルートは、CEO専用ヘリポートを強行突破することだ!」
アキラはラボを出て、最上階への階段を駆け上がった。ヘリポートにたどり着くと、ネオ・トーキョーの寒風が吹き付け、彼のスーツを揺らす。夜空にはすでに、ゼウス社の戦闘ヘリ**「ワイバーン」**の編隊が、ヘッドライトを浴びせて待機していた。
「ワイバーンが来る!ゴースト、急げ!」
アキラは立ち止まらず、ヘリポートの縁に立つと、腰に装着していた「スケルツォ」スラスターを再び起動した。
「待っていたぞ、ワイバーン」
彼は躊躇なく、地上数百メートルのネオ・トーキョーの夜空に向かって、逆落としのダイブを敢行した。
空中戦:ネオンの谷の追撃
アキラの体は、時速200キロを超える自由落下のスピードで夜の闇を切り裂いていた。背中のスラスター「スケルツォ」は、落下速度をわずかに制御し、目標地点へ向かうための舵取りの役割を果たしている。
「オラクル、奴らのロックオン警報が鳴り響いているぞ!あのワイバーン編隊は、ミサイルとガトリングで武装している!」
アキラは返事をせず、ただ全身の感覚を研ぎ澄ませた。彼の瞳は、夜空に輝くネオンサインと、それを反射する高層ビルの窓の群れを高速で分析する。
「ターゲットは、1キロ先の廃墟ビルディングの通気シャフトだ。そこから下層都市へ逃げ込む」
アキラの頭上、ワイバーン編隊の先頭機がロックオンを完了した。
「ターゲット、高速で降下中。排除を許可。ミサイル発射!」
甲高い電子音と共に、2発の追尾ミサイルがヘリから切り離され、青白い炎の尾を引きながらアキラを追ってきた。
「くそっ!」
アキラはスラスターの推力を最大にし、落下軌道を急激にカーブさせた。彼は、自分の位置からわずか数十メートル下にある、巨大な企業ロゴが光るビジョンボードへと向かって突っ込んだ。
ミサイルはアキラの急激な回避についていけず、そのままビジョンボードに激突。
ドォォン!
爆炎がデジタル広告を焼き尽くし、破片と火花が夜空に撒き散らされた。
「ゴースト!ナイスだ!だが、奴らが高周波ガトリングを準備している!」オラクルが叫ぶ。
ワイバーン編隊はアキラの真上に回り込み、ガトリング砲の銃口を向けた。アキラを逃がすまいと、3機のヘリが三角形のフォーメーションを組む。
アキラは次の瞬間、誰も予想しない行動に出た。彼は狙いを定め、義手の左腕から特殊な高分子接着弾を、ヘリ編隊の真ん中を飛ぶ機体に向けて発射した。
接着弾が着弾した直後、アキラはスラスターを瞬間的にオフにし、真下に急降下。同時に、再び義手の指先からプラズマ・トーチを最大出力で噴射させた。
炎の噴射が接着弾の分子を活性化させ、接着剤が瞬間的に硬化、そして膨張した。真ん中のヘリの機体は、まるで強力なゴムに包まれたかのように動きを封じられる。
「今だ、オラクル!ノイズを、中央のヘリの通信機だけに集中させろ!」
オラクルの指示通り、強力なノイズが中央のワイバーン機を襲う。通信が途絶えたパイロットは混乱し、フォーメーションを乱して左右の機体に接触した。
「よし!混乱に乗じろ!」
アキラは狙い通り、ヘリ編隊の乱れに乗じてネオンの谷を滑空し、目標の廃墟ビルディングへと向かった。
地下への逃走
廃墟ビルディングは、かつてネオ・トーキョーで最も高かった建造物だが、今は企業の所有権争いで放置され、外壁は崩れ、内部は空洞化していた。
アキラはビルの巨大な通気シャフトの縁に義手のフックを叩き込み、落下速度を調整しながらシャフトの内部へ滑り込んだ。
ワイバーン編隊がビルに追いついたときには、アキラはすでにビル内部の闇の中だった。
「目標を見失った!熱感知、赤外線で内部を捜索しろ!」
シャフト内部は複雑な構造物と配管が迷路のように張り巡らされていた。アキラはスラスターを細かく噴射させ、垂直のシャフト内を器用に降りていく。
数十秒後、アキラの足はついに、ネオ・トーキョーのアンダーシティ、通称「スラム・ネット」へと続く、広大な地下通路の床に着地した。
ここは、地上の光が一切届かない、企業の管理から外れた無法地帯だ。薄汚れたネオンサインと、無数の配線が絡み合った天井。そして、何よりも重要なのは、地上の監視衛星やワイバーンの索敵が届かないということだ。
「ここまで来れば、ヘリも追ってはこられない」アキラは義手のシールドを解除し、荒く息を吐いた。「データは確保した。これで、ゼウス・コーポレーションは…」
カチッ。
背後から、冷たい金属がアキラの首筋に押し付けられる感触があった。
「そのデータ、高値で取引されているらしいな、ゴースト」
アキラは微動だにしなかった。その声は、重厚な装甲ではなく、しなやかな革のスーツを纏った、プロのハンターの静かな声だった。
「…あんたは、誰だ?」アキラは低い声で尋ねた。
「私は、ゼウス社の**『処理班』**だ。そして、お前が盗んだものが何であるかを知る、唯一の人間だ。…引き渡してもらおうか、アキラ」
その声には、アキラの本名と、彼が隠している義体の秘密を知っている者だけが持つ、特別な響きがあった。
クライマックス:地下の静かなる処刑人
アキラの首筋に押し付けられた冷たい金属は、特殊な音響ナイフだった。振動で装甲を切り裂く設計であり、義体を持つアキラにとっては致命的になりうる。
「…処理班、だと?」アキラは静かに尋ねた。「ゼウス社に、お前のような存在がいるとは聞いていなかった」
「我々は影だ。お前のような**『元社員』**が、我々の秘密を外に持ち出そうとする時のために存在する」
処理班の男の声には感情がない。アキラが振り返ると、そこに立っていたのは、強化スーツではなく、体のラインにぴったりと合った漆黒の耐熱レザーを纏った、中肉中背の男だった。彼の顔の半分は、光を吸収するナノカーボン製のマスクで覆われている。
「アキラ、私はお前の過去を知っている。そして、お前が盗んだ**『クロノス・コア』**が、単なる時間加速装置の設計データではないことも知っている」
アキラの表情がわずかに動いた。
「どういう意味だ?」
「それは**『再構築』のための鍵だ。お前がゼウス社を辞めた原因となった、あの事故。お前が取り戻したいと願っている『時間』**を、完全に巻き戻すための唯一のシステムだ」
男は、アキラの最も触れられたくない核心を突いてきた。
「…黙れ」アキラは低い唸り声を上げた。
「私の任務は、お前を処分し、データを回収することだ。抵抗しなければ、苦しまずに済む」
男は一歩踏み込み、音響ナイフを起動させた。刃先から、目には見えない高周波の振動が発生する。
「なら、抵抗させてもらう」
アキラは瞬間的に地面に重心を落とすと、左腕の義体を男のナイフに向かって振り上げた。
キィィィィン!
ナイフと義体のカーボン合金が接触し、高周波の火花が散る。義体の表面にひびが入るほどの衝撃。だが、その隙にアキラは義体の肘から隠し持っていた衝撃スタン・パルスを放出した。
処理班の男は、パルスを予期していたかのように、即座に後ろに飛び退き、地面を転がった。彼はスタン・パルスの影響を受けないよう、自分の体にも義体部品が組み込まれていることを示唆していた。
男は立ち上がると、両手から細いワイヤーを射出した。ワイヤーはレーザー誘導され、アキラの義体の関節部分を狙う。
「動きを封じるぞ!」
アキラは義体を使ってワイヤーを迎え撃つ。左腕は精密なシールドとして機能し、ワイヤーを次々と弾いた。しかし、ワイヤーが義体のケーブルに接触した瞬間、そこから高圧電流が流れ込んできた。
バチバチッ!
「ぐっ!」アキラの義体がエラー音を発し、一時的に機能が停止する。
処理班の男は、その隙を見逃さなかった。彼は一気に距離を詰めると、アキラの腹部に鋭い蹴りを叩き込んだ。
アキラは吹っ飛ばされ、壁の錆びた配管に激突する。激痛に喘ぎながらも、彼は右腕(生身の腕)で、義体に繋がるケーブルを無理やり引き抜いた。電流の供給が絶たれ、義体のシステムが再起動を始める。
「諦めろ、アキラ。その義体は私には通じない。お前の動きは全てゼウス社のデータベースにある」
処理班の男は、アキラが立ち上がる前に、音響ナイフを構えて再び近づいてきた。
「データベースにあるのは、**『元社員』だった俺のデータだけだ」アキラは言い放った。「今の俺は、『ゴースト』**だ!」
アキラは義手の機能を、通常の戦闘モードから**「オーバークロック・モード」**へと切り替えた。警告音と共に義体の接合部から白煙が上がり、内蔵された冷却システムが全力で稼働する。義体のパワーと速度が、限界値を超えて増幅された。
アキラは、男のナイフが振り下ろされる直前に、その攻撃をあえて受けるように義体を差し出した。ナイフが義体の装甲に深く食い込むが、アキラは構わず、増幅されたパワーで男の体ごと壁に叩きつけた。
「今だ、オラクル!」
「了解、ゴースト!」
オラクルの遠隔操作により、地下通路の天井を走っていた無数の古い電線が、ショートを起こした。辺り一面に強烈な電磁パルスが走り、処理班の男の全身のセンサーと義体が一時的にフリーズする。
その一瞬が、勝敗を分けた。
アキラはナイフを義体から引き抜き、男のマスクに覆われていない唯一の場所、首筋の頸動脈に、プラズマ・トーチの青白い炎を瞬間的に接触させた。
男はかすかに呻き声を上げることもなく、硬直したまま地面に崩れ落ちた。
勝利したアキラの体から力が抜け、オーバークロック・モードの解除と共に、義体から大量の蒸気が噴き出した。
「…これで、終わりか」
アキラは静かに立ち上がると、崩れた男のそばを通り過ぎ、スラム・ネットの奥深くへと歩みを進めた。彼の義眼に、盗み出した「クロノス・コア」のデータを示す緑の光が点滅していた。
しかし、そのデータは、彼が想定していた「過去を取り戻す」方法とは、全く違う形で未来を書き換える可能性を秘めていた…。
エピローグ:時計仕掛けの悲劇
アキラは、スラム・ネットの最も深部、企業の影響力が完全に及ばない廃墟となった古い発電所のコントロールルームにいた。彼はボロボロの制御盤の前に座り、左腕の義体をコンソールに直結させる。
義眼のディスプレイに、盗み出した「クロノス・コア」の設計データが展開された。それは、時間軸を局所的に制御し、過去のある一点に情報を送信、あるいは物質を干渉させるための究極の理論とコードだった。
「オラクル、解析は終わったのか?」
「ああ、ゴースト。お前がゼウス社から奪ったのは、ただの設計図じゃない。これは、お前の記憶、そして彼女の記憶を書き換えるための、完全なシステムだ」
アキラは目を閉じた。彼の脳裏に、五年前に起こった悲劇の光景がフラッシュバックする。
過去の真相
アキラはかつて、ゼウス社の有望な若手エンジニアだった。彼の恋人、ミサキは、ゼウス社が開発していた最初のサイバー義体プロトタイプのテストパイロットだった。
事故は、ミサキが操縦する義体が、アキラの設計ミス(当時はそう信じられていた)により、制御不能に陥ったことで発生した。ミサキはビルから転落し、帰らぬ人となった。アキラは自責の念に駆られ、会社を辞めた。そして、復讐と、もし可能ならば彼女を取り戻す方法を求めて「ゴースト」となった。
しかし、クロノス・コアのデータが示した真実は違っていた。
「ゴースト…事故は、お前の設計ミスではなかった。ゼウス社のCEO、ゼウス本人が、クロノス・コアのプロトタイプを稼働させるためのエネルギー源として、ミサキの義体のエネルギーコアを強制的にオーバーロードさせていたんだ」
ミサキは、クロノス・コアを動かすための生贄にされていた。
「彼らは、最初の実験で義体と接続された生きた人間が必要だった。彼らは、お前の恋人を、ただの電力と見なしたんだ」オラクルの合成音声が怒りに震えている。
アキラの決断
アキラは義体の手を強く握りしめた。復讐心は、悲しみと怒りによって、より深く研ぎ澄まされていた。
「ミサキは…俺のミスじゃない。ゼウスの私利私欲の犠牲になった」
「そうだ。そして、このデータがあれば、お前は彼女の事故が起こる数秒前に、警告データを送信できる。彼女の義体のオーバーロードを止めることができる…」
それは、アキラの長年の目標だった。しかし、アキラはコンソールの前で静かに首を振った。
「違う。俺の目的は、彼女の命を救うことだけじゃなくなった」
アキラはデータ・サイフォンを抜き取ると、義手のシステムに直接、クロノス・コアのコードを組み込み始めた。
「このコアは、過去を変える力を持つ。だが、俺が過去を変えれば、今の俺は存在しなくなる。ゴーストも、オラクルとの繋がりも、全て消えてしまう」
彼はミサキを失った悲劇を消し去る代わりに、**「時間加速」**の機能に目を向けた。
「オラクル、システムを最終調整しろ。時間を巻き戻すんじゃない。俺たちの**『未来』**を、加速させるんだ」
アキラは、クロノス・コアの核となる時間制御理論を、自身の義体の演算能力と「スケルツォ」スラスターの動力源と結合させた。
目的は、ゼウス社への直接的な復讐。
「クロノス・コアのデータは、俺の義体の最終兵器になる。時間流を局所的に操作し、敵の動きをフリーズさせる、数秒間の絶対的な優位を生み出す。これがあれば、俺はゼウス本社に一人で乗り込める」
彼の復讐は、過去の事故を無かったことにする逃避ではない。現実の未来を変えるための、行動となった。
「ネオ・トーキョーは、ゼウス社の時間軸で動いている。だが、これからは違う。俺の時間軸で動く」
アキラは立ち上がり、コントロールルームの出口へ向かった。彼の背後で、発電所の古い照明がチカチカと点滅する。
義体の左腕は、クロノス・コアのエネルギーを取り込み、青白いプラズマを微かに発していた。彼の新しい旅路は、過去に囚われたゴーストではなく、未来を切り開くタイム・ランナーとして、今、始まったばかりだ。
終




