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短編小説どもの眠り場

死的

作者: 那須茄子

 雨の日は、世界が少しだけ静かになる。


 コインランドリーの乾燥機が回る音だけが、僕の耳を支配していた。 外は土砂降り。傘を差しても無意味なほどの雨脚に、僕は洗濯物を乾かすためだけにこの場所に避難していた。


 窓は開け放たれていた。湿気を逃がすための、些細な配慮。

 そこから、カラスが一羽、滑るように入ってきた。 黒い羽根が濡れて、床に水滴を落とす。


  僕は目を逸らさなかった。なぜか、逸らしてはいけない気がした。


 カラスは、僕を見た。

 そして、形を変えた。黒い羽根が人の髪になり、くちばしが唇になり、脚が白い素肌になった。 そこに立っていたのは、黒いワンピースを纏った女だった。


「死神よ」と彼女は言った。

 声は乾いていた。雨の日に似合わないほど、乾いていた。


「命を乾かしているのね」


  彼女の視線は、乾燥機の中の衣類に向けられていた。 僕は言葉を返せなかった。 彼女は、乾燥機の扉を開けた。熱気が漏れ、湿った空気と混ざった。


「命は濡れている方が美しいのに」


 彼女は一枚のシャツを取り出した。

 僕のものだ。それを床に落とし、濡れた足で踏みつけた。


「あなたはバカね。濡れたままでは不快だからと、乾かしてしまう。温もりを奪い、形だけを整えて、満足する」


  ……それは僕の行為への批判ではなく、僕自身への侮辱だった。


「命は、濡れて、汚れて、傷ついて、それでも生きて生きてくしゃくしゃになるもの」


  彼女はしゃがみ、シャツを拾い上げ、僕に手渡した。


「あなたの命も、乾いているわね」


  僕はその言葉に、何も返せなかった。

 シャツは冷たく、重かった。まるで、僕の心のように。


 彼女は再びカラスになり、雨の中へと飛び去った。 窓は風に揺れ、軋んだ音を立てた。


 僕は乾燥機を止めた。 濡れたままの衣類を抱えて、外へ出た。


 雨は冷たかった。けれど、少しだけ、生きている気がした。



 雨の中を歩くのは、思ったよりも心地いい。

 僕は駅までの道をゆっくりと進んだ。


  水たまりに映る街灯が揺れている。命の残像。揺れて揺れて、揺れて回る。


『乾いているわね』


  彼女の言葉が、耳の奥に残っていた。 僕の命は、本当に乾いていたのだろうか。 それとも、乾かしたかっただけなのか。


 駅のベンチに腰を下ろすと、シャツから水が滴った。 隣に座った老婦人が、ちらりと僕を見たが、何も言わなかった。 僕も、何も言わなかった。



 僕は、あのシャツを家に持ち帰った。 洗い直すことはしなかった。 乾かすことも、畳むことも。 ただ、部屋の隅に置いた。


 それは、僕の命の象徴だ。 濡れて、踏まれて、冷たくなった命。


 雨は夜通し降り続けた。 僕は眠れなかった。

 乾いた命が、少しずつ湿っていく音が、聞こえる。




 三日目の雨は、音を失っていた。

 窓の外は濁った水の膜に覆われ、世界はぼやけていく。


 死神は来なかった。 僕が待ち続けても、何度コインランドリーに通っても、彼女は現れなかった。 代わりに、僕の中に彼女が住み着いた。 言葉もなく、姿もなく、ただかたちだけを残して。


 僕は、シャツを皿に盛った。 それはもう、衣類ではなかった。

 シャツを裂く。 爪で、歯で、静かに。


 葬式だった。


 裂けた布を風呂場に沈めた。 水は赤くならなかった。 命がなかったから。


 食べることはできそうにない。

 消化してしまえば、なくなると思った。


 できそうにない。

 

 探しに外へ出る。


 カラスがゴミをあさるとことへ、これを捨てに行く。


 

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