第100話 甘えたくなったら
それから数日経った、ある日の夜。
「何をしているんだ?」
夕食後、リビングのソファでちくちくと針仕事をするクロエに、ロイドが声をかけた。
作業を続けたまま、クロエは返す。
「刺繍です」
「ほう、刺繍か」
すぐ隣に座るロイド。
「シエルさんに頼まれて、刺しているんです」
「いつも話している、行きつけのお店の店主か?」
「そうです! そのシエルさんです」
「なるほど」
クロエの手元で行われている達人技を見て、ロイドは目を見開いた。
「刺繍について詳しくはないが……これが物凄い技術だという事は、わかるぞ」
繊細な指先が滑らかに奏でる動きは、まるでベテランの指揮者の如し。
まだ工程の半分ほどだが、すでにドレスの肩口にはシエルがオーダーした刺繍が刺し進められている。
「そんな、大した事ないですよ。子供の頃からしているので、身体に染みついているだけです」
言いながらも、クロエの手元では物凄いスピードで刺繍が出来上がっていっている。
王都では『繁栄』の花言葉を持つ、綺麗な白い花の刺繍だった。
「前にも話したと思うが、俺は裁縫が大の苦手でな。前に挑戦して、すぐに匙を投げた。だから、クロエのその能力は本当に素晴らしいものだと思う」
「ふふ、ありがとうございます。そう言われると、やっぱり照れちゃいますね……」
褒められて、思わずにやけてしまうクロエ。
そんな彼女に、ふとロイドは手を伸ばし……。
「っと……」
「あっ……」
伸ばそうとした手をロイドが引っ込めたのを、クロエは気配で感じ取った。
流石に、針仕事をしている時に触れるのは危ない。
そんなロイドの考えに気づいて、クロエは一旦針作業を中断する。
それから、そそーっとロイドの方に自分の頭を差し出し、どこか期待するような表情を向けた。
「あー……すまない……」
ぽりぽりと、ロイドが気まずそうに頭を掻いて、クロエが首を傾げる。
ロイドが手を伸ばし、クロエの肩から何かを掬った。
「肩に糸屑がついていてな。それを、取ろうと思って……」
「あっ……」
ぼんっと、クロエの顔が熱いお鍋みたいに赤くなった。
「ご、ごめんなさい、私ったら……」
「い、いや、俺の方こそすまん。勘違いさせるような事をした」
舞い降りる沈黙。
どことなく甘酸っぱい空気の中。
「……撫でては、くれないのですか?」
上目遣い気味に、ロイドにもたれかかってクロエが尋ねる。
甘えた子猫がご主人様におねだりするような仕草に、ロイドの心臓が大きく跳ねる。
特に言葉を交わす事もなく、今度こそロイドは手を伸ばした。
大きくて、剣ダコで硬くなった手が、クロエの柔らかい髪を撫でる。
「えへへ……」
気持ちよさそうな声を漏らすクロエ。
ひと撫でするたびに、クロエの目がだらしなく緩んでいく。
幸福を凝縮したかのようなその表情に、ロイドの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「君は、頭を撫でられるのが好きだな」
「そうですね……好き、だと思います」
ロイドの手に、クロエは自分の頭を控えめに擦り付ける。
「誰かに甘える機会なんて、なかったので」
ぽつりと溢れた声から寂寥めいた感情を、ロイドは敏感に感じ取った
クロエの過去の詳細を、ロイドは知らない。
母親にナイフを向けられて逃げてきたという事は以前明かしてくれたが、なぜそんな事態に至ったのか、そもそもの出自はどこでどんな人生を歩んできたのか、ロイドは想像で推し量るしかなかった。
だが、流石のロイドもわかる。
クロエの自己肯定感の低さ、時たま見せる寂しそうな瞳。
おそらく、クロエの家庭環境は複雑で、周囲に褒められるどころか否定されてきて、誰に頼れる事もなく一人で頑張ってきたのだろうと、ロイドは確信していた。
頭を撫でていた手が、クロエを包み込むように抱き締める。
「ロ、ロイドさん?」
突然の抱擁に、心臓が否応なしに跳ねる。
頬が熱を帯びて朱色に染まった。
ロイドの胸に抱かれたまま狼狽していると、低く、心に平穏が舞い降りるような声が降ってくる。
「甘えたくなったら、いつでも甘えるといい。俺の手くらい、借りたくなったらいつでも言ってくれ」
その優しい言葉に、胸の辺りがきゅっと音を立てる。
精神的な自立性は強いクロエだが、やっぱり、誰かに甘えたくなる時はある。
甘えたい盛りに全く甘えられなかったのなら、尚更だ。
今までこうやって、寄りかかれる存在はいなかった。
だからクロエからすると、ロイドの言葉はとてもありがたい。
思わず目頭が熱くなってしまうほどに。
「はい……ありがとうございます」
ほんのり湿った声。
お言葉に甘えて、クロエはしばらくの間ロイドの胸を借りることにした。
とても優しくて、まったりとした時間だった。




