第36話 悪夢
気がつくと、どこかにいた。
どこかわからないのは暗闇の中だからだ。
ふわふわしているかと思えば、ずっしりとも重い空気。
心地よくも、気持ち悪くもある肌触り。
そんな、取り止めのない、よくわからない場所だった。
でも、何かが見える。
蝋燭に照らされているくらいの、ぼんやりと明るい空間に誰かが立っていた。
それを認識した途端、視界が急に開けた。
鮮明になっていく周りの光景。
見覚えのある広い部屋だった。
大きなテーブルとソファも、壁にかかった絵画も、天井にかかるシャンデリアも。
全部全部、見覚えがある。
自分が生まれ、育って、二度と帰るまいと決別したはずの実家の光景……。
──ぽたり、と音がして。
視線を足下に下げる。
床に広がる、赤い斑点。
それが血痕だとわかった途端、身も凍るような声が響き渡る。
『その汚れた血を一滴も残すな、と言ったわよね?』
顔を上げる。
先程までぼんやりとしていて誰だかわからなかった人物も、見覚えがあった。
年相応に刻まれた皺。
疲労を隠すように塗りたくった厚化粧。
無駄に豪華なドレス。
母、イザベラの右手には──鋭いナイフが握られていた。
『どうして、お前はいつもそうなの?』
一歩、イザベラが近づいてくる。
『どうしてどうしてどうしてなの!? なんでアンタみたいな愚図が生きていて、夫は、あの子は、死ななくちゃいけなかったの!?』
また一歩。
ぎらりと、ナイフが銀色に光る。
何か言葉を発しようとするが、発することができない。
逃げ出そうとしても、足が動かない。
ぽた、ぽた、ぽた。
いつの間にか足元に、びっしりと赤い血溜まりが出来上がっていて──。
『お前は忌み子なの! 災いしかもたらさない! 生きてちゃいけない存在なのよ!』
振りかぶられたナイフが、自分の胸元に向けて一直線に向かってくる。
悲鳴をあげることも目を瞑ることも逃げ出すこともできず。
ただただ凝縮した恐怖と絶望だけが身体を駆け巡って──。
「────ぅあっ」
弾かれるように、クロエは半身を起こした。
背中、首元、全身の至る所にじっとりとした不快感。
「……っはあ……はあっ……はあっ……」
浅い呼吸を何度も何度も繰り返す。
息が苦しい、今にも詰まりそうだ。
(落ち着いて……大丈夫……)
思い切り息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
ばくばくと、壊れたポンプのように高鳴る心臓を宥める。
何度か酸素を入れ替えて、ようやく落ち着いてきた。
あたりを見渡す。
豪華で煌びやかな実家とは違う、素朴な一室。
朝が近いのか、窓からは微かな光と小鳥の囀りが漏れていた。
自分のいる場所がロイドの家の一階の空き部屋である事を認識して。
クロエはようやく、安心する事が出来た。
「……また、ね」
実家から逃げ出したと言うのに、ちょくちょく見てしまう。
本当に、ひどい夢を。
思い出したくない、実家での悪夢を無理やり見せつけられるのだ。
嫌なことはすぐ忘れるようにしてるが、記憶の深いところではくっきりと残っているようだった。
抑圧していた諸々の記憶と感情が、自分の意思に反して漏れ出しているのかもしれない。
今はまだ二、三日に一回くらいの割合だが、これが毎日見るようになれば日中の活動に支障が出てしまう。
それだけは、勘弁願いたいものだった。
「……」
考えても仕方がない。
汗に濡れた額だけ拭いて、クロエは再び布団を被り直した。
今度は悪夢を見ませんようにと願いながら。




