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それは簡単な事

作者: 白湯

外壁を叩く雨と、耳をつんざく雷鳴。東京はあいも変わらず最近このような天気ばかりである。

外に出れるような天候でもないから、陰鬱とした気持ちの中、いつものように机の上の原稿と相対する。締め切りが近い事を考えると、残念だがむしろ好都合と言えるだろう。

どこか心に穴が空いたような感覚の中で、私は原稿の上でペンを走らせる。

一文書く、これではない。一文書く、これでもない。

しかしここのところ毎日こんな調子で、締め切りも近いというのにあまり書き進めることが出来ていない。

小説を生業にしているというのに、この体たらくだ。腕が嫌がっているかのようにペンを握りたがらない。頭が凝り固まって、展開は思う様に思い浮かばない。五十も超えた歳のせいだろうか。そんな事ばかり考えていたせいか、書く手はいつの間にかパタリと止まってしまった。正直、書くことが辛い。

大して売れるわけでも、何かに賞賛されるほどでもないというのに。

余りに悪い感情ばかりが心の中を渦巻いている。

このままでは書けたものではないな、少しばかり休憩にしようか。

そう思って席を立ち上がると、机の上の携帯電話が鳴り響く。

恐らくは彼からだろう。少し憂鬱な気持ちで電話を取ると、電話口からはいつもの様に忙しそうな編集者の声が聞こえてくる。

「もしもし。先生、進捗いかがですか?」

「やはり頼人君か。まぁ、悪くは無いよ。なんとか六割方は出来ている」

「了解っす。あぁそれと、先生なんか調子悪かったりします?」

電話口の彼の声はそんな軽い言葉とは裏腹に心配げで、私が思っているよりも私の事を心配しているのだろう。

「うん、あぁ、いや大丈夫だ。少し疲れているだけだよ」

「それなら良いんですけど、何かあったら言って下さいね」

「お気遣いは感謝するが、大丈夫だ。体調は特に問題は無いよ」

正直な所おおよそ嘘なのだが、余り心配をかける訳にもいかない。

「う~ん、まぁ先生がそういうなら心配しないでおきます。じゃあ原稿待ってますから」

「あぁ、それではね」

そう言って電話を切った。今は彼の信頼があまりに重たい。

ベッドへと携帯を放り投げると、書斎を抜けソファに腰掛けて、紅茶を啜りながらテレビの電源を入れた。

かといって特に見るものも定まっているわけではなく、適当なワイドショーでも流しながら一息つく。

いつもなら本でも一冊手に取る所だが、今日はどうにも気が乗らない。ワイドショーもどうせ、芸人が適当な事を喋るだけだろうと適流し見ていたが、一つのトピックが目についた。

最近話題沸騰中の小説の作者が登場するとか言う話。確か机の上辺りに放って置いたやつだっただろうか。

最近話題らしいっすよ。とか言いながら頼人君が持ってきた時は当てつけかと思ったが、確かに中身も十分に面白かった。技術的な拙さはあるが、ストーリーの展開は私にも予想がつかないほど良くできていたものだった。正直悔しいとは思わずにはいられない。少し前までは楽しんで読んでいたが、今はただ読むのが辛くなる。

そんなものの作者の顔が拝めるのだ、折角なら見てやろう。何かご利益に預かれるかもしれない。

しかしここ最近は籠りきりになってしまっていたから、この小説の作者のことはよく知らない。年齢も性別さえも。

私と同年代ほどだろうか、なんて淡い期待を抱いてしまう。実際のところ一回り程度は下なのだろう。

あぁ、こういうことばかりを考えていると自分の才能の無さが嫌になってくるな。

そうやって苦悶している内に、すぐに作者が登場する時間になっていた。

スタジオの裏から歩いて現れるその小説家の作者。

私は思わず自分の目を疑って、そして驚愕する。何故ならテレビに映っていたのは想像だにしていない、恐らく十五、六の私の半分も生きていない少年の姿だったからだ。

頭を抱えて、本当はそうではないのだろう、と幻想を抱きながら再びテレビの中を見てもやはり居るその少年の姿をはっきりと見たその瞬間、私の心はぱきり、と音を立てたような、そんな気がした。

「あはい、都内に住んでます。休日は外出ることとか──」

テレビの中の少年の声は、ひび割れた心からすり抜けていく。

この話をこんな少年が書いたのか。有り得ない。有り得ないと言ってくれ。

であれば私は何故、私は何故こんなに苦しんでいるのだ。ひたすらに書き続けて、技術も知識も全て集め続けて、人生をかけてきたのは。

「無駄、だったか」

才覚にも恵まれず、早咲きでもなければ、何もかもを得られていない。もはや何故私は書いているのかさえもわからない。

吐き気がする、目の前がぐにゃりと歪む。あまりの苦痛のの中、どうにか抜け出したいと書斎へと逃げ込む。

しかし、この選択は大きな間違いだった。

私はそこで、今一番見たくはないものを目にしてしまう。よく読み込む必要は無いし、また逃げ出すのが得策なのだろう。

けれど、私の足はいつの間にか動き出していて、再びそれと相対してしまう。

目を落とした先にあるのは制作途中の原稿。やはり何もかもが劣っている。ストーリーも魅力も何もかもが。

気が付くと私は原稿をばらりと引き裂いて、粉々になった紙切れがふわりと宙に舞う。

私の生きてきた結晶はほんの十数年生きた存在に軽々と超えられた。知っていた、知っていたはずだ。私よりも早く大成した存在は幾らでも居るはずなのに。ただひたすらに時期が悪かった。もう折れかかった心は些細なきっかけでとどめを刺されてしまった。

理解して更に、私の心はひび割れる。

もう、もう無理だ。

次の瞬間には私は書斎のベッドに身を投げだして、ぼうっと天井を眺めていた。もはや立っている気力さえも保つことが難しい程だった。

だと言うのに私の心は未だに理性を保っていて、そんな自分が少し嫌になる。

先程放り投げた携帯を操作して、とあるメールを頼人君に投げやりに送りつける。

──私はもう書けなさそうだ。

それだけのメールを送ると私はもう、全てを放り出して眠りにつくことにした。

何度も何度も電話は鳴り響いていたが、そんな物を取る体力すら今の私にはない。

眠れそうにはないが、眠る以外にはできそうにはない。ベッドで何も考えず転がっていると陰鬱な気持ちばかりが心の中に押し寄せてくる。

結局そんな心のまま眠ることは中々出来なかった。結局眠ることが出来たのは、朝の四時を回る頃だった。

次の日、酷い悪夢にうなされて、しまいには鳴り止まない電話の音で朝の八時頃には目が覚めてしまった。

今日も降りしきる雨と、時々鳴り響く電話の音だけが私の家の中を埋め尽くしていた。

しかし全く何のやる気も湧かず、ただベッドに転がり必要な分だけ食事をしてまた寝転がる。そんなただ生きているだけ、とでも言うべき状態になってしまっていた。

その間も電話は等間隔で鳴っていたが、今は人と話すことは難しいだろう。何を口に出してっしまうかわからない。

そしてまたその日も眠りについて、次の日もまた同じように過ごして、あれから一週間ほど経った頃。

その日もまた同じように目を覚ますと、少しだけ昨日までよりも頭が軽いような気がした。

まだ怠さは残っているが、昨日までのようなただ生きているだけというのは少し脱却できそうな気がした。

しかし、執筆は出来そうにもない。せめて体を動かして何かをするべきか。

どんよりと曇った空模様を眺めながら、長い時間をかけて外へ出る用意をする。どうせもうやることは無い。

ようやく適当に外に出られるような服装になって、曇った空の下へと歩き出す。

目的も決めず、あまり上がらない脚を動かしながらプラプラと散歩する。書店なんかに目をくれてやると、あの少年の小説の事ばかりがポスターに出されていた。そちらへ歩くのは、どうにも気が進まない。だからか、いつの間にか建物の少ない方へと進んでしまっていた。

一週間も動いていなければ当然といえば当然なのだが、ここまで歩くうちに私の体は既に息を切らしていた。

少し休憩しようと、そこらにあった公園へと足を運ぶ。

時間のせいか誰もいないベンチに腰掛けて、空を仰ぐ。暗い曇天ではあまり心は晴れはしないが、今の感情には合っているのだろう。

一先ず呼吸は整え終えて、足も段々と回復してきた頃。もう一度歩き出そうとして、そして私は不意に再び大きく呼吸を乱すこととなった。

あぁやはり、私はどうにも運が悪い。いや運が良いと言うべきか。

公園で私と同じ様にベンチで俯いている、どこかで見た顔を見つけてしまう。

きっと話しかけるべきではない。どうせ私は惨めな気持ちになるだけだろう。それでも私は思わず話しかけずにはいられなかった。

「天才小説家君、かな?あぁいや確か──狩屋とか言ったか」

「はぁ、誰ですか」

目の前の憎き少年は呆れたような、嫌悪したような顔でこちらを睨みつけた。話くらいすれば、少しは何かを掴めるかもしれないと思ったのだが。

「君とは違って顔も売れてないものな、知らないだろうさ。でもまぁ、話くらいさせてくれないか?」

「どっか行って下さい、知らない人と話す事は無いので」

彼はそう言って手をひらひらとはためかせると、依然強い警戒をこちらに向けていた。

「随分嫌われてしまったな。少し位はいいだろう?それとも忙しくて時間が無いと?」

「そうではないですけど......だから知らない人とは喋りませんよ」

「先程からそれだね。では、名乗るなら話してくれるかな?」

「まぁ。それなら」

少し面倒そうに、首を掻きながら彼はそう言った。きっと、面倒な私に折れてくれたのだろう。その優しさが今の自分の惨めさを思い出させる。

「優しいな、君は。それでは自己紹介させてもらおうか。私の名前は柳努。小説書き──いや、それはいいか」

私が柳努とそう名乗った瞬間、彼は急に私の顔をまじまじと見つめだした。そして何かを思い出しているような数秒の間の後に、何か合点がいったようでふっと息を漏らしながら、口強い警戒を解いて口元を少し綻ばせた。

「へぇ、柳さんですか。有名なので言うと、飛べない鳥ですね」

予想外に彼は私のことを知っているらしい。ご丁寧に一番有名な作品まで。

「はは、まさか知ってもらえているとはね」

「適当に昔読んだのが面白かったので」

「それは良かった。君を楽しませられるとはね。過去の自分に感謝でもすべきかな」

「えぇ、あれは良いものでした」

「あぁ、そう言ってもらえると嬉しいよ。まぁ、皮肉にも作品のと同じ末路を辿る羽目になったのだがね」

「......どういうことですか」

彼は再び少し暗い顔になってこちらを少し睨みつける。はて、何故だろうか。

「いやぁ、もう大したものは書けそうになくてね」

「貴方ならもっと飛び立てる筈ですよ」

「案外、そうはうまくいかないものだ。体験談さ」

「へぇ、そういうものですか」

彼の相槌に含まれた棘は私に深い不満を感じさせた。思わず言葉を詰まらせて、僅かばかりの沈黙を許してしまう。気まずい雰囲気の中、されど話を続けるため適当な話題を口に出す。

「あー......そうだな、新作は書かないのかい?」

「......俺はもう書かないですよ」

「書けるのに、かい」

「そうです。俺はもう書きたく無いから」

目の前の少年は傲慢にもそんな言葉を零す。何度考え直しても、私には書きたくならない理由なんて私には見つかりはしないのに。

「何故だね?書けるのだろう?」

「書けは、します。でももう、嫌なんですよ」

「それは......どうしてかな」

「誰も見ないから、それだけです」

おかしなことをまた零す。そんな筈はない。私とは違って誰もが彼の小説を見て、誰もが持て囃すだろう。それだと言うのに彼は、深い絶望を抱えたようなそんな顔をする。

「何を言う、見るはずだ、誰も彼も君の小説を渇望している」

「でしょうね。でも小説しか見ない」

「それは──あぁ、なるほど」

一瞬の思考の内、ようやく理解する。全く私の内にはない考えだから仕方がないというべきか。

「ただ、俺は書いてみたかった。そして、志に合わない評価を得てしまった」

「才を持つものの悩み、か。まったく羨ましいね」

「そう、ですか。でも辛いものですよ、人としてよりも小説を書くものとして見られるのは」

人として見られない、それはどれだけ悍ましく、小説家として見られるのはどれだけ羨ましいことか。

あぁでもそれなら、簡単になんとかなるだろうに。

「わかってやれたなら、どれだけよかっただろうな。一欠片もわからないものだ。才有るものの気持ちと言うやつは」

「柳さんも十分な才能がお有りだと思いますけど」

彼はそんな事を曇りのない目でそう放つ。少し高鳴る胸にどうにも嫌気が差して少し苦笑する。

「はは、皮肉かい?」

「いや、そうではなくて本当に。あぁでも最近はそうなのかも」

「それは......どういう事だい?」

「昔はもっと面白かったって話です。なんだか最近は何かが欠けているような気がするんですよ」

「才能か、若さか、そんなところかな」

わかっているとも、そんな事は。再びそう突きつけるつもりかと嫌になりながら、私はため息混じりにそう返すと彼は深く考え込みながら言葉を返す。

「いやそういうんじゃなくって、なんて言えば良いか分からないぐらいぼんやりしてるんですよ」

「それじゃ困ったな。治せやしない。この苦しみがそれで解決するなら教えて欲しいものだけどね」

いつの間にか憎んでいた筈の心は、同情か、関心か、何かによって溶かされてしまっていた。そのせいで感情を不意に漏らしてしまった。

「苦しみ、ですか。そっちの悩み、良く聞いてなかったですね。」

「聞いても楽しくはないが」

話すつもりはなかったのだが。ミスを犯してしまったな。

「俺の話だって楽しくはなかったですよ」

「そうだな、まったく仕方ない」

「正当な対価ですよ。それに書かれないのは困りますから」

「随分買ってくれているな」

「まぁ、それなりに。そんな事はいいから早く聞かせてください」

「仕方が無いな。最近、小説を書くのが辛いんだ。何か心に穴が空いたようなそんな感覚でね」

自身の問題点に再び顔を合わせると、少しだけ暗い気持ちにならざるを得ない。少し、頭が痛くなる。

「理由も分からないんですか?」

「あぁ、何故だろうね。何も得られていないからだろうか」

「得られていない、ってそんなに重要な事ですかね」

「あそうさ。得ることが必要だろう?」

書くことで何かを得て、書くことで誰かに魅せる。そういうものなのだから、仕方の無い事のはずだ。あぁでもやっぱり、なんだか違うような。

「そういうもんですかね。もっと必要な物がありそうですけど」

「そうだと良いんだけれどね。大して売れた訳でも、何かを起こせた訳でもない。だから空虚なんだろうさ」

「なんでそんなに、成果ばかり求めるんですか?」

「そりゃ、それが小説家の目的ってやつだろうからさ。目的地に足を運ぶのは当然の事だろう?」

「目的──あぁ、成る程。そういう事ですか」

彼はふと先ほどから考えていた事に合点がいったようで、雲の晴れたような顔をする。

「何か分かったのかい?」

「柳さんってなんで小説を書いてるんですか?」

彼は話の流れを切って、途端に不思議な質問をする。

何の話かは知らないが、何故、か。そんな物当然決まっている。

「先程も言ったが、生きる為、何か成果を得るため。そんな所だ。何かを求めているんだよ」

「違うでしょ」

ぽつりと彼は呟く。何かを見透かしたような目が、どうにも背筋をひやりとさせる。

「違う事があるか、ただ私は書かなければならないから書いているだけだ」

そうだ、これまでもずっとそうだった。少なくともここ数年は。

「それは確かに本当かもしれないけど、それは今の話でしょ?」

「......どういう事かな」

「きっと、もっと前。今じゃなくて、歩き出したそんな時の話。それこそ、飛べない鳥を書いた時みたいな」

「ずっと的を射ないが、何が言いたいんだ」

「あぁもう、だから、書き始めた理由がある筈です。それは成果を得るためなんかじゃ無かったと、俺はそう思うんです」

彼に言われた言葉は私の頭の中を駆け巡る。私が足を踏み出した時の感覚。そんなものはとうの昔に忘れてしまった。きっとそれが、今の私には足りないもので、私の心を蝕んでいるそれなのだろう。

そんな事を言われて、私の思考はくるりくるりと回りだして、ずっと昔のことを思い出し始める。

「さっきも言いましたけど、俺はただ書いてみたかった。それだけでした」

「......」

彼が何か言っている事は分かるが、今はそれどころではない。耳から耳へと抜けて声が消えていく。

「聞いてないや、しっかり思い出してくださいね」

私は自分の記憶の中へと潜っていく。目の前の少年のことすら忘れて、ただひたすらに深く深く潜っていく。

潜り込んで最初に思い出したのは、何度も本を書いて生活が安定しだした頃。違う、これは私の原点じゃない。それほど昔のことでもないし、それは特に嬉しくは無かった。思い返せば、それから段々と心が空虚になっていた。

一気に記憶の中へと潜っていって、記憶の中の体験が目の前に広がっていく。

そして次に記憶から掘り出したのは、初めて自分の名前の書かれた本の重みを感じた、そんな本屋の匂い。確かに嬉しかった、私の中で何かが変わった。それでも、これも走り出したその後だった。やっぱり、これじゃない。

記憶の終わりが見えた頃、底に辿り着く前に目の前に浮かんだのは、ペンを走らせて文章を書き出した、インクで汚れる腕さえも気にしなかったそんな瞬間。これは───でも違う。もっと始まりがあって、私は何も囚われず書き出したそんな、何かが。

幾時間にも及ぶような気さえする記憶の回想をして、ようやく辿り着いた記憶の先は、ずっともっと子供の頃。記憶に辿り着いて私は思わず、ふっと息を漏らして笑ってしまう。本当に他愛の無い、自分でも笑ってしまうような、誰にでもある記憶の一欠片。

それはただ、頭の中で夢中になってお話を考えた。そんな記憶。

あぁなんだ、こんな簡単な事だった。

「そっか。俺はただ、書くのが好きだったんだ」

思わず子供のような口調で言葉を漏らす。それくらい大したことがなくて、それでも必要な事だった。

「あぁ、成る程」

「笑うかい?」

「いいえ、それはきっと素敵な事ですから」

「ありがとう。これなら書けそうだ」

「良かった、また見れるんですね」

「あぁ、安心して待っていると良い」

僅かな沈黙。先程までの沈んだ空気ではなく、なんだか朗らかな空気がこの場には存在していた。

得るものは得られた、もうここにいる必要は無い。

「よし、私は帰る」

「あれ、急ですね」

「書けそうだし、書かなくてはならないからね」

「そうですか、じゃあ楽しみに待ってますね」

「あぁ、待っていたまえよ。私も君の小説を待っているからね」

私の声かけに彼は少しきょとんとした顔でこちらを見つめる。

「書かないって言いませんでしたっけ?誰もがそう見るからって」

「あぁ、言ったね」

確かに彼はそう言った。けれど、やっぱりそれは簡単に解決出来る問題で、これだけ知り合った後なのだからもっと簡単な事だろう。

「ならどうして」

「だって、私が居るだろう?友人だろうがライバルだろうが、なんだって構わないがね」

それは彼の想定には無かったようで、とても驚いたように目を見開いた。そして理解した後に口元を押さえて大きく笑い出す。

「は、ははは!そう、そうですね。なら書けますね」

「だろう?」

「じゃあ友人としてでお願いしますよ。連絡先とか交換します?」

「あ~、やめておこう。なんだか気味の悪い出会いだったからね」

憎しみを持って出会って、敬意を持って解散する。何とも奇妙で気味の悪い。これを初の出会い、とはしたくないものだ。

「そうですか、でもそれじゃ連絡手段とかどうします?」

「じゃあ、そうだね......君が握手会でも開いてくれ。あと一冊くらい出せばすぐだろう?」

再び出会うことを奇跡に願うというのは実に小説的だが、それは現実的じゃない。それにこうすれば、別の目的も果たせるだろう。

「はぁ、まぁすぐかもしれませんけど」

「その時に握手をして、正しい形の出会いを果たそうか」

「だからそれまでは辞めるなと」

「そういう事だ」

「俺がそんなの無視して辞めたらどうなるんですか」

「辞めれないさ、だって私のファンだろう?」

これ程私の事が好きな人間が、そう簡単に諦められるはずもないだろうに。

「はぁ、まったく。よくわかってらっしゃる。いやはや、呪われちゃったなぁ」

「いいや?(まじな)ったのさ」

「やっぱりつくづく小説家じゃないですか」

確かにそうだ、言葉遊びに、心を弄ぶだなんて、それは実に小説家らしい。今はそんな事にとても心が躍るものだ。

「そういう事だね」

「んじゃ、俺も帰ります」

「あれ、君も急だね」

「だって俺も、書かないといけないから。それじゃ、また」

彼もまた、なにか憑き物が落ちたように、出会ったときの雰囲気はどこかへ行ってしまっていた。そうして彼はすぐにその場を立ち去っていった。彼もまた、必要な事は済んだのだろう。

「ふふ、あぁそれではね」

立ち上がると、日差しが目に差して眩んでしまう。

いつの間にか目を眩ませるほどの晴れ間が差していて、乾いた空気の匂いが鼻腔をくすぐる。いつの日か見た始まりの景色を思わず想起してしまう。

「さて帰るとするかな」

帰り道は足取りは軽く、息切れもせずにさっさと家へとたどり着く。

たどり着いた家の中は天候のせいか、気分のせいか、昨日までのような淀んだ気配ではなくて、少しだけ乾いているようなそんな気がした。

一息ついて紅茶でも啜っていると、放り出していた携帯電話が突然に鳴り始める。頼人君からの電話のようだ、そういえば締め切りが近いのだったか。ここ数日色々あって頭から飛んでいたな。良く考えれば連絡も返していないし、締め切りも間近か。怒られるだろうか。

数日連絡をしていなかった事を思い返し、少し躊躇はすれど電話を取ると、飛び込んできたのは叱りの罵声ではなかった。

「先生!?繋がった〜」

「申し訳無い。少し色々あってな」

「まったく、心配したんですからね。あんなメール一本だなんて」

少し怒り混じりの、けれど安堵したような優しい声で彼はそう言葉を零す。

「次からはしないようにするよ」

「当然です。あそうだ、何かあった後に大変恐縮なんですけど、原稿って書き上がってます?先生の事だからあんまりそれは心配してないんですけど」

確か、締め切りはもう一週間ほどだったな。まぁ問題はない、原稿はもう八割方出来上がっているはずなのだから。しかし、何か忘れているような。

そうやって何かを思い出しながら机の上へと視線を向けると、そこには無残にも微塵になった原稿の姿があった。

「すまない、一文字も書き上がっていなさそうだ」

「............なんて言いました?」

数秒の無言は電話口でもわかるくらいの放心具合を露見させていた。

「だから、一文字も」

「いやいやいや、この前聞いた時は八割くらいは書けてるって言ってたじゃないですか」

確かに言ったが今はこうなっているんだから、どうしようもない。完全に言い訳のしようも無いのだが。

「見るかい?原稿自体はあるよ。まぁ、残念な事に粉微塵になっているが」

「......何やってんすか。もう時間ないですよ」

彼は大きくため息をついて、頭を振っているのだろうか声が少し遠のいたりする。

「ははは、申し訳無いな」

「笑い事じゃないですよ、あぁでもちょっとならなんとかなるか?あれがあれで、いやでもなぁ」

電話口で小さく考えを口から零す彼の声を聞いて、思わずフッと笑みを零してしまう。

「頭を回す必要はないさ。書き上げれば良いんだろう?」

「へ?いやでも先生、流石に厳しいでしょ」

「いやいや、書ける。なにせ今日はずいぶんと調子が良くてね」

「......先生、なんか良いことあったんです?随分楽しそうですけど」

「少しね。一週間程度はあるんだろう?どうとでもなるさ」

「ん〜、信じますからね!時間になったら絶対取りに行きますよ」

「わかっているさ、しっかりと書き上げてみせるよ。それではね」

電話はプツリと途切れる。さて、啖呵を切ってしまったな。彼の信頼には応えたい所だが。

「一息ついている暇はないな」

少し疲れた体を引き上げて、書斎の机と相対する。

目の前の粉微塵になった原稿を見て、己の愚かさを思い出すが今はそれどころではない。

まっさらな原稿を用意してペンを握るとふと気付く、どう頑張ってもこの前までのアイデアはまるで一つも思い出すことが出来ない。されど、新たなアイデアは湯水のように湧いてくる。

今なら推理小説だって、歴史小説だって、いや恋愛小説だって書けるだろうか。どれを書こうかだなんて、なんと贅沢な悩みな事だ。

ペンをくるくると回しながら、書き出しを吟味する。

書き出す腕は思う様に動く、頭は液体の様に柔軟に。いつの日かと同じ。私は、俺は、今笑みを浮かべているだろう。

さて今日は何を書こうか。


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