教室の隅にある扉のむこう
ようこそ。……いや、“おかえりなさい”のほうが正しいかもしれませんね。
私の名前はクロガネ。かつてこの学校に通っていた生徒でした。
今は、教室の隅にある“扉の向こう”に暮らしています。
忘れられた教室。記録されなかった授業。名簿に載らなかった誰かの物語。
さあ、今日もひとつ、話を記録しましょう。
これは……名前を呼ばれなくなった生徒と、彼女を見つけた少年の物語です。
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■一日目:転校生、現る
中学2年の尚人にとって、日常はどこまでも退屈だった。
成績は中の上。部活は帰宅部。友人は少し。特別なことなんて何も起きない、毎日。
そんな彼のクラスに、転校生が現れた。
「……結城結衣です。よろしくお願いします」
長い黒髪と無表情な顔。まるで影のように存在感が薄い。
彼女は誰とも目を合わせず、教師の指示に従って空席に座った。
クラスの空気が微かにざわつくが、誰も声をかけようとはしなかった。
尚人はなぜか、その“空気の中の異物”が気になった。
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■二日目:教室の隅を見つめる目
昼休み。尚人はふと、彼女の視線が“教室の隅”に向いていることに気づく。
そこには、使われていない掃除用具入れの古びた扉。
誰も気に留めたことがない――はずの場所。
彼女は、じっとその扉を見ていた。まるで、話しかけるように。
尚人は問いかけようとして、やめた。何を言っても、空気のようにすり抜けそうだったから。
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■三日目:はじめての会話
放課後。帰り支度を終えた尚人は、扉の前に立つ結衣の背中に声をかけた。
「そこ……なんかあるの?」
結衣はふり返り、初めて尚人に目を向けた。
「うん。あるよ。……教室が、ね」
尚人は笑ってごまかす。
「中に? こんな狭いところに?」
「入ってみる?」
扉が、ギイ……と音を立てた。
中には、光があった。
ほんのり暖かく、埃っぽくない、やけに“居心地のいい空間”の気配。
怖くなって尚人は首を横に振った。
「……また今度」
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■四日目:開かれた扉
次の日、尚人は結衣の姿が見えないことに気づいた。
出席もとられず、先生も彼女の名前を呼ばなかった。
「昨日まで、あの席にいた子は?」
そう問いかけた尚人に、クラスメートは言った。
「何言ってんの? 最初から誰も座ってなかったよ」
馬鹿な――彼女はいた。話した。目も合った。扉の中も覗いた。
放課後。尚人は意を決して、例の扉を開ける。
そこには――もうひとつの教室があった。
薄明かりの中で、生徒たちが静かに座っていた。
誰もが、どこか懐かしいような、でも名前のわからない顔。
そして一番奥に、結衣の姿があった。
「やっと、来てくれたね」
彼女は微笑む。
「ここはね、忘れられた子たちの教室。思い出されなかった名前、呼ばれなかった声、書き換えられた名簿――そういう子たちが集まる場所なの」
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■五日目:忘却と記録
次の日から、尚人は毎日教室の隅を見つめていた。
誰も気づいていない。誰も覚えていない。
自分だけが、結城結衣を知っている。確かに話した。扉の奥も見た。
でも、記録はなかった。写真にも、出席簿にも。
彼女の存在を覚えているのは、尚人ただ一人だった。
いつからか、彼のノートには“記録”のような文字が並び始めた。
教室の隅に、扉がある。
忘れられた生徒たちが、そこに座っている。
今日もまた、一人、増えた。
尚人は今日も、そっと扉を見つめる。
結衣が最後に言った言葉を思い出しながら――
「ありがとう。見つけてくれて」
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……さて、扉はまた一つ、新しい記録を迎えました。
彼のように、思い出してくれる誰かがいるなら、忘れられた教室も少しだけ明るくなるのかもしれません。
でも、あなたはどうでしょう?
あの席に、誰が座っていたか……今、言えますか?
ではまた、“あなた”が来るその時まで。
私はこの扉の向こうで、次の話をお待ちしています。