真衣 part8
お母さんはただ泣きながら明衣が横たわっているベッドに縋るように泣きつき、車で駆け付けたお父さんは目を真っ赤に充血させながらそんなお母さんに寄り添っていた。
テルはさっきまですぐ隣で私の背中を擦ってくれていたが、私が「今は一人にして」と言うと「そうか」と頷きあっさり身を引いてくれた。
面倒くさい性格の私に嫌気が差したのかもしれないし、もしくはテルも一人になりたかったのかもしれない。
冷たく暗い病棟の廊下に設置されたベンチに私はただ独りうなだれ座る。
治療室から離れてしまえば病院というのは驚くほど静かな場所だった。
そもそも眠ることが治療でもあるので、患者の子供達は皆生きるために眠っている、或いは眠らされている。
眠りながらここにいる子供達は戦っているのだ。同じように明衣もついさっきまで戦っていたのだ。
理不尽じゃないか? 妙に覚めた頭で私は考える。
だって、その戦いは負けるまで続くのだ。他の子の病気は知らないが少なくとも明衣の病気はそうだった。ギリギリ勝てた夜もあれば鮮やかにKOを決めた夜もあっただろう。だがどんな勝ち方だろうと、相手はまた立ち上がるのだ。不敵な笑みを浮かべまんじりとコーナーリングに寄りかかる。明衣が10カウント数えるまで或いはタオルが投げられるまで試合は続く。5歳の頃、訳も分からないままリングに挙げられた明衣は生涯挑戦者のままだったし、私はただリング脇で声を上げることしかできないセコンド或いは傍観者のままだった
ねぇ。私は誰とも言えない誰かに呟く。
明衣は、負けたのだろうか。
瞼の裏に映るのは、ついさっきの光景だ。私達の意思を確認した後、斎藤先生がゆっくり人工呼吸器を外すと、明衣はまるでいつもの笑顔を浮かべていたのだ。
「またね」と言っているようにも「ありがとう」と言っているようにも見えるその笑顔は、あの漫才を練習していた日々に飽きるほど見たそれだった。
嫌味な程、正確に漫才の時間のみを手元のストップウォッチで切り取っていたあの日々に帰りたい。叶うはずないことは分かっていてもそう願わずにはいられない。
どれほどの時間が経っただろうか。
ふと一人きりだった廊下に足音が響いた。そしてその足音は恐る恐るといった様子で私に近寄ってきた。
私が顔を上げると舌足らずな声が闇に響いた。
「おねぇちゃん?」
一瞬、五歳の頃の明衣を思い出させるその声の主はえみちゃんだった。
「めいねーちゃん!」
少し嬉しそうに言った後えみちゃんはトテトテと駆け寄ってきた。少しのんびりとした性格みたいだ。このまま黙って胸に抱き寄せてしまえば私の正体には気付かないかもしれない。
本来ならここでえみちゃんを騙しきってしまうのがいいのかもしれない。何も真実をこんな暗い夜に知らなくてもいいだろう。
「違うよ」
そんな気持ちとは裏腹に私は反射的に言葉がついて出た。
「え?」
歩みを止めたえみちゃんのきょとんとした顔が非常灯に照らし上げられた。
「私は明衣のお姉ちゃんの真衣。何度か会ったことあるでしょ」
何故だろう。私の言葉は妙に尖って響いてしまう。
「あっ、うっ、ごめんなさい……」
えみちゃんは申し訳なさそうに頭を下げる。
その後不思議そうに「どうしてお姉ちゃん、こんな時間にここにいるの?」と聞き、続けて「めいねーちゃんはどこにいるの?」と聞いてきた。
私は「それは……」の後の言葉が続かなかった。
何も言えなかった。
沈黙が答えになってしまった。
えみちゃんは暫く不思議そうな顔をしていたが、ふと「うそでしょ?」と呟き、そして闇の中に駆け戻って行ってしまった。
私は独りになった。