幻想郷の善良なる一般里人
見渡すほどの膨大な書物が貯蔵されている場所があった。
そこは地下に存在し、窓などはなく、風通しが悪い上に日当たりもないのでかび臭い。
そこにホワイトボードに記号や数式を書いて何かを話している足枷を嵌めた男がいた。
それは最近、紙芝居屋から里で人気の作家になったオオスであった。
向かいにはロココ調のコンソールテーブルがあり、椅子に何人かが腰かけていた。
一人は長い紫髪の眠たげな美女である。
髪をリボンでまとめ、紫と薄紫の縦縞が入った、ゆったりとした服を着用し、帽子を被っている。また、服の各所に青と赤と黄のリボンがあり、帽子には三日月の飾りが付いている。
名をパチュリー・ノーレッジという。
「Tin chloride is used as the reductant to convert mercury to the hydride.」
(水銀を水酸化物に変換する還元剤として塩化スズを使用します。)
オオスが今までの説明の要約をしていた。足枷はあるが重りを引きずれば動けなくはない。
黒板では掃除が面倒だと用意させたホワイトボードには魔法式と科学式が混在していた。
「For detection, high sensitivity mercury concentration measurement is performed by the atomic fluorescence method.」
(検出は原子蛍光法により高感度水銀濃度測定を行います。)
ホワイトボードの一番上には『水銀の検出と喘息対策』と日本語で書かれてあるが、それ以降はほぼ英文となっていた。
途中から魔導書等の知識を日本語訳するのが面倒になったこと、魔法や科学が適切に表現して伝えようとした結果、英語での会話となっていた。
なお、オオスはぶっ続けで二時間程英語で話したり書いたりしていた。
「The atomic fluorescence method?」
(原子蛍光法?)
パチュリーが聞きなれない単語を聞き返した。魔法はオオスよりも遥かに深い知識を持つが、科学まで詳しいわけではない。
パチュリーとしても、話を合わせようとすると錬金術やそういう共通項まで遡ることになる。その場合、共通認識として英語が適切だった。
「Ah...An analytical method for quantifying elements by utilizing the phenomenon that absorbed light is emitted again as fluorescence when irradiated with light having an absorption line wavelength peculiar to an atom.」
(えーと…。原子に固有の吸収線波長の光を照射したときに吸収された光が再び蛍光として放射される現象を利用して元素の定量を行う分析法です)
オオスがパチュリーの意図を理解し、図解しようとホワイトボードの文字や数字の一部を消そうとする。
しかし、それはこの館の主に遮られた。
「ちょっと二人して何話してるかわからないわよ!日本語で話しなさい日本語で!?」
どう見ても外国人の少女が日本語で話せと叫ぶ。実に奇妙な光景がそこにはあった。
青みがかった銀髪に真紅の瞳。
10歳にも満たないような背の高さだが、背中に大きな翼を持っていた。
衣服はピンク色で赤い線が入り、レースがついた襟があった。
両袖は短く膨らんでおり、袖口には赤いリボンを蝶々で結んである。小さなボタンで、レースの服を真ん中でつなぎ止めている。腰のところで赤い紐で結んでいる。
スカートは踝辺りまで届く長さでこれも赤い紐が通っている。
少女の名はレミリア・スカーレット。
紅魔館の主で、約500年以上の歳月を生きてきた吸血鬼の少女である。
「…喘息の原因はどう考えても水銀だから負担が減るよう、空気中の水銀濃度を測定する方法を話していました」
オオスは面倒臭そうにレミリアを見て言った。
オオスにしては珍しく露骨に面倒臭そうな表情をしていた。脳を切り替えていたのにやや集中力が切れて戻ってしまった。
「ちょっとレミィ。今、良いところなのだから」
パチュリーも同様に面倒臭そうな目でレミリアを見ていた。今は邪魔である。
オオスとパチュリーは二人してレミリアは放っておいて会話を再開する。
「パチュリーの使えるという属性魔法。
その内、変化を司る“火”と基礎となる“土”で応用できると思うのですが…」
オオスは言葉を選びながら科学を魔法に変換する方法を提示していた。
脳を日本語に切り替えたのでどの言葉が適切か微妙にわからなくなっていた。
基本的に魔導書は原文から読むので思考そのものを英語やラテン語等にした方が色々都合が良かった。
少し経験を積めば問題ないだろうが、急に習慣を変えると厳しいものがあった。
「あー…ごめんなさい。可能だと思うけど、もうちょっと具体的に話せないかしら?」
一方のパチュリーはオオスの話を理解しながらも先ほどとは打って変わって抽象的になったオオスに話の掘り下げを求めた。
パチュリーは陰陽五行もわかるので日本語でも良いのだが、魔導書を読み込むとその言語にした方が効率が良いのは知っていた。
恐らくオオスはこれまで魔法を他者へ説明する必要が薄かったのだと判断した。パチュリーもそうであるので共感できる悩みである。
魔法使いは基本的に自分がわかれば良いという種族である。パチュリーの分析ではオオスは思考を本の著者に合わせることで効率良く魔法使いの知識を吸収していた。
多様な人妖の思考を取り込むような行為である。人間のままではかなり危ない領域に至っていた。
「だから日本語で話しなさいよ!日本語を」
レミリアは自分がわからないせいか子どものようにお怒りのようだ。
自分を置いていくなと主張する。丁寧に説明したところで面倒臭くなり寝るだろう貴様とオオスは思っていた。
「レミィ。落ち着きなさい。今のは日本語よ」
パチュリーがレミリアを窘めて言った。
無理に体裁を取り繕おうとした結果、余計に見苦しくなっている友に優しい口調を心がけていた。
「やはり、情報伝達の観点から英語が一番齟齬が少ない。…英語に戻して良いですか?」
オオスはちらりとレミリアを見て言った。オオス的にはレミリアなんぞ知ったことではないので話を戻したかった。
足を拘束された状態で悪魔の屋敷、その当主をないがしろにしている。
だが、外での経験を積んでいるオオスにとってこの程度は匙である。
というか、オオス的にはレミリアのせいでこうなっているので今更取り繕う必要性が皆無であった。
「私、魔導書は英語かラテン語版ばかり読んでいたのでどうも抽象的になってしまいます。
…時間頂ければ全文日本語にしてお渡ししますので家に帰っていいですか?」
オオスは面倒くさいというのを隠さず、家へ帰せと言い始めた。
何なら屋敷内の不穏分子を誘発してやろうかと思っていた。大体勘でわかるのだが、地下からヤバい気配を感じ取っていた。
すると、突然メイドが現れた。
「それは辞めた方が良いかと」
髪型は銀髪のボブカットであり、もみあげ辺りから三つ編みを結っている。また髪の先に緑色のリボンを付けている。
身長は10代後半以降程度であり、これまた絶世の美少女である。
服装は青と白の二つの色からなるロングスカートのメイド服であり、頭にはカチューシャを装備している。
少女の名は十六夜咲夜。オオスの家に突然来訪したと思ったら拉致した挙句、足枷嵌めてきた紅魔館のメイド長であった。
「今、外は赤い霧で覆われていますので妖怪だらけ。足枷のある今の貴方では即死にますよ?」
足枷を嵌めた本人である咲夜が平然と宣った。この男には死で脅した方が手っ取り早いと悟っていた。
だが、必ずしも通じないどころか滅茶苦茶してくる。時を止めて拘束した方が一番確実なのだが、主命で禁止されてもいた。
「では、時間止めて送ってくださいよ。私を拉致したときのように」
オオスは咲夜の能力を知らないはずだが、平然と宣い返す。時止めできるのならば送り返せと主張していた。
「面倒臭いから嫌ですわ」
そう言って話を打ち切る咲夜。まるで悪びれた様子はない。
「レミリアさん。従業員にどんな教育しているのですか、これは?」
オオスは雇い主に文句をつけた。今更ながら、悪魔、妖怪の館に拉致軟禁された常人の反応ではない。
「私、そもそも拉致しろなんて言ってないのだけど…」
レミリアは疲れたように言う。最初はへりくだっていた癖にいつの間にか場の空気を支配し始めていた。
「紙芝居聞きたいから呼んで来いって言ったのよね。レミィ?」
パチュリーがレミリアの補足をする。
この補足は紙芝居を聞きたいというと子供っぽいのでそれっぽく誤魔化して咲夜に伝えていたレミリアの心を抉った。
「なるほど…まぁ、時間対策してなかった私に落ち度がないわけでもないか」
拉致被害者オオスは何故かその説明で納得したようだ。
オオスの経験上、時空間の対策は必須である。精神攻撃は万全だったが、手落ちがあった。
「いや、その理屈はおかしいわ」
レミリアはオオスにツッコミを入れた。時間対策等普通の人間がしているはずもない。
「鍵をかけてなかったから泥棒が入った。勿論、泥棒が悪い。
しかし、鍵をかけてない方も落ち度はあるという意味です」
オオスはレミリアに物分かりの悪い子どもに語り掛けるように優しい声色で言った。
「ねぇ、咲夜?幻想郷の里人って皆こんなのなのかしら?」
会話ができるのに話が通じないオオスにレミリアは咲夜に助けを求める。
「申し訳ありません、お嬢様。
私は今まで紅魔館からあまり出たことがないのでわかりませんわ」
しれっと主人であるレミリアの助けを躱す咲夜は中々図太い。
「失礼な!どこからどうみても幻想郷の善良なる一般里人ですよ、私は。
咲夜さんが人里に何回か来ていたら能力解析して対策していました。
防犯対策の基礎でしょうに。…お嬢様だから常識に疎いのは仕方がないか」
オオスは本気なのか冗談なのかわからないが本心からそう言っているように見える。
「あー。喉痛くなってきた。小悪魔さん紅茶おかわりください。ダージリンが良いです」
「私もお願い。砂糖は二つね」
完全にフリーダムなパチュリーとオオスはパチュリーの使い魔である小悪魔に紅茶のお替りを所望する。
「わかりました」
そう言って小悪魔が頭を下げて紅茶の準備を始める。
小悪魔は赤い長髪で頭と背中に悪魔然とした羽、白いシャツに黒褐色のベスト、同色のロングスカートでネクタイを着用している。
「私は頭痛くなってきたわ」
レミリアは頭を抱える。偉大な吸血鬼である自分が何故ここまで振り回されるのか。
紙芝居やった礼に図書館を見せてやるところまでは完璧だったはず。
喘息状態のパチュリーの介抱に付け込まれ、この男に恩を売られたのが運の尽きだったのだろうか。
私は悪くない。拉致加害者レミリアはそう心の中で叫んだ。
「子どもは早く寝た方が良いかと」
オオスはレミリアにそう言った。
もう寝ろというのはオオスの本心であり、優しさが半分というどこぞの製薬会社のようなフレーズである。
「子どもじゃないって言ってるでしょうが!うー…咲夜、なんなのこいつ」
これから幻想郷の歴史に名を刻む異変を起こしたはずの吸血鬼の主は咲夜に思わず助けを求める。
「お嬢様がつれて来いと言った人里の紙芝居屋ですわ。確か」
瀟洒な従者は助けを無視した。咲夜としてはキチンと仕事をしただけであるのでわからないことはわからない。