真衣 part7
藍色に染まった住宅街を抜けると、赤と白の祭り提灯が掲げられた大通りがぼんやりと浮かび上がる。弱々しく鳴くヒグラシの声をかき消すようにいたるところに設置された古びたスピーカーからはノイズ交じりの祭囃子が響き、埃っぽい黄色の露店が並ぶ通りの両端をくすんだ灰色のプロパンガスが人混みを守る衛兵のように規則正しく整列していた。
五歳位の男の子が私達を後ろから追い抜いた。「こらっ! あんま離れちゃ駄目よ」心配そうに叫ぶお母さんの声に振り返った男の子は「早く、早く!」とその場で地団太を踏みながら応えている。
私の横に並んで歩くテルは「真衣とこういうの懐かしいな」と呟いた。
「そうだね」と返そうか「こうやってテルと最後に来たのいつだっけ?」と返そうか、はたまた「別に?」と返す方が私らしいかとか迷っているうちにテルはずんずん先に進んでいってしまった。
結局、明衣の外出は叶わず、私はテルと2人で花火大会の日を迎えてしまった。
一昨日メールで「明衣が花火大会2人で行ってきてって言ってるんだけどどうする?」ってテルに送った時は本当にドキドキした。断れるのも嫌だし、冷たい姉だと思われるのも嫌だった。
そもそも私とテルの二人で花火大会に行って欲しいというのは一週間前のあの日、病室で言われた明衣からのお願いなのだ。花火大会の後教えて欲しいと言われている、その……まぁ告白の結果を。「まさかお姉ちゃんの恋バナにやきもき出来る日が来るなんて妹として感無量だよ~」と明衣はヘラヘラと笑っていた。「うるさい」とデコピンしても明衣はまだニヤニヤと笑っていた。
あの日から散々悩んだ挙句テルにはメールを送った。これは花火大会に行けなかった明衣への土産話になるんだから、明衣がそうしてって言ってんだからと私は何度も自分に言い聞かせながらやっとの思いで送ったメールだったがテルからの返事は「おぉ~そうなんだ。了解」とたったの二行だった。
何よこれ、乗り気じゃないってこと? だけどテルって元々文章素っ気ないし、っていうか私の文章も素っ気なさ過ぎたかな。でも私がノリノリって思われるのも恥ずかしいしそれともテルも本当は照れているのを隠すためにわざと冷たくしているのかなとか思っているうちに今日が来た。
私はさんざん悩んだ末にいつものシャツに一着だけ持っていたふわふわ系のスカートを履いて行ってみた。浴衣は流石にやめといた、テルが普段着だったら恥ずかしいからだ。
待ち合わせ場所に着いたテルはいつものジーンズにいつものシャツ少しだけ残念な気もしたが傍に行くと髪が意外ときれいにワックスでセットされていてやっぱり私はときめいた。
テルの横に並びながら、露店を冷かし歩いたり、一緒にかき氷を食べてみたり、ふとした瞬間に肘が触れ合ったりしながら私は分かったことがある。明衣に教えてあげたい事がある。
私はテルが好きだ。
いつ好きになったのかも分からない位ずっと前から私はテルが好きだった。少なくとも幼稚園児の時、私が明衣の事でひとり悲しんでいると、テルは積み木を持ち替えてまで私の頭を撫で慰めてくれたあの時には確実に好きになっていた。
私はずっとテルの側で胸を高鳴らせていた。
明衣との漫才の練習の日々の中でテルの横顔に見とれネタ時間を測り損ねたことも一度や二度じゃない。
そんなことを思い出していると、古ぼけたスピーカーから放送が鳴り響いた。
「21時より竜神川花火の打ち上げが開始します。関係者の皆様は担当各所にお戻りください」
人々のざわめきが一層濃くなる。周りの人混みに押され一瞬離れ離れになりそうだった私の腕をテルが引いてくれた。
「行くか」
テルはそう言って人混みを避けながら、私の腕を引いて歩いた。
右に左に揺られながら、私はひとり決意した。
今夜花火が上がると同時にテルに想いを伝える、そして後から明衣に笑いながら報告するのだ。
どこかの屋台で誰かがくじ引きでも当たったのだろうか。チリンチリンという安っぽい鐘の音が大通りに響いた。
「久しぶりに来たけど結構もうバレてるんだな」
テルはそう言って苦笑いを浮かべた。
「今はネットで簡単に広まるんだよ」
私は足元の小石を蹴りながら答える。
私達は裏山にある菅神社に来ている。竜神川を一望できる場所にありながら寂れた菅神社は花火大会の時、昔はこの町に住む一部の人だけの穴場スポットだった。
テルも私もそれをあてに久しぶりに来てみたものの、いつのまにやら定番スポットになりつつあるようだ。ちゃっかり賽銭箱の近くに昔はなかったスポットライトが設置されている。私が大人になる頃には昼前から場所取りしておかないと厳しいかもしれない。
「こっちは結構空いてるぞ?」
テルはそう言って林を突っ切り歩く。
確かにそっちは人は少ない。ただ人が少なすぎて恥ずかしいのは私だけだろうか。
そんな私の気も知らずテルはずんずん歩く。ついていく内に町の喧騒から離れ、少し開けた場所に出た。そこはちょうど竜神川の真向かいだった。「穴場あったな」とテルは嬉しそうに笑う。
木々が生い茂る半分獣道のような道の奥は本当に静かで、微かに響く葉擦れの音に世界にはこんな音があったんだとハッとさせられる。
耳をすませば少し早起きしてしまった秋の虫が今か今かと仲間を呼んでいる。寂しそうに響く虫の声に何故だろう、明衣の姿が重なった。
「この辺かな」
テルはそう言って山際の柵に手をかけ、下にある川の方をじっと見た。
私も黙って横に並ぶ。崖下に見える河川敷に色とりどりの浴衣が並んでいる様子は何だか遠い世界のようだった。
二人だけの静かな世界に小さなノイズが混じる。
そのノイズは規則正しく、私の胸の奥から響く。
隣に立つ人に聞かれてしまっているんじゃないかといくら不安になっても、その音は止むことを知らない。
呼吸をするのも辛くなる。
息を大きく吸うたびに、隣に立つその人の横顔を盗み見る度に嫌な予感が胸を覆う。
その人は別に好きな人がいるんじゃないだろうか。
その人は優しくて明るい人が好きなんじゃないだろうか。
私みたいに冷たい氷のような人間が、その人の事を好きになる資格があるのだろうか。
分からない。私にはもう何も分からない。
だから伝えてみるしかないのだろう。
伝えた時のその人の顔を覗き見よう。
さぁ言え。今すぐ。伝えてみろ。そう思っているのに言葉が出ない。
想っていることを伝えるのはこんなにも怖い事なのだ。
少しだけ明衣の事を尊敬した。誰かを笑顔にするためならどんな想いだって赤裸々に世界に発信出来る妹は凄い人なんだと思った。
きっと明衣なら間髪入れずに告白し、失敗しようと成功しようと大きな声で笑うだろう。寧ろ失敗した時の方がその笑みは深いはずだ。誰かを笑わせるための話が増えたとほくそ笑むのだろう。
私のような怖がりには人を笑わせる資格も、人を好きになる資格もないのかもしれない。
そんな臆病風に吹かれる私の耳にまたあの虫の音が響いた。寂しそうに、だけど一生懸命に生きる虫の音だ。
綿埃一つで大きく傾く天秤のように繊細な私の心はそんな些細な事にも勇気づけられた。
「もうすぐだぞ」
テルが腕時計を見て笑った。
その笑顔に視線が吸い込まれる。自然とテルと向き合う形になった。
「あのさ、今日一緒に来てくれてありがとう」
突然、私がお礼を言うと「どうした。急に改まって」とテルは照れ臭そうに頭を掻いた後、「こっちこそだよ。もしかしたらこの町で見る最後の花火大会かもしれなかったからさ。来れてよかった」と笑った。
「今年で最後?」
「あぁ、やっぱ来年は東京の大学に行くための受験勉強があるからさ」
「……そう」
務めたつもりだったがそれでもやはり私の声は落ち込んでいるように聞こえてしまったかもしれない。
「本当は明衣ちゃんも一緒に来れたらよかったけど残念だったな」
「そうだね。まぁ私は来年二人で行く約束してるけどね」
「なんだよ。もう来年の話してるのか」
テルはまた少し嬉しそうに笑った。
私はこの人の笑顔が好きだ。
いつものキリっとした顔が綻び、「心」って漢字みたいにふにゃりと緩む笑顔が好きだ。
温かい眼差ししか送れない瞳。優しい言葉しか紡げない唇。彼の耳は誰かの溜息に気付く為にある。
本当に優しくて格好いい最高の幼馴染だと思う。
言おう。
「あのさ」
私の声が上ずって響く。
「うん?」
テルの事が優しく響く。
「……ん、いや何でもない」
「なんだよそれ」
怖じ気づく私を温かく包むテルの笑顔。それに再び励まされた。今度こそ言おう。
言おう。言おう。言おう!
「そういやさ」
先に声を上げたのはテルだった。
「明衣ちゃんって好きな人いるの?」
甲高く響くヒューっという音から少し遅れて、瞬間的に辺りが明るくなった。腹の底に響くような爆発音が私達を包んだ。
「えっ?」
私が聞き返すとテルは今までに見たことが無いほど顔が赤い。
「いやっ」「まぁ少し気になるというかさ」「いやっその」次々に花火が打ちあがる度、しどろもどろに慌てるテルの姿が闇夜に浮かぶ。
—————どうやらそういうことだったみたいだ。
私だけ独りはしゃいで、当の妹を差し置いて。
本当に馬鹿みたい—————
テルは気付いた。花火の光を跳ね返す私の瞳に。
「真衣?」
私が好きになった人はとにかく優しい人だ。自分の事に関しててんで鈍感な癖に、他人の涙には誰よりも敏感だ。こんな時だけ本当皮肉なほどに察しの良い優しい人を私は好きになったのだ。
私達の間を沈黙が包む。沈黙が続けば続くほど私達は繋がってしまう。私の本当の想いが伝わってしまう。上手く笑えないなら背を向けたら良い。そのまま駆け出してしまえばいいのに。そうすればこれ以上テルに迷惑掛けないのに。
だけど私の体は動かない。ズブズブという音が聞こえてきそうな位、私は夜の闇に沈み落ちていく。
しばらくの2人の沈黙を破ったのは私の携帯の着信音だった。
電話の相手はお母さんだ。
私はテルに目配せした後、電話を取る。
「……なに?」
繋がるや否や、お母さんの金切り声がねじ込まれる。
「ねぇ! 明衣が! 明衣が!」
「明衣がどうしたの?」
「意識がないの! もしかしたら、もしかしたら……」
お母さんの言葉に、私は全身の力が抜けその場に倒れこんでしまった。
「おい。どうした?」
テルが心配そうに私の顔を覗き込む。
その瞬間一際甲高い音を立てながら一筋の光が昇っていく。
バッと音を立て嫌味なほど大きく夜空に咲いた花火は、明衣の事を誰よりも愛していた二人を闇の中に赤く照らし浮かべた。