透明な彼女
“誰にも気づかれない”ということは、存在していないのと同じなのでしょうか。
存在というものは、とても曖昧です。
誰かの記憶の中にいる限り、その人は“ここ”にいる。
でも、もし誰からも思い出されなくなったなら……?
今日の記録は、とある少年と“誰にも気づかれない彼女”の物語。
これは、静かな恋の話。そして、ひとつの選択の記録です。
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■一日目:教室の片隅にいた彼女
高校2年の拓巳は、誰とも特別に仲良くなることなく、無難な日々を送っていた。
ある日の放課後。忘れ物を取りに戻った教室で、彼は見知らぬ女子生徒を見つけた。
制服姿で、髪は肩につかないほど短い。窓際の席に、ぽつんと座っていた。
「あ……あの、何か用?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。そして、にこりと笑って、こう言った。
「見えるんだ。あなたには、私が」
その瞬間、空気が一気に静まり返った気がした。
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■二日目:忘れられた彼女
彼女は**蒼**と名乗った。拓巳のクラスメート……のはずだが、出席簿にも名簿にも、その名前はなかった。
「私ね、誰にも思い出してもらえないの。……気づかれないって、透明になるのと同じなんだよ」
蒼は教室のすみで、いつも静かに笑っていた。
拓巳が話しかけると応えてくれる。
でも、それ以外の誰にも彼女は見えないし、気づかれない。
「どうして俺には見えるの?」
「たぶん、あなたも……ちょっとだけ“透明になりかけてる”から」
その言葉に、拓巳は言葉を失った。
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■三日目:ゆるやかな時間
二人は、昼休みにこっそり教室の片隅で会話を交わすようになった。
誰もいない世界で、たった二人だけが、存在を確認し合う時間。
好きな教科、将来の夢、子どもの頃の記憶。
蒼はまるで、今を取り戻すように、語った。
「誰かに名前を呼ばれるたびに、ここに“いる”って感じられるの」
「だったら……何度でも呼ぶよ」
拓巳はそう言った。
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■四日目:決断の時
ある日、蒼が教室の隅を見つめて言った。
「あの扉が、開こうとしてる」
それは、教室と黒板の間の、誰も近づかない古びた木の扉。
蒼の背後で、それがきいぃ……と静かに開いた。
「向こうに行けば、私は完全に消える。でも、もう迷ってないよ」
拓巳は叫んだ。
「待ってくれ! ……俺が、君を覚えてる。俺だけは忘れない!」
蒼は微笑んだ。
そして、そっと拓巳の胸に触れた。
「ありがとう。……でも、それじゃあなたまで消えちゃう」
その瞬間、拓巳の体が透けかけた。
彼女の“透明”が、彼にも移ろうとしていた。
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■五日目:残されたもの
次の朝、拓巳の出席番号は飛ばされていた。
先生もクラスメートも、何かを忘れているような顔をしていた。
でも、拓巳は教室にいた。
確かに“ここ”にいた。
ただ、誰にも見えなかった。
彼はそれでも、毎朝ノートに名前を書く。
蒼
今日は、君の夢を見た。
そのノートだけは、誰かがページをめくったとき、かすかに青く光っていた。
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“存在”とは、何によって決まるのでしょうか。
名前? 声? 記録? それとも、誰かの記憶の中にいるということ?
蒼と拓巳は、誰の記憶にも残らなかったかもしれません。
けれど――
あなたが今、彼らのことを思い浮かべてくれたなら。
それは、ほんのわずかな光となって、記録の中に宿るでしょう。
……教室の隅の扉は、まだそこにあります。
いつでも、次の“あなた”を待っているのです。