真衣 part12
100人超の視線が突き刺さる。
スポットライトがチリチリと肌を照り付け、会場の拍手が足元から濁流のようにせり上がってくる。肺が殴り潰されたみたいに呼吸をするのが苦しくなる。
正直、予想以上だった。多少なりともの緊張は覚悟していたが、まさか舞台上って言うのはここまで空気が張り詰めている空間だとは思わなかった。
人前に立つって、舞台に立つってこういう事なんだ。
私は小さく息を吐く。
思わず気後れしてしまう。隣を見ればテルの横顔だって強張っていた。
それでもテルは何とか練習通り声を振り絞ってくれた。
『はい、どーも! よろしくお願いしまーす』
私も頭を下げマイクに向かって呟く。
『よろしくお願いします』
『はいっ! っていう訳で僕たち高校生のコンビでやらせてもらってて』
パラパラと起こる拍手に応えながら、私は気付いた。
ここは明衣が立ちたかった場所なんだ。
私は明衣が考えてくれた最初の嘘をマイクを通して世界中に響かせた。
漫才をしながら分かったことがある。
この世界は本当につまらないことばかりだ。
嫌な事、哀しい事がこの世界の風上にあって私達はただそんな冷たい風に吹きさらしなんだと思う。
舞台の上で漫才をするっていうのは、世界の常識に立ち向かう無謀な行為なのかもしれない。
私達の漫才は確かに客席にはそれなりにウケている。
だけど、えみちゃんはちっとも笑っていない。ついでに言えば私の両親もただ少し切なそうに微笑んでいるだけだ。
あぁ、そうか。バレたかもしれない。
このネタはシンプルな漫才コントもの。「私が○○やりたいからあなたは△△やって」と振ってコントに入る例の奴だ。
問題はこのネタを考えたのは全て明衣だということだ。
たかが、たかが漫才のネタだ。
されど、明衣が考えたネタなのだ。
ネタの中で『私は大人になったら優しい優しい看護師さんになりたい』と言った時、私の胸は小さく痛んだ。明衣を一番長く担当してくれた看護師さんの表情が一瞬曇ったのが客席に見えた。
『やっぱり、学校の先生にもなってみたいかも』
病棟の子供達の学校の宿題を手伝ってあげていた明衣を思い出す。退院していたはずの星羅ちゃんも見に来てくれていたがそこのくだりはちっともウケていなかった。
『そうだ! 素敵な旦那さんを見つけて、お嫁さんにもなってみたい! ご飯にする? お風呂にする? それとも……』
テルの突っ込む手が微かに震えた。
ネタの進行上一旦テルが『キリが無いだろ。もういいよ』とネタを止める素振りをしたところで私が『ダメダメ!』と漫才を続けようとし、そこからさらにテンポアップし私のなりたいものがシュールなものになっていくのがこのネタの肝だった。
私は小さく息を吸い、練習の時、明衣がしていたみたいに地団駄を踏みながら言った。
『ダメダメ! 私にはまだまだなりたいもの、やりたいことが山ほどあるの!』
練習の時は何とも思わなかったのに今は、ベッドの中で眠い目を擦りながらA4のノートにこの台詞を書き込む明衣の姿が思い浮かんだ。
『私にはまだまだなりたいもの、やりたいことが山ほどあるの』か。
両親とえみちゃん、明衣の事を知る全ての人の表情が陰る。多分、私も。
これじゃ、まるで遺言じゃない。
全体的に見れば会場にはまぁウケていても、肝心の人達はちっとも笑っていなかった。
ねぇ、あんたって本当バカだよ。
こんな哀しい言葉ばかり聴かされて、いったい誰が笑うのよ。
いい? このネタはあんたが元気に笑いながらやるから面白いネタだったの。
笑いの才能なんかまるでない、姿形が似てるだけの私にやらせたって何にも面白くないの。
ねぇ、明衣。ごめん。
私はあんたが死んだ後でさえ、変わることが出来なかった。
私は明衣みたいなさんまいめな人には絶対になれないみたい。
あぁ……バカは私だね。本当ごめん。
おっぱいを激しく揺らされた。急にテルがツッコミを胸に強く打ち込んできたのだ。
『きゃっ!』
私は思わず反射的に胸を抑える。
『いや、ここまでバカやっといて急に女出すんじゃねぇよ!』
テルが大声で叫ぶ。練習にないセリフ。だけど急に素っぽいリアクションを取った私がよっぽど面白かったのだろうか、会場は一気に湧いた。ふと見るとお父さんが大口を開けて笑っていた。
『ぜっんぜん、キュンってしねぇわ! こんなにもしないもんかねぇ!』
自身の胸元を少しおどけ気味に抑えながらのテルの畳みかける様なツッコミで会場の笑いが増幅する。
私は少し呆気にとられながらテルを見ると、テルは獣のような眼をしていた。
飢えに飢え、目を真っ赤に血走らせている。
この目は知っている。いつか、そして何度でも見た。
誰かを笑わせに行くときの明衣の目だ。
そして、温かい眼差ししか送れないはずのテルの瞳が、私を睨む。
なにやってんだ。
確かにそう言っていた。
そうだった。
私は何やってんだ。
嘘を紡げ。
途方もないどうしようもない事を言え。
今、舞台に立っているのだ。世界よりほんの少しだけ高い場所から夢を語ることで大切な人達を笑わせようとした女の子の姉は、私なのだ。
無限の嘘の免罪符は明衣の夢だから――
私は私が考えた嘘をスタンドマイクに向けて吐いてみた。
会場が小さく湧いた。
私はもう一つオリジナルの嘘を吐いた。
――今度は結構しっかりウケた。視界の端でお母さんが可笑しそうに噴き出すのが見えた。
今度は明衣の考えた嘘に私の嘘を混ぜてみた。
――弾けたような笑い声が会場から返ってきた。えみちゃんがこっちを向いてくれたのが客席の奥の奥に見えた。
嘘に嘘を重ねる度、えみちゃんの表情がほんの、ほんの少しづつだけど、和らいでいくのが確かに見えた。隣のお父さんがそんなえみちゃんの様子に気付き祈る様な視線をこちらに向けてきた。
私はえみちゃんのお父さんに向けて心の中で呟いた。
大丈夫。任せて。私達がえみちゃんを涙が出るほど笑わせてあげるから。
えみちゃんにいつかの明衣を重ねてしまえば、もう、嘘は溢れるほどに思いついていた。
胸が熱くなる。
灯は燃え尽きてしまっていい。もう、ここで燃え尽きてしまっていい。
明衣が考えてくれていた嘘を吐いた。もう一つ吐いた。息吐く間もなく今度は私が考えた嘘を吐いた。横でテルが食らいつく様にそんな嘘達に付き合ってくれた。
舞台の端から端を大きく使って、世界の端から端まで届くように嘘を吐いた。
気付けば、会場の人だけでなく病棟の窓越しに院内中の人が私達を見ていた。
お母さんが目尻を拭いながら笑っている。お父さんが上を向いて空を仰ぐように笑っている。
そして、こらえきれなかったようにえみちゃんがとても可愛い笑顔を浮かべてくれた。
その笑顔はやっぱり、どうしようもないほどあの子に似ていた。
どこかで見覚えのある、いつかの日曜日の夜を思い出させる笑顔だった。
途端に胸の奥で燃え上がっていた感情が肺を焼き焦がし、喉元からせり上がってくるのを感じた。
嘘を吐き続けながら、全身に笑い声を感じながら、その感情はゆっくりゆっくり私の瞳の奥の奥まで蝕んできた。
幾分か経った時、漫才中、私と視線が合ったテルは小さく頷き、優しく笑った。
私もテルの視線を受け止め、そっと笑い返した。
ここまでが、もう限界だった。
ネタを終わらせよう。私達は明衣の夢から醒めないといけない。
ねぇ、明衣……
私はマイクを通して、あの子が命を削って考えてくれていた、誰も傷付けない魔法のような最後の大嘘を世界中に響かせた。
テルが少し名残惜しそうに『もういいよ』と私の肩をそっと叩いた。それを合図に私達は深く深く頭を下げた。
『どうも、ありがとうございました~!!』
ポタポタと、舞台上に私達の想いが零れ、滲んだ。
本当に、本当に、ありがとう。
万雷の拍手に包まれながら私達は顔を上げる。
金木犀の香りがほのかに溶けた秋風が舞台上に吹き私達の頬を撫でた。
優しい風に乗ってどこからか屈託のない懐かしい笑い声が聴こえてきたような、そんな気がした。