我らがアイドル
「今日も私のいうことだけ聞いてもらえなかったの」
水槽のアクリルガラスを拭きながら、美冬はひとりごとなのか魚たちに話しかけているのか、自分でも判然としないまま語っていました。
「他の飼育員さんたちの指示には従うのに、私の指示にだけは従ってくれない。やっぱり私、シャチたちに嫌われているのかしら。イルカたちはちゃんと指示に従ってくれてるし」
ため息混じりに語りながら、ガラスを拭き拭き。
「いくらイルカたちが従ってくれても、シャチたちが誰もいうことを聞いてくれなければ、ショーはやらせてもらえない。ショーをやりたくて水族館に就職したのに」
再びため息をつき、ガラスを拭き上げて美冬は去って行きました。
営業が終了した水族館では、飼育員たちが手分けして掃除や餌やりや事務仕事をしていました。
白樺美冬は、深海水槽を拭き始めると何故か、その日の出来事などを語るようになっていました。
最近は、シャチがいうことを聞いてくれない、という話ばかりです。
「聞いたか?シャチのやつ、また美冬ちゃんを無視したらしいぞ」
水槽の中で、ヒゲツノザメのケンが、横にいたゾウギンザメのギスケに話しかけました。
ギスケは長い鼻を水槽の底につけたままで答えました。
「どうせ、テルコのイジメだろ?美冬ちゃんが若くて可愛いのが気に食わないのさ」
ユメカサゴのサンジが、話に加わります。
「テルコは嫉妬深いからな。若くて可愛いメスは全てイジメの対象なんだろ」
「テルコは気が強いからなぁ」
タカアシガニのカマジイが呆れたように呟きました。カマジイの本当の名前はヨサクだったのですが、何年も前に水槽の中を覗き込んだ子どもたちが
「カマジイだっ」
「あれはカマジイだっ」
と叫ぶようになり、いつのまにかカマジイという名前が定着してしまいました。なにやらアニメの映画の影響らしいのですが、水槽の仲間たちには分かりません。
イズカサゴのヨジがため息をつきました。
「このままじゃ美冬ちゃんが可哀想だ。なんとかしてやらないと」
同じくイズカサゴのゴジがやはりため息をつきながら言いました。
「なんとかしてやりたいのは山々だが、俺らに何ができる?俺たちは水槽の中から出ることも出来ないんだぞ」
「そこなんだよなぁ」
ヨジはフゥ~っと息を吐きながら言いました。
「みなさん、何なんです?この重たい空気は」
突然、水槽の上から声がかかりました。
みんなが上を向くと、一匹のネズミが水槽の中を覗き込んでいました。
「マサルか。いま、美冬ちゃんを助けるにはどうすればいいかを考えていたところだ」
ヒゲツノザメのチャが答えました。
「美冬?ああ、新人の飼育員ですか。シャチに総スカンをくらってショーに立てないでいるとかいう」
マサルはちょっと可笑しそうに言いました。
「笑い事じゃない!このままだと、美冬ちゃんがここを辞めてしまうかもしれないじゃないか」
タカアシガニのタゴサクが怒鳴りました。巨大なカマジイに比べると体の小さなタゴサクは、水槽内の岩を登ってネズミのマサルに近付こうとしました。
「いやいや、笑っちゃいませんよ。そんなに怒らないでください、タゴサクさん」
マサルは両手を突き出して、まぁまぁとタゴサクをなだめました。
「美冬がここに来る少し前から、テルコはずっと不機嫌なんですよ。ただでさえ気難しいのに、より一層不機嫌なもんだから、周りは大変みたいですよ」
マサルは両方の手のひらを肩のあたりで上に向けて、お手上げのポーズを取りながら言いました。
ヒゲツノザメのケンが不思議そうに聞きました。
「何故そんなに不機嫌なんだ?」
「タケチがタマに手をつけたからですよ。タマが妊娠したんです」
「なるほど」
水槽の中にいた全員が納得しました。若いメスのシャチのタマに、イケメンシャチのタケチを取られて怒っているテルコの姿が思い浮かんだのです。水槽から出られないここの仲間たちは誰もテルコを見たことがありませんでしたが、それでも、嫉妬に怒り狂うシャチの姿がありありと思い浮かんだのでした。
「原因が分かれば、対策を立てられるってもんだ」
カマジイが低い声で厳かに言いました。
「対策って?」
ゾウギンザメのギスケが、長い鼻を水槽の底から離してカマジイの方に向き直りました。
「タケチのせいで不機嫌になっているのなら、タケチに機嫌を取らせりゃいいだろう」
「そりゃそうだけど、俺たちに何ができる?」
カマジイの近くまで寄りながら、ヒゲツノザメのケンが尋ねました。
「わしらには何もできないさ。やるのはマサルだ」
「へ?、私ですか?」
ネズミのマサルが素っ頓狂な声をあげました。
「そりゃそうだろう。ここで自由に動き回れるのはお前だけだからな」
「私に何をしろって言うんです?」
「さっき言ったように、タケチにテルコの機嫌をとらせてくれ」
「どうやって?」
「食いもので釣ればいいだろう」
「ええ〜〜〜」
マサルは露骨に嫌そうな顔をしました。
「なんで美冬なんかのために私がそこまでしなくちゃならないんです?」
ユメカサゴのサンジが、赤いまだら模様の体をさらに赤くして怒鳴りました。
「このままじゃ美冬ちゃんが可哀想だと思わないのかっ」
「思いませんね」
マサルはあっさりと否定しました。
「昨日、あの女は何をしたと思います?害獣駆除業者に電話して、ネズミ駆除の見積もりを頼んだんですよ!なんでそんな奴のために私が」
「あのなぁ、美冬ちゃんは下っ端なんだぞ!」
イズカサゴのヨジが呆れたように言いました。同じくイズカサゴのゴジが続けます。
「下っ端の美冬ちゃんが、自分の意思でそんな電話をかけるわけないだろう。少しは大人になれよ」
すると水槽内のあっちこっちから、そうだそうだ、という声があがりました。
「そうは仰いますがね、飼育員相手に美冬ちゃん美冬ちゃんと騒いでいるあなたたちの方がよっぽど子どもじゃないですか」
マサルが反論すると、カマジイがきっぱりと言いました。
「推し活は大人の嗜みだ」
結局水槽の仲間たちに押し切られたマサルは、シャチのところに来ました。
なんだかんだと言っても、マサルはこの状況を面白がっていたのです。いい話のネタができた、あとで熱帯魚水槽にこの話をしようと、ワクワクしていました。
「あ、いたいた!タケチさん、タケチさん!」
マサルは他のシャチに気づかれないようにコソコソと声をかけました。
「ん?なんだ、マサルか。どうした?」
「ちょっとご相談がありまして」
「相談?」
「いえね、テルコさんのご機嫌をとっていただきたく」
「嫌だね」
タケチは即答しました。
「あんな気難しい婆さんの機嫌をとるなんて、冗談じゃない」
やっぱりな〜と思いながらも、マサルは続けます。
「もちろん、タダでとは言いませんよ」
揉み手が様になっています。
「というと?」
「サバでいかがですか?」
「俺はニシンの方が好きだ」
「ぐぐっ、サバよりニシンの方が大きくて大変なのに」
マサルの顔が引きつりました。
「嫌なら別にいいんだぜ?」
タケチがニヤリと笑います。
「分かりましたよ、ニシンの差し入れで!」
「一匹とか言うなよ」
「タケチさん、私の体でそんなに運べるはずないでしょう。勘弁してくださいよ」
マサルは泣きそうな顔になりました。もちろん演技です。交渉がうまくいかなくても、マサルが困ることは何もありません。タケチもそれは分かっています。
「ま、お前の顔を立ててやろう。どうせこのあと熱帯魚水槽に話しに行くんだろ」
「さすがタケチさん、鋭いな〜」
よっ、社長!とでも言わんばかりにマサルはタケチを持ち上げました。
「さっそく、明日の朝イチから持って来い」
「了解です」
「と、こんな状況でして」
マサルは熱帯魚水槽の上から、これまでの流れを説明しました。
熱帯魚たちは興味津々で聞き入っていました。この水族館の魚たちが、水槽に閉じ込められるようにして暮らしていても退屈せずにいられるのは、ネズミたちが噂話を持ち込んでくるからなのでした。水族館内のゴシップネタは、彼らにとって最大の娯楽なのです。そしてネズミたちも、自分たちが持ち込むネタに魚たちが夢中になっている様子を見るのが楽しくて仕方ありませんでした。
「推し活か。まるでアイドルみたいだな。しかし美冬なんかの何がそんなに良いのかねぇ」
真っ白な体に赤い縞模様が入ったセンネンダイが首を傾げました。
全身が真っ青で人目を引く姿のオニハゲブダイも一緒になって首を傾げます。
「美冬に魅力なんてあったか?」
黄色と黒の縞模様が美しいシマハギが茶化すように言いました。
「あんな美冬でも、深海水槽の奴らからすれば光り輝いているんだろうさ」
全身の赤いグラデーションをきらめかせながら、ニジハタが笑いました。
「なにしろ地味だからなぁ、あいつらは。イズカサゴとユメカサゴは全身赤いが、俺の華やかな赤さとはまるで違うし」
ソラスズメダイの群れから、あはははは、という笑い声が響きました。体の小さなソラスズメダイですが、抜けるような青い体に真っ黄色なヒレをもったその姿は、まるで宝石のようです。群れで泳ぐと、その煌びやかな美しさが一層際立ちました。
熱帯魚たちは、自分たちの美しさをよく理解しています。熱帯魚水槽の前に立つお客さんたちは、みんなウットリとした表情で熱帯魚たちに見惚れるからです。
その点、イルカやシャチは、芸を披露して人間に媚びなければ注目してもらえない。つまり、イルカやシャチは、熱帯魚より格下だ、と熱帯魚たちは考えていました。
格下のシャチに馬鹿にされている美冬など、彼らにしてみれば下の下の下の存在です。
だから美冬がショーに立つことが出来なくても何とも思っていません。
「しかし、だ」
赤い縞模様を揺らめかせながらセンネンダイが言いました。
「テルコがタケチの言いなりになって、美冬の指示に従うかどうかは、多少は気になるな」
「たしかに」
「俺もそう思う」
「私も」
「気になる気になる!」
水槽のあっちこっちから同意の声が響きました。
1000匹近い魚が泳ぐ巨大な熱帯魚水槽の中で魚たちが一斉に喋ると、誰が何を言っているのかさっぱり分かりません。
それを制するように、全身が真っ青に煌めいているオニハゲブダイが大きな声をあげました。
「とにかく、俺たちは事の成り行きをおとなしく見守ろうじゃないか。マサル、結果をすぐに報告しろよ。面白い結果が出ることを願って、まずは宴だっ!」
「おうっ!」
「ウェーイ!」
どっと水槽内がどよめいて、魚たちが歌えや踊れやの大騒ぎになりました。
熱帯魚たちはとにかく明るくて宴好きなのです。
マサルはこの陽気な魚たちの水槽を見ていると、自分も楽しくなってしまうのでした。
ニシンの効果はすぐに現れました。
仏頂面のテルコのもとに、タケチがスーッと、近づいて行ったのです。
「おはようございます、テルコさん(ニッコリ)」
「あら、おはようタケチ。何か用?」
「今日はいつにも増してテルコさんの瞳が綺麗だな〜と思って(ニッコリ)」
「何を言ってるの?(怪訝そう)」
「最近、テルコさんとお話する機会があまり無かったので、ちょっと気になって(ニッコリ)」
「あなたはタマに夢中だったものね(チラッ)」
「あれは仕事ですから(苦笑)」
「ずいぶん楽しそうだったけど?(キッ)」
「そりゃあ、こっちは必死ですよ。繁殖のために呼ばれているのに子どもを作れなかったら、僕はここをクビになってしまいます。そうなったら、もうテルコさんに会えなくなるじゃないですか(キリッ)」
「うまいことを言うわねぇ〜(ニヤッ)」
「本当ですよ。初めてこの水族館に来たときに見た、飼育員の合図で大ジャンプしたときのテルコさんの美しさは、今でも目に焼き付いていますよ(うっとり)」
「まあっ(ポッ)」
「久々に、朝のトレーニングまでお話しませんか?(ニッコリ)」
「いいわよ(うっとり)」
数分後。
テルコが他のシャチたちに声をかけました。
「あなたたち、今日は真面目にやりましょうね」
「さすがタケチ」
この様子を裏から見ていたマサルは、思わず声に出して言ってしまいました。
タケチはもともと他の水族館にいたのですが、そこの全てのオスを差し置いて、片っ端から若いメスを妊娠させたことで、水族館業界では有名なシャチでした。
その剛腕(?)を見込まれて、半年前にこの水族館に引っ越してきたのです。
そしていきなり若いメスのランを妊娠させ、ついでナツを妊娠させ、今度はタマを妊娠させたのでした。
まさに電光石火の早わざです。
そしてそれを面白く思っていなかったのが、高齢の域に差し掛かっていたテルコだったのでした。
「今日はシャチたちが私の言うことを聞いてくれたの!」
頬を紅潮させながら、美冬は早口で捲し立てるように言いました。
いつものようなひとりごとモードではなく、明らかに深海水槽の仲間たちに話しかけています。
美冬は忙しなくワイパーを動かしながらも話を続けます。
「あと何日かこの調子が続いたら、ショーに出てもいいって館長に言われたのよ!やっとステージに立てそうなの!」
キャーッと悲鳴をあげ、ピョンピョンと飛び跳ねながら、ガラスを拭き拭き。
「いつもみんなが私の話を聞いてくれていたからかしら。みんなは私の幸運の女神、いえ神様ね」
輝くような笑顔がガラスに映っていました。
「大好きよ!みんな!」
と美冬か叫んだ途端、ズキュン、ズキュン、ズキュン、ズキューン!と魚たちのハートが次々と撃ち抜かれる音が水槽内に響きましたが、美冬にはもちろん聞こえませんでした。
「ありがとうな、マサル」
カマジイがマサルにしみじみとした様子で言いました。
「ホント、マサルのおかげだよ」
ヒゲツノザメのケンも続きます。
「まったくですよ。冷蔵室から魚を持ち出すのは本当に大変なんですよ。しかもあの大きなニシンを毎朝運ぶのはどれほど大変だったか」
マサルがこれみよがしにため息をつきながら言いました。もちろん演技です。
「明日はとうとう美冬ちゃんのデビューだもんな〜」
恍惚とした表情を浮かべながらユメカサゴのサンジが言いました。赤いまだら模様が、こころなしかいつもよりくっきりしています。
深海水槽内は、地味ながらもお祝いムードに包まれていました。
翌日、営業時間終了後。
深海水槽の仲間たちは、美冬が来るのを今か今かと待ちかまえていました。
しかし美冬はなかなか現れません。
いつもよりずいぶんと遅くなってから、ガックリと肩を落とした美冬が現れました。
「ショーには立てなかったの。今朝になって、またシャチたちが言うことを聞いてくれなくなっちゃって」
ワイパーを動かす手も重そうです。
「私、飼育員に向いてないのかも」
俯いたまま呟くと、ほとんどガラスを拭くことなく美冬は去っていきました。
「いったいどういうことだ?」
ヒゲツノザメのケンがキョロキョロとみんなを見回しながら言いました。
「テルコの不機嫌は治まっていたんだろ?」
タカアシガニのタゴサクも不思議そうに呟きました。
すると、水槽の上からマサルの声が降ってきました。
「昨日の夜、リサの妊娠が分かったんですよ。もちろん相手はタケチです」
水槽内の全員が脱力しました。
誰かが
「今までの苦労はなんだったんだ」
とため息混じりに言いました。
「いやいや、苦労してたのは私だけですよ。みなさんは何もしてなかったでしょ」
とマサルは言いましたが、誰も反論してきませんでした。そんな気力は誰にも無かったのです。
『こりゃダメだ』
マサルはそれ以上は何も言わず、そっと立ち去りました。
しばらくして、ユメカサゴのサンジが呟くように言いました。
「いっそのこと、俺たちがショーをやったらどうだろう」
みんなが一斉にサンジの方を向きました。
サンジが続けます。
「そうすれば、テルコの機嫌に左右されることもないじゃないか」
すると、ツボダイたちが口々に、どうやって?どうやって?どうやって?と泳ぎ回りました。
カマジイも重々しく言いました。
「わしらがステージに立つのは不可能だぞ」
サンジは、それなんだが、と語りだしました。
「べつにステージにこだわらなくても、ショーはできると思うんだ。たしかに俺たちはジャンプができるわけでもなければ、ボールを投げたり輪っかをクルクルさせたりできるわけでもない。しかし、どこの水族館でも、深海水槽の魚たちはほとんど動かないはずだから、俺たちが元気に動き回るだけでも目立つと思うんだ。特にタカアシガニたちだな」
ゾウギンザメのギスケがなるほど、と同意しました。
「たしかにそれは一理あるな。いつも泳ぎ回っているサメたちを除けば、普段はみんなあまり動かないからな。美冬ちゃんの合図でみんなが一斉に動き出したら、人間は驚くだろう」
「どうせやるなら、動き方も考えよう」
とタカアシガニのタゴサクも賛成しました。
やろう、やろう、やろう、やろう、とツボダイたちが水槽中を泳ぎ回ります。
こうしてみんなは一晩中かけて動き方を考え、そして練習を重ねました。
翌日、営業時間終了後に美冬がワイパーを持ってやってきました。
「まだだぞ、みんな焦るなよ」
とサンジが小声で言いました。美冬はみんなから見て右端
から掃除を始めるので、左端を拭き始めた時がスタートの合図なのです。
美冬はいつものように、昼間にあった出来事を語りながらガラスを拭き始めました。
そして左端に差し掛かった途端、みんなは一斉に動き出しました。
「えっ?」
という美冬の声が、静まり返った館内に響きます。
水槽の中では、体長50cmほどでヒレに赤黒い水玉模様が入ったイズカサゴ2匹と、ほぼ同じ大きさで全体的に赤い体のユメカサゴ2匹が、底の方で真ん中に集まり、正面を向いて首を左右に振っていました。その振り方は一矢乱れることなく、ピッタリと息が合っていました。
その周りを、8匹のタカアシガニたちが1列に並んで、大きく円を描くように歩いています。
体長20cmほどのツボダイ12匹は、タカアシガニたちの脚を使って、見事なスラロームを披露していました。
ゾウギンザメは長い鼻でガラスにハートマークを描くように泳いでいます。
そして2匹のヒゲツノザメが、頭を上下に振りながら泳ぎ回っていました。この2匹も息がピッタリで、寸分違わぬ動きで頭を振っていました。特徴的な長いヒゲが頭の動きに合わせてリズミカルに動く様子は、指揮者が指揮棒を振っているようにも見えました。
「すごい・・・」
美冬は微動だにせず、その様子に見入っていましたが、やがてハッと我に帰り、
「館長!館長〜〜〜!」
と慌てて走って行きました。
「うまくいったな」
カマジイがニヤリと笑いました。
「いいアイデアでしたね」
ゾウギンザメのギスケも頷きました。
みんながふふふ、と笑い合いながら館長を待っていると、上から声が降ってきました。
「これは驚いた。みなさん、いったい、何が起きているんです?」
マサルが水槽の上でアングリと口を開けていました。
ヒゲツノザメのケンが得意気に答えます。
「もうシャチなんかに任せずに、俺たちが美冬ちゃんとショーをやることにしたんだ」
マサルは一瞬考え込んで、
「本気ですか?」
と聞きました。
「当たり前だろう」
カマジイが真顔で答えます。
「いやぁ、これはなんとも、斬新な発想ですね。まさかそう来るとは思いませんでした」
右手で頭をポリポリと掻きながら、マサルはこの事態をどう考えたらいいのかと迷っていました。熱帯魚水槽に報告に行くのは当然として、まずは館長の反応を見ておくか?館長がこれを肯定的に捉えるだろうか?と頭の中でグルグルと考え込んでいるうちに、美冬に連れられて館長と飼育員数名がやってきました。
「この水槽が、いったいどうしたって?」
館長は訝しげに美冬を見ています。
他の飼育員たちも、訳が分からないという表情で水槽と美冬を見比べています。
「とにかく見ていてください!」
そう言いながら、美冬は水槽の右端(魚たちから見て左端)に向かって歩き出しました。
美冬が水槽の右端に立つと、水槽内ではさっきと同じ光景が繰り広げられました。
「ええっ!」
「なんだこれは」
みんなが口々に驚きの声を上げ、そのままポカンと口を開けたまま棒立ちになりました。
数分たち、美冬が水槽の右端から移動すると、魚たちは動きを止めました。まるで何事もなかったかのように、いつもの深海水槽に戻っています。
もう一度美冬が水槽の右端に立つと、やはり一斉に動き出しました。
「信じられない」
誰かがポツリと呟きました。それが誰だったのか、誰にも分かりませんでした。きっと、呟いた本人も、自分が呟いたことに気付いていなかったでしょう。
そのくらい、全員が呆然としていたのです。
試しに館長が水槽の右端に立ってみました。
しかし水槽には何の変化も起きません。
次にチーフ飼育員が立ってみました。
やはり何も起きません。
その場にいた全員が1人ずつ立ってみましたが、美冬以外の人間には全く反応がありませんでした。
「これはいったい、どういうことなんだね?」
館長が美冬に尋ねました。
「私にも、何がなんだかさっぱり」
美冬は心此処にあらずという感じで答えました。
「しかし魚たちは君にしか反応しないじゃないか。君が何か訓練をしたんじゃないのか?」
「いいえ!私は何もしてません!それに、魚たちがこんな動きをしたのは、今日が初めてなんです!」
我に返ったように美冬が否定しました。
館長は腕組みしてしばらく考えた後、意を決したように、美冬に向かって人差し指を立てながら言いました。
「1週間。1週間、様子を見よう。100%の確率で、魚たちが君に合わせてこの動きをするようなら、ここでショーを開催しよう」
「えっ、本当ですかっ」
美冬が叫びました。
「ああ。派手な動きではないが、この種の魚たちがこんな動きをするなんて、前代未聞だ。充分にショーとして成り立つだろう。
「こりゃビックリ!まさかこんなことになるとは思わなかった。すぐに報告しに行かなくちゃ」
水槽の上から一部始終を見ていたマサルが熱帯魚水槽にすっ飛んで行きました。
話を聞いた熱帯魚水槽の仲間たちは大騒ぎ。
驚く者、笑う者、呆れる者、感心する者、反応は様々でしたが、水槽のアクリルガラスが割れんばかりの大反響となりました。
そしてみんなでワクワクドキドキしながら1週間後を待ちました。
「よし、これをショーにしよう。とりあえず1日2回で様子を見る。すぐにビラを作って、受付に置いて」
と館長がチーフ飼育員に指示を出しました。
あれから1週間、美冬が何度試してみても、魚たちは確実に例の動きをしてみせたのです。
「やった!」
「やったぞ!」
「これで美冬ちゃんをショーに立たせてあげられる!」
魚たちは興奮して叫びましたが、もちろん人間には聞こえていません。
館長が美冬に向かって言いました。
「しかし、君がただそこに立つだけ、というのでは芸がないな。ショーとして薄い。何か合図を決めよう。君の合図で魚たちが動いているかのように見せるんだ」
「合図・・・ですか」
「そうだ。それっぽく見えれば何でもいい。旗でも縫いぐるみでも、好きなものを振ってくれ」
「はい、分かりました」
こうして1日2回のショーが始まりました。
その反響は、館長の予想を遥かに超えました。
魚たちのショーを見た人たちが、次々と写真や動画をネットにあげたからです。
ショーの存在が瞬く間に広がり、全国からお客さんが見に来るようになりました。
当然、この騒ぎをテレビが見逃すはずはありません。各局のテレビが次々と取材に訪れ、ショーを放送しました。そのたびに美冬がインタビューされ、美冬は日本でもっとも有名な飼育員さんと呼ばれるようになりました。
1日2回のショーではお客さんを捌ききれず、3回、4回と増やし、今では5回になりました。
見た目は地味なショーですが、テレビやネットであらゆる専門家が「こんなことはありえない」と声高に叫んだことで、さらに話題になりました。
他では絶対に見られない、という希少価値が、このショーの人気を不動のものにしました。
「うまく、いった、な、ゼェゼェ」
「まったく、だ、ハァハァ」
「いま、や、美冬、ちゃん、の、ゼェゼェ、人気、は、ゼェゼェ、うなぎのぼ、り、だ、ゼェゼェ」
深海水槽の仲間たちは、かなり疲れていました。
日頃ほとんど動かない魚たちが、1日5回も激しく動くのです。疲れないはずがありません。営業時間が終了すると、みんなグッタリです。
美冬がガラスを拭きながら
「みんな今日もありがとう!私がショーに立てるのは、みんなのおかげよ!」
と満面の笑みで声をかけてくれることだけが、魚たちの心の支えとなっていました。
「みなさん、さすがに無理があるんじゃないですか?このままだと、体を壊しますよ」
水槽の上からマサルが声をかけました。
「まだ、やれる、ハァハァ」
グッタリしたままカマジイが答えました。
「とてもそんなふうには見えませんよ。体を壊してからでは遅いんですよ」
マサルは眉間に皺を寄せながら言いました。
「心配、ない、ゼェゼェ」
ヒゲツノザメのケンも言いました。
「美冬ちゃん、が、喜んで、くれる、限り、ゼェゼェ、俺、たちは、やる、ゼェゼェ」
それを聞いたマサルは、ため息をつきながら去っていきました。
数日後、いつものように営業時間が終わってみんながグッタリしていると、美冬がワイパーを持ってやってきました。なんだかいつもよりさらに上機嫌です。
「みんな、今日もありがとう!素敵なショーだったよ!」
ワイパーでガラスを拭きながら、美冬はいつものようにみんなに語り始めました。
「みんなのおかげで、こうやって毎日ショーに立つことができて、私は本当に幸せよ」
グッタリしていた仲間たちは、この言葉と美冬の笑顔にデレデレ。疲れが飛んでいきました。
「しかもね!実は、私に彼氏ができたの!これもきっと、みんなのおかげね」
ちょっと照れながらワイパーを動かす美冬。
「は?」
「え?」
「なんだって?」
「彼氏?」
「え〜〜〜っ」
水槽内に絶叫が響き渡りましたが、もちろん美冬には聞こえません。
「健人君っていうんだけど、彼もみんなのショーを観たいって言ってるから、そのうちみんなに紹介するね。あら、私ったら、彼だって。キャッ」
美冬はワイパーを持ったまま、両手を頬に当てて照れています。
その様子を魚たちは呆然と眺めていました。
美冬が立ち去った途端、みんなが一斉に上を見ながら叫びました。
「おいっ!これはいったいどういうことなんだ!マサルっ!!」
マサルは呆気にとられた様子で答えました。
「どうもこうも、私も初耳です。まさか美冬なんかに彼氏ができるなんて」
「美冬なんか、とはなんだ!」
タカアシガニのタゴサクが怒鳴りました。
少し冷静になったゾウギンザメのギスケが、
「とにかくすぐに調べてくれ。お前には分からないと言うなら、コウゾウに聞く」
と脅すように言いました。
「な、何を仰るんです、ギスケさん」
マサルは焦りました。
コウゾウは、この水族館を縄張りにしているネズミたちの中で、一番の情報屋です。
水族館の仲間たちにも一目置かれ、「コウゾウが知らないことは何もない」と言われていました。
そのコウゾウにここに来られたら、もうマサルは用無しです。マサルのプライドが崩れる音が聞こえそうでした。
「すぐに調べますよっ」
と言うや否や、マサルはダッシュで走り去りました。
巣穴に入ろうとしたところで、マサルはポッチャリ体型のネズミと鉢合わせました。
「あ、ノリコ」
「あら、マサルじゃないの。こんな時間に巣穴に戻ってくるなんて、珍しいわね」
ノリコと呼ばれたネズミは目をまん丸に見開いて言いました。
「ノリコ、きみは美冬に彼氏ができたことを知ってるか?」
とマサルが聞きました。
「ああ、同じ大学に通っていたとかいう彼氏ね」
ノリコはあっさり答えます。
「えっ、知ってたのか?」
「さっきコウゾウから聞いたところよ」
「で、コウゾウは今どこに?」
マサルはノリコに掴みかからんばかりの勢いで尋ねました。
ノリコはちょっと怯みながらも、
「熱帯魚水槽じゃないかしら」
と言いました。
「ありがとうっ」
と言い終わる前に、マサルは熱帯魚水槽に向かって駆け出しました。
熱帯魚水槽では、コウゾウと熱帯魚たちが大騒ぎしていました。どうやら、美冬の話で盛り上がっているようです。
マサルに気づいたセンネンダイが、赤と白の縞模様を揺らめかせながら声をかけました。
「おう!マサル!美冬のこと聞いたか?」
ちょっとバツの悪そうな顔でマサルは答えました。
「ついさっき知ったところです」
全身真っ青で体の大きなオニハゲブダイが、からかうように言いました。
「やっぱりコウゾウの方が情報が早いな」
「うぐっ・・・こ、今回はたまたまですよ。それで、相手はどんな男なんですか?」
すると、小柄で賢そうな顔をしたネズミが近づいてきました。コウゾウです。
「同じ大学に通っていた男で、あだ名は王子だそうですよ」
「王子?なんだそりゃ」
マサルが不思議そうに言いました。
「なにやら海辺の街の出身らしくて、大学に入学したときに自分は海の王子だと名乗っていたらしいですよ。それを面白がった学生たちが、王子と呼ぶようになったんだとか。とにかく目立ちたがりやで派手好きな男ですよ。要はチャラ男です。大学ではけっこうな有名人だったらしいですよ。美冬は在学中からその男のことを知っていたけど、男の方は美冬のことは全く知らなかったらしいです」
「それがなんで付き合うようになったんだ?」
マサルは、あんな地味な美冬と、と言いかけましたが、やめました。美冬が地味なことは、ここにいる全員が分かりきっているからです。
「美冬がテレビに取り上げられて有名になったので、男の方から近づいて来たんですよ。なにしろ目立ちたがりやな男ですから、有名人の美冬と付き合えば自分も目立つと思ったんでしょうね。どうやら美冬はその男にずっと憧れていたらしくて、二つ返事で付き合いをOKしたようです」
「自称海の王子のチャラ男に憧れていた?美冬が?あの地味な美冬が?」
マサルは訝しげに聞きました。分かりきっているはずの地味という言葉がつい出てしまいました。
「自分に無いものを求めるってやつじゃないですか?」
コウゾウは首を傾げながら答えました。自分に無いものを求めるなんて、ネズミには理解できない感覚です。
横からオニハゲブダイが入ってきました。
「そもそも美冬のセンスはおかしいからな」
「そうそう!美冬のセンスはトチ狂ってるんだよ」
シマハギが同調しました。鮮やかな黄色と黒の縞模様が今日も目立っています。
「リンゴの縫いぐるみだもんなぁ」
オニハゲブダイが呆れたように言いました。水槽のあっちこっちから「そうそう!」という声が響きました。
館長からショーの合図として何か振るように言われた美冬が選んだのは、直径15cmくらいの真っ赤なリンゴの縫いぐるみでした。
シマハギが美冬のセンスの無さを語ります。
「水族館で、魚のショーの合図がリンゴなんて、どう考えてもおかしいだろう。しかも、合図にしては小さいし。水槽からも観客からも見えにくいじゃないか。見た目も実用性も、どっちもアウトだ。こういうところなんだよな、美冬のダメなところって」
「全くその通りだ」
センネンダイが大きな声で同調しました。周りの魚たちも一斉に頷きます。
シマハギがマサルに向かって尋ねました。
「そもそも深海水槽の連中は、あのリンゴについて何と言っているんだ?」
「ああ~、それは・・・」
マサルは言いにくそうにちょっとだけ間をおいて答えました。
「真っ赤なリンゴが美冬ちゃんのほっぺみたいで可愛い、とか、美冬ちゃんの手にフィットしていてベストチョイスだ、とか、仰々しいものを持たないところが奥ゆかしくて美冬ちゃんらしい、とか、要するに大好評です・・・」
センネンダイが呆れて言いました。
「そういうとこなんだよなぁ、あいつらのダメなところって」
「では、私はそろそろ…」
と言いながらマサルが腰を浮かすと、シマハギが
「深海水槽に行くんだろ?美冬の彼氏について報告しに」
と声をかけました。
「ええ、まぁ」
マサルが肯定すると、オニハゲブダイが真っ青な体をニュッと突き出して言いました。
「彼氏がチャラ男だっていうところだけは伏せておけよ」
「え?何故ですか?」
マサルはキョトンとしています。
「決まってるだろう、そのほうが」
と言いかけたオニハゲブダイに、シマハギが続きました。
「面白くなるからさ」
深海水槽に戻ったマサルは、チャラ男の部分だけを伏せて彼氏について報告しました。
「なるほど、ゼェゼェ、同じ大学に、通って、いた、男なのか、ゼェゼェ」
タカアシガニのカマジイが、疲労でグッタリしながらも、しんみりと言いました。
「でも、ハァハァ、当時は、知り合いでは、ハァハァ、なかった、と」
ヒゲツノザメのチャが続きます。
「テレビに、映った、美冬ちゃんの、ゼェゼェ、
魅力に、参った、クチだな、ゼェゼェ」
したり顔でゾウギンザメのギスケが言いました。疲れ切っているのに、長い鼻を上下に揺らし、納得のポーズをとっています。
マサルがちょっと驚いたようすで言いました。
「みなさん、意外と冷静ですね。私はてっきり、みなさんが怒って美冬のファンをやめるかと思っていたんですが」
「何を、言う、ゼェゼェ」
カマジイが呆れたように言いました。
「推しの、幸せは、我らの、幸せだ、ゼェゼェ。美冬ちゃん、が、幸せなら、ゼェゼェ、何も、言うことはない、ゼェゼェ」
そうだそうだと頷きながらユメカサゴのサンジが続きます。
「俺たちを、そこらの、にわかファンと、ハァハァ、一緒にするなよ、ハァハァ。俺たちの、美冬ちゃんに対する、想いは、筋金入りなんだ、ハァハァ」
全員が一斉に深く頷きました。
どんなに疲れていても、美冬が絡むと力が湧いてくるようです。
チャラ男のことを伏せておけと言ったオニハゲブダイの顔が、マサルの脳裏をよぎりました。
数日後、今日も水族館の営業が始まりました。
深海水槽のショーは順調に開催されていました。
午後2時50分になると、美冬はいつものように深海水槽の左側に立ちました。3時から、本日4回目のショーが始まるのです。お客さんは既に続々と水槽の前に集まっていました。
そのお客さんの中から、1人の男が美冬に近づいてきました。
「よ!美冬」
周りのお客さんに遠慮して、少し小声で言いながら美冬の肩に手を置きました。
「あ、健人君!」
美冬の顔がパァっと輝きました。
水槽の中では、魚たちが一斉にケントを凝視しました。
健人は、髪の色こそ真っ黒でしたが、誰がどこからどう見ても、完全にチャラ男でした。
「来てくれたんだ」
美冬が頬を染めながら言いました。
「当たり前だろ。俺の彼女が活躍するんだから、直接見ないとな」
「ケントくんったら…」
美冬は左手にリンゴの縫いぐるみを持ったまま、両手を頬に当てました。もうデレデレです。
その両眼はすっかりハートマークになっていました。
「こんなにたくさんの観客の前で俺の彼女がショーをやるなんて、俺も鼻が高いよ。美冬は俺の自慢の彼女だ。俺が海の王子だから、美冬は水族館の王女だな」
ドヤ顔で語る健人を、美冬は目をウルウルさせながら見つめていました。
「いや、ホントに美冬はすごいよ。どう見てもただの地味な魚とカニなのに、それを思いのままに操るなんて。美冬は魔法を使う妖精なんじゃないのか?」
美冬の顔はもう真っ赤になっています。
「魔法だなんて・・・(キャッ、テレテレ)、あれは、魚たちが勝手にやってることなのよ」
「え?そうなの?」
「そうなの〜。でも、これは内緒ね」
美冬は上目遣いで健人を見つめながら、口元に人差し指をあてました。
ふたりは周りの観客の目を気にして小声で会話しているつもりでしたが、その声はしっかりと水槽内に響いていました。
「あ、そろそろ時間だ。じゃあ、健人君、またあとでね」
「おう!頑張れよ、美冬」
「うん!」
健人は観客たちの先頭に立ちました。目立つ場所が好きなのです。
その姿に見惚れながら、美冬はインカムをセットしました。マイクを口にあてて、
「みなさ〜ん、こ〜んに〜ちは〜!」
と声をあげました。
観客からも一斉に
「こ〜んに〜ちは〜!」
という声が返ってきます。
このやりとりにもすっかり慣れました。
「さあ〜、これから深海水槽のショーを始めま〜す。みんな、準備はいいかな〜?」
「は〜い!」
その声を聞いて、美冬は水槽の右端に移動しながら、
「では、いきま〜す!はいっ」
と叫んで、水槽の右端でリンゴの縫いぐるみを高々と掲げました。
しかし、水槽内には何の変化も起きませんでした。
「あれ?見えなかったのかな?もう1回やりますね。はいっ」
今度はジャンプしながらリンゴを思いっきり高く上げてみましたが、魚たちもタカアシガニたちも、何事も無かったかのようにジッとしていました。ヒゲツノザメとゾウギンザメが、シレ〜ッとのんびり泳いでいるだけです。
「あ、あれ?どうしちゃったのかな?はいっ」
美冬は何度もリンゴを上げたり下げたりしましたが、水槽内には何も起こりませんでした。
「おいおい、『美冬ちゃんの幸せは我らの幸せ』なんじゃなかったのかよ。にわかファンと一緒にするなとか、いろいろ言ってたのにな〜」
水槽の上で、マサルが呆れながら独り言ちました。
そのまま熱帯魚水槽に向かって歩きかけましたが、クルリと踵を返して、深海水槽内に声をかけました。
「みなさん、お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
水槽内のあっちこっちから
「おう!」
という声が響きましたが、その声は美冬にも観客にも聞こえませんでした。