明衣 part7
「人は最後の最後まで聴覚だけは生きているの」と昔、師長さんが教えてくれたが本当にそうなんだ、と妙に感心してしまう。
慌ただしく動き回る人たちのざわめきが遠くに聞こえる中、誰かが私の名前を呼んでくれている。「明衣! 明衣!」と何度も何度も呼んでくれている。
この金切り声はお母さんかもしれない。
あぁ、目を開けて両手を挙げて私はその人の声に応えたい。大きな声で「今まで愛してくれてありがとう」と叫びたい。もちろん、笑顔で。
現実はそう甘くない。瞼は溶接されたみたいに固くて開かないし、肺に真綿を詰め込んだような息苦しさの中、声は1㏈だって出ない、おまけに奇跡的に笑えたところで無粋な酸素マスクのせいで誰も笑顔には気付けない。
今、私に出来るのはこうやって靄がかかった頭の中で「ごめんね」と呟き諦めたように笑う事くらいだ。
はぁ。
神様という名の意地の悪い演出家について私は思う。よりによって何で今日なんだろう。
もしかしたらお姉ちゃんの大切なデートを台無しにしてしまったかもしれない。最高の雰囲気の中あとはもうどちらからともなく告白すればいいだけの場面を邪魔してしまったかもしれない。
どうにもこうにも私は幕引きみたいだ。振り返ってみれば17年本当に素敵な人生だったと思う。舞台の上でまだまだやりたいことは沢山あったけど、ただの三枚目にしてはそれなりに出番を割いてもらった方だろう。アドリブばかりで周りを掻きまわす下らないコメディエンヌだったかもしれない。
もっと何か強烈に面白い事をしながら死ぬのが理想だった。今年こそ2人と漫才したかった。だけどまぁもう仕方ない――――
嘘だ。
どんなに自分を納得させようと色々言い聞かせてみても、仕方ないでは済ませられない。
死ぬんだ。全てが終わるんだ。
私はやっぱりバカだから、こんなの受け入れられない。
後悔しかない。未練しかない。
お母さんに抱き着きたかった。お父さんに頭を撫でて欲しかった。テル君と漫才をしたかったし、その漫才をえみちゃん親子にも見て欲しかった。星羅ちゃんにまた魔法を掛けてあげたかったし、斎藤先生達にもありがとうって言いたかった……それにそれに……。
私にはまだまだやりたいことが沢山あったのだ。A4のノートには書き尽くせない程の夢があったのに、なのに……なんで――――
突然耳元であの人の声が響いた。
来てくれたの?
お姉ちゃん。
そうだった。お姉ちゃんはいつも悲しみの淵の闇の中に来てくれるんだ。
お姉ちゃんの声だけは特別に大きく響く。こんな時私たちはやっぱり双子で、元々一つだったんだなぁと思う。
お姉ちゃんの湿り気帯びた言葉が鼓膜を通して心の内側に染みていく。
耳元にキスする程の距離にお姉ちゃんの声を感じる。
まるでこの世界に二人っきりみたいだ。
あぁ、この感覚、懐かしい。
あの日曜日を思い出す。
テレビを見ながらお姉ちゃんが大切なことを教えてくれた夜の事だ。
ダウンタウンさんのフリートークをBGMにまんじりと二人きりで過ごした夜。
そうだ。そうだった。
あんな素敵な夜の思い出さえあれば、私はもう何も怖くない。
だって私はこれからウサギが総理大臣の雲の上の国に行ってくるの。お菓子を食べるのが仕事みたい。私はぷっちょの担当になりたいな。
ねっ? お姉ちゃん。
私はもう大丈夫。嘘じゃないよ。
だから、笑って。ねぇ、笑ってて。