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さんまいめ  作者: taka
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真衣 part3

 早稲田大学の赤本を閉じ溜息を吐いた。問題が難しいからじゃない。むしろ難易度の話をするなら受験は来年に控えていながら既に合格圏内だ。高校生レベルの問題は私にとってもう問題じゃない。

 さて、この世界は嘘で救われる事がある。私が5歳の時にダウンタウンに教えてもらった真理だ。

 それはまぁそれとしてここまでの嘘はどうなの? 17歳の私は窓際に頬杖をつき思う。その窓に反射して映るのは小児病棟に入院している10人位の子供たちに囲まれながら病室のベッドの上でこれでもかというほど飛び跳ねている明衣の姿だった。さっきの私の溜息はこの救われないお馬鹿に向けてだ。

 そうなのだ。明衣は死ななかった。

 5歳のあの日から17歳の今日まで幾多もの夜を超えてきた。もうだめだと何度も思わせられながら明衣は何度も私達に笑いかけてくれた。医者がすっかり自信を無くすほど、明衣は今日まであの日の告白をまるで嘘にするみたいに元気いっぱいに生きている。

「なぁ、あんなに暴れて大丈夫か?」

 すぐ隣から私に声を掛けてきたのは幼馴染のテルだ。幼稚園の頃からほぼ毎日欠かさず明衣のお見舞いに来てくれている。こんな風に心配そうな表情を浮かべるのも毎度のことだ。いい加減慣れたらいいのに。

「いいんじゃない? 本人がしたいようにさせてあげなよ」

「いや、でも急な運動は間違いなく毒だろ……ちょっと俺止めてくる」

 そう言ってテルはベッドに駆け寄る。5秒後には明衣に手を引かれ困った顔をしたテルがベッドの上を舞い跳ねる。それを見て周りに集まった子供達は声を上げて笑っていた。明衣はその笑い声に包まれながら心底幸せそうな顔を浮かべた。

 屈託のない妹の笑顔と比例するように私の眉間の皺が深くなる。遠目で見たら眉毛が繋がって見えるんじゃないかって程、深い皺だ。溜息がまた一つ無意識に零れた。

 明衣には長生きしてほしい。姉として当然の願いだ。願わくば私よりずっとずっと長生きしてほしい。にも拘らず私の思いに反して明衣の生き方はとても刹那的だ。次の瞬間死んでもいいように生きているように見える。

 次の瞬間死んでもいいように生きている明衣は何をしているかというと……ずっと誰かを笑わせている。今でいえば明日手術を控えた6歳の木下君をターゲットにずっとむやみやたらに馬鹿をしている。そして誰かが笑うたび明衣は安心したように笑うのだ。そんな事をこの病院に入院してからの12年間明衣はずっと続けている。

 最初は元々明るい性格でもあったし、病院で同年代の子に囲まれてはしゃいでいるのかな位に思っていた。だけど段々そんな明衣の行動は常軌を逸すものになってきた。ある時は40℃の熱が出ているのに一人ギャグをやり続けたり、夜中小児病棟を抜け出し高齢の患者さんばかりのホスピス病棟に忍び込み自分が誰なのかも分からなくなってしまったお婆ちゃんを相手に落語を一席やってのけたりし始めたのだ。

 医者には当然止められたし、親からはこれでもかというほど怒られた。なのに明衣は続けた。12年間もだ。誰からも愛される素直な性格の明衣だけどこれだけは譲ってくれなかった。止めさせようとすると露骨に機嫌が悪くなり拗ねる。そして、その夜は必ず体調を崩す。だからもう誰も何も言えない。

 明衣は、私に言わせれば笑いという感情に魂を売ってしまった哀しいモンスターだ。私達の明石という名字を冠した有名なお笑い芸人さんはお笑い怪獣と揶揄されるが、明衣も間違いなくそういう人間だ。時に怖くなるほど人の笑顔に貪欲で、取り憑かれたかのようにTVやネットから面白いと言われるこの世の全てを喰らい尽くし、自分の体の事なんか一ミリだって顧みず、涙の気配に満ちたベッドの側に駆け寄りいななく。誰かの心に聳え立つ不安や恐怖という名の高層ビルにむやみやたら体をぶつけ跡形もなく潰す。沢山の笑顔を背にしながら明衣はまたキョロキョロと辺りを見回し、壊し甲斐のあるビルを探しにあてもなく彷徨う。12年間の入院生活を明衣は凡そそんな風に過ごしてきた。

 明衣は外道だ。文字通り死んでもいいから一人でも多くの人を笑わせようとする生物の道から外れた彼女を何と呼べばいいのか。

 そんな彼女は生物の理からも外れ、死ぬことすら克服したんじゃないかと私は時々本気で思う……そう信じたいからって言うのもあるけど。

「明衣、もういいでしょ」

 私は椅子から立ち上がり、両手を上に伸ばし強張った背中の筋を解しながら声を掛けると、明衣は意外なほど素直に「はーい」と跳ねるのを止めぐしゃぐしゃになったシーツを元のように伸ばし始めた。周りにいた子供たちもすっかりはしゃぎ疲れた様子で各々のベッドに戻っていった。4人部屋なので半分以上がよその部屋の子達だった。木下君はバイバイと私達に手を振って自分の部屋に帰っていった。明日の骨髄腫の手術頑張ってね、私は手を振り応えながら心の中で祈った。

 一緒に跳ねていた、というより跳ねさせられていたテルはベッドから降りるとズレた眼鏡を駆け直し、明衣を手伝う。テルの無造作に流れる前髪のかかり方が何だか妙に気になった後、私は慌てて目を逸らしながら声を掛けた。

「テルもごめんね。毎回こんなバカに付き合わせちゃって」

 ほんの少しだけ声が上擦ってしまったがテルは特に気にする様子もない。

「いや、今に始まったことじゃないからね。いい、いい」

 テルは真面目な顔でシーツの皺を丁寧に一本一本伸ばしながら答える。

「ちょっと、バカってところは否定してくれないの?」

 膨れっ面で言いながらも明衣はだいぶ嬉しそうだ。

「あんたはバカでしょ。少しはテルみたいに真面目に将来の事とか考えたらどうなの?」

「いや、私はどうせ死んじゃうし」

「笑えない冗談言わないの」

 そう言って私は明衣の頭を叩く。明衣もそしてテルも普通に笑っている。母親はともかく私達は4、5年前からこんな冗談も言い合えるようになってきた。一緒に笑いあえる位には明衣が死ぬことっていうのが私達から遠くなったんだと、こういう時つくづく実感する。

「テル君の将来って?」

 明衣が小首を傾げ、テルに聞く。

「うっ、うーん……まぁ一応医者……かな」

 医者という単語に周りのベッドから何人かの視線が送られた。

「えっ、すごい! 確かにテル君頭良いもんね! こうやって病院に来るのも勉強の為?」

「……まぁね!」

 明衣は「すごい! すごい!」と拍手を送り、テルは顔を真っ赤にしながら「まぁね、まぁね」と繰り返す。

 確かにテルは賢くて、そして明衣は輪をかけてバカだ。

 病院に通ってるからって成績が伸びるわけでも医学的知識が増えるわけでもない。精々どの看護師さんが怖いか見分けがつくようになるくらい。

 テルが病院に来るのはひとえに明衣に会いたいからってだけだし、そもそもテルが医者を目指すきっかけは明衣なのだ。

 5歳の時、明衣が死ぬって聞かされ誰にも言えないまま独り落ち込んでいた私にテルだけが気付いてくれた。幼稚園の教室で2人きりの時に「まいちゃん、どうしたの?」と声を掛けてくれたあの時のテルのあどけない表情と右手に持っていた黄色の積み木は一生忘れない。私は泣きそうになるのを必死に堪えながら明衣の事を話すと、テルは涙を流しながら「まいちゃん、つらかったね」と私の手を握り「ぼくが、めいちゃんの病気なおしてあげる」と言ってくれたのだ。右手の積み木を左手に持ち替え、右手で私の頭を撫でてくれたその一連の流れはとろけるほどに優しさに満ちたものだった。

 あれから10年以上テルの将来の夢は医者一筋だ。昨日、夏休み前ということもありHRの時間に行われた進路希望調査にテルは第1希望から第3希望まで医学部のある大学名を記入していた。何れも有名な大学で勉強のできるテルでさえ受かるかどうか怪しい難関大学。第1希望欄にプロ野球選手と書いてヘラヘラと笑っているクラスメイトを尻目にテルはさっさと提出を済ませ余った時間を自習に充てていた。

 少し怖くなるくらい、明衣の為にためらいもなく人生を変えている。

 そんな人は幸か不幸か結構多い。

 母親は私達が小学校に上がったのを見送るなり医療費を稼ぐためパートを始めたし、父親は休日が減る代わりに給料がグンと上がる会社に転職した。ここ最近父はさらに出張が続き、まともに顔も見たことが無い日々が続いている。仕事が忙しくなった両親の代わりに母方の祖父母は私達の世話をしようと何十年と住んでいた一戸建てを売り払い、私達と同じマンションに越してきてくれた。去年お爺ちゃんが亡くなり、六畳ほどの部屋の片隅にある仏壇の前で一人背を丸め拝んでいるお婆ちゃんを見ていると胸がこれでもかというほどに締め付けられる。

 身内だけじゃない。例えば今の明衣の主治医は明衣を最後まで診るまでは実家の診療所は継がないと決めているという噂だし、今の師長はベッドを漫然と占有し続ける明衣を転院させようという院長からの圧力を何度も蹴り返し上層部から嫌われているという噂だ。あくまで噂。だけど10年以上通うと分かる。入院患者同士で流れる院内の噂って大概事実っぽい。

 さっき私は幸か不幸かって言ったけどこうしてみると皆不幸になっているのかもしれない。

 申し訳ないなって思う。一つは姉として妹を支えるためにこんなにもたくさんの人に人生を変えて貰っている事。もう一つは肝心の姉である私は何一つとして変われていない事がだ。

 本来医者を目指すのは私の役目だし、明衣の医療費を稼ぐためにバイトを始めるのも私の役目、明衣の世話を見るのも、明衣の為に戦うのも全部私の役目なのに。

 私はただ漫然と毎日お見舞いに来ているだけ。ただただ明衣のバカさに呆れたり、頭を抱えたり、一緒に笑いあってみたりしているだけ。

 未来のことを考える暇があれば明衣との今をしゃぶり尽くしていたい。甘えているのは分かっている。だけど、私の導火線にはいつまで経っても火は点かない。私は一生変われない。私は誰の為にも何も出来ないダメな姉なのだ。

「おねぇちゃんは?」

 明衣が私にも聞いてきた。

「新聞記者」

「何か毎回違うな」

 テルが呆れたように笑う。確かにそうだ。

「中学生の時は薬剤師だったし、去年は外交官、今年は新聞記者?」

 明衣がいちいち指折り数えながら言う。

「今日は新聞記者な気分なの」

 窓の外を見ながら自嘲気味に笑った。いつもこういう系の質問にはその場で思いついた職業を適当に答えている。適当だって事が大人にバレないように適度に自分の偏差値を加味しながら答えているのが最低に性格悪いと我ながら思う。

 やりたいことなんて何もないんだから仕方ないじゃない。

 「なんだよそれ」とテルは笑った後、ふと思い出したかのように羽毛みたいな軽い口調で明衣に話しかけた。

「明衣ちゃんは? 何かなりたいもの、やりたいこと、夢とかないの?」

 テルの横顔はほんの少しだけ紅い。「どっかに行きたいとか。この日外出したいとか、これを見てみたいとかさ」と矢継ぎ早に続けるテルは私と違って最高に優しい人だ。

「ん~私? 私かぁ……えぇ~何だか恥ずかしいよ」

 妙にしおらしく恥ずかしがる明衣。

「あんなバカばっかりやってる癖にこんな時だけ黙るのは無しよ」

 槍で突き刺した後持ち手を捻り傷口を抉るかのような追い打ちをかける私。

「まぁ、先ずはどんな些細な夢でもいいからさ」

 食材で言うところの蕗の薹みたいな優しさを見せるテル。

 二人に暫く見つめられた明衣は観念したように口を開いた。

「そりゃ、大人になったらなりたいものもあるけど……あの、取り敢えずはね……実はね……夏の最後に蒼療祭があるでしょ?」

『蒼療祭』とは夏休みの間入院することになってしまった子供たちの為に院長の奥さんと入院患者の家族そして地域の有志が中心で行われる小さな夏祭りだ。まぁ夏祭りと言っても暑さのピークを避け開催されるのは9月末なのだが。院内の中庭を使って『ヨーヨー釣り』だったり『射的』などの出店が出たり、近所の酒屋さんが提供してくれたビールケースを重ねそこに白い布を被せ作ったステージでママさんクラブのフラダンスだったり医者、看護師によるカラオケ大会が行われたりする。出店は食事制限のある患者に配慮して食事系の出店は出ないし、カラオケ大会は毎年どうしたって院長による松山千春の「大空と大地の中で」が忖度により優勝してしまうが、まぁ毎年そこそこに盛り上がる。

 「あの蒼療祭……私毎年体調崩して出れなかったけど今年こそ出たいの!」

 明衣はキッと前を向き真剣な眼差しを私達に向けながら言った。

 明衣は毎年ステージ出演にエントリーはするが、季節の変わり目が苦手なのだろうか明衣は毎年その時期になると大きく体調を崩し蒼療祭どころの話ではなくなってしまう。もうかれこれ七、八年ずっとそうだ。

「あぁ、明衣ちゃん結局まだ一回も出れてないもんな。今年も漫談でエントリーするの?」

 テルの問いかけに明衣は大きく首を振る。

「今年は二人と一緒に出たいの! 三人で漫才したい!」

『え?』

 明衣の言葉に私とテルの「え?」がハモる。

「私は! 三人で! 漫才したい!」

『え?』

「だから! 私は三人で! 漫才」

『え?』

「もう~耳鼻科の先生呼ぶよ!?」

 明衣が頬を膨らませ怒る。いやでも私達のリアクションは正しいはずだ。だってそんな急に……。

「分かった。やろう」

『え?』

 テルの言葉に私と明衣の「え」がハモる。

「明衣ちゃんとの漫才でしょ? やるよ」

 テルがそう言うと、明衣はふと笑い、そしてテルの手を力いっぱいに握り締め言った。

「二人ともありがとう!」

「待って待って!」

 私はそう言いテルと明衣の間に割って入る。

「私、しないよ?」

『え?』

 明衣とテルの声がハモるが無視して続ける。

「漫才なんかしたことないし、もっと言えば興味もないし、さらにさらに言えば私大勢の前でそういうことするの嫌いだし」

 にべもない私の言葉に二人は分かりやすい位、へこむ。

「おっ、俺だってしたことないし……」

「おっ、お姉ちゃんとも一緒にしたかったのに……」

 ふとカーテンで仕切られた周りのベッドからも声が聞こえてきた。

「漫才見たかったのに……」

「お祭りまで楽しみになるのに……」

「真衣さんのツッコミとか録音したかったのに……」

 最後の声は回診に来てた先生の声なような気もする。

 ちょっとした罪悪感と薄気味悪さを感じ、私は言った。

「だから、二人でやればいいでしょ!」

『え?』

 私の声に病室全体の「え?」がハモる。

「二人って俺と明衣ちゃん?」

「そうそう。そもそも漫才ならコンビでしょ? 二人ならちょうどいいじゃん」

「あぁ、まぁそうかぁ」

 テルが独り言ちながら横目でちらりと明衣を見る。

「うーん、でもトリオでもいいわけだし、私はお姉ちゃんと……」

 どうにも、明衣の決意は固そうだ。それなら――

「じゃあ、漫才でもネタとか考えるでしょ? そのお手伝いとかしてあげる。お客さん目線での第三者の意見も大事でしょ?」

「……うん。確かに」

「時間測ったりとかも必要だし、私は二人のマネージャーになってあげる。それならいいでしょ?」

「えっ……そうだね、うん。最高かも! お姉ちゃんがマネージャー!」

 明衣の顔がパァと明るくなる。テルもそんな明衣を見て安心したように笑う。

 ――予想通りだ。異常に芸人の世界に憧れている明衣の琴線にマネージャーという単語はよく刺さる。

 悪いけど私は漫才なんてまっぴらごめんだ。

 「真衣さんのツッコミ……」という恨めし気な声は聞こえなかった振りをした。

「まぁ、じゃあまたその話は追々していこう。今日はもう遅いし」

 追々って何だか本当にマネージャーみたい。ふと時計を見れば17時。夕食の為に病棟が慌ただしくなる時間だ。

「あぁ、そっか~。ねぇ、お姉ちゃん、テル君、今日も来てくれてありがとう!」

 明衣が飛び切りの笑顔を浮かべながら手を振った時、「ちょ、ちょっと待った!」とテルが慌てながら言った。

 「あのさ、八月末にさ竜神川で花火大会があるだろ? もし良かったらあれに……三人で行かないか? 明衣ちゃんこの前、もう入院してからずっと病室の窓からしか見たことないって言ってただろ?」

 テルは一息にそう言い、眼鏡を掛け直す。頬から耳まで真っ赤に上気していた。

「すごい! 覚えててくれたの! うん! 確かに行ってみたいなぁって思ってたの!」

 明衣は目を爛々に輝かせながら言う。私は冷静な声になるように努めながら「明衣の外出許可が出たらいいんじゃない?」と返した。

「オーケー! 取り敢えずマネージャーの許可は下りたね」

 テルはそう言って悪戯っぽく笑った。

「また私、先生に聞いてみるね!」

 明衣が満面の笑みを浮かべる。

「あんたが元気にしてたらいいのよ。今日の夕食も残さず食べなさいよ」

「お姉ちゃん何だかお母さんに似てきたね」

 そんなやり取りをしながら気付くと17時だった。病棟全体が慌ただしい雰囲気に包まれる。夕食の準備やら引き継ぎやらが始まる。面会時間もあっという間に終了だ。

 私達はバカ話もそこそこに切り上げ帰り支度を始める。

「じゃっ、今日はもう帰るね」「また花火大会の事、先生に聞いといてね」そう言い私とテルは明衣の病室を後にする。

 「また明日ね」と手を振ると明衣も笑顔で両手を振り返してきた。

 ただ夕焼け色に染まったその顔はいつも通りほんの少しだけ寂しそうに見えた。


 「ただいまー」

 別に返事は期待していなかったが意外にも台所の奥から顔を出し「あらっ、真衣。おかえりー」と母が迎えてくれた。

「へぇ~、帰ってたんだ」

 靴を脱ぎながら言った私の一言に母は「何よ。悪いの?」と少し眉を吊り上げ応える。どうにも私の性格は母譲りらしい。

「いっつも仕事じゃん。今朝だってメモに今日遅くなるって書いてたし」

「担当の利用者さんが今日は家族と水入らずの温泉に行くって。ヘルパーの力借りずにやってみますっていうから早退出来たの」

 母は介護ヘルパーの仕事をしている。給料もわりかしいいし、時間の融通も付けてもらいやすいからと母は言うが、本当は明衣を在宅で看ていた経験を活かしたかったんだと思う。

「ふーん。あっ、はいこれ」

 私は台所の机の上に手紙やダイレクトメールの束を置いた。このマンションの一階にある郵便ポストの中身を取るのはこの家での私の数少ない仕事の一つだ。子供の頃からずっとそうだ。

 ちなみに明衣が病気だって事がご近所さんにもある程度知れ渡ったある日からしばらくの期間は宗教や怪しい健康食品のチラシが爆発的に増えた。私はそんな現実がとても憎くて、そんなチラシを両親に見せる前に泣きながら捨てていた記憶がある。あの時は本当に悔しかった。そんなこともあり今だってポストを開けるときほんの少しだけドキドキしてしまう。

 流石に今は落ち着き普通の郵便物ばかりだ。

 「このチラシ捨てていい?」「公共料金のやつ来てたよ」なんて言いながら何気なく郵便物を仕分けしていると一通のダイレクトメールが目に留まった。それは大手のスーツ屋から届いた夏用のワイシャツに使える只のクーポン券だったが、問題は宛先だ。

「ねぇお母さん、お父さんあての奴来てるけど捨てとく?」

 今まで台所に向かいながら忙しそうに準備していたお母さんは手を止め、布巾で手を拭きながら初めてこちらを振り向いた。

「何々? あぁ~クーポンかぁ。いつまで使えるの?」

 母は私の手から件のクーポンをピッと奪い、表裏を何度も何度も読み返す。

「7月いっぱいかぁ。微妙ね」

「どうせ無理だって。捨てとこうよ」

 私の言葉に母は苦笑いを浮かべながら「一応置いとくわね」と冷蔵庫にマグネットでクーポンを貼り付けた。

 どうせ意味ない。私の父は只今何十度目の長期出張中なのだ。最後に会ったのは今年の4月、私がイヤイヤながら母に言われ、父を空港まで迎えに行った。その時会うなり「こっちはまだ結構寒いんだな」って笑いかけてきた事が何だか無性に腹が立ったのを覚えてる。今振り返れば、親子なのに私達は「あっち」と「こっち」に分けられた事が悲しかったのかもしれない。はたまた単純に私がムズカシイお年頃になっただけかもしれない。分からない。

 とにかく父は基本的にいない。明衣が病気について告白してきた時もいなかった。「許せない」なんて程、そもそも父には期待していないけどそれでもやっぱり引っ掛かる。私と一緒に明衣を慰めてあげて欲しかったし、あの時の母を独りにさせないであげて欲しかった。

 まさか逃げたわけではないだろうけど。

 ついついクーポンを睨んでしまっていると、台所に芳醇な匂いが漂ってきた。

「はいっ、出来た。真衣お皿取って」

「カレー?」

「久し振りの母の味だからね。明日も食べられるし」

 私は少し底の深いカレー皿を棚から取り出しながら、思わず唾を飲んだ。隠し味はほんの少しの牛乳なんて何ともベタな母のカレーだけど、本当に美味しいのだ。我が家のカレーは世界一なんて、まぁ世界中の子どもが思ってるだろうけどさ。我が家の家庭よりおいしいカレーに出会った時が大人になるってことなのかも。ダメだ、楽しみでこんなにも分かりやすく浮かれてしまう。

 今夜の晩御飯はごちそうだ。ちょっと太っちゃってもいい位、沢山食べよう。

 鼻歌交じりに食器を食卓に並べながら、明衣は今夜は何を食べてるだろう。そんな事をふと思った。

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