himawari
何も言えません…。
本当に。。。
彼の地での戦争が早く終わりますように。
遠くに雷のような音が聞こえた。
青い空に鳴り響く低くて太い音。
コーリャン畑でしゃがんでバッタを追っていた僕は、立ち上がって音のした方角を見やる。
一昨日戦争が終わった。
父ちゃんや母ちゃんが生まれた国は負けたらしい。
昨日訪ねてきた団長さんが言っていたので、間違いない。
母屋から出てきた父ちゃんの大声が聞こえてきた。
「何してんだ。もう、出発すんぞ」
母屋の玄関の横でまっすぐ立っている一輪だけのひまわりに並んだ父ちゃんは、大きな風呂敷に包んだ重そうな荷物を背負っていて、両手にも荷物を持っている。
後ろから出てきた母ちゃんも抱っこ紐に包まれた幼い妹を前に抱いて、背中には父ちゃんと同じように荷物を背負っている。
「早くしい。あんたもそこの荷物を持ちいな」
母ちゃんはひまわりの足元に置かれている、袋が結わえ付けられている小さな背負子を顎で示した。
「なんでなん? 戦争は終わったんだべ?」
すごすごと丈の高いコーリャンの藪の中から出てきた僕は、半分ふてくされながらひまわりの足元にある荷物へ向かう。
「昨日、もう山向こうの開拓村に奴らが来て、逃げ遅れたもんは女子供もみんな殺されたらしいで」
大人の足で歩いても半日近くかかる隣の集落から、昨日の夜に僕たちの集落に辿りついた一団は休むことなく足早に南へ通り抜けていった。
その時に避難民の一番偉そうなお爺さんが言っていた。
「もともと攻めてこないっていう条約を破って攻め込んできて、しかも、もう戦争は終わったっていうのに軍人でもない民間人を殺しまくっているんよ。わし以外の男衆はみんな戦って死んだわな」
戦争は終わったっていうのに、なんでまだ殺し合いをしているんだろう。
僕にはよくわからない。背負子を背負ってから横に立っているひまわりの花を見上げた。
母ちゃんが「あんたもこの花のように、明るい方に向かって、背筋を伸ばして生きていきなさい」って言っていくつか種を植えたけど、結局一輪しか育たなかった。
でも今、一本だけ生えたこのひまわりは一際大きな黄色い花に夏の陽を受けている。
「さあ、行くべ」
コーリャン畑を突っ切る道を歩き出した父ちゃんの後ろに、妹を抱えた母ちゃんと僕が続く。
歩くたびに背負子の肩紐が食い込んで痛む。
コーリャン畑を抜け出る端に来た時、また後ろで雷のような音が響いた。
さっきよりもだいぶ近い。
僕は立ち止まって、今来た道を振り返った。
両側を丈の高いコーリャンに挟まれた頼りない道の先に住み慣れた我が家の母屋が見える。
その木造の茶色い母屋の玄関の前には、緑色の茎の上で濃くて黄色いひまわりの花が風で微かに揺れている。
まるで、僕たち一家との別れを惜しんで手を振っているように見えた。
空は真っ青で雲一つない。
いつもと変わらない風景。
戦争をやっているなんて本当に思えない。
なんか不思議な感じだ。
そんなことを思っていた時、突然物が倒れるような大きな音がして、見ていた母屋の後ろから砂煙が湧き上がって来た。
「畑の中へ逃げえ。早く!」
父ちゃんが大声を上げながら、立ちすくんでいた僕の尻を強く蹴とばした。
重い荷物を背負っていた僕は、重心を崩してコーリャン畑の中に向かって倒れ込む。
コーリャンの影で見えなくなる寸前に目にしたのは、崩れていく母屋の中から黒っぽい色の大きな戦車が突き抜けて出て来るところだった。
戦車の黒色を背景にしたひまわりの黄色い丸が一瞬だけ見えた。
父ちゃんも僕のいる畑の中へ転がり込んでくる。
連続する銃声。
母ちゃんの叫び声と妹の泣き声。
道端には母ちゃんが血を流して倒れていた。
母ちゃんに呼びかけようとした僕の口を父ちゃんの大きな手が塞いだ。
いつもの土の匂いがする。
道端の母ちゃんの腕の下では、まだ生まれたばかりの妹が泣き叫んでいる。
空気の抜けた下手くそな口笛のように間延びした音がしたかと思うと、倒れた母ちゃんの近くで大きな爆発がした。
とっさに両手で耳を塞いでいた僕の頭を、父ちゃんが地面に押し付けた。
耳から手を離しても、妹の泣き声はもう聞こえなくなっていた。
代わりにキャタピラと何人かの靴音が道を進んでくる音が聞こえる。
父ちゃんが耳元でささやく。
「いいか、なあにが起きても黙っていて、ちっとでもこっからは動くな」
父ちゃんから地面に顔を押し付けられたまま、僕は黙って頷いた。
ふと頭が軽くなった。
僕の頭から手を離した父ちゃんは急に立ち上がって、道に向かって走り出し向かい側の畑へ飛び込んだ。道の方から何か聞いたことのない言葉が大声で交わされてから、銃声が鳴り響いた。
向かいの畑の先で父ちゃんの叫び声が聞こえた。
それから目の前の道を、ゆっくりとしたキャタピラと足音たちが通り過ぎて行った。
だいぶ長い時間、僕はコーリャン畑の中で這いつくばって震えていた。
夕方になって、周りに何の音もしなくなってから、よろけながらも立ち上がって道に出た。
母ちゃんと妹は吹き飛んでいた。
父ちゃんは向かいの畑の中で血まみれになって死んでいた。
不思議と涙は出てこなかった。
キャタピラの跡が残った道を、戦車に押しつぶされた母屋の残骸へ向かってふらふら歩いた。
母屋玄関だった場所の前にはキャタピラが作った溝の中に、ひまわりの黄色い花が押しつぶされていた。
つぶれて泥に埋まった花びらを一つ手に取った。
涙が出てきた。
一片の花びらを手のひらに載せながら、大声を出して泣いた。
それから飲まず食わずで歩き通して、先に逃げていた隣の開拓村の一団に追いついた僕は、その一団と共に内地へ引き揚げてくることができた。
そしてそれからは、がむしゃらに生きてきた。
いつからか両親や妹のことは思い出せなくなっていた。
しかし最近また、不思議と彼の地での生活や両親のことが脳裏に蘇ってくるようになってきた。
もうお互いに老いた妻は「年を取ってくると、子どもに帰っていくって言いますからね」と言って笑う。
その妻が、縁側に置いた座椅子に腰掛けて庭を眺めている私の隣に来て、並んで座った。
そして、お茶の入った湯呑みを置きつつ声をかけてくる。
「もうじき桜ですね。今日みたいに暖かくなってくると」
庭に植えてある桜の木を見る。
「散っていくだけの桜は、嫌いだ」
僕は答えながら湯呑みを手に取って、一口すする。
「あら、桜は満開もいいけど、散り際も美しいっていいますよ」
湯呑みを置いて、座椅子の背もたれに身体を預ける。
陽気のせいかなんだか眠くなってきた。
目を閉じながら呟く。
「僕は……ひまわりの方が好きだ」
遠くで妻の返答が聞こえる。
「まあ、そんな話初めて聞きましたよ」
閉じたままの目の中に、青空の中、まっすぐに伸びた緑色の葉や茎と、明るく輝く大輪の黄色い花が浮かんだ。
僕はこの花のように、まっすぐに背筋を伸ばして、明るく輝く方を向きながら力強く生きてこれたのかな……母ちゃん。
「いくらこの陽気でも、こんなところで寝たら風邪ひきますよ。聞こえています?」
妻は夫の首が少し傾いだのを横目で見ながら、桜の枝に膨らんできたつぼみを見つめた。
部屋の中で点けっぱなしのテレビから、ニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえてくる。
「本日、ロシア軍がウクライナへの侵攻を始めました。民間人の犠牲者も出ているようです。世界の各国はこれを非難しており……」
お読みいただき、本当の本当にありがとうございます。
テーマ的にいいのかという点(と、ベタ過ぎで相変わらず拙い文という点)では軽く自己嫌悪でもあります。