明衣 part1
今度は私が話す番ね。どうも明衣だよ! 名前だけでも覚えて帰ってね。なんてね。
私はあの日、子ども部屋までお姉ちゃんを呼びに行ったとき、いつも通り不機嫌なお姉ちゃんを見て何だか無性に安心したのを覚えている。
なんだか胸の奥がじんわりあったかくなる感じ。
誰かに「好きだよ」って言われたときみたいなあの感じ。「私もっ!」って照れ笑いを浮かべたくなるようなあの感じ。最高だったなぁ。
えっと、それでその後はリビングでお母さんからお姉ちゃんに、五歳になったばかりの私の余命はあともって半年だってお話があったんだけど……。
あっ、うん。この辺はもうサラッと流しちゃうねっ。ごめん。だってこれしか覚えてないの。大事なことでも嫌なことだったら忘れちゃうもんなんだね。
とにかく、わたしはもうすぐ死んじゃう。小学校にも上がれないまま一生を終えるんだって事をお母さんはお姉ちゃんに話した。
お母さんがとにかく泣いていたこと、お姉ちゃんが「もういい!」って机を叩いてそのまま部屋に駆け戻ってしまったこと、断片的にしか覚えていない。
あの時の2人の表情を思い出そうとすると今でも胸の奥が苦しい。
誰かに「好きだったよ」って泣きつかれた時のあの感じ。「私も」ってヘラヘラ笑うしかできなかったあの感じ。
私のせいで私の好きな二人が悲しんでいる事それが私にとっては何より辛かった。
私はリビングから出ていったお姉ちゃんを追いかけた。
子供部屋のドアを開けると二段ベッドの上の段でお姉ちゃんは布団を被って寝ていた。
「おねぇちゃん?」
私が声を掛けても返事はない。物音一つだって返ってこない。
「おねぇちゃん、ごめんね」
「……なんであんたが謝るのよ」
おねえちゃんらしい不機嫌そうな声。だけどその声は微妙に震えていて、聞いているこっちまで悲しくなってしまうような声だった。
「うそを、ついててごめんね」
私は俯きながら応えた。おねぇちゃんはきっと怒る。おねぇちゃんは嘘を吐くのも吐かれるのも大嫌いだから。
「あんたってサイテーね」
おねぇちゃんは苦々しく呟いた後、二段ベッドの上の段から顔を覗かせる事もなく続けてこう言った。
「明衣、言ったよね? 病気治ってきてるよって。私が聞いてもないのに教えてきたじゃん。……明衣、毎日毎日、病院に行ってさ。運動会の時もクリスマス会の時も私からお父さんお母さんを盗ってさ。明衣が病気を治すためって私ずっと我慢してたんだよ? ……なのに……結局治ってないってどういうこと? もうすぐ……死んじゃうって……どういう…………」
湿り気帯びたおねぇちゃんの声が私の胸を締め上げる。
はやくこたえなきゃ、はやくあんしんさせてあげなくちゃ、五歳の私なりに頭をフル回転させて言葉を探す。だけどおねぇちゃんみたいに本を読まない私はバカだからこの言葉しか出てこなかった。
「おねぇちゃん、ごめんね」
「もういい! バカ!」
おねぇちゃんの突き抜けるような「バカ」の一言が妙に心地いい。世界中がひっくり返るようなおねぇちゃんの力強さが、私は大好きで、羨ましかった。
「えへへ、ごめん」
「……はぁ。もういいから。寝るよ」
心底呆れたおねぇちゃんの声。まるで何もなかったみたいなおねぇちゃんの声に誘われるまま私はベッドの下の段に潜り込んだ。
「電気消すよ」
「はーい」
おねぇちゃんが枕元にある部屋の電灯のスイッチを切る。この部屋の電灯のオンオフの権利はおねぇちゃんが握っている。いつも遅くまで本を読んでいるおねぇちゃんの為にお父さんが特別に作ったのだ。私はそれを不満に感じたことはないし、当たり前だと思っている。そもそも部屋の電気がついていようがいまいが私はどこでもすぐに寝れちゃうからね。
――だけどその日は何だか妙に眼が冴えていた。それどころか暗い部屋の天井が急に迫ってくるように見えたり、遠ざかって見えたり、時計の音が誰かの言葉に聞こえたり……具体的に言えばバカみたいだけど本当に「シ、ヌ、シ、ヌ」に聞こえたのだ。
「おねぇちゃん」
無意識に呟いていた。呟いたあと、その手があったと、私は無我夢中でおねぇちゃんに話しかけ続けた。
おねぇちゃん? ねぇねぇ? おねぇちゃーん。おねぇちゃん! ――何度目かのおねぇちゃんで反応があった。
「うっさい」
ネジみたいに味気ないおねえちゃんの無愛想な声が私を抱きしめてくれた。
胸に小さな明かりが灯る。
「おねぇちゃん!」
「もう九時だよ? さっさと寝なさいよ」
「あはっ。おかあさんみたいなこと言わないでよ~」
「……もう、私は寝るからね」
「待って! おねぇちゃん! いっしょにねよ?」
「はぁ?」
今のはぁ?のイントネーションは無理な時の「はぁ?」だ。分かっているけど私にはどうしようもなかった。
「おねぇちゃん、さむいでしょ?」
「別に」
「こっちにきたらお人形あげるよ?」
「いらない」
「ねぇ、おねぇちゃん?」
「なによ」
「……ねぇ」
……よわくて、ごめんなさい。なきむしで、ごめんなさい。うそつきで、ごめんなさい。
伝えたい言葉を伝えたいときに限って泣きそうになる。泣いてしまうとまた誰かを心配させてしまう、悲しませてしまう。ヘラヘラと笑わなきゃ、私は笑ってなきゃ……。
暗い水の底に沈んでいくような感覚に襲われたとき、ふと響いてくれた不機嫌な声が私をすくった。
「ねぇ、そっち寄ってよ」
目を凝らした闇の先には二段ベッドの梯子に足をかけている優しいシルエットが浮かんでいた。
「おねぇちゃん!」
「うるさい。五分だけだからね。ほら、そっちに寄って。違う。そっち。明衣、何笑ってんの?」
布団の中で私はおねぇちゃんを死ぬほど強く抱きしめた。瞳から零れたありがとうって言葉を何度も何度もおねぇちゃんの寝巻に染み込ませてしまった。おねぇちゃんは何も言わなかった。ただ黙って不器用に頭を撫でてくれた。
「ねぇ? おねぇちゃん?」
「……なに?」
聞いてみたいことがある。物知りで頼りになるおねぇちゃんにしか聞けないことがある。
「ねぇ、死ぬってどういうことなの?」
「はぁ?」
「わたし、わたしのことなのに、死ぬってことがどういうことなのかぜんぜんわかんないの。それはもうこの世界から消えちゃうってことなの? 消えたあとはどうなるの? わたしはどこに行っちゃうの?」
「……」
「おねぇちゃん、知ってる?」
「うるさいなぁ。なんでわざわざそんなの教えてあげなきゃいけないのよ。私もう眠いんだけど。上に戻ろうか?」
「あぁ! ダメダメ! うそうそ。そんなのどうでもいいよね? わたしもねむい~一緒にねよう~」
私は慌てておねぇちゃんの寝巻の裾を掴む二度とだって離さない勢いで、強く、強く掴む。
本当は答えなんてどうでもよかった。ただ、おねぇちゃんが隣にいるだけでよかった。
そんな事を思いながら私はおねぇちゃんの憮然とした溜息を子守り歌に深い眠りに落ちて行った。