明衣 part3
うーん。
私は病室の壁掛けカレンダーを見つめる。
8/24が花火大会。9/21が蒼涼祭だ。今日が7/15なので、先ずはあと1ヶ月とちょっと。
溜め息が出そうになるのを必死で堪え無理矢理にでも笑った。
12年もこの子……いや、全身に転移しているからこの子達か。とにかくずっと長い年月をこの病気と共に過ごしてきたんだからいくらバカな私でもさすがに分かる。病は気からって本当なんだ。
夜時間のチャイムの後、配膳のおばちゃんの片岡さんが食器を下げに来てくれた。
「明衣ちゃん。今日の美味しかった?」
お皿の上が綺麗に片付けられた私のお膳を見て片岡さんが笑いかけてくれた。
少し大袈裟に肩をすくめながら「私太っちゃうよ」と答えると「良かったわ」と片岡さんの笑い皺が深くなった。
片岡さんの笑顔は仏様みたいな優しい笑顔。60手前の年齢だけど本当に可愛い。
絶望的なほどもたれた私の胃袋もこれで少しは報われたってなもんだ。
今日食事をしながら私は何度も吐きそうになった。
料理が悪いわけじゃない、悪いのは多分……私だ。
鶏肉はゴムボールを噛んでいるような食感で味が全くしないし、逆にサラダは青臭さがどうも鼻を衝きまるでサイの肛門が終始目の前にあるみたいだった。いや、そんな状況今まで味わったことないんだけどねっ。
気合で食べきった。
今日で残せば3日連続になる。私達の食事量は記録に残るから看護師さんや医者に怪しまれてしまう。私が特にここ最近体調が悪くなっている事がバレてしまう。
そうなればお出掛けなんて夢のまた夢。ビール箱を重ねて作られた舞台に立つどころか、集中治療室のベッドに磔にされるのがオチだ。
はぁ、そんなのまったく笑えない。
だけど、心のどこかでそうなっちゃうのかもしれないってヘラヘラと笑っている私もいる。
これまでがずっとそうだったから。いつもいつも気合を入れれば入れるほど空回りするのが私だ。
それでいいんだ、と私は思っている。
人生には意地の悪い演出家が居て、私の役目は三枚目の喜劇役者なんだと覚悟している。上手くいかなければいかないほど良いんだ。失敗こそが魅せ場だ。
主役が引き立てば尚良い。私は皆の人生という舞台の中でコメディアンヌとして生きていたい。
格好つけ過ぎ。三枚目らしくもない。だけどこれが、せもてもの美学。どうせもうすぐ出番は終わる……
————ダメダメ! 今夜はどうにもダメなのね。気持ちがどうやったって落ちこんじゃう。こんな夜は寝るに限る。布団を目一杯まで被るのだ。ベッドの上に小さなテントを建てるみたいに。何だかこの世界には私一人しかいないみたいに————
微睡みかけたその時、布団を透かして赤い光がテントの中に雪崩れ込む。同時に廊下の外が騒がしくなる。
あぁ、誰か来た。救急で誰かが運ばれてきたのだ。
もう私達も慣れたもので隣のベッドの星羅ちゃんは一瞬起きたあとまたすぐ寝たみたいだし、向かいの小林君はいびきをかきっぱなしでそもそも気付いてすらいない。
私もそのまま寝てもよかったが、廊下からわずかに聞こえてくる看護師さんの会話や、そもそも今日の病床の空き具合を考えると多分私達と同じ病室に来るってことがこれまでの経験から大体見当がつく。
明日からの友達だ。どんな子なのか一目見ておきたい。
しばらく待っていると、段々と騒がしさが増し、その騒がしさの中心には甲高い女の子の泣き声があった。
「おとーさん! おとーさん!」
舌足らずなその悲鳴は聞いているだけで涙が出そうだ。子どもの泣き声はどうしてこんなにも切なく響くんだろう。周りの子達も流石に起きたみたいでカーテンの向こう側からカサカサと音がする。
「えみちゃん、大丈夫だから、ね?」
男の人の声が聞こえてくるが、その声はどうにも頼りなくって聞いているこっちまで不安になってくる。「お父さん! ちょっとそこ邪魔です!」という師長さんの怒鳴り声の方がよっぽど安心する。
やがて私達の病室のドアが開くと、騒がしさが頂点に達した。私はカーテンの隙間から覗き見たが看護師さんに囲まれていてどんな子が来たのかははっきりとは分からなかった。
わんわんと泣く子と何もできずただオロオロと慌てる親。これまで百回は見てきた光景。
何だか胸がざわめく。妙にそわそわと落ち着かない気分になる。それはイライラだったり怒りという感情とはちょっと違って、でも何だか無性に暴れだしたい気分でもあって……
「ねぇねぇ、めい姉」
隣のベッドの星羅ちゃんがカーテンを少しだけ捲って話しかけてきた。
「うん? どうしたの?」
「行ってきてよ」
「え?」
「二年前、六歳だった私にしてくれたみたいに」
そう言って星羅ちゃんはカーテンの隙間から悪戯っぽく笑う。暗闇の中で派手な色の髪の毛がゆらゆらと揺れた。
「あはっ、よく覚えてるね」
私が笑うと「当たり前じゃん」と星羅ちゃんは少しむくれる。
「みんな、覚えてるよ。ねぇ、おねがい。あの子にも魔法をかけてあげて」
星羅ちゃんは派手な見た目の割にハリーポッターやナルニア国物語などのファンタジー系の本が大好きな子だ。たまにお姉ちゃんと読書談議で盛り上がっていてその度私も混ざりたくて本を読んでみるんだけどいつもいつも眠たくなっちゃうんだ――なんて事をベッドから飛び出しながら私は考えていた。零コンマ何秒、自分のベッドのバネを利用し例のベッドの所まで大きく大きく飛び出した。驚いた表情を浮かべこちらを振り返る看護師や医者の合間を縫うように駆ける。
魔法か。
そうかもしれない。笑うって魔法かもしれない。悲しい事を一瞬だけでも忘れさせてくれるんだ。
だったら私は魔女になろう。
魔法を掛けたいその人が近くなっていく。
消毒液の匂いが溶けた空気が身にまとわりつき、後ろに吹き抜ける。私の身と心はどんどん軽くなっていく。
あぁ、きた。この頭が真っ白になっていく感覚。誰かを笑わせたいから、自分の中にあるつまらない記憶を無理やりこそぎ落としていくこの感覚。世界中の誰よりも面白い事に純粋になっていいんだという妙な安心感。その全てがもう次の瞬間死んでもいいかもって思ってしまうほど気持ちいい。
昔、私が中学生だったころ隣のベッドにいた女子大生の芦田さんがこっそり「そろそろこういうのも読んどいていいと思うよ」と言い少しオトナ向けのファッション雑誌を貸してくれた。その雑誌の最後の方のページに「セックス特集」というのがあってその中で「最高のセックスは死ぬほど気持ちイイ」なんて書いてあった。私はセックスをしたことが無いしこれから先も出来ないかもしれない。でも誰かに笑ってもらうとき私は死ぬほど気持ちいいから大丈夫かも、なんて顔を赤らめながら芦田さんに話したら「あんたって、ほんとサイコー」と芦田さんは涙が出るほど笑ってくれた。あれが芦田さんの最後の笑顔だった。
病院の中での誰かとの笑顔の思い出は哀しい記憶に繋がりがちだ。だけどつまらない記憶では決してない。
魔法を掛けるとき、誰かとの哀しい記憶は力になる。私の臆病な背中を押してくれる。胸を張らなきゃって叫びたくなる。
人たちを掻き分ける。
最後の一人、斎藤先生を掻き分けたその先には、慌てる中年の男性と、白すぎる肌をした5歳くらいの女の子がいた。
女の子と目が合う。
瞬間、吸い込まれそうになる。まるで他人に思えない。いや、寧ろこの子は私自身? そう思わされてしまうほどその女の子は5歳の頃の私に似ていた。
私の勘が囁く。あぁ、この子はきっと私と同じ病気だ。余命幾何と知ってしまった子供だ。
何の確証もないのに私には分かる。私にしか分からない。そして私がすべきこと、それは私が誰よりも分かってる。
「はいどーも! 私の名前は明石明衣! 名前だけでも覚えて帰ってね。あっ勿論帰るのは元気になった時にね」
嘗ての私にとってもよく似たその子に私はとっておきの笑顔を浮かべて見せた。
もう、魔法の呪文は溢れるほどに思いついていた。