第80話 ミリアとサラ
「あ、お猿のおねーちゃーん!」
家まで後少しという場所にある公園の前を通りかかった時、聞き覚えのある声がクロエの鼓膜を震わせた。
見ると、五歳くらいの女の子がこちらに駆けてきていた。
背中まで伸びた柔らかそうなブロンドヘア、くりくりっと可愛らしいブルーの瞳。
ゆるふわっとしたフリルつきの洋服を着ていて、良いところのお嬢さんな印象を受ける。
「こんにちは、ミリアちゃん」
クロエも公園に足を運んでミリアと落ち合った。
「こんにちはー! ほら、オセロも挨拶!」
ミリアが言うと、足下からにゃーんとのんびりした声。
見ると、黒と白のハチワレ猫がすりすりとクロエの足に頭を擦り寄せていた。
「ひゃー! オセロちゃん! 元気してた?」
クロエが膝を折ると、オセロはごろんとお腹を見せてくれる。
ほらほら撫でるにゃーとでも言わんばかりだ。
「わあー、ふわふわだあ……今日も可愛いねえ……」
喉をゴロゴロ鳴らしながらご満悦そうなオセロのお腹を撫でる。
指先から伝わってくる温かくてもふもふとした感触に、クロエの顔はものの見事にだらしなくなっていった。
「んにゃあ……かわいいにゃあー……ふにゃあ……」
声までだらしなくなってしまった。
思い返すと約二ヶ月前。
木の上で降りられなくなっていた子猫をクロエが助けた事をきっかけに、ミリアとは仲良くなった。
その時、クロエはミリアに“お猿のおねーさん”という不本意な称号が付けられてしまったのだが、それはまた別のお話である。
助けた子猫はミリアの家に引き取られ、オセロと名付けられた。
後日、ミリアの母サラは、ロイドの上司フレディの奥さんという事が判明。
夕食会に誘ってもらったり、たまに公園で会った時に話す間柄になった。
「オセロ、見ない間に大きくなったねえー」
初めて出会った時はもっと小さかった気がするが、ミリアの家で幸せな生活を送っているうちに見事なサイズアップを遂げているように見えた。
「むー、オセロ、私にはあんまりお腹見せてくれないのに!」
ミリアが頬を膨らませて言う。
「猫ちゃんは気まぐれだからねー。私も毎日かまってたらきっと、お腹見せてくれなくなっちゃう」
「毎日お腹見せてほしいの! ううー……もう、こうなったらたくさん餌付けしてやるんだから!」
「あんまり食べさせちゃったら、健康に悪いような……」
そういえば、とオセロの顎先を撫でながらクロエが尋ねる。
「今日はお母さんと一緒じゃないの?」
「あら、いるわよ」
「ふぇ?」
見上げると、美しい女性がにこにこと柔らかい笑顔を浮かべていた。
「サ、サラさん……!?」
驚声と共に立ち上がって、クロエはぴんっと背筋を伸ばす。
「ここここんにちは!」
「こんにちは、クロエちゃん。ごめんなさいね、あまりにも楽しそうだったから、声をかけるタイミングを失っていたわ」
くすくすと、口元に手を当てて上品に笑うサラさん。
「えっと、こ、これはですね……オセロがごろんってしてきたので、これはもう撫でるしかないなと思いまして、それで……」
「大丈夫、安心して。オセロがお腹を見せる辺りからしか見てないから」
「もうそれ全部見てるじゃないですか!」
人様の猫を緩み切っただらしない顔で撫でくり回していた所を見られた。
にゃあとか、ふにゃあとか、発していたシーンもバッチリだろう。
顔から火が出そうな勢いである。
「うう……恥ずかしいです……」
「恥ずかしがる事でもないでしょう? もふもふの前にして、抗える人間なんていないわ」
相変わらずおっとりした調子で言うサラ。
非の打ちどころのないしっかりした主婦代表のサラだが、言葉のとおり家ではオセロのもふもふを堪能しているに違いない。
そう思うと、羞恥がだんだんと収まってきた。
「あはは! お猿のおねーちゃん、おもしろーい」
収まらなかった。
けらけら笑うミリアから追い討ちを食らって、クロエは再び頬を朱に染めてしまうのであった。
「あら、それ……」
サラが、クロエが胸に抱える紙袋に視線を注ぐ。
「あ、これですか? さっき、本を買ってきたんです」
じゃじゃーんっと、クロエが紙袋をサラに見せる。
「へえ、本。いいわねー」
「サラさんも読まれるんですか?」
「ええ、人並みには。ちなみに、タイトルはなんと言うの?」
「『騎士と恋』という本と、もう一つは……」
「騎士と恋!」
急にサラの声のボリュームが上がった。
それからガシッと、クロエの肩を掴んで迫ってくる。
「え、え……サラさん?」
「それ、本当に名作だから! 心して読んでね!」
「うぇっ、あ、はい……わかりました」
急なサラの変わりように軽く混乱しながら言葉を返すクロエ。
視線を彷徨わせておろおろするクロエに気づき、サラはハッと正気に戻った。
「……ごめんなさい、つい取り乱してしまったわ」
「いえいえいえ、そんなそんな!」
ぶんぶんと首を振った後、クロエはくすりと笑う。
「本当に面白かったんだなあって、家に帰って読むのが楽しみになりました」
普段、落ち着いているサラが分かりやすく興奮している様を目の前にして、本に対する期待値が一気に爆上がりした。
「ええ、ええ。詳しくはネタバレになるから言えないけど……天地がひっくり返るかと思うくらい、面白かったわ」
「わあ……そんなに」
「読み終わったら、感想会をしましょう。きっと、盛り上がるわ」
「感想会……」
今まで友達というものに恵まれなかったクロエにとって、その言葉はなんとも楽しそうな響きを伴っていた
「いいですねえ、楽しみです……」
ぎゅっと、本を抱きしめる。
帰ったらすぐに読もうと決めるクロエであった。




