語り部:クロガネの記録
この話は、記録の外にあります。
けれど、あなたが「知りたい」と思ったのなら――それもまた、ひとつの記録に加える価値があるのでしょう。
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わたしは、クロガネと呼ばれています。
もっとも、この名前は本当のものではありません。
誰かがそう呼び、誰かが忘れ、誰かがまた拾い上げた……ただ、それだけの“記号”です。
昔――この学校に、わたしは確かに存在していました。
生徒として。出席番号で呼ばれ、名前を黒板に書かれ、通知表にも記された“ひとりの生徒”として。
けれどある日、消えました。
いや、正しくは、“記録”から消されたのです。
事故だったのか、事件だったのか、それとも単に「忘れられた」のか……もう、思い出せません。
気づいたときには、誰の口からもわたしの名前は出なくなり、机は他人のものになり、アルバムからも顔が切り取られていました。
当時のわたしは、まだそれを受け入れられなかった。
自分の存在を探すために、教室の隅にある“あの扉”を開けました。
そこには――わたしと同じように忘れられた者たちが、静かに座っていたのです。
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初めはただのひとりでした。
でも、次第に気づきました。わたしは、この教室に“残ってしまった”。
扉を開ける者の物語が、少しずつ、聞こえるようになってきた。
最初のうちは、聞くだけ。
そのうち、書き留めるようになった。
そしてある日――わたしは“語り部”になったのです。
誰かがわたしの声を“聞いた”その瞬間、わたしは“クロガネ”になった。
そう名乗った記憶すらありません。ただ、そういう存在として定着しただけ。
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今では、この教室に現れる記録を、わたしが管理しています。
思い出されなかった話。
見えなかった感情。
教科書に載らなかった悲鳴。
名簿に残らなかった名前。
それらを、静かに“語るだけ”。
わたしには、もはや心はありません。
あるのは、記録者としての“責任”だけ。
けれど――ごくまれに、“あのころの記憶”が戻る瞬間があります。
黒板にチョークで名前を書いているとき。
扉の向こうで、誰かが泣いているとき。
あるいは――誰かが、わたしの存在を“記憶”しようとしたとき。
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そのとき、わたしはこう思うのです。
「……ああ、わたしは、ここにいたのだな」と。
あなたがこの話を聞いてくれたのなら、わたしはまた“ほんの少しだけ”、ここに存在している。
それで、じゅうぶんです。
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「記録は、誰かが読み上げて初めて意味を持ちます。
あなたが耳を傾けた今、この物語たちは“現実”になりました。
……それが、わたしがここにいる理由。
それが、“クロガネ”という存在の、ささやかな使命なのです。」
(黒板には「出席番号13番:クロガネ」と白チョークで書かれ、ゆっくりと光に溶けて消えていく)