第82話 芽生えた気持ち
良い趣味が出来た、とクロエはしみじみ思った。
大きなハードカバーの本を太腿の上に乗せて、ずらりと並んだ文字の羅列から頭に世界を思い浮かべる。
誰かが考えた物語に接するという娯楽は、どちらかというと内向的なクロエにピッタリとハマった。
たちまちのうちに、クロエは読書の虜になった。
家事が終わって空いた時間に、食後のまったりした時間に、寝る前の少しの時間に、クロエは本を読むようになった。
もちろん、真面目で使命感の強いクロエは本の読みたさで仕事の手を抜くことはしない。
やるべき事はしっかりとこなしてから、読書に時間を使うようになった。
イアンにお薦めされた二冊の本をクロエはゆっくりと読み進め、数日かけて読み終えた。
特に『騎士と恋』の方は面白かった。
サラが言ったように天地がひっくり返ることはなかったが、まさかの展開にベッドでひっくり返ってしまう一幕はあった。
「とても面白かったです!」
とある平日の昼下がり。
本屋を訪問するなりクロエは、本棚を整理していたイアンに言った。
クロエのとても満足げな表情を見るなり、イアンはにこりと柔らかい笑みを浮かべる。
「おお、読み終わりましたか。楽しんでいただけたようで、何よりです」
「もう、最高でした。設定も好みでしたし、二人の恋模様もいじらしくて、応援したくなって……クライマックスはベッドで読んでいたのですが、思わずふおおおって立ち上がってしまいました、最後の一ページまで本当に面白かったです」
興奮気味に話すクロエに、イアンは嬉しそうに笑う。
「そんなにも楽しんでいただけると、嬉しい気持ちになりますね。僕としてもお薦めした甲斐があったというものです」
「ナイスチョイスでした。それで、あの……」
微かに視線を彷徨わせてから、クロエは言葉を紡ぐ。
「また、おすすめを教えていただけますか?」
「ええ、もちろん。どんな本にしましょう?」
「ありがとうございますっ。この前、一冊目におすすめしてくださったお話がとても好みだったので、似たようなものがあれば……」
「なるほど、わかりました。ではこちらへ」
イアンの案内でラブロマンスものの棚に移動する。
その中から、昔に刊行された名作から最近流行りの作品まで、何冊かおすすめをセレクトして貰った。
「では、こちら一点のお買い上げでよろしいですね?」
「はい、よろしくお願いします」
「ありがとうございます。お会計が……」
財布を出して代金を支払う。
ちなみに今回購入を決めた本も、主人公が女の子でヒーローが騎士のものだった。
「そういえば、イアンさんはどんなお話が好みなのですか?」
「僕ですか?」
紙袋に本を包むイアンに、ふとクロエは尋ねてみる。
「そうですね……」
顎に手を当ててしばし考え込んでから、イアンは口を開く。
「これと言ってこういう話が好き、というものはないかもしれません。子供の頃から本が身近にあって、毎日のように読んできたので、もはや本だったらなんでも良いと言いますか……面白みのない答えですみません」
「いえいえ! 子供の頃からたくさんの本が身近にあるなんて、凄い環境ですね」
「平民にしては珍しいかなと思います。生まれた時からずっと、ここに住んでいるんですよ」
「そうなのですか?」
店内を見渡してから、イアンは言った。
「ここ、親父から譲り受けたお店なんです。数年前に親父が亡くなってから、そのまま継いだ形です」
懐かしそうに眼を細めて言うイアンに、クロエの表情が曇る。
「そう、だったんですね……ごめんなさい、思い出させてしまって」
「……優しいんですね、クロエさんって」
しょんぼり落ち込むクロエに、イアンが溢すように言う。
「優しいだなんて、そんな……」
「どうか、お気になさらないでください。僕としてはもう、折り合いがついている事です。父がいなくなって寂しい気持ちもありますが……僕には本があります。もともと本を読む事以外に趣味も無いので、僕としては楽しい日々を送っているのですよ」
寂しさや虚しさなど欠片も感じさせない声で言うイアン。
クロエの胸に安堵が舞い降りる。
「……お気遣い、ありがとうございます」
小さく頭を下げるクロエの表情に、ようやく笑顔が戻った。
同時に、イアンに対し羨望の念を抱いている自分にクロエは気づく。
心の底から好きだと言えるものがあって、それが自分でもわかっていて。
その好きなものに没頭して楽しい日々を送っているイアンを羨ましいと、クロエは思った。
「ああ、そうだ」
ひとつ、思い至ったようにイアンは言った。
「僕が好きな話、浮かびました」
「お、なんですか、なんですか?」
「みんな笑顔でハッピーエンドで終わる話が好きです。争い事は性に合っていないので、ゆるっと読めて幸せな気持ちで読み終えられる本が好きですね」
イアンの言葉に、クロエはこくこくとしきりに頷いた。
「私も、そういう話の方が好きです」
同じく争い事が嫌いで、のんびりゆったりしていたいクロエ。
話している時の物腰やストレスの無さと言い、イアンとは気が合いそうだとクロエは思った。
「遅くなりましたが、こちらどうぞ」
「ありがとうございます!」
綺麗に袋に包まれた本を受け取ったクロエがむふーと鼻を鳴らす。
まるで、ずっと欲しかった玩具を買ってもらえた子供のようにご満悦だ。
「また読み終えたら、感想を聞かせてください」
「こちらこそ是非! それで、あの……迷惑でなければで良いのですが」
「はい、なんでしょう」
ごそごそと、クロエはリュックから小さな紙袋を取り出しイアンに差し出した。
「良かったらどうぞ」
「これは……」
「クッキーです、家で焼いた余りですが……甘いものが苦手とかでなければ是非。この前、お薦めいただいたお礼です」
にっこりと屈託のない笑顔で言うクロエ。
言葉の通り、親切に本をお薦めしてくれたことに対する深い意味のない善意だったが……。
「イアンさん?」
「あっ……いえ……すみません」
一瞬ぼーっとしてしまったイアンが、瞳に微かな動揺を浮かべて眼鏡を持ち上げる。
「こういった贈り物は初めてなもので、少し驚いてしまいました」
言いながら、イアンはすぐに表情を笑顔に戻したあと。
「甘いものは好物です、ありがとうございます」
そう言って、クロエから小袋を受け取った。
「はいっ。本を読むと甘いものが欲しくなりますからね、是非お供にしてください」
「ありがたく頂きます」
目を伏せ礼を言うイアンに、クロエは嬉しそうに笑うのであった。
◇◇◇
クロエが退店した後。
ひとり、店台に座って天井を眺めるイアンがぽつりと言葉を漏らす。
「……やっぱり、とても優しい人だな」
一応、店内を見回してから、先ほど貰った小袋を開ける。
今はお客さんもいないし一つくらい大丈夫だろうと、綺麗な円型のクッキーをさくりと齧った。
「美味しい……」
じんわりとした甘みと、ほんのりとバターの風味が鼻に抜ける。
かといって甘すぎず、癖になる味わいだった。
一つくらい、と言ったにも関わらず、イアンの指先は二つ目、三つ目のクッキーに手が伸びてしまう。
「はっ、いけないいけない……」
我に帰ってすぐ、イアンは小袋の封をし直した。
ここで全部食べてしまっては勿体無い。
椅子に座り直して、イアンはほうっとため息を漏らした。
「クロエさん……か」
その名前を口にしたら、なぜだか胸がざわざわした。
「どこに住んでいる人なんだろう」
接客をしている時に浮かべていた時とは違う種類の笑みを浮かべて、イアンは呟くのであった。




