真衣 part10
蒼涼祭の当日になった。
お昼前に起きた私は眠い目を擦りながら何となくリビングに行くとお父さんが一人でテレビを視ていた。野球速報にしか興味がないお父さんにしては珍しく視ているのはバラエティ番組らしかった。
「何してんの?」
私が聞くとお父さんは「おっ、おはよう。毎度毎日社長出勤だな」と笑った。
「眠いの。それより何してんのって」
「おぉ、これか昨日付で赴任先からこっちに戻ってこれたんだけどさ、向こうで仲良くなった同僚が餞別にってこれくれたんだ」
そう言ってお父さんはDVDがびっしり詰め込まれたファイルを見せてきた。
「娘さんがお笑い好きなんだろ? ってさ。その同僚も相当のお笑い好きだから録画してたお勧めのお笑い番組をDVDくれたんだ。せっかくだから見てるんだけどさ……」
テレビ画面に映っていたのは「ガキの使いやあらへんで」だった。
「真衣知ってるか? このダウンタウンってお笑いコンビ。父さんが学生の時からテレビに出てたんだけど、まさかこんなに残るとは当時思わなくてな」
昔を懐かしむように妙に遠い目をし出したお父さんを無視して、私は画面に目をやる。
子供の時以来、何度かタイミングが合った時は見ていたがある時期から見なくなった。
ボケの松本が結婚した時からだ。具体的に言えば結婚後にあった二年ぶりのフリートークの回から見なくなった。仰々しくフリートーク復活と煽っておきながら蓋を開けてみれば終始照れ笑いを浮かべながら、時折わざとらしく大声を出すだけの二人の掛け合いに妙に失望したのを覚えている。
その時以来のダウンタウン。子供の頃は肩を怒らせながらスカジャンを着こなしていた浜田も今は目元中心にとにかく皺が増え当たり前だが、老けた、それに尽きる。松本は逆に黒髪の坊主だった昔とは打って変わり、髪を金色に染め、胸筋を大福餅のように膨らませていて何だかコントのキャラにしか見えない。マジなのか、はたまた壮大なボケのような気もしてくる。
まぁ、とにかく見た目の変化は置いといて久し振りに見たガキ使は何というか……
「面白くない……って同僚が言ってたんだ。最近のダウンタウンはって」
父がリモコンを片手に呟き苦笑いを浮かべる。
確かにそうだった。今テレビでやっているのは有名人に会えるまで街をブラブラ歩こうという企画みたいだが……はっきり言ってただおじさん五人がクタクタになるまで歩いているようにしか見えない。正直、初老に差し掛かろうかというダウンタウンの一言一言はボケというよりは愚痴にしか聞こえず、精々浮かんでくるのは愛想笑い程度のものだった。
「同僚は言ってたよ。ダウンタウンは松本が結婚して終わったって。幸せになって満たされてからは以前のような鋭さが無くなったって。昔はもっと笑いに飢えた怪物で、哀しさを笑いに変えられる唯一の人だったって過去形で言ってたんだけどさ」
お父さんはそこまで言った後、悪戯っぽく笑いながら続けて言った。
「だけどな……うん、この回はまぁそうなんだけど。真衣はこの回見たことあるか?」
お父さんがそう言って別のチャプターに切り替える。松本が金髪だったので最近の回なのだろう。
「お父さんはな、この人達はやっぱり哀しみを笑いに変えられる生粋の三枚目だと思う」
その回はガキ使メンバーでゴルフをするという企画だったが、何故か松本だけ超ミニスカートを履いた女子ゴルファーの格好をしているのだ。それも至って真面目な顔で。そしてコースを回るも、途中途中で何度も何度も「パンツ見てるやろ!!」と怒り叫ぶ企画だった。時には怒りに身を震わせながら、時には心底悔しそうに涙を浮かべながら、頼むから、恥ずかしいから、パンツを見ないでくれと松本が大空に吠える。
まるで馬鹿みたいな企画。いったい誰がOKを出したのか。一回そんなことを思えば終わりあっという間に引き込まれる。
心の底に何かが灯る。昔、感じたことのある様な温もりが胸に宿る。
「ダウンタウンが面白くないって人はきっと今幸せなんじゃないかなぁ」
お父さんはぽつりと呟いた。みなまで言わなくても何となく私にも分かった。
人生における真夜中のようなタイミングでこそ、この人達は活きると思う。世の中の三枚目と言われる人と出会うのは、悲しみのどん底の真っ暗闇の夜がいい。
松本が切なそうにココリコの田中にパンツを見ないでくれと懇願する度、娘を亡くしたお父さんのすすり泣きのような笑い声がリビングに響く。
ふと思い出す。子どもの頃、明衣と過ごしたあの日曜日の夜だ。あの夜、私は罪悪感に苛まれながらこのガキの使いを視て笑ったのだ。妹の余命が幾何と聞かされた私には永遠に落ち込む義務があるんだと思い込んでいた私が笑ったのだ。
メンバー1人1人に見たパンツの色を詰問していく松本を見ながら、私は、最初からこの世界には落ち込む義務なんて無かったんだということに気付いた。いや、思い出した。
幾時間が経った時、お父さんは「しまった!」と呟いた。
「母さんに蒼涼祭の準備手伝うように言われてたんだった。先に行って待ってるからって。しまったなぁ。真衣、ちょっと行ってくるよ」
お父さんは慌てた様子で支度を整える。
「あれって患者家族会の人だけでしょ? 別にもう行かなくていいじゃん」
だって、患者である明衣はもういないんだよ、とは流石に続けられなかった。
お父さんはそんな私の言葉に悪戯っぽく笑いながらこう言った。
「お祭りを楽しみにしている明衣みたいな子たちが沢山いるからな。その子たちの笑顔の為なら家族会がなんだって関係ないよ」
白い歯を見せながら笑う。「まぁ人手不足でもあるからな」と照れ隠しを言うお父さんは何だかちょっぴり私に似ているなと思った。
玄関でポロシャツにジーンズ、ナイキのランニングシューズといかにも日曜日のお父さんといった様子のお父さんは玄関で「じゃあ、行ってくるよ」と言ったあと「お先にな」と付け加え悪戯っぽく笑いながら出かけて行った。
お父さんも出かけ私はリビングで一人きりになった
妙な寂しさに気づかぬ振りしながら、私は部屋に戻ってもうひと眠りしようかとテレビを消した時、真っ暗の画面に明衣が映った。勿論それは勘違いで実際は私。だけどテレビ画面に映った私は、流石に双子だ。改めて私と明衣は似ているんだなあと思わされた。
テレビ画面に映る私の顔は明衣の事を思い出した途端にしょぼくれていく。
悲しそうな顔は双子でも似ていないなぁと思うと同時に気付かされる、明衣はそもそも悲しい表情を殆ど人前に見せてこなかったのだ。
私の悲しそうな顔は明衣というより、むしろ明衣が居なくなった夜に出会ったえみちゃんを思わせる。顔のパーツどうこうではなく雰囲気が似ている。
そもそも私はえみちゃんの笑顔をほとんど見たことが無かったことに気付いた。
えみちゃんの笑顔はどんなのなんだろう。こんなのだろうか? と私は人差し指で口角を無理矢理持ち上げてみる。
だけどどうしたって上手くえみちゃんの笑顔をイメージできない。どうしても最後に病棟で会った時の「……うそでしょ?」と浮かべた悲しみの底の底のような顔が邪魔をする。
あの時、嘘でもいいから「うそだよ」と言って笑顔にしてあげるべきだったのかもしれない。いずれどうせバレていただろうけどそれでも、やっぱり……。
私はふと思う。えみちゃんも自分には落ち込む義務があると思い込んでいないだろうか。
そんな義務どこにも無いんだよと教えてあげられる人が側にいただろうか?
記憶の限りでは仕事の都合でめったに面会に来ない父親の他に心を許していたのは明衣しかいなかったような気がする。
それで、それで、いいのだろうか。
えみちゃんの夜にはいったい誰が現れるというのか。
心の底にまた灯が灯る。今度の灯は行き場を失ったように私の胸をジリジリと焦がす。
そんなことを考えていると、スマホが鳴った。テルからメッセージで一言「祭り始まったよ」と送られてきていた。
私は気付けば立ち上がり大慌てで出かける支度をしていた。
秋色のニットに藍色のジーンズ、薄めのメイクにお気に入りのリップ、ドアを開ければほんの少し肌寒い風に黒髪がなびく。
いってきます。
いつもと変わらぬ笑顔で明衣が送り出してくれた。
駆け抜けていく道すがら街中の色んな光景が目に留まった。
コンビニの雑誌コーナーで男子中学生が漫画雑誌を立ち読みしていた。沢山のキャラクターが表紙を埋め尽くす中、少し線の緩いタッチが特徴のギャグ漫画の主人公はその雑誌の看板キャラクターに肘で脇に追いやられているように描かれていた。ギャグ漫画の主人公は悔しそうな表情を浮かべているが、表紙全体の構図で見ると中々おいしいポジションだ。男子中学生が何の漫画を読んでいるのかは分からないが、「ククッ、ククッ」と何度も苦しそうに笑っていた。
駅前に新しいケーキ屋さんがオープンしていた。紫色の髪をしたおばさんが「ここの美味しかったわ。友達に教えて回ってるんだから」と笑いながら二人の店員さんに話しかけていた。店員さんは夫婦なのだろうか、二十代半ばくらいの女性店員さんは「ありがとうございます! ありがとうございます!」と何度もしきりに頭を下げ愛想よく笑っている。一方、隣のコック帽を被ったおじさんは言葉少なめに少し頭を下げただけで何だかもじもじと居心地が悪そうだった。だけど「あんたのケーキ最高よ!」とおばさんが笑いながらおじさんの背中を何度も叩いている時、おじさんの顔はどこか得意げで溢れる笑みを堪えているように見えた。
小学校の前を通った時、黄色いヘルメットを被ったおじさんが数人頭を寄せて話し合っていた。噂では大きな歩道橋が建つらしい。どこか遊びに行く途中なのだろうか自転車に乗った子どもが「何作ってるの~?」と赤いコーンを並べているお兄さんに話しかけていた。「秘密基地やで」と嘯くお兄さんに「うそだ~」とケタケタ笑いながら子どもたちは、また自転車のペダルを漕ぎだした。そんな子供たちをお兄さんは勿論黄色いヘルメットを被ったおじさん達も眩しそうに見送ったあと、「よし」と笑いながら仕事に戻っていった。
なんてことない光景。だけど私は何だかドキドキする。
人を笑顔にするのが好きな人は案外多い。そんな世界が何だかとても心強かった。