真衣 part5
期末テストが終わり始まった夏休みも、何かを置いていくような速度で日々が過ぎていく。
トランジスタラジオのノイズ音のようなセミの鳴き声が8月に入り最盛期を迎えている。
窓越しに聞こえてくるこの声はクマゼミだ。私達の町にはアブラゼミよりクマゼミの方が多いらしい。子どもの頃お父さんが教えてくれた無駄知識を思い出しながら私はあくびを一つかみ殺した。
私達は今病院の休憩所にいる。
夏休みの朝九時にストップウォッチを片手で弄んでいる女子高生なんて私か女子陸上部くらいだろう。あっ、いや水泳部もそうだしバスケ部とかテニス部とかのマネージャーとかでもあり得るか。
じゃあ、目の前で最近ちょっと気になる幼馴染の男の子と私と瓜二つの顔をした双子の妹があーでもないこーでもないと言い合っているその時間をストップウォッチで計っている女子高生となるとどうだろうか。おまけに夏休みの朝九時。女子陸上部もすっ飛ばしこの世界で私しかいないだろう。
約束を守らされている。結局明衣の蒼療祭での漫才はガチらしい。テルはツッコミとして連日ネタの打ち合わせ・練習に病院に来るし私は私でただお見舞いのつもりで来たらいつの間にかストップウォッチとビデオカメラを持たされる。そして朝からお昼過ぎまでぶっ通しで練習に付き合わされた挙句、明衣から「明日の入りは何時からにする? ジャーマねぇちゃん」と声を掛けられるので、そこそこのヘッドロックで応えるのが私の日課になった。
「もういいよ! どうもありがとうございました~」
突如響くテルの声に私は肩をビクッと揺らす。
「おねぇちゃん何分だった~」
明衣が額の汗を拭いながら聞いてきた。
ごめん。ぼーっとしてた。と言い訳しようとしたが手元を見るとストップウォッチはきちんと止まっている。
悲しいかな。マネージャーの本能で反射的に計れていたようだ。
「5分36秒」
私の言葉に明衣はガクッと肩を落とす。
「うーん、オーバーしちゃうなぁ」
「ごめん。俺のテンポが悪かったよ」
テルが慌ててフォローする。確かに少しテルのツッコミは遅い、というより優しい。パスっと一言言って頭を叩けばいいところを無駄に遠慮してしまっている時がある。頭を叩こうとした手をふと止め進路を胸元に変更しようとして慌てて止めたりというのも一度や二度ではない。
「うん。確かにそれもあるかも。テル君もっとバチコン頭を叩いて。その方が面白いから」
「バチコンは流石に……」
「じゃあ胸元にシュババンって。私おっぱい少ないから大丈夫だよ」
「ダメに決まってんだろ!」
顔を真っ赤に染めるテルは何とも可愛い。ついでに言えば……
「今のツッコミいいんじゃない?」
私の言葉にテルはハッとした表情を浮かべる。テルは両手をまじまじと見つめながら「これが……ツッコミ……」と呟き、明衣まで「テル君が……目覚めた」とテルをまじまじと見つめながら呟いた。
「俺何か分かった気がするよ。真衣ありがとう。なぁ、もう一回やろうぜ」
テルは肩をブンブン回しながら言った。テルから練習をしたがるのは初めてだった。
「しょうがないなぁ」
テルからありがとうと言われたことで満更でもない気持ちになりながら私はストップウォッチをリセットしていると突然明衣が「あっ!」と叫んだ。
後ろを振り返るとそこには目元が私達ととてもよく似ている冴えない男がいた。
片手を挙げにやりと笑うその男は……。
「お父さん!」
明衣はそう叫びながらお父さんに抱き着いた。
「おぉ、真衣、明衣久しぶりだな」
お父さんは呑気にそう呟いて笑い、胸元に飛び込んできた明衣の頭をそっと撫でた。
「何しに来たの」
反射的に出た私の声は思いのほか冷たく響いた。テルが戸惑い気味にこちらを見る。
「何しにって。娘に会いに来たんじゃないか。真衣、元気だったか?」
お父さんは私の様子などをどこ吹く風にのんびりと笑う。
「見れば分かるじゃん」
うつむき加減に私は応える。
「ははっ、そうだな。相変わらず、元気そうだ」
お父さんの空笑いだけが響く。
露骨な程の私の不機嫌さに重苦しい雰囲気が休憩室にのしかかった。
しばらくの沈黙が続いた後、お父さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「なんか楽しくしてるところ悪かったな。お父さん帰ろうか」
ポリポリと頭を掻きながら笑うお父さんの姿は尋常じゃない程切ない。町内で評判の泣き虫に見せれば一発で泣くであろう哀しい表情をしている。
「別にあんたが帰らなくていいよ。私が帰るから」
そう言うと同時に私は荷物をまとめ始める。
「おっ、おい」
テルが私とお父さんを交互に見ながら困り顔を浮かべている。
私はそんなテルも無視して鞄にストップウォッチから何から何まで鞄に詰め込んだ。
「じゃ、明衣と心ゆくまで話したら。だって何か月ぶりだもんね」
捨て台詞を吐いて私はその場を立ち去った。
休憩所の扉を開けた。するとそこにえみちゃんがいた。きっと扉の隙間から明衣の漫才の練習を盗み見ていたのだろう。
「こんにちは」と声を掛けようとしたらえみちゃんはぴゅーっと遠くに逃げて行ってしまった。
怖い顔をしていたのだろう。目が合った瞬間のえみちゃんの怯えた表情が物語っていた。
どうしてだろう。本当に久しぶりに会ったお父さんの姿はどうしてここまで私の胸をかき乱すんだろう。
私の中の冷静な部分はきちんと喜んでいるはずなのに。
私は素直になれない。
自己嫌悪に陥りながら病院を出るとうだるような暑さが私を襲った。
今日、お父さんは家に泊まるのだろうか? だったら家で仲直りできるかもしれない。
あぁ、そうだ。この前のワイシャツのクーポンを切っ掛けに声を掛けてみよう……ってあのクーポン七月末で期限切れじゃん。
重い足取りで家路につく私の背中を夏のノイズ音が嘲笑うようにどこまでもどこまでも追いかけてきた。